勝海舟が住んだ屋敷跡とお墓に行ってきました

勝海舟の謎

幕末・明治維新に活躍した勝海舟。

勝が住んだのは東京赤坂。どんなところだったのか興味が湧いたので行ってきました。今日は、勝海舟邸のあった場所の現在の状況と勝海舟のお墓について書きたいと思います。

同じようなテーマの記事をよく見かけますが、本サイトの記事は、たぶん他とは違うと思います。

赤坂の勝海舟邸跡地3カ所の現状

勝海舟は、文政6年(1823年)1月30日、本所亀沢町(墨田区亀沢)で生れます。

弘化2年9月(1845)、23歳の時、旗本岡野孫一郎の養女民子(元町の炭屋・砥目茂兵衛の娘25歳、赤川の芸者)と結婚します。ちなみに、本サイトで度々ご登場頂いている和宮様は、その翌年、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)に御降誕なされました。

結婚の翌年、勝が24歳の時、赤坂に引越し、それ以降、(静岡に住んだときを除いて)生涯、赤坂に住むことになります。

最初に住んだのは赤坂田町(赤坂3-13-2)のあばら家。現在はカラオケ店があるあたりです。ここで蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』の筆写をしています。

二件目の住居は、氷川神社の裏手(赤坂6-10-39)。安政6年(1859年)7月に引越しました。勝はこの時37歳になっていました。前の住居には13年間住んだことになります。その間、あばら家生活を強いられ、貧困生活にあえいでいました。

その後の勝が見せる、”家柄が良いだけで出世しているもの” に対する反感は、この鬱屈した青年期の経験が影響しているのかも知れません。

三軒目の住居は、二軒目の家から東に270mほど離れた赤坂福吉町にあった元旗本柴田七九郎の屋敷を買取ったもの。

ここで、自作の勝海舟年表より引越に関する部分をピックアップします。ついでに、篤姫との部分も追加しましょう。

劣等感の対義語は優越感なのか?

劣等感の対語は優越感のようです。しかし、この概念はかなり注意して用いる必要があります。

あることに劣等感を抱いている人。それは、「事ではなく人」が対象になっていることに着目すべきでしょう。

自分はお金がなく貧乏だ。その状況に劣等感を抱くのは、お金持が近くにいる場合です。全員が貧乏人ばかりなら劣等感など感じることはない。劣等感とは、他人と比較対照することで生じる人間の感情のようです。

ところで、お金持は貧乏人を見て優越感に浸っているのでしょうか。貧乏人にはそう見えます。しかし、お金持の人は、”それが当り前”なので、優越感など感じてはいない。

同じ事は「学歴」、「職業」、「容姿」などについても言えます。皆が羨むような様々特質を持っている人が優越感に浸っていると勘違いするのが、劣等感を感じる人の心。

このような特筆すべき利点を持つ人は、そもそも上のことしか見ていないので、下のことには関心がない。

つまり、「お金」に着目すれば、お金持は自分よりもお金をたくさん持っている人には関心があっても、自分より少ないお金しか持っていない人には、(お金に関しては)関心がない。

自分の小学校の時に感じたことを思い出せば、合点がいくのではないでしょうか。

「劣等感」の対義語が「優越感」だとしても、現実の人間社会では、劣等感を感じている相手は優越感を感じてはいない、ということに着目すべきでしょう。

なぜ、このようなことを書くのかというと、勝海舟という人物を調べていると、彼は「劣等感の塊」だったのではないか、と思えるからです。

常に勝海舟の上役として登場する木村摂津守。勝より7歳も年下なのに、いつも職務上の上役として君臨します。まさに、”いつも”という感じです。

木村摂津守は、人物としては温和な方で、勝に対しても常に好意的なのですが、勝は一方的に彼を嫌っていました。木村のシンパの福沢諭吉も大嫌い。

嫌われる方にしてみれば、なぜ勝がそのような態度を取るのか見当も付かない。それもそのはず。劣等感という感情は、その人の個人的な感情なので、他の人には全く理解できません。別に優越感に浸っているわけではないので、勝の機嫌を回復する手立てもありません。

