岩倉使節団女子留学生の相関図を作ったら凄いことになっている!

岩倉使節団の謎

 これまで誰も書いていないことを書くのが本サイトの特徴ですが、今回は、岩倉使節団に同行した5名の女子留学生の人間関係図を作ってみました。これって、ありそうで見たことがありません。作ってみたら、驚きの相関が見えてきました。

 岩倉使節団派遣当時の日本の人口は、3千3百万人くらいいたようです。
 それなのに、教科書に載ったり、テレビ、雑誌、ネットで話題になるのは多く見積もっても数百人程度でしょう。

 その一人一人については、ネットで調べるとある程度の情報を入手できます。しかし、それぞれの人とのつながりはよく分かりません。有名人、あるいは高貴な出の人なら、それぞれが知り合いであるのもうなづけます。

 しかし、岩倉使節団に同行した5名の女子留学生の場合はどうでしょうか。

 旧幕臣たちの幼い娘たちが10年間もの長期にわたり留学の途に着いた。涙を誘うようなお話しです。このような環境の彼女たちに有意な相関はありそうもありません。

 ところが、彼女たちの人間関係相関図を作ってみると、今まで見えなかったことが見えてくる。

 目から鱗です。もちろん、史実にはなんら変更はないのですが、「既存の情報で抜け落ちている点」が見えてきます。

 情報が抜け落ちると全く別の評価をしてしまう。恐ろしいことです。

 この相関図は現在作成途中ですが、とりあえず版をアップします。この記述が消えたときが最終版になります。

女子留学生の相関図

 クリックすると拡大表示できます。

 今回は内容について解説しませんが、岩倉使節団に詳しい方でも「なにこれ!?」と思う方がいると思います。この人間関係は、まさに、なにこれ! という感じです。

 既存の資料で人間関係の相関が分かり難い原因は、たとえば、Wikipediaの編集姿勢にも一因があります。Wikipediaでは、相関図ではなく、文章で表記することを優先するように指導しています。

 相関図を作れば、簡単に理解できることでも、それを文章で表そうとするととても難しい。時系列、複層的な事柄に対して、文章で表現するのはとても難しい。

 5名の女子留学生は旧幕臣たちの子供達だった・・・ということは、どこのサイトでも書いています。しかし、5名のうち2名は、外務省職員の子供だった。5名のうち1名は、兄が10ヶ月前に留学生として既に渡米しており、しかも、広いアメリカの中で同じ土地で兄妹が住んでいた。

 このような情報を見たことがありますか?

 これが相関図から分かる一つの事例です。上の相関図をよくご覧下さい。自分の目で確かめ、考えて見て下さい。33,000,000分の数百の奇跡がここで起きています。

 出会いの不思議さということも感じます。見えない糸が確かに存在し、距離、時空間に関係なくつながっている。そんな気がします。新島襄の本当のお目当ては別のところにあったのでは? という憶測も容易に生まれます。

 永井の帰国後すぐの結婚もこの相関図からよく分かります。瓜生と永井が米国で恋に落ちていたことを無視した記述は、読者をミスリードします。

 このように、情報が抜け落ちるときに生じる弊害も改めて認識している管理人です。

 幼いのにたった一人親元を離れ・・・。よく目にする記述です。でも、そもそも、遠く離れた土地に里子に出されている子もいました。親元からはとっくに離されています。「里子」についての情報が抜け落ちているから、「親元から」という誤解を生じさせる表現になります。

 この相関図を作ったきっかけは、歴史の書籍を読んでも意味不明だからです。歴史をやっている人の特徴がよく表れているように思います。自分にとっての歴史的常識は読者も知っていて当たり前。自分が言いたいことはこうだ! それ以外の常識はいちいち説明する必要は無い!  そんな印象を受けました。

 さらに、収集した情報があちこちで食い違っている。食い違うはずのない箇所が資料によって異なる記載になっている。素人の管理人にとって、もうお手上げです。このため、とても手間がかかるのですが、相関図を作ってみました。

