偉人たちの健康診断「篤姫 ヒートショックの恐怖」放送事故か

勝海舟の謎

本サイトでは歴史の謎についての記事がいくつかあります。管理人は”歴史”全般について特に深い関心があるわけではなく、特定の人物や事件について関心があるだけです。

幕末・明治維新で関心を持っているのは和宮(静寛院)。彼女のことだけやたらと詳しくなりました。

すると、自然と同時代、彼女と接触のあった人物についても詳しくなります。

今日は、2019年4月18日 NHKBSプレミアムで放送された『偉人たちの健康診断「篤姫 ヒートショックの恐怖」』が放送事故ではないかという視点で書きたいと思います。

番組を根底から覆す日付

管理人は篤姫についてほとんど関心がないのですが、番組の中にもしかしたら和宮についての新しい情報があるかも知れないと思い、『偉人たちの健康診断「篤姫 ヒートショックの恐怖」』を録画して見ました。

番組を見ていくにつれ、「えっ、何これ! 日付も内容も史実と違うじゃん」と気づきました。

実は、最近、勝海舟にはまっており、手元には自作の勝海舟詳細年表、そして以前作成した和宮詳細年表があります。ついでに、プチャーチン詳細年表もあります(笑)。

篤姫との関係でみると、勝海舟と篤姫が向島などで「遊行」した正確な日付、和宮が麻布の邸に篤姫を招いた日付、天皇皇后を招いた日など、日付にこだわったマニアックな年表の作り込みになっています。

そして、明治10年9月2日、和宮が亡くなりますが、この年の 6月11日、徳川家達(当時13歳)はイギリスへ留学のために渡航したばかりであったことから、和宮の葬儀では、喪主は家達ではなく徳川家当主代行として新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられた松平確堂が代理を務めることになります。

このようなことが頭に入っている管理人にとって、『偉人たちの健康診断』で語られた内容は史実を完全に無視した放送事故レベルのものでした。

何がどう違うのか。些細な違いではありません。根本的に番組の作り方・構成が崩壊しており、虚偽の内容で番組として放送されたということです。これは放送事故と言えるレベルでしょう。

もし、これが放送事故でないとするのなら、NHKの作る歴史番組はデタラメで少しも信用できないとの誹りは免れません。

では、番組はどのようなものだったのか、そして管理人が直ぐにおかしいと気づいたことを具体的に見ていきましょう。

少し若い天璋院篤姫

『偉人たちの健康診断』の内容

この番組をご覧になった方は、何がおかしいのか全く気付かなかったと思います。番組としてはおもしろい内容になっていました。

偉人たちの健康診断「篤姫 ヒートショックの恐怖」 2019年4月18日 NHKBSプレミアム

江戸城・大奥に君臨した天璋院篤姫。激動の幕末、将軍家の御台所として最後まで徳川家を支え続けることができた秘密は、超健康な体にありました。

大奥の頂点が将軍の正室御台所です。

篤姫は将軍家御台所として、滅びゆく徳川家を最後まで支え続けました。

そもそも篤姫が大奥に入ることになったのには意外なことがありました。それは篤姫が健康に恵まれていたからです。

当時、江戸の将軍家は大きな問題に悩まされていました。

この時、将軍の妻である正室を探していたのは、第13代将軍徳川家定。

代々将軍家の正室は公家や大名の姫から選ばれていました。しかし、ほとんどが病弱で、子供を産む前に若くして亡くなってしまいます。次の将軍が正室から生まれない。それは、徳川家にとって、とても切実な悩みだったのです。

“どこぞに丈夫な姫様はおらぬか。そうじゃ、薩摩じゃ!”