管理人には、幕末の歴史は、「男悋気(おとこりんき)」というワードがとても重要な気がします。

相手をうらやましく思う、あるいは、ねたましく思う。幕末・明治維新の頃の武士の行動は、この「男悋気」に支配されていたように、管理人は考えています。

幕末・維新の頃に、様々なテロ行為が起きました。それらの事件を引き起した人物たちを、崇高な思想の持主のように讃える歴史書も散見されますが、どうも違うのではないかと感じます。

この「男悋気」という概念を基本軸に据えると、幕末、そして明治における武士たちの行動が分るような気がします。

勝海舟は、常に両陣営から敵対視されていました。幕末には尊王攘夷派のスパイと疑われ、明治維新後には、徳川幕府を消滅させた張本人として旧幕臣から批判され続けます。

徳川幕府に仕えた旗本・御家人たちの多くは、静岡藩への移住を希望します。しかし、その数は静岡藩が雇用可能な人数を遙かに上回っていました。

なぜ、農民出身の新撰組など使わずに、由緒正しい旗本・御家人たちが、幕末に活躍しないのか。なんのための旗本・御家人なのかという疑問が沸きます。

ところが、徳川が滅亡すると、皆、こぞって静岡藩に行こうとします。しかし、静岡藩には彼ら全員を雇えるだけの財力がありません。幕末に全員、戦死したり切腹してくれれば後の始末が楽なのですが。他人には文句を言えても、自分の身・家族が一番大切。これが幕末の武士のようです。

勝海舟は、この難問に立ち向いました。経営不振から職員の大量リストラを実行した会社の総務部長のようなことを勝がやっていたのです。そんな職に就きたいと思う人はいますか?

若い頃にはその意味が分らなくとも、それなりの地位に就く年齢になれば、勝の偉大さをひしひしと感じるようになります。

勝の自宅には、常に多くの来訪者がありました。その中には、勝を殺そうとする者も何人かいました。勝は、常に両陣営の人脈を維持しています。逆に見れば、勝海舟という人物は、両陣営にとって魅力的だったと言えるでしょう。

常に多くの見知らぬ訪問者が訪れる勝の屋敷。誰かの紹介できたと称しても油断できません。

そこで、勝が編出した手法は、相手を恫喝・罵倒するということ。この程度の質問にも答えられないのか、という大学教授が用いる同じような方法です。

勝を殺そうと考えて勝邸を訪れた刺客たちも、勝の大きさに圧倒され、自分の未熟さを思い知らされ、海舟シンパになってしまいます。それは坂本龍馬だけではありません。

そのようなやりとりがあった場所こそ、今回訪れた旧勝邸です。

江戸切絵図で確認する

勝海舟の邸宅があった場所を江戸時代の切絵図で見ると、下の画像のようになっています。


1861年作成の切絵図には、勝邸は ② の位置に記載されています。

お堀があった場所は埋立てられているので、現地に行っても何の面影もありません。しかし、切絵図を頼りに現在の赤坂の街を歩き回るのも楽しいものです。

地図を見ても地形を知るのは難しい。やはり歩くことで、なぜ、その場所がこのような区画になっているのかが分ります。

勝が最初に住んだ家があった場所

勝が最初に住んだ赤坂田町の家は、現在の住所では『赤坂3-13-2』付近です。

地下鉄千代田線赤坂駅の北側。 「魚河岸 どまん中」という居酒屋さんのある場所あたりです。勝が住んでいた当時は、溜池沿いの長屋だったのですが、今はお堀はなく、坂が多い赤坂にしては珍しく平坦な地形です。お堀の脇だったので、地形が平坦なのは当り前ですが、実際に行ってみて感じたことでした。

勝の二軒目の家があった場所

2番目の勝邸跡地です。安政6年7月(1859)から明治元年(1868)まで住んだ場所です(案内板の記述)。住所:赤坂6-10-39

勝がここ、氷川神社裏に住んだ10年間は、まさに幕末。

文久2年(1862)12月9日に坂本龍馬が訪ねてきた勝邸がここです。江戸城無血開城についての西郷との交渉も、勝はこの屋敷から出かけました。

案内板には明治元年(1868)まで勝海舟が住んだ場所と書かれているのですが、勝が静岡に引越すために東京を離れたのは1869年5月25日なので、それまではここに住んでいたと思います。

