岩倉使節団の謎に挑む・・・の準備中

岩倉使節団の謎

 明治4年11月12日(1871年12月23日)のこと。岩倉使節団一行を乗せたアメリカの外輪船アメリカ号が横浜港から一路米国サンフランシスコを目指し出港しました。

 この使節団の目的は、不平等条約の改定にあったようです。しかし、この使節団はとても奇妙です。謎だらけのように思います。

 今回は、岩倉使節団の謎に迫りたいと思います。

 何が謎なのかを述べる前に、この使節団について少し整理しておきましょう。

 「岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。(Wikipedia)

 Wikipediaにはいつもお世話になっているのですが、Wikipediaの「岩倉使節団」の項はできが悪い。自分の書きたいことを羅列するタイプの人間が執筆したようです。他のWikipediaの書き方を学んでほしいものです。

 岩倉使節団が奇妙なのは、明治政府の中心人物がごっそりと出かけていること。こんなことって前例がありません。外国政府でもないと思います。留守を預かるメンバーは視野の狭い人たちばかり。逆の見方をすれば、岩倉使節団への参加により、視野の広い人たちが育成されたとも言えます。

 それも、使節団派遣は明治4年です。条約改定が急務だったというのはいいわけにしか過ぎません。現に、条約が改正されたのは明治27年(1894)になってからです。急務だった問題の解決が20年後では、本当に急務だったのかを疑うのが普通でしょう。
 明治政府はやるべきことが山積みの状況の中で、なぜこの時期、岩倉使節団は600日を超える世界一周の旅に出かけたのでしょうか。

 もちろん、当初から、そんなに長期の旅行計画だったわけではありません。しかし、現実にはそのような旅が行われました。

 この分野に詳しい方は、この答えをお持ちだと思います。でも、次の質問に答えることができますか。

 留学生を含む使節団一行107名の中に、10歳以下の子供は何人いましたか?

 津田梅子や永井繁子の話をしてお茶を濁してはいけません。何人いたのですか。その人数を答えられますか。

 いろいろ探しているのですが、107名の完全なリストがネット上にはありません。どのサイトのリストも歯抜け状態です。文献も調べているのですが、そのような完全にリストが載っている本に未だ出くわしていません。リスト化すると107名にはほど遠い結果になります。

 リストがないのに、平均年齢は何歳だったとなぜ言えるのでしょうか。その根拠となる資料は?

 リストがないから、誰も統計分析ができない! 分かったような、よく読むと何のことか意味不明な記述しか書けない。議論のベースとなる基本資料が公開されていない?

 岩倉使節団と一緒に米国に向かった開拓使官費女子留学生5名の年齢もネット上では驚くほどバラバラです。史実を忠実に伝えようという姿勢は微塵も感じられません。年齢の数え方の「満、数え」の領域をはるかに超えています。

 女子留学生5名のうち2名は早期に帰国します。しかし、この「早期」という言葉はとてもくせ者です。

 あなたは、この「早期」という言葉から、この2名の女子留学生は出国してから何ヶ月後に帰国したと思いますか。

 彼女たちは、10年間という長期間の留学を期待された桁外れの国費留学生でした。

 女子留学生は5名ですが、有名なのは津田梅子と山川捨松(のちの大山捨松)でしょう。では、残りの3名はどうしたの?
 残りの3名について、どうなったか答えられる人が何人いますか?

 以上、女子留学生の話で説明してきましたが、結局のところ、「歴史の謎」というものは、本来存在しません。ていねいに調べていけば、その時代に生きた人たちの痕跡にたどり着くことができます。

 岩倉使節団については、同行した久米邦武が『米欧回覧実記』5冊を残しています。では、詳細はそれを読めば分かるはずです。

ところが、彼は肝心な部分は何も書いていないということで有名です。だから、岩倉使節団は謎だらけなのです。 

 現在のところ、「幕末史」(佐々木 克(ささき すぐる)著、筑摩書房、2014)がこの時代の出来事を理解する上で最も優れた著作のように思います。京大名誉教授である佐々木氏の文章を読むと、歴史に精通して頭のいい人はこういう文章を書くのかと感心します。管理人の抱いていた多くの疑問を氷解してくれました。本記事冒頭のWikipediaの執筆者に対する批評は、この書籍のわかりやすさと対比したものです。

 Wikipediaの執筆者の無知と怠惰な執筆姿勢にあきれてしまします。調べれば簡単に分かることを「不詳」と書くのは執筆者として恥ずかしいことではないでしょうか。

 「岩倉使節団の謎」は、かなり長いシリーズになりそうです。資料をまとめるのに時間がかかるため、とりあえずバージョンとして、この記事をアップします。本来は、管理人が、「何を謎と思っているのか」を提示したかったのですが、現時点ではそれさえも定まりません。皇女和宮シリーズの時もこんな感じでスタートしました。調べるうちにどんどん疑問が生ずる。最初から確定した疑問群があるわけではないということです。