正室選びの歴史の中で、例外的な存在だったのが、11代将軍徳川家斉の正室茂姫。実に71歳という長寿を保ちました。茂姫は、薩摩藩8代藩主島津重豪(しげひで)の娘。茂姫の存在こそ、篤姫が正室に選ばれた大きな理由だと、鹿児島県立図書館館長の原口泉さんは言います。

茂姫は、2代将軍秀忠以来の男の子を産んで71歳まで生きた。健康で長生きだったため、島津・薩摩の血統が欲しかったのです。

将軍家の正室として、およそ200年ぶりの男子を産んだ茂姫。その茂姫の出身地薩摩になら丈夫な姫がいるに違いない。

早速、島津藩で姫捜しが始まります。当主島津斉彬にはこの時三人の娘がいました。澄姫、邦姫、暐姫です。しかし、彼女たちは幕府が求めるような健康体ではなかったといいます。そんなとき、白羽の矢が立ったのが篤姫でした。ある大名は篤姫のことを「丈高く、よく肥えたまえる」と書き記しています。(『斉彬公史料』、安政二年、東京大学史料編纂所所蔵)

当時の女の子としては体が大きく、男子であれば良かったのにと陰で言われるほど丈夫な子供だと伝わる篤姫。(番組の中で本郷先生が、篤姫の身長は157-159cm、体重70kgと説明していました。これが何歳の時のデータなのかは不明ですが、体型のイメージとしては近藤春菜や江上敬子という感じでしょうか。宮崎あおいさんをイメージしてはいけない!)


Image: Nekoshi,  春菜では気力が湧かないので、美人の篤姫にしました。

1835(天保6)年、島津家の親戚今和泉家の姫として生まれた篤姫。現在の鹿児島市からおよそ50Km離れた指宿(いぶすき)の地で育ちました。篤姫が幼少期を過ごした今和泉家の別邸があった場所は、現在、今和泉小学校の敷地になっています。

校舎の直ぐ横は浜辺。当時、裏座敷の庭に面しており、篤姫にとって格好の遊び場でした。
ここで、さんさんと降り注ぐ太陽の下、自由気ままに遊び、新鮮な魚介類を食べ、健康な体を得たようです。

さらに、指宿には世界的に珍しい「砂蒸し風呂」(摺ヶ浜海岸)があります。入り方は浴衣を着たまま砂浜に寝転び、全身に砂をかけるという独特なもの。

砂浜の地下にある源泉によって暖められた砂の温度は55度。砂に埋もれながら源泉の蒸気で体を蒸すことおよそ10分。全身から汗が噴き出す、いわば天然のサウナです。

地元の研究家によると、篤姫も砂蒸し風呂に入った可能性が高いと言います。

“薩摩藩2代藩主島津光久公がこの砂蒸し風呂温泉がすばらしい効能を持った温泉である、「神の井戸」という言い方をしている。今和泉の殿様と奥方様、お姫様が指宿の温泉に来られているという記録があることから、篤姫もこの温泉に入ったと考えられる。”

砂蒸し風呂は一般の温泉の3倍も血流改善効果があり、体内の老廃物や疲労物質を腎臓で濾過し、早く体外に排出される効果が確認されています。

さらに、温泉から出る100度の高温蒸気を使った「スメ」と呼ばれる天然の蒸しかまどがあり、これで蒸し料理が作られるが、蒸し料理は野菜の栄養価を逃がさないだけでなく、温泉の蒸気に含まれるイオウ成分・硫化水素が心臓の老化を防いだりして心疾患の予防に効果がある。(硫化水素の代謝物に「親電子物質」を分解する働きがある。)

このように調理した料理を食べることで、血管の掃除や抗酸化作用が期待でき、体の老化を防ぐアンチエイジングの役割があると考えられています。

指宿の豊かな自然に囲まれて育った篤姫は、心臓が強く、若々しい健康体だったと考えられます。

将軍の正室にふさわしい健康な女性を捜していた藩主島津斉彬のお眼鏡にかなった篤姫。

島津家の養女となった篤姫は1853(嘉永6)年、将軍家輿入れのため江戸に旅立ちます。この時、篤姫、19歳。

篤姫が江戸城に入ったその年、日本の歴史が大きく動き始めます。黒船来港です。さらに、輿入れ後わずか一年半で世継ぎが生まれないままに将軍家定が35歳で急死。篤姫は24歳の若さで髪を落とし、天璋院と名乗ることになりました。

そして、1868(慶応4)年、旧幕府軍と薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍とが戦う戊辰戦争が始まります。

嫁ぎ先と実家が殺し合う状況に追い込まれてしまった篤姫。

その後徳川家は天皇に弓引いた朝敵とされてしまいます。やがて、江戸城の無血開城が決まり、260年以上続いた徳川幕府は幕を閉じます。

篤姫は江戸城大奥を後にしました。そして迎えた明治。その後の篤姫の生活はあまり知られていません。江戸城を出た後、生活の心配をした島津家からの援助の申し出に、篤姫はこう答えたと言います。