 今日はとりあえず版です。後でこの記事を正規版に差し替えます。

5名の女子留学生選考の謎

 5名の女子留学生の選考はどのように行われたのでしょうか。

 募集は二度行われています。一度目の募集で応募者がなかったことから、二度目の募集を行い、応募のあった5名全員が合格しました。
 どのような手順で募集が行われたのかは記録がありません。しかし、募集条件については分かっています。松邨賀太氏の書籍「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」から引用します。

「五名の派遣枠の許可を取った黒田次官は急いで応募者を求めたが、出発の二ヶ月前の明治四年九月頃は「時間がないから募集は難しい!」と危惧していたという。

 参加の条件が発表された。
1.女子の留学期間は十年
2.必要経費は全て官費として支給する
3.小遣いは年間八〇〇ドル

 いたれり尽くせりの条件といわれた。当時の為替レートは一ドルが一円といわれ、一円で一俵近い米が買えたという。
 ところが、期限が来てもひとりの申込者も来なかった。娘を異国アメリカに送る親は皆無、唐人お吉の物語でもお分かりのように外国人嫌いが当たり前の時代であった。無念の黒田は急拠第二次募集を急がせて、そしてなんとか五名の応募者を得たのである。」

「申込者はいずれも旧幕臣であり、彼らの方が新政府首脳より海外交流時代の到来を意識していた結果といえる。」
「明治文明開化の花々: 日本留学生列伝 3」松邨賀太、2004、pp.21-23

 10年間もの間、娘を見知らぬ外国に行かせるなど、どこの親も尻込みします。応募した5人はいずれも戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女でした。賊軍となった家の娘たちが汚名返上の機会と捉え応募した。

 これについて、Wikipediaでも同様のことが書かれています。

「戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。」(Wikipedia 「大山捨松」)

 これが定説となっているようです。しかし、それは本当でしょうか。管理人には、情報が意図的に隠されているように思います。

 女子留学生の募集が行われたのは、岩倉使節団の出発予定日1871年12月23日の、わずかひと月ほど前のことでだったようです。寺沢龍氏の著書『明治の女子留学生』(平凡社新書)では、女子留学生派遣の建議が承認された時期を、1871年11月22日過ぎと推察しています(陽暦に変換して表示)。このわずか1ヶ月の間に二度の募集を行い、直ぐに出発。そんなことがあり得るのでしょうか。

 管理人は、これは出来レースだったのではないかと推測しています。つまり、外向けには公募したように見せかけて、実際には決まっていた。

女子留学生派遣は奇妙なことばかり

 この女子留学生の派遣は奇妙なことばかりです。

 まず、なぜ、10年間もの長期留学なのでしょうか。これについて、誰も答えることができません。開拓使の留学予算が10年間だったからと書いている人もいますが、男子留学生にはそのような期間の縛りはありません。現に、捨末の兄、山川健次郎は、同じ年の2月か3月に、同じ開拓使の予算でアメリカに留学し、4年後の1875年、イェール大学を卒業して帰国しています。
 3年間など短期間にすれば応募者が殺到する。しかし、10年なら誰も応募しない。理由は、結婚の適齢期を過ぎてしまうため。だから、あえて10年という留学期間に設定したのではないだろか?
 
 二度の募集を行ったことはどのサイトでも書いていることですが、募集開始が出発の1ヶ月前だったということは誰も書いていません。10年の留学期間は長すぎるとはどのサイトでも書いていますが、なぜ10年に設定されているのかは誰も書いていません。

5名の女子留学生の父親とは

 次に、5名の顔ぶれです。確かに、戊辰戦争において賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女でした。それは間違いありません。でも、追加するべきことが抜けているように思います。

 できるだけ詳しく5名の留学生についてまとめてみました。ただし、どこにでも書かれているような内容は省略しています。
 上田悌子と吉益亮子の父親は、外務省の役人でした。

