皇女和宮の埋葬のナゾに迫る

皇女和宮の謎

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)に秘められた謎。

14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮の左手のナゾというものがあります。和宮様の左手は生まれつきなかった、あるいは、事件・事故で失われたという噂です(和宮は「左手」で最も有名な日本人になっています)。

その根拠の一つとしてあげられているのが、昭和33年の和宮の墓地発掘調査で左手先が見つからなかったこと。さらに、和宮が箱根で暴漢に遭い、そこで自害したという趣旨の投書が調査団にあったこと。それをベースとして、その時に左手先が切り落とされたとする新説。

ここから、様々な憶測が生まれました。和宮の肖像画に左手が描かれていないことや、和宮の彫像が手を隠したようなデザインになっていることが、この憶測を裏付けるものとして証拠の一つに挙げられています。

ネット上のたくさんの記事で同じことが書かれています。

和宮が江戸城無血開城の立役者だったことは忘れ去られ、現代では「左手」のゴシップネタにされているのを見ると悲しくなります。篤姫では無理だったのです。和宮がいたからこそできた江戸城無血開城。

しかし、実際の所、和宮は歴史の中で忘れられてしまった皇女の一人でした。墓地の発掘調査が行われるまでは。

和宮には子供がいた? 和宮は美人だった? 和宮の写真は本物? 箱根で亡くなった後の状況は? このような簡単な疑問に答えるネット上の記事は皆無です。

和宮についてネット上にはたくさんの記事があるのに、中身はみな同じもの。まるで金太郎飴のようで、検索するのが嫌になります。

本記事では、和宮にまつわる謎を一つずつ紐解いていくことにします。

下の画像は、管理人の考える和宮のイメージに最も近いものだと思います。

皇女和宮 サイン入り写真

和宮を巡る様々な陰謀説

和宮については、有吉佐和子の小説『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』では、替え玉説が唱えられました。

加治将一の小説『幕末 戦慄の絆 和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎』では、和宮が暗殺(箱根で自害)され、替え玉が仕立てられます。和宮の死にまつわる陰謀説が端緒となっているようです。

もちろん、これらは『小説』として書かれているので真実ではないのですが、妙に現実味を帯びています。

小説を読んでいると、ストーリーの展開に無理がないように思えてくる。ということは、本当にあったことなのではないか? そんな気持ちになります。

有吉佐和子は、何を血迷ったのか、替え玉説は本当にあったようなことを言いだし、歴史家から批判を浴びることになります。加治将一は小説の中で書いてしまっているので、和宮暗殺は本当のことだと、現実社会では言いません。

『ダ・ヴィンチ・コード』のように、小説なのに妙に信憑性があると、自分でその真偽を確かめてみたくなる。この感覚は世界共通のようで、ダ・ヴィンチ・コードに出てくる史跡を巡る旅が観光ツアーに組み込まれるほどです。どこまでが真実で、どこからが創作なのか。その境界がグレーゾーンになっていて、真実ともとれるし虚構ともとれる。そんな世界は想像力をかき立てるので、真剣に読み入ってしまう。

ネット上でも皇女和宮にまつわる陰謀説について、たくさんのサイトで紹介しています。

たくさんあるので片っ端から読んだのですが、何となく、食傷気味。・・・・・残念ながら、ほとんどのサイトは中身がない。ネットで簡単に見つかる既存の資料をコピーして並べただけ。

要は、ネット上にあるたくさんの記事をいくら読んでも新しい発見がない。つまらない。元ネタは同じでコピーしているだけ。陰謀説の根拠としているのは皆同じ。海外サイトも探しましたが無駄骨に終わりました。

「いやいや根拠はそればかりではない。ほん一例」という声が聞こえてきそうですが、でっち上げもいいところです。こんな根拠もない稚拙なことを「証拠」としてあげるということは、話の信憑性が疑われても仕方がありません。

加治將一氏の小説では、身代わりが旧南部屋敷に住んでいたという見立てですが、明治になってからも皇族として扱われ、また、麻布の和宮邸への天皇・皇后の行幸や篤姫との交流もあった和宮の交友関係のことは無視されています。替え玉天皇はベールの「奥」にしまい込むことで、一般人の目から遠ざけることは可能かも知れませんが、和宮のケースでは、どの時点ですり替えられたにしろ、かなり無理があります。何人もの和宮を仕立てるなど、どうしたらそのような発想が出るのかと疑いたくなるほどレベルの低い憶測です。

(この記事で、「南部家」と和宮との接点を明らかにしています。さらに、和宮の子供、和宮の容姿についても調べました。)

小説の中身にムキになってもしょうがないので、今回は、違う観点から和宮のナゾに迫りたいと思います。これまで誰も書いていない新しい切り口からの謎解きです。「根拠のない思い込み」を排除すると真実が見えてくるように思います。

和宮のことを調べれば調べるほど謎が深まるばかりです。でも、資料を探し出し、いろいろな側面から調べることで、当時の時代背景が分かり、楽しくもあります。そして、また、新たな疑問が生ずる。そんな繰り返しです。

和宮のナゾを調べていくうちに、深みにはまり、一つの記事では書けないくらいの量になりました。このため、分割した記事にしました。

この記事がメインの記事で、他の記事は、この記事を補足するための記事という位置づけになっています。和宮関係の記事は、本記事も含め、以下の7本の記事から構成されています(随時追加しているので、実際にもっとあります)。

1.皇女和宮の埋葬のナゾに迫る

この記事です。最も書きたかった和宮埋葬時の姿勢のナゾの解明を管理人なりに解明しています。

2.皇女和宮の写真の真偽を確認する

和宮が写っているといわれている写真の真偽を検証しました。たぶん、記事としては一番面白い内容になっていると思います。

3.明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く

和宮が亡くなってから埋葬されるまでの情報がほとんど見つからなかったことから、当時の新聞を調べてみました。本稿の結論を導くことになった重要な記事です。和宮が薨去されてから埋葬されるまでの新聞報道から、当時の様子を伺い知ることができます。さらに、脚気で亡くなったとされる和宮の本当の死因について驚くべき推測を提示しています(最新 ?)。

4.皇女和宮が晩年に住んでいた邸宅の場所は、現在ではどこになるの?

和宮と南部家のナゾを追ううちに、京都から東京に戻った和宮が晩年に住んだ邸宅のあった場所が、現在ではどの場所で、土地はどのような形状だったのかを知りたくなったので調べてみました。麻布の和宮邸跡を訪れた時、邸がどこまでが範囲だったのかを確認できます。後日、和宮邸を訪れました。その記事はカテゴリからご覧下さい。

5.皇女和宮のお顔を3Dにしてみる(非公開)

和宮とされる写真を調べるうちに、写っている人物を立体で見た方がイメージが膨らむことから、3D動画を作ってみました。

6.皇女和宮が抱えていた湿板写真を復元したら驚きの結果に!

和宮の棺の中で見つかった写真湿板にスポットをあてた記事です。この写真湿板に写っていた画像は失われてしまったのですが、この湿板に写っている画像の復元をやってみました。すると、驚きの結果が?!(追記の上、記事タイトルを変更しました)

7.和宮の死の真相に迫る! 和歌に隠された暗号

和宮が亡くなる直前の病状、和宮の葬儀に要人は名代を立て、参加していなかったという事実から、和宮の本当の死因に迫ります。そして、残された和歌の暗号について迫ります。和宮に関する陰謀説に詳しい人でも一度も見たことのない内容になっていると思います。

本サイトの和宮に関する記事では、記載されている日付はすべて西暦で表示しています。また、和暦の方が理解しやすい場合には、和暦も併記しています。和暦(旧暦)で表示すると閏年・閏月や季節、タイムスパンなどを理解するのが大変なので、すべて西暦に換算しています。

江戸城に到着した和宮


Photo:江戸城に到着した和宮

和宮が薨去(こうきょ)されてから埋葬まで

脚気を患っていた和宮は、1877年(明治10年)8月7日、主治医で元奥医師の遠田澄庵(一説には勧めたのは伊藤博文とも。なお、長年、和宮の主治医を務めた多紀安琢は、この前年の明治9年(1876年)1月4日に亡くなっています)に湯治を勧められ、治療のため箱根の塔ノ沢温泉へ行きます。それから一月後の9月2日、箱根湯本・塔之沢温泉にある環翠楼(かんすいろう)で脚気による心不全で亡くなっています。満31歳でした。環翠楼は、現在でも営業しているので、そのうち宿泊してみたいと考えています。(追記:行ってきました。『和宮終焉の地、塔ノ沢に行ってきました』参照)

脚気は、ビタミンB1(チアミン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患で、原因が分からず、当時は風土病のように考えられていたようです。時代は降って日清戦争と日露戦争では、日本陸軍は戦死者よりも圧倒的多数の脚気による死亡者を出しました。東大の偉い先生が脚気ウイルス説を唱えたための悲劇でした。その主犯が森鴎外です。海軍は京大の栄養説を採ったために脚気による一人の死亡者も出さなかったということは有名な話です。

和宮に箱根での湯治を勧めた遠田澄庵は漢方医で、当時最高の脚気(かっけ)治療の名手でした。

遠田澄庵と脚気、そして、明治天皇の脚気、「漢洋脚気相撲」と脚気にまつわる話は続くのですが、本題から外れるので、ここでは先を急ぎましょう。

ちなみに、大航海時代、海賊以上に恐れられた壊血病はビタミンCの欠乏により罹患します。

和宮の存命中は、当然、このような知識がなかった時代です。

見ていないのですが、たぶんテレビドラマ『JIN -仁-』の中でもこれに関係するシーンは出てくるのではないでしょうか。
麦を食べたりしてバランスの良い食事をしていればこの病に罹らなかったかもしれないのに。和宮様にはもっと長生きをして欲しかった。

徳川家菩提寺である増上寺の末寺、塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬を行い、和宮のご遺骸は9月6日に東京に還ります。

本葬儀は、9月13日、増上寺で行われ、和宮の遺言に従い、夫である家茂の墓の隣に埋葬されます。

・・・・・、ここまで疑問も感じずにすんなり読んだあなたは、知らず知らずのうちに、既に『和宮のナゾ』に直面しているのです。
実は、塔ノ沢から葬儀・埋葬までの日付けが見つからないのです。いくら探してもインターネット上でみつけることができない。

上で書いた日付は、どこで見つけたと思います? このように日付をきっちり書いてあるサイトは日本語ではないのですよ。
この日付は、外国語で検索をしていたとき、たまたま検索で引っかかった中国の検索エンジンBaidu(百度)の中国語サイトの記事の中で見つけたものです。管理人は中国語はまったく分からないのですが、たまたまたどり着いた中国語のサイトにこの「幻の日付」が書いてあることにとても違和感を覚えました。(注:後で、日本語サイトでも見つけました)

和宮の血液型のナゾ

高貴な方の墳墓が発掘され、その結果が公表されるなど、通常では考えられないことです。しかも、奈良時代の古墳のような千年以上前の墳墓ではなく、1877年(明治10年)に埋葬された和宮のお墓が発掘調査されたのは1958年(昭和33年)のことです。埋葬後わずか80年しか経っていません。

80年も経てば大昔だよ、と考えますよね。

でも、下の記述を読んで、自分のこととして考えたなら、本当に大昔と言えるでしょうか。

和宮の血液型はA型でした。しかし、「10回以上判定を繰り返した。・・・A型血球の凝結はやや強く認められたが、B型血球も僅かに凝集したため、A型かAB型の何れであるかの決定は下しえない」(『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』p.435)という結果となり、最終的にはA(B)型という判定になりました。

さて、血液型の判定に用いた「サンプル」は何でしょう?

実は、「毛」です。徳川家墓所の発掘で、多くの墓地内の遺骸から「体毛」が見つかりました。それを使って血液型の判定検査を行っています。

「体毛」って、もしや!  そうなのです。「髪の毛」の他に、「陰毛」も血液型の判定に用いられています。将軍の何人かの血液型の判定には陰毛が使われています。

あなたは、自分の陰毛が80年後に公開されることに耐えられますか?

