明治のお雇い外国人にとって、日本でもらった給料は良かったの?

岩倉使節団の謎

明治になって、政府はたくさんの外国人技術者をいわゆる「お雇い外国人」として雇用します。

お雇外国人とは、幕末から明治にかけて、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人のことで、江戸幕府や諸藩、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘されました。欧米人を指すことが多いようです。実際、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、オランダの5カ国でお雇い外国人の95.6%(給与ベース)を占めていました。

『御雇い外国人』って蔑称なの?

「お雇い外国人」という言葉には違和感があったのですが、当時から使われていた言葉で、古い資料を読むと「御雇外国人」と書かれています(たとえば、『御雇外国人一覧』 中外堂、1872)。漢字で書くと字面(じずら)から受ける印象がかなり変わります。幕府による遣米使節や遣欧使節のメンバー表には、「御雇医師」という記載がみられ、他藩の人材を雇用した場合などに使われたようです。

誰から見て高額な給料だというのか?

彼ら外国人の給料はどのくらいだったのか、興味があります。これは、ネットで探せばすぐに見つかります。政府高官と同程度あるいはそれ以上の給料をもらっていました。

管理人の関心は、彼らにとって、日本での報酬は高額だったのかということ。

たとえば、あなたが今から40年前の中国でお雇い外国人として働いていると仮定します。そのとき、鄧小平と同程度の給料を中国政府から受け取ったとしても、あなたにとって、その仕事は高収入とは言えません。

その国で得た収入は、自国に戻って、自国の通貨に換算してなんぼのものです。

明治期のお雇い外国人の給料が彼らにとって高収入だったのかは、当時の為替レートとその外国人の母国における給与水準の両方を知る必要があります。

「お雇い外国人の給料」についてはたくさんの人が書いているにもかかわらず、その外国人にとって日本での仕事が高額なものだったのかについては誰も書いていません。つまり、「日本人の視点から、彼らに高額な給料を支払った」という一方的な見方をしていることになります。

そこで、早速調べてみました。

調査対象の時期は明治維新。岩倉使節団が出発した明治4年(1871年)頃で調べることにします。

お雇い外国人の数を国籍別に見ると、幕末にはフランス人が7、8割を占めていましたが、維新後には2割程度にまで急速に低下しています。これに代わり増えたのがイギリス人で、そのシェアは5割を占めます。

米国人は、1870年には1割に満たなかったのですが、その人数は徐々に増加し、15年後には3割程度を占めるようになります。

お雇い外国人と明治政府高官の給料

お雇い外国人の給料をまとめてみました。

氏 名 国 籍 役 職 月給(円) 記   事
グイド・フルベッキ アメリカ(オランダ) 大学南校教頭 600 岩倉使節団派遣計画立案。1859年来日
ウィリアム・スミス・クラーク アメリカ 札幌農学校教頭 300 元マサチューセッツ農科大学学長。1876年来日
エドワード・S・モース アメリカ 東京大学教師 350 大森貝塚発見。1877年来日
ヘルマン・ロエスレル ドイツ 外務省顧問 600 外務省の公法顧問、内閣顧問。1878年来日
アーネスト・フェノロサ アメリカ 東京大学教師 300 東京美術学校の設立に尽力。1878年来日

注)フルベッキは無国籍でした。米国の国籍を得られず、また、出生国オランダの国籍も喪失しています。

明治政府の高官の月給は以下の表のようになります。天皇の補佐官、太政大臣よりも高額な給料を得ていたお雇い外国人が何人かいました。

氏  名 役  職 月俸(円)
三条実美 太政大臣 800
岩倉具視 右大臣 600
板垣退助 参議 500
伊藤博文 工部省・大輔 400

明治維新期の為替レートを調べる

岩倉使節団が派遣された年、明治4年5月10日(1871年6月27日)に新貨条例が制定され、日本の貨幣単位として「圓(円)」が正式採用されました。その時の金1グラムは66.67銭、銀1グラムは4.12銭、1ドルが1.003円でした。これは、偶然にそうなったわけではなく、金貨に含まれる金銀の含有量を調整して1ドル=1円にしたということでしょう。

明治8年(1875年)の為替レートは、1ドル1.01円です。1873年以降、諸外国では大不況に見舞われていますが、この時期、円ドルに関しては大きな為替の変動はありません。

明治維新期の米国の賃金水準を調べる

お雇い外国人たちの出身国はさまざまで、また、時期によっても大きく異なっています。

ここでは、米国における1870年の賃金に着目することとします。

ネット上に公開されている資料として、1870年の米国ニューイングランドにおける賃金を見てみましょう。

下の表から、農場労働者の平均賃金は月額19.87ドルです。非農場労働者の賃金は、日給で1.56ドルであることが分かります。ひと月25日間働けば、39ドルの賃金です。

また、手間賃の高いレンガ工(石工)の日給は3.5ドルです。月給に換算するには22日をかけます。すると77ドルになります。これらの金額がだいたいの目安になるのではないかと思います。月給60ドルあたりが相場という感じです。


Source: See reference “a”

為替レートが、ドル:円=1:1なので、300円(300ドル)とか600円(600ドル)とかの月給を得られる日本での職は、お雇い外国人にとって相当おいしいと言えます。

ちなみに、米国人お雇い教師の平均賃金は他の外国人よりも安く200ドル程度でした。それでも自国で教師をしているよりも数倍の収入が得られたことになります。この数倍というところがミソです。2倍の給料をもらえるというだけでもかなり魅力的です。

破格の条件を提示しなければ、極東の治安の悪に日本になど誰も来たがらなかったということでしょう。

彼らお雇い外国人に対する高額な給与の支払いは明治政府の財政を圧迫することになります。

岩倉使節団がなぜ多数の留学生を同行して大人数で構成されることになったのかは、この辺の事情も影響しているようです。ちなみに、万延元年遣米使節(1860年)では総勢77名、第1回遣欧使節は総勢38名でした。

自前の技術者を養成するには、技術の発達した先進国に若者を送り出して学ばさせるのが一番の近道との判断だったのでしょう。
実際、岩倉使節団に参加したメンバーの多くは、Wikipediaに名前が載るほどの有力者になっています。

でも、管理人の関心は、そうではない人たちです。歴史に埋もれた人たち。他の多くの人たちが、帰国後、良い職に就き、とんとん拍子に出世しているのに、名前すら出てこない人たちもいます。

彼らはどうなったのでしょうか。もちろん、早世した人も多いと思います。では、それは誰?

岩倉使節団については、かなり多くの人たちが記事を書いています。同じような記事ばかり。本に書いてあることをまとめるのも業績なのでしょうが、新たな視点のないまとめは、読んでいても退屈です。

今回の「岩倉使節団の謎」シリーズでは、これまで誰も書いていない全く別の視点から書いていこうと思います。いつの世も、お金は重要です。そこで、当時の相場感覚をつかむために調べたのが今回の記事です。

出典:
a “Wage Trends, 1800-1900, Trends in the American Economy in the Nineteenth Century” Princeton University Press, 1960
b 『御雇外国人一覧』 中外堂、1872
c 「明治~平成 値段史」
d 「新貨条例」(Wikipedia)