 上田悌子の父親上田畯は外務中録という職に就いており、彼女たちが出発した翌年1872年8月、銀座万年橋に私立、上田女学校を開校し、校長になっています。そして、娘悌子は、その年の10月に早期帰国します。悌子は、同じく早期帰国した吉益亮子とともに、横浜のアメリカン・ミッション・ホーム、後の横浜共立女学校に入り、勉強を続けました。その後、医師桂川甫純と結婚し、家庭に入ったようです。1男4女をもうけたそうです。上田女学校では、米国長老派宣教師クリストファー・カロザース(Christopher Carrothers)の妻ジュリア・カロザース(Julia Sarah Carothers)が英語の教師をしていました。学校開設には長老派の資金が使われていると考えられます。

 吉益亮子の父親吉益正雄(1827-1891)は外務大録という職に就いていました。盛岡藩士で江戸詰の医師だったようです。吉益正雄についての資料はほとんどなく、当時の外務省職員録等から確認できる程度です。応募時の書類には「東京府士族秋田県典事吉益正雄娘」と記載されており、ほとんど全てのサイトや書籍がこれを引用しています。(たぶん)通訳として外務省に雇用されていることから、父親も留学経験があるのではないかと推測している方もいます。役職の中央での職位「大録」と秋田での地方職位「典事」は同列の職位で、それほど高いとは言えません。現代でいえば主任クラスといった感じです。

 資料から確認できるのは、1869-1870年に外務省職員、1871年には東京府役人。1872年2月に秋田県権典事に任ぜられ秋田に赴任したこと。また、岩倉使節団に理事官として参加していた侍従長東久世道禧(ひがしくぜ みちとみ)の茶の湯に関係する記録に1880年1月以降頻繁に登場します。茶の湯に造詣の深い方だったようです。この記録に吉益亮子も二度ほど登場します。

 吉益正雄は、文政10年(1827)年生まれ、明治24年(1891)6月6日に亡くなっています。享年64歳でした。正雄が頻繁に訪ねていた東久世の邸宅は渋谷にありました。東久世も正雄の自宅を訪れています。このことから、正雄の晩年、自宅は都内にあったものと考えられます。たぶん、築地あたりでしょう。梅子は、亮子のお墓が都内にあると話していたそうです。それがどこにあるのか。まだ、誰も知りません。

 亮子は、1875年から1877年まで、津田梅子の父が開校した「救世学校(のち海岸女学校)」で英語を教えました。1886年6月、父の吉益正雄が、亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を東京京橋に開校します。しかし、その秋、亮子はコレラで亡くなります。32歳でした。吉益正雄は、津田仙とともに、青山学院の前身の「耕教学舎」の設立に参画しています。

 吉益亮子の写真は数がとても限られており、画質が悪くどのような顔だったのか分からないため、髙解像度版を作ってみました。ここまで解像度の良い写真はネット上には他にないと思います。

吉益亮子(by Nekoshi)

 山川捨松の父親は会津藩の家老でしたが、咲子(捨末)が誕生する前に亡くなっており、親代わりの兄の与七郎(大蔵、浩)の名前で留学生に応募しました。応募書類では「青森県士族山川与七郎妹」になっています。捨末は函館に里子に出されており、いつ時点で山川家に戻ったのかは不明です。最初は坂本龍馬の従兄弟にあたる、函館のギリシャ正教会宣教師・沢辺琢磨に預けられ、後にフランス人の家庭に引き取られたそうです。

 兄の与七郎は、1866年、幕府の使者小出大和守と共にロシアに渡航しています。版籍奉還後は斗南を離れ、新政府に出仕しています。捨末の兄妹は皆優秀で、ドラマの舞台設定にうってつけ。「八重の桜」でご存じの方もいると思います。

 そして、この使節に同行した者がもう一人。上田悌子の父親上田畯です。捨末の兄と上田の父親は知り合いだったことが分かります。このことは誰も書いていません。

 捨末は、1978年、名門バッサー大学((Vasser College)普通科に入学、常に成績優秀で1982年の卒業の際には演説を行いました。こうして、アメリカの大学を卒業した最初の日本人女性となりました

 卒業後に看護婦免状を取得し、1982年に津田梅子と共に帰国します。11年間のアメリカ滞在でした。英語、フランス語、ドイツ語を自由に話せるようになっていましたが、日本語は少々おぼつかなくなっていたそうです。
 