ちなみに、和宮の血液型は「頭髪」で調べたことになっています。何となく、ほっとします。

静寛院宮墓の発掘と投書

徳川家墓地の発掘調査は昭和33年7月から35年1月にかけて行われました。静寛院和宮の墓の発掘調査は昭和33年12月から3ヶ月かけて行われています。

『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(P.9)によれば、静寛院和宮の墓の発掘調査の流れは次のようなものでした。発掘時の様子が伝わってきます。

昭和33年12月20日 静寛院墓の解体にとりかかる。宝塔、基壇の石組みを取りはずす。石組みの中に朱書「御地盤枕」「長一丈三尺」の文字が発見された。

12月21日 宝塔の正面階段取り外す。

12月26日 石室あらわれる。石室の規模実測。

12月27日 朝日新聞、毎日新聞、捕物作家クラブの人々見学。

12月29日 静寛院墓内状況調査。石室の蓋2枚取り除く。内部の腐蝕甚だしく、棺を取り出すことが困難とみられた。

12月30日 基壇の柵、取り外し、内部の土砂を取り出す。

昭和34年2月5日  徳川家正氏対面。徳川家正氏が立ち会って、棺の蓋を取ることにする。将軍の場合の例によった。

この頃から新聞、週刊誌などに徳川将軍墓のことや静寛院の生涯などが掲載される。

3月○日 静寛院宮の臨終について、朝日新聞、および調査担当者に投書が来る。

3月20日 静寛院墓調査終わる。

上の赤字の部分が、和宮のナゾでよく使われる「投書」についての記述です。3月ですが、日付けは入っていません。調査報告書には「3月○日」と書かれています。この投書と日付けについては後で詳しく解説します。

いずれにしろ、投書が来たのは、3ヶ月間の和宮墓発掘の最後の頃だったことが分かります。また、和宮墓の発掘が始まってから報道が加熱していたことを窺い知ることができます。さらに、上では転記しなかったのですが、報道機関の人間は、かなり自由に発掘現場内にまで入り込んでいたとの記述もありました。和宮墓の発掘調査については、世間の関心がある程度高かったようです。

和宮の御棺が開かれた日の翌日、1959年2月6日の朝日新聞朝刊に『「皇女和宮」のお墓発掘 遺体はほとんど白骨化』という記事が載りました。中身は、①5日に和宮のお墓が開けられたこと、②蓋石の墓誌銘のこと、③石灰が詰められてあったが、銅棺はなく、いきなりヒノキ棺が出てきたこと、④木棺のサイズ、⑤木棺は腐ってボロボロだったこと、⑥遺体は泥の中に埋もれ、ほとんど白骨化して原形をとどめていない模様であること、さらに、5日中に分かったこととして、⑦「和宮の身長は150センチぐらいで当時の女性としてはふつう。家茂の墓の方に北マクラにしてねむっていた。石ヒツのフタはセメントでメバリし、近代的だった。」という内容が書かれていました。


Source: 1959年2月6日朝日新聞朝刊9面

記事の中には、遺骸の左手の話は出てきません。棺の中は泥だらけで、どの骨があるのかないのかなど、だれも関心がなかったのでしょう。調査団にナゾの投稿をした匿名の女性を除いては。

左手先が見つからないことが分かるのはずっと後になってからです。

ちょっと気になる記事を発見したので追記します。

「檜山良昭の閑散余録」というサイトの『第408回 皇女和宮の覚悟』という記事で、「昭和34(1959)年2月6日の朝日新聞の朝刊には、発掘した調査員の言葉が載っています。」として、以下の文章を揚げています。

「美しいのは漆黒の髪だけではない。棺の中に横になっている五尺そこいらのきゃしゃな遺体が、心持左向きに仰臥して、足を少しばかりくの字がたに枉げて、膝を合わせ、左手を上に、胸の上で両手を合わせ、いかにも慎み深いきれいな寝姿。鼻は高く、ほお骨は低く、生前の清い美しさを十二分に物語っていた」

これっておかしい。管理人が確認した新聞記事は上で示したとおりです。こんな内容の記述は記事にはありません。見つからなかった筈の「左手」の記述も笑ってしまいますね。

それに、そもそも書いてある内容がでたらめです。和宮の遺骸の姿勢をよくこんなにでたらめに書けるものだと思ってしまいます。このサイトでは他にもでたらめが書かれているので、信用して読んでいると馬鹿を見ます。作家のくせにいい加減なことをネットで発信するんじゃないよ、まったく!

墓誌銘のナゾ

発掘した石室天井の蓋石には墓誌銘が刻まれていました。

 ニ品内親王諱親子幼稱和宮

仁孝天皇第八皇女生母正五位下守典侍橋本経子弘化三年丙午閏五月十日隆誕于外祖橋本實久第文久元年四月宣為内親王賜名先是征夷大将軍徳川家茂請尚許之十一月釐降于江戸明年二月十一日行合卺之礼慶應二年十二月家茂薨薙髮號静寛院宮明治六年二月叙二品十年八月患水腫養病于相模塔澤不癒九月二日遂薨于客館壽三十一年三月六日護柩還東京十三日葬于増上寺故将軍之兆域

何が書かれているのだろう。興味津々です。しかし、漢字ばかりで何のことかさっぱり分かりませんね。使われている漢字が難しい。

そこで、現代語に訳してみました。ふりがなと句読点を入れて読みやすくしました。

「二品内親王 諱を親子(ちかこ) 幼称は和宮」

「仁孝天皇第八皇女。生母は典侍(てんじ)正五位橋本経子(はしもと つねこ)。母方の祖父橋本實久(さねひさ)邸にて弘化三年丙午(ひのえうま)閏5月10日に隆誕(ごうたん:誕生)する。文久元年四月内親王宣下を賜る。同年11月、征夷大将軍徳川家茂の奏請は勅許せられ、降嫁し江戸へ行き、翌年2月11日挙式する。慶應2年12月家茂薨ずるに際し、薙髪(ちはつ)して静寛院宮と号する。明治6年2月二品に昇叙。明治10年8月、水腫を患い相模塔沢に病を養う。癒えず。9月2日、遂に客館に薨(こう)ず。寿31年。3月6日、柩を護り東京に還る。13日、増上寺故将軍の兆域(墓所)に葬る。」

ここで、墓誌の中に興味深いことを二点ばかり発見しました。

一つ目の疑問は、和宮が箱根に行った目的についてです。

和宮が箱根の塔ノ沢温泉に行った目的は『脚気の療養』のためとどの資料にも書かれています。しかし、和宮の墓誌には『水腫の療養』のためと書かれています。脚気と水腫では全く違う。水腫は水疱瘡のような症状です。ちなみに、家茂と和宮は文久2年に麻疹に罹っていますので、麻疹ではありません。

当時、脚気は国民病になりつつありました。雑穀・玄米から白米へと江戸の食生活が変わってきたのが原因です。江戸を離れると治ることから、風土病のようにも考えられていました。

夫の家茂が大阪城で病に倒れたとき、それを伝え聞いた和宮は、自分や天璋院の侍医(多紀養春院(多紀安琢)、大膳亮弘玄院・遠田澄庵高島祐庵浅田宗伯)を大阪に送りますが、その医者たちの多くは『脚気』専門の漢方医でした(上記赤字の医者)。家茂は漢方嫌いで、蘭医に診てもらっていましたが、さっぱりよくならない。それもそのはず、脚気は外国にはない病だったため、西洋医学に脚気医学というものが存在せず、蘭医の出る幕はなかったのです。なぜ、西洋で脚気がないのか分かりますよね。彼らは麦が主食なので。

このような時代背景から、和宮が脚気を患っていたと誰もが考えるのですが、墓誌にはなぜ『水腫』と書かれているのでしょうか。脚気のために生じた浮腫を水腫と書いているのでしょうか。

家茂が亡くなる間際の資料を読むと、体中に隙間なく水腫ができていたようです。やはり、脚気によって水腫の症状が出るようです。和宮の小説ではこの水腫の症状についてほとんど出てこないように思います。家茂と同じように、和宮も水腫が体中に広がり亡くなったのでしょうか。

二番目の疑問は、箱根から和宮の遺体が東京に還ってきた日付け。記事の冒頭で問題提起したものです。

「3月6日、和宮の柩は東京に還り、3月13日に増上寺で埋葬」されたと墓誌には書かれているのです。これには目を疑いました。

和宮が箱根で亡くなったのは9月2日です。柩が翌年の3月6日に東京に還るなどあり得ません。皇女の本葬儀が薨去(こうきょ)後、半年してから行われた? 柩を半年間も箱根に置きっぱなし?

墓誌の写真で確認したのですが、間違いなく、9月6日ではなく3月6日になっています。ピッタリ6ヶ月の違いというのも不思議です。でも、墓誌は正確なはずです。あり得ないことが起こったということでしょうか。旧暦とグレゴリオ暦との日付けのズレは6週間程度だし、そもそも、明治5年にグレゴリオ暦が採用されているので、明治10年の和宮薨去では暦のズレは起こらない。

残念ながらこのナゾは解けません。

でも、歴史上、これに似たことがあったような記憶があります。何だったか・・・。  やっと思い出しました。

仲哀天皇の崩御の日の扱い方に似ているように感じます。仲哀天皇が亡くなられた日は、第一級の歴史史料である『古事記』と『日本書紀』とでは日付けが異なっています。

和宮が実際に埋葬された日と発掘された石室蓋に刻まれた墓誌銘の埋葬日が異なっている。埋葬日は官報で知らされていますが、石室の蓋に書かれた墓誌銘については、もし、発掘調査が行われなければ、だれの目にも決して触れられなかったものです。

このことから導かれる結論は、『和宮は9月2日には亡くなっておらず、本当は翌年の3月2日に亡くなった』ということ。
でも、それはあり得ない。いろいろ調べて分かったことですが、和宮の薨去は間違いなく9月2日です。残念ながら、この謎は解けません。

出来事出  典和  暦西  暦
仲哀天皇崩御古事記仲哀天皇8年9月1日199年10月6日
 日本書紀仲哀天皇9年2月6日200年3月8日
和宮埋葬明治政府官報明治10年9月13日1877年9月13日
 和宮棺蓋墓誌明治11年3月13日1878年3月13日

注)明治5年に改暦されています。旧暦で表示すると埋葬日は、(官報)明治10年8月7日、(墓誌銘)明治11年2月10日になります。仲哀天皇の崩御の日付けは、その死後に神功皇后が生んだ応神天皇はだれの子かというミステリーが生じるのですが、同じ出来事を示すのに日付けがふたつあると言うことは、それなりの触れられたくない理由があるということでしょうか。

管理人が和宮の埋葬にこだわっている理由の一つが、埋葬時の資料が見つからないこと。

たとえば、同時代の篤姫の場合、和宮が亡くなってから6年後に亡くなっています。Wikipediaには以下のように書かれています。

『明治16年(1883年)11月13日、徳川宗家邸で脳溢血で倒れる。意識が回復しないまま、11月20日に49歳(満47歳9ヶ月15日)で死去した。葬儀の際、沿道には1万人もの人々が集まったとのことで、その様子が「天璋院葬送之図」にも描かれている。』(Wikipedia 『天璋院』)

つまり、「天璋院葬送之図」として描かれるほどの盛大な葬儀だったということです。


Image: 天璋院葬送之図、東京・德川記念財団

これに対して和宮の記述はあまりにも素っ気ない。それもそのはず、本当に情報がないのです。
『程なく明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。32歳という若さであった。当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺。』(Wikipedia 『和宮親子内親王』)

この記述は、葬儀について場所と方式が書かれているだけで、それ以外のことは一切書かれていません。

和宮が降嫁した時の資料は嫌になるほどたくさんあるのに、亡くなった時から埋葬するまでの資料が見つからない。和宮薨去に対する庶民の反応も分からない。篤姫と比較しても、これはとても奇妙です。篤姫の葬儀に1万人集まるのなら、和宮の葬儀には10万人くらいの人出がありそうです。なにしろ、篤姫以上に江戸城無血開城の立役者であった和宮の葬儀なのですから、市井の人々の関心も高かった筈です。

天璋院篤姫カラー高解像高画質版


天璋院、篤姫、少し若くしました。

葬儀の日付けについては、やっと見つけました。「箱根 阿弥陀寺」のHPです。

『同年九月六日御遺骸帰京。同年同月十三日、宮内省の命により、洋行中の徳川家当主家達の留守を預かる松平確堂を喪主として徳川家菩提寺「増上寺」で葬儀。』

ネット上の情報をまとめると、江戸城無血開城後の和宮の足跡は、以下のようだったことが分かりました。

  • 慶応4年(1868) 4月9日   江戸城大奥を出て清水邸に移る。
  • 明治2年(1869)1月18日  東京(明治元年7月17日、江戸を東京と改称)を立ち京都に向かう。
  • 明治7年(1874)6月24日  京都を出発、東京に向かう。
  •          7月8日  東京に到着。麻布市兵衛1丁目11番地の御殿に入る。(東京に戻った和宮は一旦、清水邸に入ります。その後、麻布の新居に移っています。)
  • 明治10年(1877)8月7日  箱根塔之沢の「元湯 旅館環翠楼」に静養のため滞在
  •          9月2日  午後6時10分、旅館環翠楼で薨去(宮内省資料)
  •         5日までは秘し、御遺骸は御逝去の室に安置。近くにある阿弥陀寺住職(武藤信了)を導師として通夜・密葬が行われた。(⇒ これは間違いです。4日に和宮薨去の布告が新聞に載っています。)
  •          9月5日  宮内省から和宮薨去を発表(上で書いたとおり、和宮薨去の布告は4日に行われています。)
  •               御遺骸を東京に向けて移送 (注
  •          9月6日 午後1時頃、御遺骸が麻布の邸に着く。(⇒ これも違います。麻布の邸に着いたのは午後2時10分頃です。)
  •          9月13日  増上寺で葬儀。喪主は徳川家当主代行の松平確堂(当主の徳川家達(いえさと)はイギリス留学中)

(注:御遺骸を東京に向けて移送を始めた時刻についての資料はない。箱根塔之沢から麻布まではYahooMapによると、距離:84.7km、時間(徒歩):17時間3分。当時の道路事情と御遺骸の移送ということを考慮すると、御遺骸が東京麻布の邸に着いたのが6日午後2時頃であるので、前日5日の早朝に塔ノ沢を出発しているのではないかと推測。


Source: 長崎大学附属図書館。画面左の建物が「元湯環翠楼」

現在の環翠楼。上の写真とほぼ同じ位置から撮影しました。

現在の環翠楼


撮影:ネコ師、2016.5

では、辺鄙な箱根からどういうルートで宮様の御遺骸を移送したのでしょうか。

こんな記事を見つけました。「我が国最初の有料道路として有名なものは、東海道筋の現小田原市板橋から箱根湯本山崎までの4.1kmで、明治8年9月に開通した。(『道路交通政策史概観』)なんと、和宮が亡くなる2年前に、小田原から箱根湯本まで有料道路ができていたのです。

資料が少なすぎると、もしかしたら、触れてはいけないことなのでは。そう思えてきます。

ネットでいくら調べてもらちが明かないので、図書館に行って、当時の新聞記事で確認しました。その結果は、別記事「明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く」にまとめました。これで、和宮薨去から葬儀までの疑問は解消しました。上で、赤字で書いた部分は、この別記事の情報に基づくものです。

和宮の死亡年齢のナゾ

和宮は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)に生まれ、明治10年(1877年)9月2日に亡くなっています。計算すれば分かりますが、死亡時の年齢は、満31歳ということになります。Wikipediaや増上寺のHPでは、死亡時の年齢を31歳としています。

それがどうしたの? と思われた方。ネットで調べてみてください。かなりの数のサイトで和宮の死亡時の年齢を32歳と記載しています。満と数えの違いじゃないの?