この場所は以前、アイリッシュバーがあったようですが、現在はやっていないようです。お店の看板もないし。

勝の三軒目の赤坂福吉町の家があった場所

最後に、三軒目の勝邸です。50歳の勝海舟は、明治5年に静岡から東京に戻り、1899年1月19日、75歳で死ぬまでここ赤坂福吉町に住み続けました。

では、ここに住み始めたのは明治5年の何月からなのでしょうか。

勝が静岡を同年3月3日に出立し東京に戻ったのは3月6日です。そして、旧旗本柴田七九郎と屋敷の譲受けについての協議をしたのが5月2日。同月23日に土地(2500坪)・建物の代金500両を支払い、6月7日前後に入居したようです。10日には大工に100両支払っているので、このころ、家の改築が行われたのでしょう。この日、勝は海軍大輔に任ぜられます。

勝の家族がこの屋敷に移り住むのは、同年8月ころになります。

勝は、天璋院(篤姫)と静寛院宮(和宮)をこの屋敷に招いています。その日付は不明です。和宮が京都から東京に戻ったのが明治7年(1874年)7月8日頃なので、明治8年頃の出来事ではないかと思います。

住所:赤坂6-6-14

なぜ、勝はこの場所に屋敷を構えたのか。勝は赤坂が好きだったから? 違います。

実は、勝の屋敷の斜め向いが徳川家達の屋敷でした。

明治4年8月27日、東京に転居する徳川家達に同行して勝は静岡を出発。家達が東京に移住し最初に入ったのが牛込戸山邸(もと尾張藩下屋敷:現新宿区戸山)でした。しかし、まもなくここは陸軍省の用地として買上げられることになり、翌年、家達は赤坂福吉町の旧人吉藩邸に引越すことになります。同じ頃、家達の屋敷の斜め向いにある柴田邸を勝が買取ることになります。

(肥後人吉相良遠江守相良志摩守 下屋敷 ⇒ 港区赤坂2-17)

天璋院は、お気に入りの勝海舟が隣に住むことになり、ご機嫌だったことでしょう。その後、徳川家達の屋敷は、明治10年に千駄ヶ谷へ移転します。

天璋院が住む徳川宗家の斜め向いに勝海舟が住み、東京に戻った和宮の麻布の屋敷の斜め向いには大久保一翁が住んでいました。これが偶然なわけがありません。このような視点で見ているのは本サイトだけです(笑)。

(和宮邸については過去記事『皇女和宮が住んだ麻布のお屋敷の隣人たちとは?』、『和宮が晩年に住んでいた麻布のお屋敷(跡地)に行ってきました』に詳しく書いています。)

この旧勝邸跡地は現在、「サン・サン赤坂」という特別養護老人ホームと「子どもと中・高生のためのプラザ」が建っています。そして、角地には「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」が建っています。

しかし、龍馬がこの家を訪れたことはありません。理由は分りますよね。

「子どもと中・高生のためのプラザ」には、ビルを建てるときに行われた発掘調査(2001年7月23日-9月20日)の出土品が展示されています。

その中で興味を引くのが、「勝海舟伯爵邸圖」です。

吉本襄( のぼる)氏の『海舟先生氷川清話』(鉄華書院)の書出しは、以下の記述で始ります。

皇城の西、氷川祠畔、幽邃絶塵のところに一邸あり。邸は、蒼然として古色を帯び、門前老松枝を垂れて地を掩ふ。門を入ること十数歩、玄関を上り、進みて突き当りの西洋室より左折し、廊下傳ひに一室に入れば、そを隔てて其の奧にまた一室あり。広さ六畳、蓊蔚たる庭樹に対し、清麗浄潔、一點の塵気を留めず。中の潚洒たる鶴髪童顔の翁、淡然几に凭りて、白眼一世を睥睨(へいげい)し、来るものは大臣と書生とを問はず、華族と平民とを論ぜす、みなこの室に引きて高談清和、時の移るを覚えざらしむるもの、これを勝海舟翁とす。吉本 襄、『海舟先生氷川清話』、鉄華書院、1899 10版