 永井繁子の父親永井久太郎は幕府軍医で静岡県士族。応募書類では「静岡県士族永井久太郎娘繁」となっています。繁子は永井の養女になっています。本当の父親は益田鷹之助(孝義)(1827-1904)で旧幕臣。長男が三井物産初代社長となる益田孝です。益田家は代々佐渡の土着与力をしていますが、鷹之助は佐渡奉行付目付役になります。功績が認められ、1855年江戸勤務、その後函館奉行所勤務となり、1863年第2回遣欧使節に進物取次役として渡航。数え16歳の息子孝を進と変名、甥と偽って同行。1872年戸籍寮9等出仕となっています。

 繁子は、1862年4月18日、益田孝義の四女として江戸本郷猿飴横町(現・東京都文京区本郷)に生まれました。5歳で幕府軍医永井久太郎(玄栄)の養女となり、1868年3月養父とともに沼津に移住しました。

 繁子の次兄益田克徳(かつのり)は、「明治4年(1871年)に山田顕義(あきよし)と欧米を視察し、司法省に出仕して検事となる。(Wikipedia 「益田克徳」)」とあります。これはウソですね。どうしてこんなウソをWikipediaに書くのでしょうか。出典も間違っていると言うことでしょうか。間違いの連鎖です。

 陸軍少将(兵部省)山田顕義は理事官として岩倉使節団に参加しているので、この記述が正しければ、永井繁子は実兄と共に渡米したことになります。実際には、1872年(明治5) 9月13日、司法制度調査団 として司法少丞 河野敏鎌、明法助 鶴田皓、権中判事 岸良兼養、警保助 川路利良、司法中録 井上毅、司法省七等出仕 沼間守一、同 名村泰蔵、同八等出仕 益田克徳、の8名がヨーロッパに派遣されました。帰国したのは1873年9月。「欧米を視察」したわけではないようです。

 捨末と同じバッサー大学の音楽学校に入学。10年間をアメリカで過ごしました。明治14年(1881)帰国命令が届き、勉学の途中でしたが、病気がちだったため同年秋に帰国します。捨末、梅子より1年早い帰国となりました。帰国後は文部省音楽取調掛教授になっています。

 最後に、津田梅子。父親は津田仙弥(仙)。元佐賀藩士でのちに徳川家士の養子となり、東京府士族。1867年軍艦引き取りの通訳として渡米。1871年に開拓使の嘱託になっています。

 1874年11月16日、津田仙が麻布新堀町の自宅の隣に青山女学院の源流となる「女子小学校」を開校。米国メソジスト派の婦人宣教師ドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker)が校長となります。1875年「救世学校」、1877年には、築地居留地に移転して「海岸女学校」と改称。救世学校、海岸女学校の英語教師として、早期帰国した吉益亮子がいました。

 津田梅子についてはネット上にたくさん情報があるので、省略します。

 以上です。

 ここまで調べると、5名の留学生たちに対して当初感じていたイメージは完全に払拭され、別の印象を受けます。

  • まず、吉益以外の4人の父親・兄は海外への渡航経験者です。うち、3人は通訳でした。
  • 捨末は、ワシントンに一時住んだ後、兄健次郎の住むコネティカット州ニューヘイヴンのレオナルド・ベーコン牧師の家に引き取られ、ニューヘイブンのヒルハウス高校を卒業します。
  • 津田仙と上田畯は幕府外国奉行で一緒に働いていました。
  • 上田畯と吉益正雄は外務省で一緒に机をならべていました

 当時、通訳は美味しい職業だったようです。

 「オランダ通詞・唐通詞(長崎奉行;遠国奉行筆頭の位置に在って、重要港湾長崎の外交・通商・司法・行政事務を扱う重要ポスト。地位と権限が強大で収入も良く、旗本垂涎の的)」
江戸幕府役職一覧

女子留学生派遣の謎に迫る

 この女子留学生募集がとても奇妙なのは、次の点です。

1.なぜ、5名なのか。
 女子留学生派遣は、後にも先にもこの5名で打ち切られます。

 女子教育という目的があるのなら、5名、10年間ではなく、同じ予算額で、3年、30名としても良さそうです。むしろ、そうするのが当然でしょう。さらに、早期帰国した上田と吉益の補充は行われていません。これではまるで、「この5名を留学させるのが目的だった」としか思えなくなります。