たぶん、そうでしょう。でも、果たしてそれだけが理由なのでしょうか。誕生と死亡の日付けがはっきりしているのに、年齢の記載が様々あるというのはおかしいと思います。他の有名人の死亡年齢で確認してみて下さい。

最初に、数えと満年齢の違いについておさらいしておきましょう。

没年齢は数えと満で違う
没年齢は古くから数え年を使いました。数え年は生まれた時点が一歳で、元日ごとに加齢していきます。一方、満年齢は生まれた時点がゼロ歳、誕生日ごとに一歳ずつ増えます。
没年齢が聞いていたのと違う場合。数えか満年齢かの違いがほとんどです。
現在、法律上は満年齢の表記が義務づけられていますが、宗派によっては数え年を使うようです。また、「享年」と表記する場合、一般的に後ろに数え年の数字を記載し、歳はつけません。
× 享年五三歳 ○ 享年五三

出典:自分でつくれる200年家系図、橋本雅幸、旬報社、2015、p98

いろいろ調べた結果、和宮の『歳替』が関係しているように思います。

『和宮の誕生は弘化三年(1846)閏(うるう)五月十日・・・・・・・嘉永元年(1848)に三歳になられたが、同年八月歳替(としがえ)を行ない・・・・・・・・三歳を改め四歳とし、誕生日も弘化二年十二月十一日と改訂された。・・・・・・・・歳替の風習は「年あらため」ともいい、古来叙位・任官などの官位昇進の都合や、青年の運勢・吉凶、夫婦の相性(あいしょう)の適否などに関連して、男女ともに行なわれてきたものである。歳替を行なう事情は人によってそれぞれ異なるものであり、和宮の場合にもそれ相応の事情があった筈である。しかしその事情については、ただ天皇〔孝明天皇〕の思召〔おぼしめし〕と伝えられているのみで、くわしいことはわからないのである。その間の事情をあえて推測するならば、一つには和宮の生年の干支〔えと〕が丙午「ひのえうま〕であったので、これを避けるためではなかったかと考えられるのであり、また一つには、生年を父天皇〔仁孝天皇〕の御在世時に繰り上げる必要があったためかとも考えられよう。……生母の橋本経子は文政九年〔1826〕に誕生、……天保十年〔1839〕仁孝天皇の後宮[こうきゅう〕に入って典侍(てんじ〕となり、……この時十四歳であったが、天皇の思召によって十六歳に改めた(歳替〕という、』

『要説 宮城の郷土誌(続)』、仙台市民図書館編、1992、pp.23-24

別の文献も併せて読むと、より理解が深まります。

『弘化三年丙午(ひのえうま)の年だったので、丙午年生まれの女性は夫が疾病にかかるという迷信のため、和宮の生年月日は弘化二年十二月十一日とされた。』

『歴史のなかの皇女たち』、服藤早苗(編著)、小学館、2002年、」p.184

昔の文書を読むとき、和暦と西暦の換算というのが重要となりますが、さらに「歳替」というトラップもあり、記載されている日付けから年齢を知るというのは一筋縄ではいきません。生母の橋本経子も「歳替」していたのですね。

和宮の場合、既に西暦に換算された生没年月日が公表されているので、和宮の死亡年齢は31歳ということになります。

和宮替え玉説があり得ない理由

和宮替え玉説は、小説としては面白いのですが、果たしてそんなことが可能なのでしょうか。

和宮替え玉説の基となったのは、文芸雑誌『群像』に1977年1月号から1978年3月号にかけて連載された有吉佐和子の長編小説『和宮様御留』(かずのみやさまおとめ)です。『和宮様御留』(1978年、講談社)の巻末「あとがき」に以下のような記述があります。これが和宮替え玉説の根拠となっています。

幕末、高田村の名主であったという豪農新倉家の一婦人が、私のところへ訪ねておいでになったのは、もう何年前のことになるだろうか。

「和宮様は私の家の蔵で縊死なすったのです。御身代りに立ったのは私の大伯母でした。増上寺のお墓に納っているのは和宮様ではありません。このことは、戦前は決して他家の人の耳に洩らしてはならないと戒められてきましたが、時代も変ったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。板橋本陣で入れかわったのです。新倉家には、薩摩の藩士がよく出入りしていたようですが。宮様が死なれて以来、家運が傾いて、屋敷跡が現在は目白の学習院になっています」

上の引用で「縊死」とあります。首つりのことです。

小説だと言っていれば良いのに、有吉佐和子は本当にあったことだと言い出したために歴史学者から猛烈な反発を受けることになります。連載終了から6年後の1984年(昭和59年)8月30日に満53歳で亡くなっています。

この小説の記述を面白おかしく「有吉佐和子が解き明かした・・」などの釣りタイトルで書いているサイトも見かけますが、読む価値を感じませんね。

和宮は天皇の娘としては最も有名な女性ではないでしょうか。そして、悲劇の皇女として、その名声は現在まで伝わっています。この「悲劇の皇女」をさらに悲劇の主人公に仕立て上げたのが『和宮様御留』です。和宮は実在の人物です。かわいそうな彼女をさらに貶めるような小説に憤りを感じた和宮ファンの方も多かったのではないでしょうか。「後世まで清き名を残したく候」と考えていた和宮を、実は替え玉で、本物は尼寺に行ったとするのでは、和宮も浮かばれません。

さて、替え玉説です。枝葉の部分ではなく基本的なところを考えて見たいと思います。

少し、和宮の目線で考えてみましょう。

仮に、「替え玉を仕立てました。うまくいきました。」こういう筋書きだったとします。では、「本物の和宮」はどうしたのでしょうか。

有吉佐和子がこの小説を書くきっかけとなったある女性が言っているように自殺したのでしょうか。和宮が詠んだ和歌のように「武蔵野の露と消えてしまった」のでしょうか。(小説では、自殺したのは替え玉) 天皇のため、国のために我慢して降嫁した和宮が自殺をしたのであれば、彼女のそれまでの努力はなんだったのか。百歩譲って自殺したとしても、その方法が首つり自殺というのはちょっと頂けませんね。皇女の首つり自殺の事例を数例示して頂ければ納得しますが。もし、自殺するとしても、服毒ではないでしょうか。ちなみに、皇族の方は「血」を忌み嫌っているので、刃物で自殺することはあり得ません。

蔵の中で首つり自殺? 首を吊るためのひもはどうしたの? たまたま蔵の扉が開いていて、衝動的に蔵に入り自殺した? たくさんいるお付きの女官たちが”ちょっと目を離した隙”に、たまたま、”夜中にもかかわらず開いていた蔵”に忍び込み、首尾良く自殺を果たした?

この話を持ち込んだ女性の話が真実か検証するため、板橋宿、高田村の名主であったという豪農新倉家について調べている方もいますが、申し訳ないのですがピント外れという気がします。

和宮が自殺したとされるのは、1861年12月15日。宿泊したのは板橋宿の板橋本陣です。

申半刻(午後5時頃)、和宮は脇本陣の飯田宇兵衛家に入りました。板橋宿では、飯田家が代々本陣役を務めました。「高田村の名主であったという豪農新倉家」はそもそも関係ない。(板橋宿に行ってきました! 「和宮が自殺したことで有名な板橋宿:都市伝説の誤りを暴く!」)

翌朝には江戸に入ります。午後5時に宿に着いた和宮はいつ自殺したのでしょうか。替え玉を仕立てるという手間のかかる準備の必要があるので、早く死んでもらわないと困ります(笑)。

和宮の部屋の前には警護の侍は一人もいなかったのでしょうか。翌日には江戸に入るため、警備はかなり厳しかった筈です。尊王攘夷派が和宮の奪還を計画しているとの噂が流れ、危険を避けるために、わざわざ中山道を通って来たくらいです。この日の警備は特別厳重だったでしょう。

このように見ていくと、ナゾの女性が話した内容の設定は、現実的ではないことが分かります。

もうお分かりのように、このナゾの婦人とは、飯田家ゆかりの方であると特定できるように思います。

その関係者の中で「妄想性痴呆症」を患っていた女性を探せば、この女性を特定できます。飯田家にご迷惑がかかるといけないので、これ以上の詮索はやめましょう。

もう少し、別の角度から見てみましょう。

「時代も変ったことですし、何より、私の家で亡くなったお方の御供養がしたいと思ってお話しました。」

とても奇妙な言い方です。(自殺した?)和宮にとって不名誉なことを明らかにするのが供養になると考えているようです。

本物の和宮のお墓はどこにあるというのでしょうか。人知れず、誰からも忘れられ、葬式すらもあげてもらえず、ペットのように葬られたのでしょうか。これは、もっとも悲惨なケースでしょうね。和宮霊が成仏できずに彷徨い、晩年の有吉佐和子の不眠を誘い、そして、呪い殺したということでしょうか(笑)。実際、そのように思っている怒れる読者もいると思います。

それとも、実際には生きていて、小説のように替え玉を仕立てた後に尼寺にでも入ったのでしょうか。でも、身代わりを仕立てているので、一生日陰者の身です。皇女のプライドなどゼロでしょう。皇女のプライドを捨てた和宮ということでしょうか。そんなことができるのなら苦労しないでしょうね。それこそ死んだ方がましと思うのではないでしょうか。プライドを捨てた和宮という姿を想像できますか? 替え玉が真実だとすると、和宮は歴史上から抹殺され、その替え玉にこそ焦点が当てられるべきでしょう。降嫁以前に表舞台から退場した「本物の和宮」は歴史的価値がない人物になります。

和宮が悲劇の皇女と呼ばれる理由の一つとして、有栖川宮熾仁親王と婚約していたにもかかわらず公武合体の犠牲となり家茂のもとに嫁ぐことになったことが挙げられます。替え玉を立て、本物は有栖川宮熾仁親王と余生を送ったというのなら、それはそれで(和宮にとって)楽しい人生かも知れません。でも、そんな話はないことは歴史が証明しています。

替え玉説を唱えるのなら、本物はどうなったかをさらに詳細にしっかり説明すべきでしょうね。

和宮は一人ぼっちで江戸城に輿入れしたわけではなく、母親(橋本経子、観行院)と一緒に江戸に来ました。和宮は旅の途中で自殺するでしょうか。これでは、この母親は、娘が自殺したので、替え玉を仕立てて、替え玉と共に江戸に向かい、そして、替え玉と共に一生涯暮らした、というお笑いストーリーです。最初から、「フキ」を替え玉にするのなら、母親が替え玉に同行し、余生を替え玉とともに過ごすでしょうか。

そもそも新倉家の婦人は、本物の和宮が自殺したといっているので、京都からの替え玉「フキ」の出番はありませんが。

もう一つ別の視点から考えて見ましょう。そもそも皇女の替え玉になれる人材ってどんな人でしょうか。

帝王学(ていおうがく)という言葉があります。「王家や伝統ある家系・家柄などの特別な地位の跡継ぎに対する、幼少時から家督を継承するまでの特別教育を指す」と辞書には載っています。下働きの下女が替え玉になれるはずもありません。名主の娘なら身替わりができるのか。直ぐに、お里が知れます。もし、身替わりができるというのなら、実際にやって見せて欲しいものです。和歌はどうするのでしょうか。下女の「フキ」にそれができたのでしょうか。

上で述べた「お里が知れる」とは、高貴な身分ではない、という意味ではありません。特定のスキルを身につけるのは一朝一夕にはいかないということです。宮中の下女や名主の娘では、武士の妻の替え玉にすらなれません。

もし、和宮の身代わりを立てるとすれば、風俗慣習を共有している皇族、公家の中から身代わりを立てるのが上で述べた理由から理にかなっています。和宮の降嫁に同行し、歴史から突然消えた公家の娘がいるのでしょうか。

替え玉をつくるのが難しい理由として、和宮の年齢を挙げることができます。わずか15年しか生きていない和宮の替え玉をどうやって創り出すというのでしょうか。とうぜん、替え玉も同じくらいの年齢です。年齢が若い分、知識が髙密度になります。物心がついてからずっと教育を受けてきた和歌は一朝一夕でできるものではありません。和宮は幼少期から和歌を有栖川宮幟仁親王や三条西季知(すえとも)らに指導を受けていました。