「わたくしは徳川の者。援助は無用です。」

篤姫は実家にも頼らず、徳川の女として生きる覚悟を決めていたのです。

千駄ヶ谷に建てた屋敷。広さはおよそ10万坪。14代将軍家茂の母、15代将軍慶喜の娘など徳川宗家の一族やその女中たちと暮らしました。

篤姫の部屋は屋敷の東側の奥。庭に面したおよそ十畳の和室。

幕府崩壊後、篤姫はこの家で新たな生き甲斐を見つけていました。それは徳川宗家を継いだ徳川家達。

子供のいなかった篤姫は、養母として家達を引き取ることにしました。

篤姫は、徳川家が被った朝敵という汚名をはらすべく、残りの人生を全て捧げることを決意。家達に徹底した英才教育を施します。

篤姫は家達に英語を学ばせ、日頃のおこないも厳しくしつけました。

そして、家達が15歳になると、篤姫は家達をイギリスへ留学させます。

その一方で篤姫は、皇族であった近衛家の娘泰子(ひろこ)を見初め、家達の許嫁としました。家達の結婚相手が決まったことで、これまで没頭してきた子育ては一段落。この時、篤姫、43歳。

ようやく肩の荷を降ろすことができたと思いきや、この後、篤姫の生活は激変します。その様子を勝海舟はこう語っています。

夕方から出て夜中の二時三時に帰られることが度々あった。

天璋院のお供で八百善にも二三度、向島の柳家へも吉原にも芸者屋にも行った。

勝海舟『海舟座談』

(管理人が放送事故と指摘するのはこの部分以降のすべてです。この出典を挙げた時点でこの番組は放送事故となります。)

なんと篤姫は夜な夜な遅くまでお酒を飲み歩く日々を送るようになったのです。

屋敷に戻ると朝風呂に入り、夜にはまたお酒を飲みに出かける毎日。篤姫の生活はなぜ突然荒れてしまったのでしょうか。

ここで医師が登場し、『おそらく篤姫も「空の巣症候群」に陥っていたのではないかと考えられます』と説明し、この症状を無理矢理篤姫にあてはめるというワンパターンが始まります。

家達留学 ⇒ 子育て終わり無力感 ⇒ 空の巣症候群

子供が自立して家を出て行き、自分の助けを必要としなくなった寂しさから、女性が精神的に不安定になり、鬱症状になってしまうことがある。

それは、子育てが終わった女性が突然、むなしさや寂しさを感じ、不眠などの体調不良や情緒が不安定になること。空の巣症候群になると気分を紛らわせようと、大量のアルコールにおぼれる人もいます。

明治時代の篤姫は、家達を育て上げることを自らの使命と心に決め人生の全てを捧げてきました。やがて家達が成長し、手から離れたとたん、篤姫は生きる目的を失ってしまったと考えられます。

篤姫にとって、心に開いた穴を埋めるのはお酒しかなかったのかも知れません。

燃え尽き症候群 ⇒ 次の目標が見つからず鬱になる。

(中略)

明治16年11月22日付け東京日日新聞が天璋院殿逝去を知らせます。篤姫は同年11月20日、午後8時半に亡くなりました。

松戸市戸定歴史館に所蔵されている『旧来より雑記』は、篤姫が亡くなる直前の容態を記した徳川宗家の報告書です。

これによると、亡くなる七日前、篤姫は突然意識不明になったことが書かれています。

11月12日午前10時、篤姫は突然意識不明になったとあります。そこで篤姫を救うべく、松本良順など陸軍軍医や海軍軍医、そして明治天皇の主治医ベルツなど、当時最高の医療スタッフが集められ、治療にあたりました。その甲斐あって、翌日には痛い場所を言えるまでに回復。しかし、18日、二度目の発作を起こし、11月20日、午後8時30分、薨去されました。享年49。

新聞報道によれば、湯殿で誤ってつまずいた、布団に座られるやいなや昏倒した、との状況が分かります。つまり篤姫は、浴室でつまずき、その後、部屋で倒れて昏睡状態になって亡くなった。