この書物は勝海舟が書いたものではなく、その内容を勝が校正したこともありません。この本に勝は一切関わっていません。勝の門弟たちは、この本に間違った記述が多くあることを問題視しましたが、勝自身は、吉本に勝手にやらせていたようです。

吉本の『氷川清話』は、彼の作文のような書物で、しかも、本の半分以上は新聞からの転載です。この新聞に載った内容も、勝の意図を正しく掲載しているわけではなく、勝の門弟たちはここでも問題ありと憤っていたようです。

勝が妾にした女中たちと住んだ家の間取

管理人が最初にこの本を読んだとき、勝海舟邸の間取がイメージできなかったのですが、家の見取図があると吉本の記述が理解できます。

勝海舟邸間取図

上図の括弧書きの数字は畳数です。

多くの勝海舟フアンの方が知りたかったのが勝海舟邸の間取ではないでしょうか。

勝の妾となった女中たち。家の間取が分ると、女中たちがどこで暮していたのかが分り興味深い。妾の女中たちにとって、勝の正妻はお姫様ではなく、しょせんは芸者上がりではないかという意識が心の底にあったように思えます。

正妻民子が外出していない間に女中を書斎に呼びつけ、そして、・・・。「お茶を一杯頼む」と言いましたとさ。

勝には子供が9人いました。でも、その母親はいろいろ。女中3人との間に4人も子供をもうけています。

  1.  子 供     母親
  2. 内田夢(長女) 【民子】
  3. 疋田孝子(次女)【民子】
  4. 勝小鹿(長男) 【民子】
  5. 勝四郎(次男) 【民子】
  6. 梶梅太郎(三男)【長崎の未亡人:梶玖磨】
  7. 目賀田逸子(三女)【女中頭:増田糸】
  8. 勝八重(四女)  【女中頭:増田糸】
  9. 岡田七郎(義徵)(四男) 【女中:小西かね】
  10. 勝妙子(五女) 【女中:清水とよ】

女中頭の増田糸が勝の子を身ごもった時点で、夫の性癖を知った妻の民子は、女中を採用するにあたり、容姿が整っていない子を採用したと思うのですが、勝は手当り次第に手を出します。

たまたま妊娠したから関係があったと分るのは3人の女中だけですが、実際には、もっといたのでしょう。増田糸と小西かねは出産後も勝邸の女中を続けます。

ついでに書くと、梶玖磨が亡くなったのは1866年3月14日(慶応2年1月28日)のこと。墓石には没年齢が25歳と書いてあるので、満23歳くらいで亡くなったのでしょう。梅太郎は1865年1月3日(元治元年12月6日)生れのようなので、玖磨が身ごもったのは21歳くらいの時。

このように見ていくと、勝は若い子が好みだったことが分ります。

屋敷の周囲を見ると、茶畑が広がっているのが分ります。明治政府が誕生し、武士階級の人たちの多くが江戸を離れたため、大名屋敷や旗本屋敷は空家が続出。その多くは取壊されて茶畑になったり牧場になったようです。この当時の赤坂も茶畑だらけでした。

このプラザの角地には「勝海舟・坂本龍馬の師弟像」が建っています。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

勝邸では様々なドラマがありました。その一つが殺人事件でしょう。

勝の下僕が殺し合いを行ったというセンセーショナルな事件です。

明治5年7月15日夕方、勝の下僕 益田与三郎が頭がおかしくなり、同僚の半蔵を殺害するという事件が起きました。与三郎は逮捕され、同年10月17日、准流10年の判決が下ります。准流とは役限の長い徒刑のことのようです。

さらに、明治5年7月25日、静岡より家族が到着します。そこには勝の妹の瑞枝(順、佐久間象山未亡人)もいました。

瑞枝は、佐久間象山の仇討を願い、山岡鉄舟門下の剣客村上政忠(敏五郎)と結婚しますが、村上が動かないので離婚したそうです。この村上という人物は問題の多い人らしく、度々、勝邸を訪れお金を受取っています。

この時期、勝邸を訪れていた人々は、政府高官ばかりではありません。生活に困窮した元幕臣、様々な藩の元藩士で政府への出仕を願う元武士たち、政府への建白書提出の取次ぎを願う人たち、さらには政府転覆を企てる者までいました。有象無象のやからが訪れていたのがこの勝邸です。