有吉佐和子に情報を提供したナゾの女性と発掘調査団に投書をした匿名の女性は同一人物、あるいはそのグループという仮説を立てるとさまざまな疑問が氷解します。

管理人が子供の頃、自分は天皇の落胤だと思い込んでいる行商のおばあさんがいました。もちろん、誰も相手にしなかったのですが、本人は固く信じ込んでしました。時々、世間を騒がせる皇族の落胤偽装事件は、本人が思い込んでいるから始末が悪い。「天皇霊(すめらみことのみたま)が自分に移った」として天皇宣言した長岡良子という女性もいます。

身替わり説では、どこで入れ替わったかによって、話が複雑になるのですが、・・・。

和宮にはたくさんのお世話係が付いていました。明治になってからも20人はいたようです。明治になってからの身替わり説は、このお世話係の人たちをどうしたのかを説明しなければなりません。プライドの高い公家出身の彼女たちが、自分の人生を棄てて宮中の下女や町民の娘の世話をする筈がありません。

ネットで確認したのですが、宮内庁書陵部に「静寛院宮御側日記 (明治3年7月―10年8月)」というものが保存されています。日付けを見ると、和宮の御側係が和宮が亡くなるまで書いた日記のようです。閲覧を申請しても当時の文字はとても読めないし、読めたとしても意味が分からないのであきらめます。これを基にした歴史小説があるので、後で読んでみたいと思います。

・・・ということで、早速読んでみました(笑)。替え玉など無理なことが分かりました。

静寛院宮御日記(明治元年―6年)は有名ですが、和宮の側近などお世話係の人たちの存在を忘れてはいけません。入替え説を採るのなら、京都から付いていった側近たちについてはどう説明するのでしょうか。さらに、和宮は、なんと、母親同伴で嫁いでおり、ひとりぽっちではありません。母親(観行院)とその側近、和宮付女官として庭田嗣子、土御門藤子、鴨脚克子など。側近といっても下働きの下女ではありません。お公家さんの娘たちです。

和宮の母親が、偽物の娘のために江戸まで行き、死ぬまで替え玉と一緒に暮らすなどあり得ると思いますか。降嫁の時点ですり替えが行われていたと主張するのなら、母、観行院の人生にも焦点を当てるべきでしょう。なにしろ、観行院は、娘が玉の輿に乗ったから偉くなったわけではなく、天皇の妻だったのですから。さらに、明治になってから、和宮付きの女官・女中はそれまでの96人から72人に減らされていますが、それでも相当の人数です。

すり替えが降嫁後であるのなら、側近たちひとりひとりの動きをていねいに調べる必要がありそうです。

もう一つ、決定的な証拠を挙げましょう。

それは、静寬院宮の自筆の書がたくさん残されていること。

例えば、明治3年以降の御詠草千八百首を収めた『静寛院宮御詠草』や『静寛院宮御日記 (明治元年―6年)(直筆は上巻第1の『御日記』)』、さらには、和宮御幼少期の御清書にして評點は有柄川宮職仁親王が付したとされる『和宮御清書』など。最近、官軍の江戸攻撃が2日後に迫った慶応4年3月13日(1868年4月5日)に江戸に向かう中山道蕨駅(現在の埼玉県蕨市)にいた官軍の陣営に届けられた和宮の直筆の哀訴状が見つかっています。大学の先生が筆跡鑑定の結果、真筆と判定しているので、本物のようです。替え玉説を唱える人は、このような証拠を完全に無視しています。自説に酔いしれているというところでしょうか。

管理人としては、枝葉の部分で替え玉説を否定するよりも、ここで述べた内容で十分替え玉説を否定できるのではないかと思います。「和宮がどう考え、どう生きたのか」、もう少し慎重に考える必要があるように思います。

宮内庁書陵部HPの所蔵資料目録に興味深いものを見つけました。

やはり、求める資料はここにあったのです。

ここまで探し当てたのだから、何とか閲覧したいと思います。

和宮の葬儀や宝塔建造は宮内庁が所管していたことが分かりました。

増上寺に葬られた徳川家歴代墓の中で、和宮の埋葬方法が違うのは、和宮が明治になってから亡くなっていることと、葬儀は宮内省が所管したことが理由のようです。発掘調査で和宮だけが寝棺だったことも、これで説明できます。皇族は寝棺で埋葬されます。

皇女和宮の肖像写真のナゾ

和宮の写真は世界に1枚しか存在しないようです。肖像画は数枚ありますが、どのようなお顔立ちの方だったのかを知るには、写真を見るのが一番です。

1.写真の撮影日を特定する

この唯一の写真は、和宮が将軍徳川家茂のもとへ降嫁するに際し中山道を通って江戸へ向かわれた際に、その途中、信州の小坂家で休息された時に撮影されたものとされています。つまり、和宮15歳の時の写真です。

「和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、小坂家の写真師が撮影した和宮の写真が発見された。これはポジのガラス乾板で軍扇に収められており、複写したものが小坂家末裔の小坂憲次から阿弥陀寺に寄進されている。」(Wikipedia)

和宮が京都を出立したのは、文久元年10月20日(1861年11月22日)です。和宮は1846年7月3日に生まれていますから、この時、15歳4ヶ月くらいの少女です。Wikipediaの写真は画質が悪いので、解像度を補正して見やすくしました。


(Source: Wikipedia(旧・小坂憲次所蔵)写真を髙解像度に補正)

画像処理がどうもうまくできないので、別バージョンも作ってみました。老婆ではなく、20歳代に見えるのではないでしょうか。クリックすると拡大表示できます。

実は、この写真が和宮かどうかは疑問符がたくさん付くのですが、それはひとまず置いといて考察しましょう。つまり、本物として考えてみます。

古い写真は、撮影年月日がいつなのかを知るのは結構難しい。しかし、この写真の場合、かなり特定できます。

Wikipediaの記述をもう一度よく見てみましょう。

「和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折、・・・撮影」となっています。撮影年は、1846年です。では、日付けはいつなのでしょうか。

それには、「信州小坂家」がヒントになります。ところが、この場所が特定できない。

この写真を阿弥陀寺に寄贈した小坂憲次氏は現在、参議院議員をされている方で、代々、現在の長野市に住んでいたようです。写真は元外相小坂善太郎氏の祖母繁子さんの遺品の中から出てきたものだそうです。ところが、長野市は中山道からはかなり遠い。

和宮の降嫁の際、中山道をいつ、どのように通ったのかが分かっています。

和宮降嫁時の中山道行程

主要な宿場町には、本陣と呼ばれる偉い方のための宿泊施設があり、そこは庄屋や名主など有力者の家が指定されていました。その家の名前も分かっています。それで、調べたのですが、「小坂家」という名前の家が見つからない。別なルートではいくつかありましたが。このため、どの宿場町で撮影された写真なのかは特定できませんでした。

現長野市に地理的に近いのは塩尻宿。「信州小坂家で休息した折」となっているので、宿泊ではなく、小休息や昼食のために立ち寄った宿場町だと考えられます。この点からも「塩尻宿」が有力かなぁ、と考えました。和宮がこの宿を訪れたのは1861年12月6日。とても寒そうです。

2.写真の修正を試みる

この写真はポジのガラス乾板で軍扇に収められているのですが、写りがとても悪い。写っている和宮はまるで老婆のようです。

ずっとそう思っていたのですが、解像度が少し良いバージョンがある。それを使って、画質の補正を行いました。すると、老婆ではない。意外に若いかも。

画質の悪い写真では、いくらなんでもプリンセス和宮に失礼だ! そこで、実際の美しい和宮の写真を復元してみました。

和宮墓の発掘調査による和宮の頭蓋骨の観察・計測結果を読むと、和宮の顔が幅が狭く立体的な顔立ちだったこと、頭髪が豊かだったこと、鼻の幅が狭く鼻筋が通っていたこと、少し反っ歯だったこと、額がかなりの”おでこ”の女の子だったことなどが分かっています。他にもいろいろ分かっています。この点、解剖学は無敵ですね(笑)。

これらを基に、現存する古びた和宮の写真ではなく、和宮の頭骨を使って往時の面影を残した写真を作ってみました。

AIを使った高解像処理で作ってみました。かなり見やすくなったと思います。

和宮 カラー高解像高画質版

写真を編集して思うことは、和宮は、基本的には美人だったのではないかと思います。美人の女性に手を付けるといううらやましい環境のもとで生まれる天皇の娘なので(別項で和宮の容姿についての唯一の資料を紹介しています。)。ここで気がついたのは、眉毛がとてもはっきりしていること。お公家さんは眉を剃っているというイメージがあったので驚きました。

調べてみたら、カミソリはあてないそうです。江戸城に来たとき、和宮は一度も顔を剃ったことがなかったため毛むくじゃらだった、とどこかで読みました。

写真の加工作業を通じて分かった和宮の顔の特徴は、①眉が平らな形、②鼻の幅が極端に狭い、③口が小さい、④眼が小さい、④眉と眼の間隔、鼻と口の間隔が広い、ということ。つまり、顔のパーツが全て小さいため、顔にスペースがたくさんあるといえます(笑)。

3.この写真は本物の和宮か

この答えは、出ているように思います。残念ながら和宮ではありません。

そう考える理由はいくつかあります。

上で行った写真加工の過程で、とても困ったのは、顔のパーツが現代人よりも広がっていること。このため、何度も顔のパーツを切り取り、位置と角度、大きさを調整しなければなりませんでした。

人の顔を描くとき、顔のパーツを顔の中央に集めると子供の顔になり、離すと大人の顔になります。和宮の写真は明らかに成人女性の顔なのです。顔のパーツが中心から広がっています。

本当は、15歳の少女らしく、頬をもっとふくらませ、目、鼻、口をもっと顔の中心に持ってきたかった。これは「15歳の少女の顔ではない!」。これが、写真を修正していて分かったことです。

たぶん、写真の所有者の勘違いだったのではないかと思います。それが子孫に間違って伝えられた。

和宮の写真については、奥が深いので、さらなる調査を行い、別の記事にまとめることにしました。そちらをご覧下さい。一連の和宮関係記事の中で一番詳細で面白い内容になっていると思います。

皇女和宮の写真の真偽を確認する

皇女和宮の容姿について書かれた唯一の記録とは

和宮の写真は現在のところ一枚も見つかっていません。これについては、上のリンクに書きましたので詳細はそちらをご覧頂くとして、ここでは、結論だけ書きます。

和宮の写真とされているのは、「柳沢明子」であることは間違いありません。この写真を和宮ゆかりの寺である阿弥陀寺に寄進したのは小坂憲次氏。同氏の祖母繁子さんが昭憲皇太后に仕えた女官長高倉寿子(1840-1930))に確認したところ、和宮であると確認されたとされています。

さらに、同じ写真が和宮の写真として徳川宗家にも保管されています。慶喜の後、徳川宗家を嗣いだ家達は、写真の確認が行われた当時健在でした。

この高倉寿子さんは、和宮の葬儀に皇后の名代として出席されています。当時の新聞記事で確認しました。

ここまで条件が揃えば、この写真は和宮と考えられそうですが、実は、明治天皇の皇后(旧名:一条美子)の姉にあたる「柳沢明子」であることは間違いありません。

和宮と何度も会っている高倉寿子や家達が見誤ったのです。

管理人は、彼らが和宮の写真と見誤った理由は、「柳沢明子」と「和宮」の容姿がとても似ていたからではないかと推測しています。

和宮の容姿についての記録は一つしか存在しないそうです。

では、その記録では、和宮の容姿についてどのような書かれているのでしょうか。

川口素生氏の「天璋院と徳川将軍家101の謎」より引用します。[18]

『江戸幕府は隠密や御庭番を大名の藩邸や国許へ派遣し、その大名の動向や居城の規模、構造を探らせることがあったとされています。この種の調査では、元禄時代に全国規模で隠密に大名の素行調査を行わせ、それを『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』に纏めた事例が有名です。

さて、和宮の降嫁問題が議論されつつあった万延元年(1860)5月11日、関白・九条尚忠(ひさただ)の家臣である島田左近は、和宮の容姿を調べ上げて報告書を作成しました。これは、江戸幕府の老中・久世広周(くぜひろちか)の求めに応じて調査、作成されたものといわれ、近江彦根藩士・長野主膳(しゅぜん)左近と広周の仲介を行なったとされています。

主膳は彦根藩主、大老の井伊直弼の懐刀で、左近と共に徳川家茂の擁立の際に尽力したという策士です。直弼が「安政の大獄」を断行した際は、主膳と密偵の村山たかが水面下で暗躍しました。残念なことに、直弼は同年三月三日の「桜田門外の変」で落命します。しかし、以後も左近や主膳は、降嫁の実現のために日夜暗躍していたのでした。彦根は現在の滋賀県彦根市ですが、市立彦根博物館に左近が作成した報告書が現存しています。和宮の容姿に触れたものとしては唯一のもので、極めて貴重な資料です。

内容は、「1 御色 真実御白キ方」などという具体に、身長、顔面の色、顔や口、鼻、目のかたち。歯並び、手足、体型などが箇条書きで記されています。まず、身長や体型は中肉中背で、顔は普通のかたち、目は大きくて鈴型、鼻筋は高く、口はいたって小さく、歯並びも良好としています。次に、手足は華奢であるものの普通と続けています。