これはヒートショックと考えられる。

冬場、暖かい部屋から寒いトイレや脱衣所に行ったとき、極端な寒暖差によって血圧が急上昇。脳卒中や心筋梗塞を引き起こす。

血圧が急上昇、急降下。血圧の乱高下に血管が耐えきれず破れて脳内出血を起こした可能性がある。

篤姫が浴室でつまずいたのはこの脳内出血が原因と医師が指摘しています。

その後も出血は止まらず、一週間後に亡くなる。

1883年11月20日午後8時30分、天璋院篤姫死去。

その翌年、家達は公爵になる。これにより朝敵の汚名は完全に払拭されました。

何が放送事故なのか気づかない人のために

ずばり言いましょう。

番組のストーリーの組み立ては、明治になって家達を懸命に養育してきた天璋院は、家達をイギリスへ留学のため送り出したことで、生きる目的を失い、「空の巣症候群」に陥り、飲酒に走った、という流れでした。

ここで、NHKは致命的な過ちを犯しました。それは、説明の根拠として、勝海舟の『海舟座談』を出典として挙げたことです。

勝海舟は日記も残しており、日付も確認できます。

勝海舟が天璋院のお供をして向島、吉原などに通っていた時期も分かります。

それがいつだと思いますか。

それは、明治4(1871)年から明治5年にかけての二年間です。

勝海舟は、明治4年10、11,12月の三度、天璋院を浅草等に連れ出します。10月は天璋院のみ。11月には実成院その他も同行した多勢の浅草行きで、休憩所に福井藩松平家の屋敷を借りました。ご婦人方のトイレ休憩のためのようです。12月も天璋院のみ。浅草から向島を渡って「遊行」した、と『海舟日記』に書かれています。

明治5年2月29日、静岡に戻っていた勝のもとに東京の天璋院から、早く東京に戻ってきて欲しいというまるでラブレターのような手紙が届きます。

そして、明治5年3月10日、勝、天璋院同道で隅田川で遊ぶ。(海舟日記)

つまり、NHKが出典として挙げた勝海舟『海舟座談』に書かれている内容は、明治4、5年頃のことなのです。

これは静岡に住んでいた家達が東京に移住する時期で、ずっと江戸・東京を離れなかった篤姫にとっても大切な時期であったと言えます。

家達がイギリスに留学するのは、それから5年後のこと。同じ年、和宮が箱根で亡くなります。

管理人が「放送事故」と言っている理由がこれで分かると思います。5年前の遊興の記録を5年後の家達留学の時期に勝手に移動し、無理矢理「空の巣症候群」という病状にあてはめた「ねつ造番組」ということです。

家達が手元を離れ留学し、子育てが終わって「空の巣症候群」に罹り、そのために酒に走った篤姫、というストーリーは成立しないのです。

このストーリーを元に展開するそれ以降の内容は、根拠を失っているため何の意味もない。篤姫とは関係のない一般的な事項の紹介となります。

管理人でも直ぐに気づくようなお粗末なストーリー構成です。

気になること

管理人が篤姫についての番組を見たりネット上の記事を読んでいてとても気になることがあります。

それは、徳川宗家の家として、千駄ヶ谷の邸宅しか紹介されないことです。上の番組の内容の説明で、黄色のマーカーで示したように、番組では篤姫は千駄ヶ谷の屋敷で幼い家達に英才教育をした、と説明していますが、これは事実に反します。これは後で説明します。

つまり、徳川家達の足跡を追わずに篤姫ばかりに着目するためにこのようなおかしな事になっている気がします。

では、明治の徳川宗家の家とはどこにあったのか。

これも結局は勝海舟を抜きに語ることはできません。

篤姫、勝海舟、そして和宮

勝海舟といえば、江戸城無血開城を成し遂げた幕末の偉人として有名です。しかし、幕府を滅亡に追いやった張本人として旧幕臣たちから恨みを買い命を狙われる存在でもありました。

