岩倉使節団のなぞ:15ヵ国との条約改正とはどこの国?

岩倉使節団の謎

 岩倉使節団派遣の目的の一つに、条約改正の予備交渉がありました。

 以下に、宮永氏の論文を引用しますが、これとまったく同じ内容の記述を他の書籍でも見つけることができます。(探してみたら、同氏の書いた『アメリカの岩倉使節団』宮永孝、ちくまライブラリー70、1992 でした。15ヵ国の記述はWikipedia『岩倉使節団』でも記載されています。)

 『維新が成ってまだ日が浅い新生日本は磐石な政治基盤を持たぬまま、新しい国是のもとに、迷走を続けていた。当時の為政者にとって最大の研究課題は日本をどのような国家にすべきかということであった。天皇親政の近代国家として出発した明治政府は、旧幣を改め、政治外交も面目を一新せねばならなかった。そのためには欧米の文明に範を仰ぎ、それを日本の近代化に役立てることが急務であった。わが国は幕末から明治初年にかけて欧米十五カ国と修好通商条約を結んだが、いずれも最恵国約款を相手国に許し、領事裁判権・関税の自主権なきを甘受したものであった。』
(『アメリカにおける岩倉使節団 -岩倉大使の条約改正交渉-』宮永孝、法政大学社会学部学会、1992、p.43)

 Wikipedia『岩倉使節団』には、「1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである。」という記述があります。

 管理人が気になったのが、「幕末から明治初年にかけて欧米十五カ国と修好通商条約を結んだ」という部分です。なぜ、不平等条約をこんなにたくさんの国と結んだのでしょうか。そもそも、15ヵ国とはどの国のことでしょうか。

 この疑問は、ネットで調べれば簡単に分かる、と思ったのですが、どこにも書かれていません。文献も調べましたが、書かれていない。どの資料でも3、4ヵ国書いているだけでお茶を濁しています。具体的に15ヵ国がどこなのかは書いてありません。

 岩倉使節団は、アメリカ、イギリス、フランスなど12ヵ国を訪問しています。具体的には、①アメリカ、②イギリス、③フランス、④ベルギー、⑤オランダ、⑥ドイツ、⑦ロシア、⑧デンマーク、⑨スウェーデン、⑩イタリア、⑪オーストリア、⑫スイスの12ヵ国です(使節団の訪問国順)。15ヵ国には3ヵ国足りません。

 誰も書かない15ヵ国の謎。残りの3ヵ国はどこだ?
 これが今日のテーマです。

 文献や外務省の資料から情報をつなぎ合わせて、やっと15ヵ国が分かりました。

 それが下の表です。

幕末・明治維新に結ばれた15ヵ国との修好通商条約

 条約締結国15ヵ国を表にすると以下のようになります。

幕末・明治維新に締結した条約と相手国15ヵ国

条約締結日 相手国  条 約 名
1854年3月31日 アメリカ 日米和親条約、横浜で調印
1854年6月17日 アメリカ 米和親条約付録、下田で調印
1854年10月14日 イギリス 日英和親条約、長崎で調印
1855年2月7日 ロシア 日露和親条約、下田で調印
1856年1月30日 オランダ 日蘭和親条約、長崎で調印
1858年7月29日 アメリカ 日米修好通商条約十四ヵ条、貿易章程七則
(ポーハタン号上で調印)
1858年8月18日 オランダ 日蘭修好通商条約、江戸で調印
1858年8月19日 ロシア 日露修好通商条約、江戸で調印
1858年8月26日 イギリス 日英修好通商条約、江戸で調印
1858年10月9日 フランス 日仏修好通商条約、江戸で調印
1860年8月3日 ポルトガル 日葡(ポルトガル)修好通商条約、江戸で調印
1861年1月24日 プロセイン 日普(プロイセン)修好通商条約、江戸で調印
1864年2月6日 スイス 日瑞(スイス)修好通商条約、江戸で調印
1866年8月1日 ベルギー 日白(ベルギー)修好通商条約、江戸で調印
1866年8月25日 イタリア 日伊修好通商条約、江戸で調印
1867年1月12日 デンマーク 日丁(デンマーク)修好通商条約、江戸で調印
1869年10月18日 オーストリア=ハンガリー 日本・オーストリア=ハンガリー修好通商航海条約
1868年11月12日 スペイン 日本・スペイン修好通商航海条約
1868年11月11日 スウェーデン=ノルウェー 日本・スウェーデ ン=ノルウェー修好通商航海条約
1869年2月20日 北ドイツ 日本・ 北ドイツ連邦修好通商航海条約