要するに、全体として和宮の容姿や体格は、普通であったと記されているわけです。ただ、何か当たり障りのないことを書き連ねているような感じがしてなりません。』

川口氏は、「何か当たり障りのないことを書き連ねている」と感じられたようですが、管理人はそうは思いません。隠密が正確な報告をしなかったら責任問題になり、下手をすれば文字通り首が飛びます。

例えば、「和宮の左手がなかった」とか、「足が悪かった」とか、とても重要な情報が抜け落ちていたとは考えられない。そのようなことは一切報告されていません。書かれている記録から、和宮は、五体満足の普通の女の子だったことが解ります。美人とは書かれていないので、容姿はまさに「普通の女の子」だったのでしょう。

次に、和宮の左手先のナゾについて迫りたいと思います。

和宮の左手先のナゾ

和宮の左手がなかったという都市伝説は、昭和33年の徳川家墓地発掘調査を行っていた調査団に送られてきた「二通の投書」から始まります。

上述したとおり、徳川家墓地の発掘調査は昭和33年7月から35年1月にかけて行われ、和宮墓地の発掘は昭和33年12月20日から翌年3月20日までの3ヶ月間行われています。ここから先、日付けが重要なので、この日付けをよく覚えておいて下さい。

後年公表された調査報告書には、「3月○日 静寛院宮の臨終について、朝日新聞、および調査担当者に投書が来る。」と書かれており、また、『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』あとがきに、その投書の全文が収録されました。これは、学術報告書としては異例のことと言えます。

この投書は匿名の女性からのもので、手紙は達筆で、単なるイタズラとは考えにくいこと、また、内容的にも放置できないものであったため、掲載したようです。この女性は朝日新聞にも投書していることが報告書から分かります。しかし、朝日新聞に送られた投書の内容や投書のその後の扱いについては一切情報がありません。

調査団に対しては、匿名の女性から二度、投書が送られてきました。

原典で確認することがとても重要なので、少し長くなりますがその内容を確認してみましょう。左手がなかった説を支持する人たちの文章は、自分の都合のよいところだけを切り出し、都合の悪い部分はなかったことにします。

(『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』あとがき より引用)

第1信 昭和34年2月5日付 調査団宛

前略 突然此の様な事を申し上げ失礼ですが、此度の和宮様御墓発掘の事を知り、さもありなんと心にうなずくものがありましたので、一寸、申上げてみたくなりました。実は私の祖母は御祐筆として和宮におつかへし、其の最後を見とどけた者でございます。明治維新後(祖母の年を逆算しますと、明治4年か5年と思はれます。宮の御逝去は10年との事ですが、一切は岩倉具視が取しきった事とて、其の時まで伏せておいたのかと思はれます。)岩倉卿と祖母が主になって、小数の供廻りを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあひ(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(勿論お駕篭)おかくまひ致し、祖母も薙刀を持って戦ひはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追い拂って岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で、最早之までと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた。後、やむなく御遺骸を守って東京に帰り、一切は岩倉卿が事を運び、祖母は自分の道具、おかたみの品を船二隻で郷里に帰った由(大方は其後、倉の火事で焼失との事)、其後、和宮の御墓所を拝した時、御墓所の玉石をいただき、後年まで大切にしていたそうです。以上の事は母が幼時に聞き覚えていたと、私に語ったものですが、以上の様な訳で、お手許品も何も入れず、密かに葬って後、発表したものと思われます。戦後、小説に芝居に、和宮の御最後を有栖川宮との思出をのみ胸に、亡くなられた様な場面をみせてゐるのを心外に思ってゐたものです。然し祖母の遺品、書物の少し許り残って居りました物は20年春、疎開の時、最早、日本の終わりと考へて皆、他の書類などと共に焼棄てた為、聞き知ったご最後を申し出す証拠もなく、残念に思って居りました。徳川家の記録には此の御最後の事が正しく載って居りますでせうか。皇室も徳川家も現在では何も伏せる事はないと思ひますから、家の為、崇高な御一生を過された和宮様を正しく維新史を飾る一頁に伝へたら如何でせう。御発掘の有様を見て心から迸るものがありましたので乱筆を走らせました。私やがて58老女、他出も余りせず居りました為、何かと出ずらはしさを避け、匿名で申上げます事をお許し下さい。

この投書の日付け、昭和34年2月5日は、発掘調査で和宮の御棺を初めて開いた日です。

最初の投書から12日後の日付けの第2信が調査団長宛に送られます。

第2信 2月27日付 著者鈴木尚氏宛

冠省2月5日付の書、御覧いただけましたでせうか。其後、御研究が進んで居られる事と存じますが、和宮様に刃の痕跡など有ったか等、考へて思ひを維新の昔に馳せて居ります。私は単なる興味本位でなく、歴史の真実を幾分でも再現したならと愚考して居る者でございます。寡聞にして、先生の御発表がどういう研究誌に何時頃なされるものか存じませんが、何とかして一読したいものと思って居ります。もとより浅学菲才、学術的な事は分り兼ねますが。今のところ見聞はKRTと朝日新聞だけを毎日定めて居りまして、他の方面は有りましても一向に見ず読ますの状態で居ります為、先生の尊い御研究、御発表も拝見いたせるか心細い思ひでございます。徳川墓地調査の記事を新聞紙上に御発表の折、和宮に関しての正式発表は何時頃どんな誌上でなされるかを御暗示いただければ幸と存じます。お忙しい折、取るに足らぬ者の言など御耳を傾けられる暇はないとの御叱りを受ける事は陶然と思いますが、厚かましくも筆を取りました次第でございます。気候不順の折、御自愛専一に御研究の程祈り上げます。

いかがでしょうか。

もっともらしい文章です。

この文章を読んでもいまいち分かり難いので、少し補足します。

第2信で、KRTとあるのは1955年4月1日開局の(TBSの前身である)ラジオ東京です。朝日新聞とラジオ東京が情報源だと言っています。そして、それ以外の情報源はない、と書かれています。調査結果が発表されるまで調査内容は一切分からない、ということを強調しています。

この女性はなぜ「和宮様に刃の痕跡など有ったか等」に関心があるのでしょうか。結論から言うと、発掘調査で出土した和宮の遺骸には、刃の痕跡どころか病気の痕跡も確認されていません。脚が悪かったという説も否定されました

和宮墓地の発掘調査は、当時、かなりの注目を集めており、報道関係者たちが発掘現場まで降りて取材するなど、現在では考えられないような状況だったようです。つまり、現場にいれば、あるいは、近くで見物客として見ていれば、発掘調査の状況は容易に把握できる状況でした。報道関係者もかなり押しかけていたようで、様々なメディアが発掘調査の状況を逐次、報道していたと考えられます。

なぜ、最初の投稿の日付けが和宮の御棺を開く当日になっているのでしょうか。

管理人は最初、投稿の「お手許品も何も入れず」という部分は、「副葬品がみあたらないこと」を言い当てるための細工かと思ったのですが、投書をよく読むと、発掘調査とは関係ないことが分かります。そもそも副葬品について、投書の記述とは時期も場所も違うわけで、両者は何の関係もないことは明らかです。

1959年(昭和34年)に58歳になる老女と書かれているので、投稿者が生まれたのは、1901年(明治34年)ということになります。

どうもこの投稿者の方は大きな勘違いをしているように思います。

和宮は、1869年(明治2年)に京都に戻っています。その時の旅行の様子も詳細に分かっています。なにしろ、和宮が日記に残しているので。

京都から東京に戻るのは1874年(明治7年)7月8日のこと。和宮が自害したと投稿者が主張する明治4年、あるいは5年頃は、和宮は京都にいました。

また、岩倉具視が唐突に登場します。明治4年か5年頃、和宮の帰京に岩倉具視がわずかなお供を連れて同行した? 歴史学者が卒倒しそうな話です。

そもそも、明治5年に岩倉具視は日本にいません。彼が帰国したのは明治6年9月13日のこと。岩倉使節団がアメリカに向け日本を発ったのは1871年12月23日(明治4年11月12日)です。

当時、右大臣岩倉具視を殺したい人たちがたくさんいた時代です。現に、1874年(明治7年)1月14日に東京の赤坂喰違坂で岩倉具視に対する暗殺未遂事件が発生しています。明治4年に岩倉具視がわずかなお供を連れて京に向かったのが事実だとしたら、日本の歴史が変わるかも知れません。「岩倉具視は命知らずだった」と。それ以前に、使節団の岩倉は「替え玉だった」?。やれやれです。

第1信をよく読むと、「和宮が箱根で賊に襲われ自害した」という新しい説を提示しているものの、それ以外のことは何も書かれていません。左手先がないという記述もなく、自害後の埋葬先についても、5年後に箱根で薨去された和宮の遺骸との関係も何も語られていません。

そして、第2信では、遺骸に刀傷の跡がないかを知りたがっています。和宮が骨にまで至る勢いで自刃したと考えているようです。通常、そのように考えるでしょうか。

この投書は、一見、良く書けているように思えるのですが、実際には中身がありません。証拠がない理由を延々と書いています。そのくせ、自分の主張が正しく、歴史が修正されるべきだと考えているようです。

和宮の左手先がない、という話は、発掘調査結果とこの投書をベースとして、作られたお話しです。左手について発掘調査以前から「明確に」語られていたのなら検討の余地はありますが、そもそもベースとなる投書の内容が破綻しているので、後付けのお話しはもういいやという感じです。「あと出しじゃんけん」が好きな方は、調べてみてはいかがでしょうか。

この投稿者が神経を患っていない正常な方だったとすると、和宮でも岩倉具視でもない誰か別の人と取り違えているように思います。投稿者の祖母が(岩倉具視と共に)旅行を取り仕切ったように書いていますが、それはお公家さんの家系ということを暗示しています。祖母は土御門藤子か橋本麗子、あるいは絵島(少進、藤)本人だと言っていることになります。「祖母は御祐筆として」の「御」は祖母にかかる尊敬語?、それとも謙譲語? はたまた、和宮に対する間接的な尊敬語? なんとなく、すんなり読めてしまうのですが、よく考えるとおかしい。もし、祖母が下女だとしたら「御下女」になる。やはり、「祖母は右筆として」が正しいような気がします。

和宮に関する陰謀説を読まれたことのある方は、初めて原典の正確な内容を知ったのではないでしょうか。陰謀説を主張している人が、いかに自分に都合の良い部分だけを抜き出し引用しているか、あるいは曲解しているのかということが理解できたのではないかと思います。

徳川墓地改葬はなぜ行われたのか?

ふと、このような疑問が湧きました。

徳川将軍家墓所はなぜ発掘調査されることになったのでしょうか。発掘当時の現地の状況はどのようだったのでしょうか。

Wikipediaで、わずかに次のような記述を見つけることができます。

「和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は、現在の東京プリンスホテルの場所にあったが、1950年代に同地が国土計画興業に売却されたため、和宮をはじめ、歴代将軍及びその正側室の墓所と遺骸も発掘・改葬された。」(Wikipedia「和宮親子内親王」)

この記述を読んでも状況がつかめません。疑問はどんどん膨らむばかりです。

そこで調べてみました。

1.なぜ、増上寺の徳川家墓所は民間に売却されたのか。

これはとても奇妙です。お寺の敷地が切り売りされるということは、貧しいお寺の場合にはありそうですが、浄土宗大本山の増上寺が、徳川家の菩提寺としての役割を放棄して徳川家墓所を売却するなど、どう考えても理解できない。

歴史って、現代人の目線では理解できないことがたくさんあるように思います。当時の状況を知ることで、なぜ、そのようになったのか、その事情を垣間見ることができます。調べてみると、太平洋戦争が大きく影響していることが分かります。

昭和20年3月10日と5月25日の空襲で、増上寺の徳川家霊廟は壊滅的被害を受けています。

【増上寺内霊廟の昭和20年空襲による被害】

  • 徳川家宣霊廟 、文昭院霊廟(増上寺) (1945年3月10日焼失)
  • 徳川家継霊廟、有章院霊廟(増上寺) (1945年3月10日焼失)
  • 芝東照宮 (1945年5月25日焼失)
  • 徳川秀忠霊廟、台徳院霊廟 (1945年5月25日焼失)
  • 崇源院霊牌所 (1945年5月25日焼失)

当時の増上寺は、広大な敷地の中に、本堂を中心に、二代将軍秀忠公を祭る南御霊屋と、それ以外の将軍、夫人等を祭る北御霊屋という二つのブロックがありました。上で記した空襲記録を見ると、和宮が埋葬された場所である北御霊屋一帯は3月10日の空襲で焼け野原になったことが分かります。

徳川将軍家墓地の発掘調査が開始されたのは昭和33年7月12日のこと。この日、二代将軍秀忠の墓地の発掘方法についての打合せが行われています。

昭和33年といえば、首都東京は戦後復興の途上にあります。

そして、昭和33年と聞いて思い浮かぶのが『ALWAYS 三丁目の夕日』でしょう。この映画は昭和33年の東京の下町を舞台としています。夕日町三丁目は、当時の港区愛宕町界隈を想定しているそうです。つまり、増上寺と目と鼻の先です。徒歩10分から15分くらいの距離です。

