スフィンクスの前で撮影された第二回遣欧使節の写真に写る大男の謎

ミステリー

 幕末のイケメンとして人気のある池田筑後守長発(いけだ ながおき、1837年8月23日(天保8年7月23日)‐ 1879年(明治12年)9月12日)。

 非常に優秀な人物であったらしく、旗本であれば超エリートしか歩めない出世コースを突き進んでいきます。1862年(文久2年)には目付、翌1863年(文久3年)には火付盗賊改・京都町奉行と歴任し、同年10月に対外交渉を行う外国奉行に抜擢されました。

池田長発

 その三ヶ月後の1864年2月、池田長発は「横浜鎖港談判使節団」の正使に抜擢され、フランスに旅立ちます。

 Wikipediaには、次のように書かれています。

「使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うことであった。孝明天皇は文久3年5月10日(1863年6月25日)をもっての攘夷勅命を発しており、これに従って幕府は5月9日(1863年6月24日)に各国公使に対して開港場の閉鎖を通達するが、諸外国は当然これを拒否し、幕府も9日後にはこれを撤回していた。更に下関事件や薩英戦争、フランス士官カミュ殺害事件等が起きて諸外国との軋轢も高まっていた。このような状況で、幕府は攘夷派を懐柔するため、江戸に近い横浜の閉鎖を交渉するために使節団を派遣するが、もとより達成不可能な任務であった。なお、使節団の目的にはフランス士官殺害事件の賠償交渉も含まれていた。」(Wikipedia,「横浜鎖港談判使節団」)

 池田長発はこのとき27歳。34名からなるこの横浜鎖港談判使節団は、遣欧使節団(第二回遣欧使節)とも呼ばれています。最初から、成功するはずのない、捨て駒のような使節団でした。

  • 1864年2月6日(文久3年12月29日)、横浜から仏軍艦「ル・モンジュ号」にて出発(上海まで)
  • 1864年2月13日(元治元年1月6日)、上海着。翌日、上海上陸。
  • 1864年2月20日、仏郵船「ヘーグスプ」に乗船し、2月26日出帆。
  • 1864年3月1日、仏領サイゴン着、上陸。
  • 1864年3月3日、サイゴン発
  • 1864年3月4日、シンガポール(新嘉坡)着
  • 1864年3月5日、シンガポール発
  • 1864年3月10日、セイロン(錫蘭)着、上陸。
  • 1864年3月12日、仏船「エルショウ」に乗り換えセイロンを出港。
  • 1864年3月19日、アデン(亜丁)着
  • 1864年3月26日、スエズ(蘇士)上陸。汽車でエジプト(埃及)カイロ着。
  • 1864年3月30日、エジプト国王イスマーイール・パシャに謁見
  • 1864年4月4日、ピラミッド見学
  • 1864年4月6日、国王招宴
  • 1864年4月8日、カイロ発、夜10時、アレキサンドリア着
  • 1864年4月9日、14:00、仏船「ベルリン」乗船。
  • 1864年4月15日、15:00、マルセーユ着。
  • 1864年4月16日、市長を訪問、午後は博物館・公園、夜は芝居を見物。
  • 1864年4月20日、マルセイユ発、リヨン経由でパリに入る。ナポレオン3世皇帝に謁見、国書を奉呈、具足・大和錦・太刀・蒔絵の箪笥等を贈る。
  • 1864年4月25日、フランス外相を訪問。
  • 1864年5月19日、大観兵式
  • 11864年5月22日、池田ら一部がパリ発。残りの団員は5月25にパリを発ちマルセーユで合流
  • 1864年5月31日、英船に乗船し、6月1日にマルセーユ発
  • 1864年7月6日、アレキサンドリア着、英船に乗り換え
  • 1864年8月19日、横浜着。帰国後、将軍に復命するも、その日のうちに押込めとなり、禄は半減、隠居を命じられた。

 池田長発と同じようなエリートコースを歩んだ幕末の役人に、小栗上野介がいます。小栗は池田より10歳年下でした。小栗の場合も池田と同様に、何度も閑職に追いやられますが、人材不足の幕末には、余人をもって替えがたいとして、何度も復権を遂げます。

 上で示した使節団の行程表を見ると、Wikipediaに書かれている「上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮っている。(Wikipedia、「池田長発」)」という記述は間違った印象を与えます。カイロに向かう途中にギザに立ち寄ったのではなく、わざわざギザまで見学に行ったのです。

 そして、そこで撮影されたのが、今回のテーマである不思議な写真です。

 この写真は、幕末から明治にかけての日本の写真をたくさん残したイギリス人写真家フェリーチェ・ベアト(Felice Beato: 1832–1909)の弟アントニオ・ベアト(Antonio Beato)が撮影したものです。 イタリア生まれの英国人アントニオは、1860年にエジプトに定住したようです。兄のフェリーチェ・ベアトは、1863年から21年間横浜で暮らした。まさに、兄の住む日本から訪れた”Samurai”たちでした。

 この写真の中央に奇妙な人物が写っています。フランス陸軍肩章を付け略帽をかぶったようなとても大きな男性です。いや、これは大きすぎます。

  画像をクリックすると拡大します。

 一度、このように写真を見てしまうと、軍人に見えてしまうから不思議です。写真を見ていて、どうしてここに大男が写っているのだろうと、不思議に思いました。

 これは、「ルビンの壺」と同じ原理で、存在しない大男を見てしまう錯視です。

 池田使節団一行は、スエズから汽車でカイロに、そして、そこからアレキサンドリアに向かっています。この当時、スエズ運河は開通していません。スエズ運河の建設開始が1859年4月25日、完成が1869年11月17日です。

 池田使節団の横浜出発から7年10ヶ月後、1871年12月23日、岩倉使節団が世界一周の旅に横浜から出航します。
 そして、岩倉使節団出発から17年後の1889年12月10日、世界一周を目指すエリザベス・ビズランドが横浜から旅立ちます。

 当時の船旅などに関心のある方は、過去記事をご覧ください。

岩倉使節団のなぞの解明
19世紀末の二人のアメリカ人女性による究極の「世界一周」への挑戦

 ところで、スフィンクスの尻尾ってどうなっているかご存じでしょうか。こうなっています。このアングルから撮影する人はあまりいないのですが、猫好きの管理人は、回り込んで撮影しました。

スフィンクス 後ろからのアングル

 最後に高解像度版をアップします。

【出典】
Wikipedia, “Antonio Beato
「かきおき散歩」
 旅行行程表の作成にあたりこちらの記事を参考にさせていただきました。サイト表示が崩れて読めないので、過去記事に書いたフレーム削除により何とか読みました。