勝は、貧困にあえぐ旧幕臣には自腹でお金を与えていました。そして、ついに、勝の蓄えも底を突きます。一時は、勝の困窮が知れ渡り、政府への出仕の口を紹介されますが、勝は、直ぐに辞表を提出します。勝が自腹で旧幕臣たちに生活援助をしていることを知った徳川宗家は、(直接支援することはできないため)勝を通じて旧幕臣たちの生活支援をすることになります。

管理人は、勝が困窮したとは考えていません。その理由は、アメリカ留学中の小鹿に多額の生活費を送り続けているからです。

勝海舟のお墓

勝海舟が亡くなったのは、明治32年(1899)1月19日。勝が死亡したとされる日付はいろいろあるのですが、17日に脳溢血で倒れ、19日に死亡。21日に発喪で、25日に葬儀という日程が正しいと思います。最期の言葉は「コレデオシマイ」。

勝の死亡が伏された背景には、慶喜の十男、精(くわし)を養子にする手続があったようです。勝には嫡男、小鹿(ころく)がいましたが、勝の死の7年前、1892年2月8日、39歳の若さで病没しました。

小鹿が死亡してすぐに、勝は慶喜に精を養子にもらいたいとの脅迫状のような手紙を書き、慶喜もこれを了解しました(小鹿の娘、伊予子の壻)。ただし、精を養子にもらう話は、ずっと以前から出ており、慶喜も了解済のことでした。

勝が、なぜ慶喜の子供を養子に迎えたのかというと、勝伯爵家を慶喜の子供に継がせることで、慶喜を伯爵家の一員にするという考えによるものだったそうです。

勝は生涯、慶喜の監視役を務め、慶喜に静岡での隠棲生活を強要し、旧幕臣らとの接触を禁ずる一方で、慶喜の名誉回復に努めました。

勝が慶喜に対し厳しく接した背景には、徳川宗家に迷惑がかからないようにとの配慮がありました。

幕末の頃より、尊王攘夷派、佐幕派の両陣営に幅広い人脈を持っていた勝は、慶喜が旧幕臣等と接することで明治政府から疑いをかけられることをとても恐れていました。そうなれば、徳川宗家にも嫌疑がかかります。

どちらの陣営がどのような考え方をしているのか、勝は幅広い人脈を通じて常に把握していました。明治政府に不満を持つ分子が慶喜を担上げようと画策している情報も入手していたのでしょう。

勝の人脈の広さは明治になっても変らず、それが災いして、警察の監視下に置かれることになります。

勝の死の前年、明治31年(1898)3月2日、徳川慶喜は初めて参内します。これをもって慶喜は明治政府から許された、という訳ではないようです。

慶喜が公爵を受爵するのは、勝の死の3年後、明治35年(1902年)6月3日のことです。勝が生きていたときには、慶喜はまだ、公式には明治政府には許してもらっていなかったのです。

明治政府関係者が徳川慶喜という人物を憎んだというよりも、その才能を警戒したということでしょう。それほど慶喜は明治政府にとって恐ろしい存在だった。

大政奉還を誰が最初に言出したのかを重視する歴史家には理解できないことでしょう。言うのは誰でもできますが、それを実行に移すことのできる人間は限られています。だから、慶喜という存在は、明治政府にとって、とても怖い。

勝海舟夫妻が眠るのは大田区にある洗足池のほとり。 東急池上線洗足池駅を下車すると、目の前に洗足池が広がっています。

住所:大田区南千束2丁目3

勝海舟夫妻のお墓は池の東側なので直ぐに分るかと思ったら、方向音痴の管理人はここでも目標を見失い、お墓を見つけるのに苦労しました(トホホ)。

管理人が迷子になった理由は、案内板が少ないから。駅を降りると池は目の前です。池の右側を回ればお墓にたどり着くはずです。ところが、池を半周以上回ってもお墓がない!