この映画で出てくる象徴的なシーンが「東京タワーの建設」でしょう。東京タワーも増上寺からは徒歩5分くらいですね。
東京タワーは、1957年(昭和32年)6月29日に増上寺の墓地を一部取り壊して建設が開始されたそうです。9月21日には鉄骨の組み立てが始まり、1958年(昭和33年)12月23日に完成しています。着工から完成までわずか1年半というスピード工事でした。

さて、東京タワーの建設と徳川家墓地移転の関係ですが、実のところよく分かりません。

話を進める前に、位置関係を整理しておきましょう。

上で紹介したように、和宮が埋葬された増上寺の徳川家墓所は、現在の東京プリンスホテルの場所でした。

下の画像は、『現在の東京タワー、増上寺、東京プリンスホテルの位置』と『昭和22年の和宮墓の位置』を示したものです。縮尺が異なる2枚の図面なのですが、Photoshopを使って合わせました。

あるサイトで、「徳川家の墓地は、東京タワー建設のための資材置き場に使うため取り壊された」という趣旨のことが書かれていたのですが、どうもそうではないようです。

東京タワー建設時の写真や完成後の写真に写っている和宮墓(を取り巻く樹木)を見てみると、変化がない。どうも、資材置き場として使われた形跡はありません。

和宮墓の跡地に建設されたのが東京プリンスホテルの建物です。淫乱で人間としての人格が疑われると世間から非難された堤康次郎率いる『国土計画』によって建設され、1964年に開業しています。

徳川家霊廟跡は広いのですが、ホテルの建物が建っているのはそのほんの一角に過ぎません。霊廟の図面と地図を重ねてみると、和宮の墓地はホテルよりも西側部分あたるようです。

元々の和宮宝塔の位置と現在のホテルとの位置関係は以下のようになっています。


出典:徳川家霊廟の案内板より作成

ここで疑問が生じます。ホテルの開業が1964年(昭和39年)です。墓地の発掘調査は、1958年(昭和33年から1960年(昭和35年)1月にかけて行われました。

『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』を読むと、発掘調査は工事の進捗に合わせて行われたことが書かれています。発掘が主体ではなく、あくまでも工事が主体であり、慌ただしい工事の日程に合わせて発掘調査をさせてもらった、という感じです。さらに、「工事はこれより以前、昨年から行なわれていたのである。」(前掲書p.29)という記述があるので、昭和32年から工事が行われていたことが分かります。つまり、ホテル開業の7年も前から工事が行われていたことになります。東京タワーの建設期間と比較しても奇妙です。

では、その時の工事ではどんな作業をしていたのでしょうか。ホテルの開業は7年も先です。工事で先ず行うのは、おびただしい数の墓石や宝塔を処分して更地にする作業でしょう。しかし、この工事の時期がどうも引っかかる。発掘調査が終われば、更地化は数ヶ月で終わります。また、ホテルの建設は周辺整備も含め長くとも2年もあれば十分でしょう。実際、発掘実証調査終了から1年後の1961年3月に撮影された写真(毎日新聞社)を見ても、和宮墓地のある林一帯はまったく手つかずの状態です。昭和32年に始まったとされる工事は、”ホテル建設のためには不急の作業”だったことが分かります。

何を急いで工事をしていたのでしょうか?

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを睨んだホテルの開業だったのでしょうか。実際に、東京プリンスホテルが開業したのは東京オリンピックの年、1964年9月1日です。 オリンピックは1964年10月10日(土)~24日(土)までの15日間開催されましたので、ホテルが開業したのはまさにオリンピック開催の直前だったことが分かります。堤はこの年の4月、ホテルの開業を待たずに死亡しています。

2014年9月1日には開業50周年のイベントも開かれています。

東京でオリンピックが開催されることが決まったのは1959年(昭和34年)5月26日、西ドイツのミュンヘンで行なわれた第56次IOC総会でのこと。この時にはすでに墓地移転の工事は始まっています。東京オリンピック開催は、ホテル建設とは直接関係のないことが分かります。つまり、ホテルの開業はオリンピックの開催に合わせて行われたのは事実でしょうが、ホテルの建設は、オリンピックとは関係がなかったと言うことです。

このような状況から考えられるのは、発掘調査時点の工事は、ホテルの建設とは関係のない別の目的があったのではないかということ。たとえば、徳川埋蔵金伝説のような。

調べてみると面白い最近の記事をネットで見つけました。2015年3月1日の「週刊実話」の「徹底検証・徳川埋蔵金の真実 トレジャーハンター・八重野充弘 第8回 埋蔵金の権威・畠山清行の挑戦(前編)」という記事です。

この中で、『また、吉田忠太夫という旗本の手記にも「慶応3年10月、江戸城の外堀龍ノ口から、夜陰に乗じて端艇(ボート)数隻を使い、数十回にわたり重い箱と梱包を本所の御竹蔵に移送した」と書かれている。芝山内は徳川家の菩提寺である増上寺のことだろう。 』という記述があります。慶応3年は西暦で1867年。翌慶応4年は9月7日までで、9月8日は明治元年です。まさに幕末。

徳川埋蔵金伝説のパターンは、通常、江戸城から運び出された大金は、「ここからさらに別の場所に運ばれ、・・・・、ある場所に埋蔵された」ということになるのですが、増上寺に埋蔵されたと考えている人がいたのかも知れません。確かに、埋蔵するには、これほど適している場所は他にありません。江戸城から近くていつでも掘り出せるし、墓所を荒らすようなことはだれもやりません。新政府でさえやっていません。このため、山の中に隠すより監視がしやすく、盗掘に遭う恐れは皆無といえます。

幕末に幕府の埋蔵金を隠すとすると、直前に亡くなった将軍家茂の墓所が有望です。そこを掘削したり工事をしていても墓所の増改築という説明で誰も疑問に思いません。


改葬前の和宮墓地

戦災に遭う前の同じアングルからの写真です。宝塔がむき出しではなく、それぞれに霊廟建屋があったことが分かります。

戦災前の北墓所配置図と現在の航空写真を重ね合わせたものです。画像をクリックするとGIFアニメーションがスタートします。

徳川墓地位置と現状の比較アニメーションGIF

 売却された土地は増上寺が所有する土地とばかり思っていたのですが、どうやら所有権は徳川宗家が持っていたようです。

実は、この点がとても重要に思います。

ネット上では、増上寺が売却したようなことを書いているサイトがたくさんあります(早稲田大学の教官らしき方もそのようなことを書いています)。その根拠は何なのでしょうか。

「所有権が複雑で、・・・」という趣旨のことを書いている方もいます。その根拠資料は何でしょうか。寺の敷地 ⇒ 寺が所有権を持っている という思い込みで書いているように思えるのですが。

発掘調査報告書(前掲書)を読むと、驚くほど増上寺が出てきません。増上寺の存在感がまるでないのです。発掘の主導権は徳川宗家にあったことは間違いないでしょう。

このため、墓地の売却は徳川宗家が行ったものと考えられます。歴史的な霊廟を売却するなど考えられない人たちだ、と最初は思ったのですが、よくよく考えると、仕方がなかったのかとも思えてきます。

空襲によって焼け野原となった、荒れ地として放置されている広大な徳川家の墓地を誰が修復できるというのでしょうか。戦後復興のまっただ中にあって、皆、お金がない。まともに修復したり保存しようとすると天文学的額の資金が必要になります。新しく作るよりも修復する方が費用がかかるのです。

前掲書の発掘の経緯の項で、文化財保護委員会が出てきます。これは何なんだろうと思い調べてみると、「1950年8月29日に文化財保護法が施行され、文部省社会教育局の文化財保存課を廃止し、同省の外局として『文化財保護委員会』を設置」とWikiに書かれています。当時は全く力不足の組織だったのでしょう。「庁」でも「局」でもなく、文部省の外局として設置された「委員会」でした。

文化財を保護し、乱開発を規制すべき役所の部署に力がなく、政治家を巻き込んで当時の権力者堤康次郎が好きなようにやったのでしょう。前掲書の冒頭の書き方を奇妙に感じていたのですが、発掘にあたった鈴木尚先生はじめ諸先生方は、当時の泣く子も黙る暴君・権力者に対しては何も言えなかったということでしょう。先生方を責めるのは間違っているかなぁと思います。

でも、一言。前掲書には誤植がとても多く、ウンザリです。学者なら、ちゃんとチェックしろよ。

『旧聞アトランダム』というサイトの以下の記事に増上寺霊域売却関係のことが詳しく書かれてあり、とても参考になりましたので、紹介させて頂きます。

江、秀忠墳墓の経緯と増上寺(1)
江、秀忠墳墓の経緯と増上寺(2)
江、秀忠墳墓の経緯と増上寺(3)
増上寺将軍霊廟 宝塔の行方と 清瀬市長命寺

現在の静寛院宮(和宮)の御廟

現在の和宮のお墓は、増上寺の安国殿(あんこくでん)の裏手にある徳川将軍家墓所にあります。2015年、つまり先日の5月10日に皇女和宮の誕生を祝う「景徳祭」が増上寺で開催されるという情報をネットで見つけたので、早速行ってきました。その際に撮影した写真をアップします。「景徳祭」については本館にアップしましたので、そちらをご覧下さい。

下の地図の番号では、安国殿が[2]、徳川将軍家墓所が[4]です。

下の写真は、安国殿に安置されている和宮の銅像です(2015年12月15日撮影)。

安国殿に安置されている和宮の銅像

徳川将軍家墓所に向かう小道に、たくさんの小さなお地蔵様が並んでいました。風車が風で回り、幻想的で、とてもきれいでした。

地蔵

墓所の入り口の門です。この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。材質は青銅製で、左右の扉に5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。

以前は、徳川将軍家墓所は特定の日にしか拝観できなかったようですが、現在は、毎週火曜日の定休日以外はいつでも見学可能です。ただし、連休があると定休日が変化するので、念のため増上寺HP「徳川将軍家墓所拝観」のページで定休日を確認しましょう。拝観料は500円(高校生以下無料) 。拝観受付時間は10:00~16:00です。「鋳抜門」脇のチケット札所でチケットを購入して拝観します。

「鋳抜門」に向かって左脇にある”くぐり戸”から中に入ります。

徳川将軍家墓地入り口

中に入るとこんな感じです。

徳川将軍家墓所内にある宝塔の配置図です。和宮様の宝塔は左手に家茂と並んで置かれています。

和宮様との感動の対面です。

徳川家墓地宝塔配置図

皇女和宮の宝塔です。彼女の宝塔だけ青銅製です。この理由については、皇女だから特別ということではなく、時代の流れで材質も変わったみたいですね。和宮が亡くなったときには、既に徳川幕府は存在せず、明治政府、宮内省が担当しました。和宮の葬儀の資料が見つからない理由は、これだったのか!

「・・・・以上が静寛院宮墓のあらましである。明治に造られたもので、宮内省の造営にかかわる。したがって従来の徳川将軍墓や夫人の墓とはかなり異なる点も認められるのである。とくに棺に寝棺を用いていることや、石組みに単純な形をとっていること、また墓誌銘を刻んだ石の取扱いなどをみるに、そこには何か新しい感覚を感ずるのであり、時代の移り変わりを知る思いであった。」(前掲書p.73 誤植あるも原文のまま)

和宮の宝塔の横に回り込んで撮影しました。

拡大すると、皇室が使う菊紋(十六八重表菊)が見えます。

和宮宝塔菊紋(十六八重表菊)

和宮の宝塔の向かって右隣に家茂の宝塔があります。

徳川家茂宝塔

先日、二度目に墓地を訪れた際に、誰も撮影していない別角度から撮影しました。手前が家茂、奥が和宮の宝塔です。

和宮薨去についての当時の新聞報道を調べる

和宮の晩年の情報があまりにも少ない。そこで、調べてみました。新聞記事を読むことで、当時の社会の状況を垣間見ることができます。

和宮が亡くなったのは、 明治10年(1877年)9月2日です。当時、新聞はあったのでしょうか。

現在もある大新聞が当時もありました。『讀賣新聞』が刊行されたのは明治7年(1874年)です。ちなみに、『朝日新聞』刊行は1879年なので、和宮が亡くなった後になります。

近くの図書館に行って調べてみました。マイクロフィルム化されていて、閲覧できます。本来は印刷もできるのですが、機械が故障していて、古くて部品がなく修理できないということで印刷はできません。

図書館で、明治10年9月のフィルムをお願いしました。機械にフィルムをセットして、いざ閲覧開始です。

明治10年9月の讀賣新聞の記事です。9月1日の記事で、早速、和宮に関する記事を見つけました。

この新聞についての記事は、とても長くなったので別記事にしました。以下の記事をご覧下さい。本記事の裏付けとなる内容を記載しています。

明治時代の新聞報道から皇女和宮薨去の原因を読み解く

和宮の遺骸のナゾに迫る

いよいよ、本記事のメインテーマです。管理人が不思議に思い、本サイトで和宮に関する一連の記事を書く動機となったナゾです。

昭和33年の徳川家霊廟の発掘調査により、和宮の墓が発掘調査されました。その時の調査報告書の写真を見て、管理人はとても違和感を覚えました。それは、和宮の遺骸が横を向いていたことです。