2.なぜ、派遣を急いだのか
 出発時期についても奇妙です。横浜-アメリカ間は月に1回以上のペースで定期旅客船が運行していました。募集開始が遅れたのならば、もっと時間をかけて選考してもよいように思います。女子留学生を岩倉使節団と一緒に送り出す必然性はどこにもありません。

 応募した5名の留学生候補に対し明治政府から正式許可(「開拓使令書」)がおりたのが明治4年11月4日(1871年12月15日)、横浜出航の8日前のことでした。何をそんなに急いでいたのでしょうか。

 これらのことから、「(特定の)5名を送り出すことが目的だった」という憶測もあながち的外れではないような気がしてきます。さらに言えば、早期帰国した2名には、当初から1年で帰国できるという条件が提示されていたのではないか。

 残るは10年間滞在した3名。

 ワシントンに到着した女子留学生たちは、一旦、日本弁務館書記チャールズ・ランマン夫妻の家に預けられますが、梅子だけがそこに残り、捨末と繁子はコネティカット州ニューヘイヴンに移動します。広いアメリカの中で、なぜ、コネティカット州なのでしょうか。なぜ、ニューヘイヴンなのでしょうか。そして、そこには、偶然にも、捨末の兄、山川健次郎がいました。捨末より、10ヶ月早く渡米してイェール大学に留学していたのです。健次郎も開拓使の予算で留学しています。

 これって、どう考えても偶然とは思えません。客観的に見れば、「女子留学制度は、捨末をニューヘイヴンに行かせるために考え出されたもので、残りの4人は当て馬。」 そのように見えます。そう考えると、女子留学生のさまざまな謎がすべて解けます。

 長期留学を10年間としたのは、他の子女の応募を抑えるため。募集開始から出発までの日数を異常と思えるくらい短く設定したのも同じ理由と考えられます。

 早期帰国した2名の補充がないのも、その後の派遣がないのも、捨末の派遣で目的が達成されたから。急いで派遣しなければならなかった理由も、捨末の兄、山川健次郎と関係があるのかも知れません。

 健次郎は、1871年3月24日に横浜を出航したアメリカ号か、あるいは、2月に出航した他の船で渡米したものと考えられます。アメリカ行きの船はいつでも乗れるので、女子留学生は12月23日に使節団と一緒に慌ただしく出発する必要はないのです。

 女子留学生5名の出自を見ても、捨末だけが異質です。他の4人は幕臣でも下級でしたが、捨末は会津藩家老の娘です。

 では、山川健次郎とはどんな人だったのでしょうか。実は、会津藩の『隠し球』でした。

 会津戦争で敗れた会津藩は、会津の将来を藩内でも最も優秀な二人の若者に託し、彼らを逃がします。それ以外の男子は、自決や処刑を覚悟していたのでしょう。この二人が「山川健次郎」と「小川亮」でした。

 会津戦争で副軍事奉行として篭城戦を指揮した秋月胤永(悌次郎)が、知人の長州藩士で長州千城隊参謀の奥平謙輔に二人を預けました。秋月は謹慎中の猪苗代に置かれた「謹慎所」から脱走し、新潟まで跡を追って奥平に面会しています。その後、猪苗代に戻った秋月により、二人の若者も「脱走」することになります。見つかれば死罪です。秋月をはじめとして、皆、この脱走に命をかけていました。それだけ重要なことだと考えていたのです。


 秋月胤永の墓(青山墓地で撮影)

 
 後年のことですが、奥平は1876年(明治9)の萩の乱に荷担し、斬首されています。「小川亮」は陸軍工兵大佐になり、49歳で亡くなっています。

 岩倉使節団の中に「小松済治」という人物が外務省から二等書記官として参加しています。名簿上の出身は和歌山藩になっていますが、実際は会津藩出身。幕末に、会津藩からドイツに藩費留学していました。全権委任状を取りにワシントンから日本に戻った大久保と伊藤のことは有名ですが、その時、小松済治も同行しています。そして、大久保らよりほんの少し早くアメリカに戻っています。なぜでしょう。小松は、1870年(明治3年)3月にドイツから帰国。帰ってみれば会津藩がなくなっています。あまりの変化に、浦島太郎になったような気がしたのではないでしょうか。そして、頭の中は幕末のまま。