ところで、明治になってから、勝が徳川宗家・慶喜の名誉回復や旧幕臣たちの経済的支援に尽力していたということはあまり知られていません。

勝海舟は、赤坂田町、赤坂氷川神社の裏手、赤坂福吉町と一時期静岡に住んだ以外は赤坂に住み続けました(下の関連記事参照)。

明治4年8月27日、東京に転居する徳川家達に同行して勝は静岡を出発。東京に到着した家達が最初に入ったのが牛込戸山邸(もと尾張藩下屋敷:現新宿区戸山)でした。ここには篤姫が住んでいました。しかし、まもなくここは陸軍省の用地として買上げられることになり、翌年、家達は赤坂福吉町の旧人吉藩邸に引越すことになります。同じ頃、家達の屋敷の斜め向いにある柴田邸を勝が買取ることになります。そして、勝は生涯、ここに住み続けます。

この明治4年ということが重要です。篤姫ら徳川将軍由来の”おばあさま方”もやっと徳川宗家と一緒に暮らせるようになったということに着目すべきです。篤姫、そして”おばあさま方”の遊行もその安堵感から生じたものと、管理人は考えます。「空の巣症候群」など何のこと? と疑問に感じた管理人の気持ちが分かると思います。

その後、徳川家達の屋敷は、明治10年10月27日に千駄ヶ谷へ移転します。和宮はこの年の9月に亡くなっているので、その直後に赤坂から千駄ヶ谷に引っ越したことになります。しかし、当主である家達はこの年、6月11日にイギリスへ留学のため横浜港を出港しています。したがって、家達が千駄ヶ谷の邸宅に初めて入るのは、5年間の留学を終えイギリスから帰朝した明治15(1882)年10月30日になります。

番組では、篤姫は千駄ヶ谷の家で家達の養育という新たな生きがいを見つけたように説明されていますが、家達がこの家に入るのは、既に説明したように、イギリス留学を終えて帰国したときです。

千駄ヶ谷の邸宅に住んでいるのは篤姫と家茂の実母・実成院(じつじょういん、文政4年1月18日(1821年2月20日) – 明治37年(1904年)11月30日)享年84)、篤姫の姑に当たる将軍家定の実母・本寿院(文化4年(1807年)- 明治18年(1885年)2月3日)享年78)など旧大奥にいた将軍ゆかりの未亡人たち。昔、大奥で毎晩酒宴を開いていた酒好きのおばあさん実成院がいますね(笑)。

昔を思い出し、おばあさまたちだけの女子会を開いていたのかも。実成院も本寿院も篤姫より長生きしました。

1868年9月24日(明治1年8月9日)、徳川家当主亀之助家達は陸路東京を発ち駿府に向かう。
1869年7月25日(明治2年6月17日)、知藩事の任命書交付はじまり、徳川家達が知藩事に任命される。
1871年10月11日(明治4年8月27日)、勝海舟、東京に転居する徳川家達に同行して静岡を出発し、篤姫たちの住む東京・牛込戸山邸(もと尾張藩下屋敷:現新宿区戸山)に入る。
1872年(明治5年)、牛込戸山邸が陸軍用地となるため、赤坂福吉町の旧人吉藩邸に引越す。
1877年6月11日(明治10年)、徳川家達(当時13歳)がイギリス留学のため横浜から旅立つ。
1877年10月27日(明治10年)、徳川宗家、千駄ヶ谷の屋敷に引越
1882年10月30日(明治15年)、家達、留学を終え帰朝
1882年11月6日(明治15年)、家達、近衛泰子と結婚
1883年11月20日(明治16年)、天璋院死去(享年49)。勝、葬儀を取り仕切る。
1884年7月7日(明治17年)、華族令公布(5段階の爵位)。家達、公爵となる。
1887年10月31日(明治20年)、明治天皇、千駄ヶ谷の徳川家達邸に行幸
1897年11月16日(明治30)、慶喜、静岡を発って東京に向う。新居は巣鴨に用意された。
1898年3月2日(明治31)、徳川慶喜、初めて参内。
1898年3月3日(明治31)、慶喜、家達と共に氷川町の勝邸に来訪。慶喜、勝に「楽天理」と揮毫して欲しいと頼む。
1899年1月19日(明治32)、勝、死去。 最期の言葉は「コレデオシマイ」。
1902年(明治35年)、慶喜、公爵に叙せられる。