高解像度版をアップします。

横向きの姿勢で埋葬するということは考えられません。それなのに、発掘された墓の棺の中で眠る和宮は横向きで埋葬されていました。それも、かなり奇妙な姿勢です。そのような姿勢で埋葬された理由は何なのでしょうか。

発掘調査報告書には、この埋葬の姿勢について次のように書かれています。

「遺体は左側臥位の伸展葬で、下肢は膝関節で約60°に屈げ、上肢も軀幹の前方に軽く伸ばした状態であった。左手部は発見できなかった。」(前掲書 p.186)

この報告書の記述で奇異に感じたのは、遺体が伸展葬で埋葬されているのに、執筆者が、遺体が左向きに埋葬されていることに何ら疑問を呈していないことです。

遺体は埋葬されたときの姿勢で発掘されるのが普通です。発掘現場の写真では、遺体が様々な姿勢で発掘されているのを見かけますが、それにはそれぞれ理由があるはずです。

遺体を通常の伸展位で納めた後、数年して、別の遺体を同じ棺に納めることは以前にも事例があります。その過程で、以前の遺体が動かされていることもあります。また、埋葬後数年してから集骨する事例もあります。別の人の遺体を同じ墓地に埋葬、合葬するためです。しかし、和宮の場合にはそれはあり得ない。つまり、埋葬されたときの姿勢で発掘されたことになります。

(参考:「竪穴系埋葬施設における追葬とその儀礼」、岩松保)

このナゾを解き明かすためには、和宮が薨去されたときから埋葬までどのような手順で行われたのかを知る必要がありました。やっと調べたので、この項を書くことができます。薨去から埋葬までの経緯については、冒頭で示した別記事で詳しく記載しています。

整理すると、概略は以下のような流れです。

和宮は明治10年9月2日午後5時頃、箱根・塔ノ沢で薨去されています。

遺骸が塔ノ沢から東京に移送されたのは9月5日。藤沢の遊行寺に一泊して、翌6日、午後2時10分頃、麻布の御屋敷に到着します。

さて、なぜ、和宮の埋葬姿勢が横向きなのかを検討してみましょう。

葬儀・埋葬は、9月13日に行われました。つまり、9月2日の薨去から9月13日の埋葬まで11日もかかっています。

9月2日に薨去した和宮のご遺骸が納棺されたのはいつなのでしょうか。たぶん、塔ノ沢を発つ前日の9月4日の夜だったのではないでしょうか。冷涼な箱根なので、ご遺骸の腐敗はそれほど進んでいなかったと思われます。

問題はそれから先です。二日かけて6日に麻布の邸に到着します。そこで一度納棺した和宮の遺骸は、再び棺から出されたのでしょうか。この時点で、死後4日経過しています。

ここまで読むと、「防腐処理」ということが頭をよぎります。しかし、皇族の御遺骸には防腐処理はしません。和宮の遺骸の防腐処理も香と茶が用いられたことが発掘調査で確認されています。

和宮の夫の家茂は慶応2年7月20日、大阪城中で亡くなっています。幕府は8月20日にはじめて喪を発し、家茂の遺骸は船で9月6日江戸に運ばれ、23日に増上寺で葬儀が行なわれています。亡くなってから葬儀まで実に2ヶ月です。どうやって防腐したのか。水銀を使ったのではないかと思ったのですが、発掘調査の結果から、香と茶、石灰が使われていたことが分かっています。

大阪城で納棺された家茂の亡骸は江戸に運ばれ、そのまま葬儀、埋葬されます。江戸では棺は開かれなかったのです。当然、和宮も家茂の亡骸は目にしていません。なぜそれが分かるのか。それは、発掘調査で、家茂の棺(内棺)が梱包された状態で出土したからです。発掘調査で、家茂の遺骸を納めた棺は大阪城で梱包された状態で見つかっています。

どうもこの時代は、積極的な防腐処理はしていなかったようです。

話を和宮に戻します。

和宮の遺骸が6日に麻布の邸に着いてから13日の葬儀・埋葬まではまだ7日あります。葬儀の時点で死後11日です。

発掘調査の結果からも積極的な防腐処理はしていなかったことが分かっています。

夏のさなか、死後3日も経てば、遺体を触れるような状態ではなかったのではないかと思います。このため、麻布の御屋敷に着いた時には、遺骸を蒲団に移さず、棺に安置したままで葬儀まで御護りしたということではないでしょうか。発掘報告書によれば、棺には遺体から染み出る液体を捕らえるような構造があります。

棺を開いた状態にしておけるのは何日でしょうか。

現在のようにドライアイスがあれば、死後3、4日は生前と変わらぬ容姿を保てるでしょうが、防腐処理をしなければ、麻布の御邸に着いたあたりでかなり腐敗が進行していたと考えられます。

和宮の薨去から埋葬までの気温

せっかくマニアックに調査したので、ついでに、和宮の薨去から埋葬までの東京の気温を調べてみました。


出所:気象庁 東京の気象データ1877年9月

気象データを見て目を引くのが、降水量の多さです。薨去から埋葬までの11日間に東京では140.4mmの降水量がありました。降雨日数は7日間です。皇女の死を悼む涙雨でしょうか。これにより、かなりの湿気があったことが分かります。

次に、問題の気温を見てみましょう。

和宮の遺骸が麻布のお屋敷に到着した9月6日から埋葬の9月13日までの8日間の東京の平均気温は、21.2℃です。最高気温の平均は25.8℃、最高気温の最大値は9月10日の28.4℃です。

気温が高いこと、さらに湿度が高いことで遺体の腐敗は私たちが想像する以上に進行していたものと考えられます。

和宮にお付きの女性たちは、和宮の遺骸が御邸を出るまで、日々朽ちていく亡骸に化粧を施したりしていたのでしょう。しかし、弔問客には決して棺の蓋は開かなかったと思います。

和宮のお付きの女性たちは、最後まで自分の役割は果たしたと思います。しかし、着物を替えるようなことはしなかったと思います。遺骸は触れるような状態ではなかったでしょう。さらに、強烈な腐敗臭が漂っていたと思います。和宮の遺骸が麻布の御邸を出るときには、安らかに上を向いた姿勢で納棺されていたと考えられます。そして、そこで棺の蓋が閉じられ、80年後に発掘調査されるまで開かれることはなかった。

しかし、発掘調査で明らかになった和宮の遺骸は横向きでした。

和宮の遺体の不可解な姿勢

いつ横向きになったのでしょうか。埋葬後に生き返った! しかし、そんなはずはない。

9月13日、午前11時、麻布のお屋敷を出棺し、和宮の棺は増上寺まで運ばれ、葬儀が行われました。その後、午後4時30分頃、霊柩は御墓所まで運ばれ、埋葬されます。

当時の新聞を読むと、この時、和宮の侍女たちの参拝が行われています。「和宮の上臈藤の井」の名前が見えます。「藤の井」って誰でしょうか。土御門藤子は2年前の明治8年に亡くなっています。庭田嗣子は慶応3年に亡くなっています。残るは、絵島(文化6年4月(1809年) – 明治20年(1887年)2月22日)と言うことでしょうか。絵島は藤、少進とも称したとされています。「藤の井」と称していた時期があったのかも知れません。

いつ、横向きになったのでしょうか。

これまで、「腐敗」について強調して書いてきました。それは、このナゾを解く鍵が「腐敗」にあると考えるからです。

発掘調査の写真を見ると、遺骸は明らかに横向きです。そもそも手の位置が完全に横向きの位置に置かれています。両ひじを身体の前に投げ出している感じです。

死後硬直説はもっともらしいのですが、埋葬までの時間を考えるとあり得ません。

発掘時の和宮の遺骸 出典:『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』

出典:『前掲書』の写真を修正

①右肩、②右肘、③右手首、④右手 ⇒ 左手は失われているとの調査報告があるから、手先が写っているということは右手ということになる。

発掘後の保管所で撮影した和宮の遺骸。遺骸を納めた三重の木棺は、底から10cmを残し側面は完全に朽ち果てていた。左手の骨が見当たらないことが分かる。しかし、発掘時の写真と比較して、棺の中にあったかなりの残滓が取り除かれている。この遺骸の姿勢の異常さについて発掘調査報告書の記述はとてもシンプル。

他所の埋葬写真。骨格配置の例として掲載。骨盤の向きに着目。

上の写真を見ると分かるように、仰向けの姿勢で骨盤が上を向いていると、右手と左手は和宮の遺骸のように身体の前にはこない。上と下の写真で、右肩の位置に着目。 このように右手が身体の前に来るということは、お尻が上になる必要があります。仰向けではなくうつ伏せということです。 

和宮埋葬姿勢


Image: 和宮埋葬姿勢

唯一、考えられる埋葬時の姿勢は、上の画像のようなお尻を上にしたうつ伏せの姿勢であったということです。

しかし、このような姿勢で埋葬することなどあり得るのだろうか。

発掘された和宮の遺骸が横向きだったナゾ

これまで、誰も疑問視しなかった『和宮の埋葬姿勢』のナゾについて、いよいよ管理人の仮説を述べたいと思います。

埋葬時に発生した事故とは?

棺の埋葬の時、石工が穴に落ち怪我をして病院に運ばれています。当時の新聞記事で見つけました。

プロの石工が穴に落ちて怪我? とても奇妙です。この石工には”即日”、御見舞金が支払われています(下画像記事参照)。その金額は、当時の高級官吏の一月分の給与に相当する額です。


Source: 讀賣新聞、明治10年9月18日第801號

管理人は、この時、『和宮の棺を誤って落とした』のではないかと考えています。たとえば、棺を吊っていた縄が切れたなどの何らかのトラブルがあり、そっと墓穴に降ろすはずだった棺が突然落下してしまった。この時、墓穴の下にいた石工が棺に挟まれて大怪我をした。そして、和宮の遺骸の姿勢が変わってしまった。

しかし、死後11日も経過している棺の蓋を開けるわけにはいかない。お付きの女官たちは決して許さない。ましてや、皇女の棺は穢れを恐れて、絶対に開くことはできない。このため、そのまま埋葬した。このことは永遠に知られることのない秘密だった。当時、埋葬に立ち会った人たちが口を閉ざせば。そのために法外な見舞金をすぐに支払った(9月18日の新聞にこの記事が載っているので、それ以前に支払われています)。そして、この秘密は永遠に守られました。もし、発掘調査がなければ。

これ以外、和宮の発掘時の姿勢を合理的に説明できません。

どなたか、もっと論理的に説明できる仮説を提示して頂けるのうれしいのですが。

これが、管理人の考えた埋葬姿勢に関するナゾの最終的な結論です。

この記事の執筆にあたり、新しい情報がどんどん見つかることから何度も何度も書き直したため、最終的には、最初のストーリーとは全く別の内容のものになりました。最初に投稿したものを読まれた方は、最終稿があまりにも違うので驚いているのではないでしょうか。

和宮のナゾは調べていても楽しい。これまで誰も書いていない和宮の晩年、特に、薨去から葬儀・埋葬までの情報を提供できたので、満足しています。

今回の和宮のナゾの解明はこれで終了します。長い記事をお読み戴きありがとうございます。

管理人としては、和宮に関するあまたの疑問点の大部分は解決できたので、気持ち的にすっきりしています。本記事ではしょっている部分は、関連記事で詳細に書いているので、本記事冒頭のリンクより、ぜひお読みください。

幕末の写真で手を隠して写っている女性が多い理由

幕末の写真を見ていると、両手を袖の中に隠して写っている女性たちが目立ちます。彼女たちの手先がなかったわけではありません。隠しているのです。その理由が分かりますか?

春嶽長女_節子14Ys
春嶽2女里子12Ys
春嶽3女_正子11Ys
春嶽4女_千代子11Ys

Source: 松平春嶽の娘:左から節子・里子・正子・千代子(1890年)

それは、写真に写ると「手が大きくなる」からです。当時は、そのように信じられていました。

当時の女性たちにとっては、手が小さいということが上品で憧れだったのでしょう。手が大きいのは肉体労働者の手のようだと思ったのかも知れません。

現代の感覚だと、「写真に写ると顔が大きくなる」というたぐいの迷信です。小顔があこがれの現代の女性たちにとっては、そのような迷信でも信じてしまうでしょう。写真に写ると魂を抜かれるとか、寿命が縮むとかいう迷信があったことは多くの方が知っていると思いますが、「手が大きくなる」という迷信があったことは、ほとんど知られていません。

和宮の手先がなかった根拠としてあげられるさまざまな”証拠”は、現代人の勘違いでしかないように思います。

もし、和宮の写真が今後発見され、手を袖の中に隠していたとしても、そのことをもって「やはり、左手先がなかった! この写真は本物だ!」ということにはならないとことを知っておきましょう。

根拠のない”証拠”をいくら積み重ねても、話が怪しくなっていくだけです。多くの有識者が単純な情報ねつ造トリックに引っかかっているのを見ると、このままではいけないと思います。

和宮の肖像画に左手が描かれていないと左手がなかったことになる不思議

和宮の写真は存在しませんが、肖像画は何枚かあるようです。

そのうちの一枚は、『幕末・明治・大正回顧八十年史』(東洋文化協會、1933)に収録されているもので、画家は不詳。・・・・、などとどこかで読んだのですが、画家は不詳なのではなく、あなたが調べていないだけでしょ?