方向音痴の管理人でも、今回は参りました。事前に地図で確認していたのに迷子になった。やはり、携帯が必要かも。

気になる墓石に刻まれた勝の死亡した日付を確認すると、「明治32年1月21日」と発喪の日付になっています。死亡日がこの日付だと信じている人も多いようです。

洗足池の周囲を迷子になりながら歩き回っていて気づいたことがあります。それは、やたらと禁止の看板が目立つこと。

なんと、公園内の写真撮影も公園事務所の許可を受けてください、と書かれています。これ以外にも到るところに禁止の看板が目に付きます。

こんな看板を作る費用があるのなら、案内板の数をもっと増やして欲しい。

そう言えば、大田区のホームページで勝のお墓のことを確認しようとしたら、やる気のないホームページを見て唖然としました。リンクの一覧があるだけで、リンク先にどんな情報があるかは開いてみるまで分らない。

観光に力を入れている墨田区とは大違いですね。

水船(手水石)を寄贈した人たち

勝夫妻のお墓の直ぐ脇に水船(手水石)があります。案内板には次のように書かれています。

「勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899」6月に、勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。」

水船の裏側には確かに奉納者の名前が刻まれています。しかし、風化が激しく、欠落して文字を読めない部分もあります。そこで、見える範囲の人々の名前を掲げておきましょう。もう数年すると、本当に読めなくなる恐れがあります。

右側の部分は大きく欠落しているため全く読めません。勝家の関係者の名前が書かれていると思います。現在読取り可能なのは、以下の44名の名前です。

  1. 子爵 大久保 立 (一翁の三男)
  2. 大庭 知榮 (警察)
  3. 嘉納 治五郎 (今、「韋駄天」で話題の柔道家。当時38歳。勝のパトロンだった嘉納治郎作の息子)
  4. 亀谷 馨(別名:聖馨,天尊)海舟遺稿、明32.10発行
  5. 加藤 曻一郎 (足尾銅山関係) 加藤昇一郎, 1855-1926
  6. 吉岡 育 (印刷、東京横浜毎日)
  7. 吉田 市十郎  (明治10年内務省に入り、のち大蔵少書記官、会計検査官)
  8. 吉本 襄 (『氷川清話』編集者)
  9. 子爵 立花種 恭 (筑後三池藩藩主、学習院初代院長)
  10. 竹添 進一郎 (外交官、漢学者)
  11. 田口 卯吉 (経済学者、歴史家、実業家、衆議院議員)
  12. 田村 幸充  (陸軍教授)
  13. 瀧村 小太郎 (徳川家達の家扶(執事))
  14. 瀧澤 喜平次
  15. 津田 真道
  16. 妻木 頼黄
  17. 津田 仙
  18. 成川 尚義
  19. 中澤 廣江
  20. 野澤 泰治郎
  21. 九鬼 隆範
  22. 久保 三八郎
  23. 山田 烈盛
  24. 山田 絏養
  25. 安藤 謙介
  26. 相原 安次郎
  27. 安生 順四郎
  28. 荒川 重平
  29. 佐藤 幾志
  30. 佐藤 恆蔵
  31. 櫻井 真
  32. 木村 芥舟 (木村摂津守)
  33. 北岡 文兵衞 (衆議院議員 東京府平民 資産家 三井家重役)
  34. 吉光 寺梶郎  (栃木県の資産家(農業))
  35. 目賀田 種太郎 (勝海舟の三女・逸子の夫)
  36. 宮本 小一
  37. 宮嶋 誠一郎
  38. 水野 良知
  39. 白峰 駿馬
  40. 子爵 榎本 武揚
  41. 人見 寧
  42. 杉浦 誠
  43. 杉 亨二
  44. 鈴木 重明

以上、44名 (2019年3月22日時点の判読可能な奉納者リスト)

めんどくさくなったので、経歴は省略します。

このリストを見ると、有名な人が何人かいますが、多くは知らない人ばかり。明治維新に詳しい人でもこのリストに載っている人を全員知っている方はいないと思います。

リスト上の気になる人物『津田仙』

このリストの中で管理人が気になった人物は「津田仙」です。新五千円札の津田梅子の父親です。管理人は、岩倉使節団を調べていたときに、女子留学生のことを知り、津田梅子についても調べたのですが、梅子はこの父親を嫌っていました。仙が留学から戻った梅子の貯金を当てにして、それをくれと言ったのがそもそもの原因のようです。

(明治維新の5人の女子留学生については、「岩倉使節団女子留学生の相関図を作ったら凄いことになっている!」という記事を書いているので、よろしかったらご覧ください。)