 岩倉使節団に参加することになりますが、一緒に渡米した女子留学生の一人、捨末は家老の娘。健一郎の妹。会津再興を願う旧会津藩関係者たちから、小松に対し、さまざまな依頼があったように思います。藩のお金で留学した小松は、未だその恩を返していません。頭の中は、ガチガチの会津藩士。

 以上、女子留学生の謎はこのようにも解釈可能である、という一つの考え方を提示しました。

 尻切れトンボのような文章になっていますが、順次、追記します。

 数少ない登場人物たちが皆つながっているような気がします。 これではまるで、村社会の出来事のようです。なぜ、初めての女子留学生派遣というイベントの関係者が皆つながるのでしょうか。当時の日本の人口は、3千3百万人。それなのに、ほんのわずかな人たちだけが留学生5人を中心に回っている。さらに言えば、この登場人物に学校を作りたがる人が多すぎます。新島襄しかり。

 上田、益田と津田の3名の父親が宣教師の支援を受けて学校運営に携わっているというのが気になります。5人の登場人物の中で3名が学校運営ですから、偶然とは考えられない。普通なら、もしやったとしても学校運営の支援どまりだと思うのですが設立者になっています。様々な会派のキリスト教会が大きく関わっているような気がします。全てにおいて・・・。

 そしてもう一つ気になるのが茶の湯。永井繁子の兄、益田孝と益田克徳は茶の湯でかなり知られた存在だったようです。上で書いた吉益正雄の茶の湯の記述と重なります。正雄が茶の湯(点茶)を教えていた東久世通禧は、岩倉使節団の理事官として参加しています。明治4年(1871年)10月15日に侍従長になっています。そして、その前は『開拓使の長官』でした。つまり、岩倉使節団派遣や女子留学生の派遣の決定時期の開拓使長官をしていたことになります。ただし、1870年5月に黒田清隆が開拓次官になってからは,黒田が開拓使の実質的な中心となりました。

 吉益亮子と上田悌子については、生年月日が不明です。留学生募集にあたり年齢制限があったにもかかわらず、この二人について公式記録に生年月日が載っていないというのは奇妙なこと。何らかの理由で年齢のごまかしがあったのだと思います。年齢を曖昧にして届けることで、もしバレたら「勘違いでした」という言い逃れをしようとしたように思います。

 吉益亮子と上田悌子が早期帰国した理由は、亮子の眼病(雪のため長期間足止めされたソルトレークシティで雪目になった)と悌子のホームシックという説が唱えられていますが、管理人は、もともと、この二人は1年程度の契約で派遣されたように思います。

 その理由は簡単。16歳で派遣されると、10年後の帰国時には26歳になっています。当時の結婚適齢期は過ぎており、後妻か妾の道しか残されていない。そもそも。、派遣されたときの年齢が当時の結婚適齢期です。

 医療の進んだアメリカで治らなかった亮子の眼病は、帰国後直ぐに治ったようです。悌子のホームシック説は、どうも現代の尺度で判断しているように感じます。明治政府から借財を負っているという感覚は、他の幼い3名には重くのしかかっていたようです。年長の亮子と悌子がそれを感じないはずはありません。悌子がホームシックで帰国などする筈はないのです。もし、そうなれば自害! そんな風潮だったのではないでしょうか。この年長者二人の帰国は最初から計画されていたように思えるのです。

【参考】
1. 『明治前期の「貴紳の茶の湯」』廣多吉崇、国際日本文化研究センター 

2. 『少女たちの明治維新 日本で最初の女子留学生たち』、岩崎京子、PHP研究所、1983

HP「呆嶷館」山川健次郎
3. 『津田梅子 ひとりの名教師の軌跡』、亀田帛子、双文社出帆、2005