この絵は、『静寛院宮作書牘圖』と呼ばれるものの一部をトリミングしたものです。画家は、明治、大正期の浮世絵師、日本画家で美人画で有名な池田輝方(1883年1月4日 – 1921年5月6日)です。政治家、ジャーナリスト、官僚として活躍した島田沼南(三郎)氏(1852年12月17日 – 1923年11月14日)が静寛院宮を追慕のあまり池田輝方画伯に依頼して描かせたもので、賛は中根香亭氏の筆に係るもの。[16]

島田沼南がなぜそれほどまでに和宮を思慕していたのか分からないのですが、明治4年2月の(京都にいた)和宮の家来(用人)についての明治政府の資料に「詰番肝煎(きもいり)」の『島田新五郎』という人物が載っています。島田沼南と同一人物かどうかは不明ですが、もし、島田沼南が和宮を護衛する役職に就いていたとすると、この肖画は、和宮の面影を色濃く映し出しているはずです。

この肖像画では、左手が見えません。これを根拠に左手がなかった、という論旨を展開している人もいます。何ともお粗末です。

下の画像をご覧下さい。信長の妹、お市の方の肖像画です。

この肖像画でも左手が見えません。お市の方も左手がなかったようです。

さらに、江戸時代末期から明治にかけての浮世絵師、楊洲周延(1836-1912)が描いた「千代田之大奥婚礼」でも、同じことが言えます。左手、あるいは右手が描かれていません。

1千代田の大奥観菊


楊洲周延、千代田の大奥、観菊

下の錦絵では、なんと両手が描かれていません。両手のない方だったようです。

2千代田の大奥園中の雪


楊洲周延、千代田の大奥、園中の雪

そして、最後に、この絵。やはり、左手が描かれていません。どうも、左手のない人がたくさんいたようです。

3千代田の大奥月見之宴


楊洲周延、千代田の大奥、月見之宴

楊洲周延が手のない人を好んで描いたというわけではありません。彼はたくさんの錦絵を残していますが、もちろん、両手が描かれた絵もたくさんあります。しかし、片手を袖の中に隠しているポーズもかなりの数あるということをご理解いただけると思います。

ついでに、明治6年に公布された明治天皇皇后両御真影でも、皇后様の両手は袖の中に隠れていて見えません。着物という衣装の性質上、手先が見えないのが普通なのでしょう。

ネットで皇族の方々の十二単姿を閲覧できますが、左手を出している人は誰もいません。女房装束では左の袖口から左手を出さないのが原則なのだそうです。[16, p.285]

未だに解明されていない和宮にまつわる残された謎

今回のシリーズで謎の解明のテーマとして採りあげなかったことがあります。それは、『家茂の棺から見つかった一房の毛髪は誰のものか?』というものです。

和宮の許に家茂の訃報がもたらされたのは7月25日のこと。家茂の生母実成院(じつじょういん、1821年2月20日 – 1904年11月30日)のすすめで髪先きの一端を切り、これに自筆の阿弥陀仏の各号をそえて大阪に送り、家茂のお棺に納めました。[16,p.281]

発掘調査では、家茂の棺の中から、家茂ではない別人の毛髪2房が見つかっています。発掘隊のメンバーは、当然、これは和宮の毛髪であろうと考えましたが、詳細に調べた結果、和宮のものではないことが判明します。調査団は、報告書に和宮ではない別人の毛髪と記載することになります。

毛髪の判定では、形態的な比較から和宮とは別人のものという判定結果となりました。副葬毛髪2房(試料番号 No.17とNo.18 )で、No.18は血液型から家茂の毛髪であろうと考えられました。残るNo.17は、発見当時、「烏の濡れ羽色」をしたとてもきれいな毛髪でした。

血液型判定が和宮の血液型と同様にA(B)という結果になりました。つまり、和宮の血液型と同様に、毛髪No.17の血液型の特定ができなかったのです。逆に、このことは和宮の毛髪である可能性を示すものでした。

しかし、形態的な比較の結果、両者には大きな差違が見られ、同一人の毛髪と考えるのはほぼ不可能との結論に至ります。

それでは、No.17は、いったい誰の毛髪なのでしょうか。

この謎の解明についても書きたかったのですが、根拠となる資料が皆目見つからないのであきらめました。副葬品として頭髪を棺に納める習慣について調べれば、「誰の?」という候補者の範囲を絞り込むことができそうです。

発見されていた和宮の黄金像?

和宮にまつわる都市伝説に辟易しているので、典型的な歴史ねつ造手法をご紹介します。検証できないねつ造記述の一部に検証可能な真実を入れるという手口です。検証によりある一部のことが真実だと確認されると、話のすべてが真実だと誤解させるという手口です。ネット上や本などにはこの手のイカサマが氾濫しています。

1959年4月。和宮墓地の発掘調査が終了し、更地にするため、掘削した墓地の埋め戻し作業が行われていた時のことです。作業員の一人があるものを掘り出しました。この話は、その作業員の孫にあたる方から聞いた話です。この作業員は、墓地の底面の雑物除去の作業中でした。発掘調査で踏み荒らされた和宮墓の清めのために宮内庁の要望で行われた作業のようです。前年12月から始まった和宮墓の発掘は湧水により排水しながらの作業だった上に、天候が悪く、現場は常にぬかるんだ状態でした。皮肉なことに、和宮墓の調査が終わったころには春になり、湧水も止まり、現場は乾いた状態になりました。ちょうど、和宮の棺が置かれていたあたりの清掃をしていた作業員があるものを掘り出しました。出てきたのは「純金でできた和宮像」。たまたま現場にいた外国人がその写真を撮影していました。この像はその後行方不明になりました。工事の遅延を懸念した工事発注者が、作業をしていた人たちが口外しないように、当時の日当一月分にあたる口止め料が支払われたと言われています。このため、発掘調査が終わってから黄金像が出土していたことは長い間誰にも知られることはありませんでした。

写真の存在の噂は以前から関係者の間で密かにささやかれていたのですが、1998年、ドイツの田舎町レムシャイトのある老人の遺品の中から偶然この写真が発見されました。当初、遺族の方は、トレジャーハンターとして海外生活が長かった老人が撮影した海賊の財宝発掘の写真と考えられていたようですが、写真の裏面には、「Goldene Statue der Prinzessin kazunomiya(皇女和宮の黄金像)」と手書きで書かれていました。2003年頃、遺族がドイツ在中の日本人に見せたことから、和宮の黄金像の存在が歴史の表舞台に出ることになりました。下の写真は匿名を条件に入手したものです。

(上の記述は管理人が創作したねつ造サンプルです。記載内容を信用しないように。写真関連以外の記述部分は真実なので、この検証はとても難しい)。

和宮暗殺説について

和宮が暗殺されたという説を唱える方がいます。その理由は、天皇のすり替えが行われ、天皇のお顔を知っている和宮を生かしておく訳にはいかなくなったから・・・・、というものらしいです。和宮が亡くなったのは明治10年なので、もし、これが理由だったとしたら、とても奇妙です。まじめに検証しようとする気も起きません。

邪魔者は、もっと早くに暗殺しておくべきだった・・・?

天皇すり替え論者が考える筋書きによれば、邪魔な和宮は暗殺されたということになるようです。

明治が始まってから10年も経っているのにいまさら暗殺というのもおかしなこと。結局、何の根拠もない与太話です。

和宮には子供がいました

和宮には子供がいました。もちろん、彼女が産んだ子供ではありません。家茂と和宮の子供は「華頂宮博経親王」です。

1860年8月27日、博経は、孝明天皇の、そして、同日、徳川家茂の『猶子』となっています。この『猶子』とは、「兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶ制度」(Wikipedia)であることから、家茂と和宮の子供は? と聞かれたら、「博経」という名が出てくるはずです。この『猶子』縁組みは幕府の思惑が絡んでいることは間違いないのですが、目的がよく分かりません。

「華頂宮博経親王」の名前が出てきて驚かれた方もいると思います。博経の妻は南部郁子。和宮が晩年に住んだ麻布のお屋敷を和宮邸として売却したのが南部麻子。郁子と麻子は姉妹です。

ここら辺を掘り下げた記事は『皇女和宮の写真の真偽を確認する』で書きましたので、よろしければご覧下さい。

和宮は亡くなった時、頭は坊主頭だったのか?

家茂が亡くなったのは慶応2年7月20日(1866年8月29日)のこと。慶応2年12月9日(1867年1月14日)、和宮は、輪王寺宮を戒師として薙髪の式を終えられ、兄の孝明天皇より静寬院宮の院号を賜りました。

この薙髪とは、頭を丸坊主にするのではなく、大垂髪を結えない程度のセミロングに髪をカットすることのようです。実際、和宮の遺骸から頭髪が見つかっており、「頭髪が豊かだったこと」が発掘調査報告書に記載されています。

薙髪の式の時に切り取られた毛髪をお棺に納めた、という分けではないようです。もし、そうであれば、報告書にそのように記載されます。

和宮の脚気治療はどのようなものだったのか?

和宮の主治医で元奥医師の遠田澄庵は当時、脚気治療の大家でした。それなのに和宮は脚気で亡くなります。なぜなのでしょうか。当時最高の医者が主治医だったのに、しかも、脚気の専門医だったのに。遠田澄庵の治療法は、白米を絶ち、小豆を主体とした食べ物に変更するというものでした。

遠田澄庵は、家茂の時代から長年、和宮の侍医を務めていました。当代きっての脚気治療の名手が、高貴な患者を救えなかった?

遠田澄庵の治療方法は、間違ってはいなかったと思います。理論ではなく経験を積み重ねて得られた治療法でした。それなのに、和宮が亡くなってしまいます。その理由は何なのでしょうか。

推測するに、和宮付きの女官たちが白米を絶つという治療方法を受け入れなかったのではないでしょうか。自分たちも白米を食べられなくなるから。そのため、遠田澄庵の治療法である食事療法は現実には行われなかった。

参 考

発掘調査の団長を務められた鈴木尚(すずき ひさし、1912年(明治45年)3月24日 – 2004年(平成16年)10月1日)先生は、当時、東京大学理学部の教授でした。昭和30年11月に助教授から教授に昇進されています。とても優れた先生だったことがネット上の記事からうかがえました。

内田康夫氏の小説『皇女の霊柩』では、和宮についてさまざまな空想を織り交ぜて書かれていますが、史実に基づくものではありません。和宮の話は別として、とても面白い小説です。この小説でちょっと気になったのが、和宮の降嫁の際の宿泊地で、宿場町「太田」が抜けていること。ケアレスミスでしょうけど。(2014,文庫本版、p.30)

たぶん、この記事を読んだ後で同書を読むと、いろいろな穴が見えてくると思います。和宮が抱いていた写真が、湿板ではなく乾板だったという主張には笑ってしまいました。歴史小説を書くのなら、何年に乾板技術が発明されたかくらい調べるべきでしょうね。そうはいっても、和宮の柩という新しい視点を提供したこの小説はとても新鮮でした。是非、ご一読を。単行本巻末の「自作解説」で内田氏が、自身の経験から和宮の怨霊について記載されているのがとても印象に残りました。

徳川将軍家の墓所を発掘調査し、その結果を論文『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられた3名の著者の方々は、いづれも長寿でした。人類学者・鈴木尚(1912-2004、92歳)、元帝室博物館(現・東京国立博物館)の歴史考古学者・矢島恭介(1898-1978、80歳)、元帝室博物館(現・東京国立博物館)の美術史学者・山辺知行(1906-2004、98歳)。発掘調査に対する和宮様の祟りはないようです。

参考文献(全記事)

1. 『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』 鈴木尚・矢島恭介・山辺知行、東京大学出版会、1997.12
2. 『幕末 戦慄の絆 和宮と有栖川熾仁、そして出口王仁三郎』 加治将一、祥伝社、2015.4
3. 『日本医学史研究余話』 服部敏良、科学書院、1981
4. 『要説 宮城の郷土誌(続)』、仙台市民図書館編、1992、pp.23-24
5. 『歴史のなかの皇女たち』、服藤早苗(編著)、小学館、2002年、」p.184
6. 『和宮』、辻ミチ子、ミネルヴァ書房、2008年
7.『皇室事典』、皇室事典編集委員会編著、角川学芸出版、2009
8. 『外国人カメラマンが撮った幕末日本』、横浜開港記念館編、明石書店、2006
9. 『レンズが撮らえた幕末明治紀行』、小沢健志監修、山川出版社、2011
10.『参勤交代と大名行列』、永井博、洋泉社、2012
11.『レンズが撮らえた幕末明治の富士山』、小沢健志監修、山川出版社、2013
12.『間宮永好、八十子と南部利剛、明子と -挿話として-』、山田洋嗣、福岡大学人文論叢第四十一巻第二号
13.『落合道人 Ochiai-Dojin
14.「こうぶんしょ館電子展示室53号「和宮と板橋宿」」
15. 『皇女の霊柩』、内田康夫
16. 「江戸開城記念展覧会陳列目録」、昭和3年4月
17. 「日本医学史研究余話」、服部敏良、科学書院、1981、p.286
18.「天璋院と徳川将軍家101の謎」、川口素生、PHP文庫、2007

本当は、まだまだ書きたいのですが、取り敢えずここで終了します。
また、新たな展開が見いだせそうになったら、続編を書きたいと思います。