岩倉使節団の詳細な旅行日程をまとめる

岩倉使節団の謎

 岩倉使節団は、明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで派遣されました。12ヵ国を周り、大統領や国王に謁見し、国書を渡しています。

 岩倉使節団の足取りは、あちこちの資料で見ることができます。
 ところが、それらはすべて中途半端な作り方になっています。

 何が中途半端なのか。

 例えば、以下のような質問に直ぐに答えることのできる人は、たぶんいないのではないでしょうか。

  • アメリカからイギリスに渡るのにどのくらいの日数がかかったのか。
  • 大久保は、結局、一時帰国を除くと、外国に何日間いたのか。伊藤は? 木戸は?
  • なぜ、アメリカに長く滞在したのか ⇒物理的原因で説明せよ
  • 日本に戻った大久保と伊藤の動きを使節団の現地での動きと関連づけてもっと知りたい。
  • ビクトリア女王に謁見したのは、横浜を発って何日目のことか。
  • 新島襄って、岩倉使節団に現地参加したはずなのに、影が薄いのはなぜ? 別働隊について説明せよ
  • スペイン、ポルトガルの訪問は、最初から予定になかったのか、それとも予定が変更になったのか。それはいつ?
  • 旅行日数 632日間の詳細な日程を教えて!
  • 使節団の派遣日程が大幅に伸びた原因について、どこの部分がどれだけ伸びたのか教えて

 管理人が今回の「岩倉使節団の謎」について書き始めた頃、資料はたくさんあるのに、どれもこれも中途半端なものばかり、という印象を受けました。まるで30年前のネットがなかった時代のような錯誤感を覚えます。

 このため、先ずは「謎の究明」の前に「疑問の解消」をする必要に迫られました。

 疑問の解消のために、いろいろな作業をしているのですが、今回は、岩倉使節団の日程表についてです。使節団の旅程、出来事を時系列で整理することで、新たな発見があるように思います。

 今日は、この詳細な旅程を公開します。

 旅程の疑問について一例を挙げれば、・・・。

 大久保と木戸は途中で帰国することになります。二人が帰国の途についてから、横浜に到着するまでの間、その日数には大きな開きがあります。これって、年表がないと簡単には計算しにくいのです。

 大久保は、1873年3月28日、ポツダムを発って帰国の途につきます。横浜に着いたのは5月26日のこと。この間60日です。

 一方、木戸は、1873年4月16日、デンマークから帰国の途につきます。そして、横浜着が7月23日。なんと98日もかかっています。なぜなのでしょうか、と新たな疑問が湧きます。

 今日は、この旅程表を公開します。EXCELでまとめました。岩倉使節団について関心のある方は、ぜひご覧ください。さまざまな疑問が解消すると思います。そして、新たな疑問が生ずる。

 Excelシートは下のようになっています。

 横浜を出航した日からの日数で行程計算しています。全行程632日間です。和暦と西暦を併記しています。すべてチェックしたので日付け換算の間違いはないと思います。

 教育制度担当別働隊として田中不二麿と新島襄の動きもできるだけ書き込みました。

 年表形式で、始まりは、フルベッキの『ブリーフ・スケッチ』からにしました。出発までの慌ただしさが見て取れると思います。そして、さまざまな陰謀説が、「あり得ない」ということも分かります。管理人は、「陰謀説」は大好きなのですが、いいかげんな陰謀説論者に欺されるのは嫌いです。

 このタイプの表は、詳しければ良いというものでもないので、この程度で一応の完成とします。数値計算、統計解析に必要な要素は盛り込んだつもりです。

 Excelシートは、こちらからダウンロードできます。再配布は禁止ですが、ご自由に加工して使って下さい。

 なお、随時、改訂していきますので、時折、バージョンを確認してみて下さい。

 現在作成中のものは、「メンバー表」。そんなの公開されているじゃないかと思う方もいると思います。そのリストに新島襄の名前はありますか。現地参加したのは誰ですか。Wikipediaに載っている使節団メンバーの中に、公開されているメンバー107人以外の人たちが複数いるのはなぜですか。

 岩倉使節団のメンバーについてはとても奥が深く、なかなかリストが完成しません。名前を複数使い分けている人がいることも理由の一つですが、それらをチェックしても分からない人たちがいます。

 岩倉使節団の正式団員数は結局何人だったのか。この答えは、誰も知りません。いつまで経っても「出発時の団員数」としか書けない研究者たちは、現地参加の人たちについて数人を挙げるだけでお茶を濁しています。107人という出発時の人数には目の色変えて研究するのに。不思議な人たちです。(使節団46名、大使・副使の随従者18名、留学生43名、計107名)

 情報が抜け落ちると、情報を受け取った人は勘違いをします。

 ビクトリア女王との謁見が大幅に遅れています。それを女王が休暇中だったとしか書かなければ、そこから得られる印象はどんなものでしょうか。

 当時、ビクトリア女王は、夫の死後、長期にわたり外国使節との謁見はすべて避けていました。休暇中というのは本当なのですが、このような情報が抜け落ちてしまうと、まったく別の印象を与えてしまいます。女王が休暇中だったから休暇明けまで使節団は待っていた、というお馬鹿なことになってしまいますが、事実は違うようです。これが歴史の怖いところです。

 ひとつひとつの真実を積み重ねても、ある情報が抜け落ちることで、全く別の解釈になってしまう。怖いです。それを意図的にやる人がいるから、さらに怖いです。

 岩倉使節団の謎について調べていくうちに、おかしなことに気づきました。情報が抜けているのです。本来あるべき情報が抜けている。普通のことなのに情報がどこにもない。とても奇妙でした。それで今回の年表を作ってみたわけです。もともと統計分析ができるように作っているのですが、その結果は後日。