篤姫の願いであった朝敵の汚名を晴らすことは、その死の翌年、1884年7月7日(明治17年)、家達が公爵に叙せられたことで果たされました。

ずっと静岡で謹慎生活を送っていた慶喜が、東京に出てくるのは明治30年のこと。翌年、参内を果たしたことで朝敵の汚名はそそがれましたが、公式に慶喜が許されるのはそれからずっと後のこと。勝海舟の死の三年後まで待つことになります。

あとがき

今回のNHKの番組作りには二つの大きな過ちがありました。

一つは、五年前の出来事の記述を自分の都合の良い時期にはめ込み、それを誤った出典を示すことで根拠の真実であるかのごとく視聴者に伝えたこと。その結果、完全なねつ造番組となってしまったこと。

二つに、篤姫が幼少期の家達の教育に携わったのは赤坂の徳川邸だったにもかかわらず、すべては千駄ヶ谷の徳川邸での出来事として国民に誤った情報を発信したこと。

このような間違いが生じた原因は、結局、篤姫についてのたくさんある情報の大半が何の役にも立たないものだということを示しているように思います。

篤姫について書かれた書籍やネット情報には、赤坂の徳川邸は出てきません。勝海舟がその屋敷の向かいに居を構えたこともどこにも書かれていません。書かれているのは千駄ヶ谷の徳川邸のことだけ。家達の駿府移住、知藩事就任、東京移住についても書かれていません。

通常、番組の制作にあたって、様々なことを下調べしていると思います。しかし、今回の間違いに誰も気づかなかった。そこにネット社会の落とし穴があると思います。

それは、視点の欠落です。ネット上、本サイトのような視点で情報を発信しているサイトはほとんど見かけません。ネット上にある情報のほとんどは単なるコピー記事で、内容は皆同じです。そのようなコピー記事が無数に存在することが、検索を難しくしているように思います。

視点の欠落の好事例を挙げましょう。

「なぜ、篤姫は家達が駿府・静岡に移住した時、一緒に行かなかったのですか」

家達が駿府にいた期間は、丸三年です。明治元年8月9日、家達が5歳1ヵ月の時、東京を発ち駿府に向かいます。そして、明治4年8月27日、家達、8歳1ヵ月の時に静岡を発って東京に向かいます。家達を教育するのに最も重要なこの時期に篤姫は家達の側にはいないのです。

和宮が京都から東京に戻ったときに住んだ麻布の屋敷の向かいには、大久保一翁が住んでいました。和宮が箱根塔ノ沢で亡くなったことを東京に電報で知らせたのが山岡鉄舟です。

和宮を中心に幕末・明治維新を俯瞰している管理人にとって、幕末の三舟の明治になってからの動きに関心があります。

上の問いに対する答えは、ネット上で見つけることはできません。質問サイトにいいかげんな回答をしている記事を見つけることがあるかも知れませんが、ピント外れです。

篤姫は勝海舟と同様、駿府に行きたくても行けない事情があった。これが管理人の考える回答です。その詳細は、勝海舟の記事で書きたいと思います。

説明の中で「この出典を挙げた時点でこの番組は放送事故となります。」と書いています。このことを少し補足します。

この意味は、この出典を挙げなければ管理人もおかしいとは気づかなかったということです。家達留学の5年前の篤姫遊行の記録が家達留学後のこととして使われているとは通常考えません。そんなことをすればねつ造だからです。明治10年以降のそのような記録があるのか、と言う程度で流していたと思います。しかし、出典が挙げられた時点でおかしいことに気づく。管理人はこの出典も日記も確認しているので、日付まで知っている。何しろ、日付にこだわって年表を作成しているので。

番組の中で、家達の留学時の年齢を15歳と紹介していますが、正確には、横浜出港時点では13歳9ヵ月の子供でした。「篤姫は、家達が15歳になるまで厳しく教育し、英国留学に送り出した」と「篤姫は、家達が13歳になるまで厳しく教育し、英国留学に送り出した」とでは、受ける印象が全然違うと思います。子供の教育に関わる部分の2年間の差は軽視できないと思います。

それにしても、今回の件は、本郷先生が気づいても良さそうな気がしますが・・・。個人的には本郷先生のファンなので深くは追求しませんが。

関連記事・参考資料

勝海舟が住んだ屋敷跡とお墓に行ってきました
Wikipedpa、「本寿院 (徳川家慶側室)
「勝海舟」、松浦玲、筑摩書房、2010