 この表を見ると、ドイツが重複しています。プロイセン王国は1871年にドイツ帝国になっています。
 つぎに、スペインとポルトガルです。

 岩倉使節団は当初、スペインへの訪問も予定していましたが、スペインでは、1868年9月、革命が起こり(スペイン9月革命)、女王イサベル2世(Isabell II)がフランスに亡命するなど、混乱が続いていたため、訪問を見送りました。その先に位置するポルトガルへの訪問も取りやめたということでしょう。

 調べてみると、1873年7月2日付け東京発岩倉大使あて公信第60号で、ジュネーブに滞在中の使節団に対し、至急帰国するよう指示が届きます(ジュネーブで7月9日受信)。スペインでは騒擾(そうじょう)が起きていて(当時のスペインでは数年間にわたって、革命と新体制の樹立、反乱や内戦が相次いで起きていました)早々に治まりそうもなく、ポルトガルに向かうためにここを通過するのも難しいことから、スペインとポルトガルの両国には断りを入れて訪問を取りやめ、このまま速やかに帰国するように、との指示でした。岩倉大使はこれを受け、別行動をとっていた人員を除く一行とともに、7月20日にフランスのマルセイユを出航して帰国の途につきました。

 ちなみに、スペイン及びポルトガル両国へは、1876年に在英上野景範公使が派遣されています。上野公使は1876年4月1日スペイン皇帝、同月29日にポルトガル皇帝にそれぞれ国書を奉呈しました。

全権委任状の不思議

 条約の交渉には全権委任状が必要となります。これは外交上の常識になっており、当時もそうでした。岩倉使節団が渡米したとき、大久保と伊藤が日本にこれを取りに戻ったくらいです。

 ところで、1858年に結ばれた日英修好通商条約では、調印した英国政府の代表エルギン卿は全権委任状を持っていたのでしょうか。実は、持っていなかったのです。

 当時、清国との交渉をしていたエルギン卿は、米国の初代駐日公使タウンゼンド・ハリスが江戸幕府との間で修好通商条約に調印したとの情報を入手しました。条約の内容を自国に有利なものにするためにエルギン卿はすぐに日本と条約を結ぶ必要があると判断しますが、全権委任状を本国に申請している時間的余裕がありません。このため、全権委任状無しで日本に向かうことになりました。確信犯です。

 この時、ビクトリア女王から蒸気船エンペラー号が将軍へのプレゼントとして送られます。エルギン卿率いる四隻の艦隊のうち一隻がこのエンペラー号でした。これを口実にエルギン卿は下田まで艦隊を移動させました。1858年8月26日に調印が行われ、直ぐにエンペラー号の引き渡しが行われました。

 岩倉使節団は、全権委任状を持っておらず権限のないエルギン卿と調印した条約は無効である、と条約改正ではなく、条約そのものの無効を訴えるという手もあったように思います。もちろん、そんなこととは夢にも思わなかったでしょうが。

 小栗上野介のような本当に頭の良い人たちが死んでしまっているので、田邉泰一(太一)のような明治政府で雇われている優秀ではあるものの格下の旧幕臣たちではそのようなことまで頭が回らなかったのでしょう。

 ニューヨークで旅費や手当の残りを高い利息に釣られてナショナル・バンク預けた使節団員が多数いましたが、一行がイギリスに到着して直ぐにこの銀行が破産し、預金の大部分を失ってしまいます。その被害額が多かったのは、旧幕臣の中でもケチで有名だった塩田や、『米欧回覧実記』の残した久米でした。まさに下級幕臣(公務員)です。

 銀行にお金を預けて何が悪いと思う方もいると思います。もちろん、長い道中、大金を持ち歩くよりも銀行に預ける方が安心ですし、さらに利息までもらえる。こんな良いことはありません。

 でも、管理人の見方は違います。というのも、管理人も同じような場面に何度も遭遇しているからです。

 お金のことを考えるのは良いのですが、実際には、そのような人は「お金のことだけ」を考えて、本来業務がなおざりにされます。行動規範が『お金』なのです。多忙を極めてまったく自分の時間がなかったようなことを口ではいいながら、利息計算に余念がない、あるいは、何を見てもどこへ行っても儲け話がないかばかり気にする、そんな姿が見えてきます。

 業務に集中している人は、業務外の煩わしいことに頭を使いたくない。伊藤博文や旧幕臣の福地源一郎などは銀行に預けるようなことはせず、被害にあっていません。預けなかった人たちもかなりいたようで、預けた人たちを揶揄する狂歌を残しています。

 この銀行破綻(1872年11月27日)は、1872年11月9日、ボストンで発生した火災(ボストン大火)に起因する連鎖的な倒産によるもので、運が悪かったともいえますが、資本主義を学ぶ上で高い授業料を支払ったことになりました。

 このボストン大火が起きた日、岩倉使節団はロンドンにいました。ビクトリア女王にウインザー城で謁見したのは、大火から一月あまり経った1872年12月5日のこと。