吉益亮子とコレラ

岩倉使節団の謎

 岩倉使節団とともに米国に渡った5人の女子留学生たちがいました。その中で最年長は吉益亮子。彼女に関心があり、いろいろ調べているのですが、資料が見つからず調査は遅々として進まずです。

吉益亮子

 国会図書館で当時の新聞を調べたのですが、吉益亮子の名前を見つけることはできませんでした。物故者欄などに載るかと思ったのですが、見つからない。

吉益亮子

 吉益亮子についての資料は本当に少ないので、管理人が調べて分かったことを書きたいと思います。
 1886年6月、父の吉益正雄が、亮子を校長とした私塾「女子英学教授所」を東京京橋に開校します。そして、この年の秋、亮子はコレラで死亡します。
 
 吉益亮子が亡くなった1886年(明治19年)は、コレラが大流行した年でした。

 国会図書館で当時の新聞を調べた結果、東京にコレラが入ってきたのは、6月15日あたりで、最初に麻布、次いで京橋で患者が発生します。東京府で最初の死亡者がでたのは6月18日のこと。当時の京橋は衛生条件が悪い地域だったらしく、京橋区で多くの患者、死者を出すことになります。その死者の中の一人が吉益亮子です。

 当時の新聞で、「女子英学教授所」開校にあたっての生徒募集の公告を探しましたが、ありません。
 コレラ患者の記事の中で吉益亮子の名前を探したのですが見つかりませんでした。

 6月から7月初め頃は、どこどこの誰々がコレラに感染したという記事があるのですが、コレラ患者が増え続け、一日に数十人から数百人の死者が出る状況になるに至り、新聞記事から個人名は消えています。東京府内、近郊の地区別に、新規患者数、死者数が無機質に並ぶようになります。

 この年の夏はとても暑かったようで、7月17日の「郵便報知新聞」には、7月14日に過去最高の気温を記録したという記事が載りました。


 注:明治19年は7月14日時点。新聞記事なので、数値が正しいという保証はありません。

 コレラが蔓延する条件が整っていたようです。

 国会図書館で、明治19年、一年間の記事を複数の新聞で閲覧したのですが、吉益亮子に関する記事を一件も見つけることはできませんでした。

 なんとなく悲しい。