津田仙は勝海舟から多額の融資を受けていました。勝海舟の墓地となったここ洗足池の別邸は津田仙の仲立ちで手に入れたものです。

勝海舟の日記にも津田仙は度々登場します。津田仙は、明治6年(1873年)、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字社の創設者)の書記官として随行します。海舟日記の明治7年7月15日、17日、21日、9月4日の条にも仙についての記述があります。この時期、明治政府への出仕を勝に頼んでおり、8等出仕が認められたようです。

津田仙は、1908年4月24日、70歳で亡くなり、青山墓地に埋葬されました。彼のお墓はとても分りにくい場所にあるため、探すのに苦労したことを思い出しました。

仙の墓石は妻の初(初子)の墓石と並んで建っています。

梅子の母、津田初には姉の竹子(武子とも)がいます。この姉妹は二人とも田安家の奥女中として仕えていました。竹子は当主の田安慶頼に見初められ二人の男子を産みます。一人は田安亀之助、そう、徳川家達です。もうひとりは田安家を継いだ徳川達孝です。

つまり、津田梅子と徳川家達は従兄弟どおしの関係です。二人は一度だけ会ったことがあるようですが、梅子と徳川宗家との関係はなぜか希薄だったようです。梅子は家達より一歳年下。二人が留学から帰国したのはほぼ同じ時期です。

津田仙が勝邸を頻繁に訪れ、借金を申込んだり洗足池の土地を勝に紹介したりしているなどのつながりは、このあたりも影響しているのかも知れません。

梅子は、仙をとても嫌っていたため、津田家の墓地に入ることを拒み、津田塾大の中に墓地を造り埋葬されました。

勝の妻、民子も梅子と同様、勝と同じ墓はいやだと言張り、一時は青山墓地にある息子の小鹿の墓地に埋葬されたようですが、後年、本人の希望は無視され、海舟と並んで埋葬されることになりました。

お墓を守るのは子孫の義務でしょうが、それをどのように守っていくかの決定権は子孫の権利としてあると思います。他人がとやかく言う話ではない。

旧勝邸・墓地めぐりをして感じたこと

松浦玲氏の分厚い書籍『勝海舟』を繰返し読んで、勝海舟の一生については何となく分ったつもりでいても、どこか腑に落ちない部分がある。松浦氏とは別の視点から勝海舟という人物を捉えると、全く違った見方ができるかも知れない。

氷川清話の中で勝が「おっかさんとおばあさま」と言っている箇所があります。和宮と篤姫のことです。

勝邸に招かれた和宮と篤姫は、本当に楽しい時間を過したように思います。勝の心配りをひしひしと感じます。

明治になって、勝海舟が成し遂げたことはなにもない、的な論調の書籍も見かけますが、あまりにも表面的な評価のように、管理人は考えます。

天璋院が亡くなったとき、持っていたお金が現在価値で6万円しかなかった、という事実からの邪推で、様々な都市伝説のような記述を見かけます。天璋院が亡くなったときの徳川宗家の土地の広さを考えれば、この金額の多寡が何の意味も持たないことが分ります。

そんなことよりも、天璋院が、なぜ、家達と共に静岡に移住しなかったのか。このことの方が不思議です。この事実を無視して、天璋院は家達の教育に努めたなどと言うのは、どこか違う気がします。最初にこの疑問を説明する必要があります。Wikiの説明はこの部分とすっ飛ばし、いきなり千駄ヶ谷の徳川邸での記述になります。ネット上の記事もほぼ同じ書き方です。

管理人が海舟日記を読んで感じたことは、勝が扱っている金額がとても大きいことです。人に与えるにも貸付けるにしても。ネット上でよく見かける貧困、質素など、現代の基準は通用しそうにありません。

勝は、どうやって資産を築いたのでしょうか。この研究をやっている人はいないように思います。

勝が慶喜の息子を勝家の養子として迎えるとき、勝家には苦労しないだけの資産があると慶喜に言っています。もしこれが本当なら、どうやって稼いだのでしょうか。政府への出仕期間はとても限定的で、まともに働いていないのに。

日記に関わる出典:
『勝海舟関係資料 海舟日記(六)』、東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編、2017