徳川家茂の写真を復元する

皇女和宮の謎

第14代将軍、徳川家茂。

家茂の正室和宮の記事はたくさん書いているのですが、家茂のことは頭の隅っこにしかなかったので放置していました。

ところで、家茂ってどんなお顔だったのか気になります。

家茂の肖像画

家茂に関心のある方は、下の絵をみたことがあると思います。明治期の洋画家、川村清雄(1852年6月13日 – 1934年5月16日)が1884年(明治17年)に描いた油絵です。

家茂が満20歳で亡くなったのは、1866年8月29日のこと。この時、川村は14歳で、家茂のお顔を見たことはなかったと思います。

なぜ、川村は一度も会ったことのない家茂の肖像画を描くことができたのか!

家茂の写真

本人に会ったこともない誰かが適当に描いた肖像画ではなく、写真はないの?

残念ながら、家茂を撮影したと考えられる唯一の写真原版が和宮墓から発掘されましたが、取扱の不注意から失われてしまいました。

では、家茂の写真は見ることができないのか。

他の将軍の顔の復元は無理ですが、家茂の写真は復元可能です。

「えっ、そんなことできるの?」

下の写真が徳川家茂です。

徳川家茂

上の家茂の写真は本当に家茂に似ているのか

家茂の写真は見つかっていないのに、どうやって作った?

実は簡単。

慶喜の後、徳川宗家を継いだのが徳川家達(いえさと)です。

家達のお顔は家茂と生き写しだったそうです。「Wikipedia:徳川家達」を読むと、「来孫にあたる徳川家広は家達と徳川家茂が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている」(名家・名門の秘密 : 「リアル・リッチの世界」決定版」第5巻、講談社、2009年9月。徳川家広のインタビュー)という記述があります。

真偽のほどは分かりませんが、肖像画よりも上の写真の方が、家茂をイメージできると思います。

実は、家茂の油絵を描いた川村は、家達、そして勝海舟と深いつながりがあります。

「(川村は)明治元年(1868年)徳川家達の奥詰として使え(いわゆる将軍御学友)、翌年家達に従い静岡へ移住する。」(Wikipedia)

川村は、家茂の肖像画をなぜ描いたのか。

「(川村は)明治16年(1883年)勝海舟から徳川家代々の肖像画制作を依頼され、勝の援助により画室「心華書房」を建設する。勝から清雄の顔が児童のようだからという理由で「時童」の号を与えられ、一時は勝の家に寄宿する。」(Wikipedia)

川村は徳川家代々の肖像画制作を依頼された翌年、家茂の肖像画を描いたことになります。その絵が家茂に似ているかどうかは、勝海舟に確認できました。勝は家茂のことをよく知っています。

このような状況から、川村の描いた肖像画は、家茂にかなり似ていると考えられます。

そして、管理人が作った家茂の写真。川村の描いた家茂の絵にかなり似ていると思います。

ところで、勝海舟は赤坂で三度引っ越しをしています。河村がアトリエを構えたのは勝の何番目の家だったのでしょうか。答えは、三軒目の赤坂福吉町の家です。

ここら辺に関心のある方は、過去記事「勝海舟が住んだ屋敷跡とお墓に行ってきました」をご覧下さい。

勝海舟のことを調べていて、ふと気になったので、この記事を書いてみました。

写真の人物はもちろん家達。身体の部分は慶喜です。

やはり気になる和宮の棺に入っていた写真湿板

和宮のお墓を発掘したとき、一枚の写真湿板が見つかりますが、それと気づかずに放置しておいたため、画像は消え、ただのガラス板になります。

家茂と和宮は同い年。勝海舟は、二人のことをよく知っていました。

和宮の葬儀にあたり、明治政府は神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われました。これを宮内省に働きかけたのが山岡鉄舟と勝海舟だったとされています。

勝は以前から和宮と知り合いで、明治になってからも天璋院篤姫と静寬院宮(和宮)の二人を自宅に招いたりしています。この時、篤姫はどこに住んでいたのか。実は、勝海舟邸のほとんどお隣でした。ここら辺に関心のある方も、過去記事をお読み下さい。ちなみに、和宮の屋敷については、過去記事でご覧下さい。

幕末三舟の一人、山岡鉄舟は、和宮が亡くなるときの明治政府の静寬院宮担当の責任者でした。和宮の死の前日に、和宮危篤の報に接し、塔ノ沢にお見舞いに行っており、和宮の最期を看取った一人です。そして、和宮の薨去を電報で宮内省に知らせた人物です。さらに、和宮の葬儀にあたり葬儀委員長を鉄舟が務めました。

この二人なら、和宮の棺の中に納められた湿板に誰が写っていたのか知っていたはずです。

それは、家茂の写真であったと考えられますが、今となっては誰にも分かりません。

和宮薨去から11年後、山岡鉄舟が(胃がんで)座禅の姿勢のまま亡くなるとき、勝海舟は鉄舟の傍らにいました。

資金提供者である勝海舟が、川村の描いた家茂の絵を認めた理由は、家茂の特長をよく捉えた油絵であったと思います。そして、川村にとって、家茂の肖像とは、子供の頃から知っている徳川家達の肖像だったのではないでしょうか。

川村が描いた他の肖像画の中でも家茂の肖像画が飛び抜けてリアルなこともこのことから理解できます。

家茂の動画を作ってみる

写真だけだとどうしてもイメージが固定化します。その点、動画だと家茂ってこんな人なんだ、というイメージが沸いてきます。ということで、動画バージョンを作ってみました。