日本人ってほんとうに無宗教なのだろうか|異端の駆逐に躍起になって戦争の原因になっている宗教より、日本人が信じている宗教が素敵なのでは?

古代の謎・歴史ヒストリー

 管理人は、どの宗教勢力にも属さない、いわゆる無神論者です。

 このような人は、日本人であれば無数に存在すると思います。このため、「日本人は無神論者だ」という主張を耳にすると、ごもっともな指摘です、と信じ込んでいました。でも、ほんとうにそうなのでしょうか?

宗教とは何?

 宗教が人間の生活を豊かにするかと言えば、誰もそんなことは思いません。現代社会の紛争は宗教の違いが原因となって発生しているという現状を、私たちは目の当たりにしています。

 Wikipediaの「宗教」の項目は全くまとまっておらず、とても引用できるレベルではありません。コトバンクに宗教学者の柳川啓一先生の定義が記載されていました。

 Wikiの執筆者は、訳の分からないことを書くのではなく、柳川啓一先生の定義を紹介し、そこから持論を展開すべきです。

 柳川先生の定義は以下のようになっています。

世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。 

コトバンク、「宗教」

 この定義にも、突っ込みどころがたくさんありそうですが、たくさんある定義も似たり寄ったりなので、この定義で見ていきます。そもそも、日本語の文章として奇妙ですが。

 着色した部分を読むと、それって「科学」じゃないの?という疑問が沸きます。「日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し」と書かれていますが、日常生活する人は疑問に感じてもそれを「証明」しようとはしません。この部分はむしろ、「説明できない秩序が存在し」とした方が分かりやすいと思います。しかし、東京大学名誉教授柳川先生の定義なので、別の思惑があって書かれたのでしょう。

 この定義を読むと、日本人は無神論者だ、という主張は奇妙に聞こえます。このような主張をする人は、ユダヤ教(キリスト教、イスラム教)、仏教以外は宗教とは認められず邪心教だという考えが根底にあるように感じます。

 しかし、定義には、そのような伝統宗教は出てきません。

 「日本人は無宗教主義者だ」と言いたい人たちは、自分は歴史あるキリスト教やイスラム教信者だと言いたいのでしょうが、この二大宗教のせいで世界の人民は不幸になっている実態があります。さらに、同じ宗教を信じる人たちの間でも、宗派が異なると争いになる。宗教という言葉の定義の外の争いなので、これは宗教の争いではなく、単に私利私欲のため、権力闘争のように感じます。

 なお、「無神論」と「無宗教」は別物で、Wikipediaには「狭義の無神論は、神が存在しないことを積極的に主張することである。この点において、無神論は一種の思想であり主張である。一方で、無宗教とは宗教的主張がないことであり、神の存在を必ずしも否定しない。無宗教者の中には、特定の宗教に属していないが、神に類する超越的存在を認めている者もいる。」とあります。

 ちなみに、日本語が得意なChatGPTは次のような定義を生成しています。

宗教は、信仰体系や信仰の実践を通じて、人々が神々、超自然的な存在、宇宙の根源、人間の存在意義、倫理規範などに関連付けられる信念や価値体系のことを指します。一般的には、宗教は信仰、儀式、神聖なテキスト、神殿や礼拝場所、指導者や聖職者などの要素を含むことがあります。

宗教は、人々が宇宙や自己の本質に対する根本的な疑問に答えを見つけ、精神的な安定や意味を見出す手段として機能することがあります。宗教の目的は、個人や共同体の精神的な発展や道徳的な指針を提供し、信者にとっての最終的な目的や至上の存在に関する信念を形成することです。

宗教は多様であり、さまざまな信仰体系や教義が存在します。一部の宗教では、神や神々への崇拝や礼拝が中心的な要素となり、他の宗教では、内省や瞑想、道徳的な生き方、慈善活動などが重要視される場合もあります。また、宗教はしばしば共同体や文化の一部としても機能し、信者たちは共通の信念や儀式を通じて結びつきを感じることがあります。

ただし、宗教の定義や特徴は文化や時代によって異なる場合もあります。さまざまな宗教的な伝統や信仰体系が存在し、それぞれが独自の理解や実践を持っているため、一般的な定義で宗教を完全に網羅することは難しい場合もあります。

ChatGPT

 改めて柳川先生の定義を読むと、宗教と科学は根っこが同じであると気づきます。「宗教」は研究者の数だけ定義が存在すると言われるほど定義が定まらない曖昧模糊とした概念ですが、科学は証明できることが研究の対象となります。

 不条理な逆境に遭遇した時、日本人は「神も仏もないものか」と嘆きます。日本人にとって、神でも仏でも良い。この状況から救ってくれるなら、という意識の表れなのかも知れません。

 「苦しいときの神頼み」などと言う言葉もあります。そして、それは間違っていると考えるのが一神教の人たち。「苦しいときだからこそ、そこから救ってくれるのは当たり前じゃないか」と考えるのが日本人なのかも知れません。苦しいときに救ってくれない神仏はいらない、という考え方でしょう。

 一神教の人たちからすれば、このような人間はご都合主義と軽蔑の対象でしょう。つまるところ、軽蔑の対象になっている日本人の無信教主義。でも、日本人は、ほんとうに無信教かと言えば、そうとばかりは言えない。 

空気神社

 皆さんは「空気神社」って知っていますか? 上の Pinterest の画像は、空気神社で巫女舞を舞っているシーンのようです。

 この「空気神社」は信仰対象の「神社」ではなく、宗教とは無関係なもの。山形県朝日町の雄志の方々がモニュメントとして作ったものなのだそうです。できたのは1990年のこと。当然、氏子も神主もいません。

 この写真が「空気神社」という単語とともに紹介されていれば調べるのは簡単です。しかし、管理人が最初に見つけた写真はとても神秘的なものでした。それが下の画像です。

 まるで、湖のほとりで巫女が玉串を奉納しているような写真です。水面に映る顔が分かるほど綺麗に映り込んでいます。こんな写真をどうやったら撮影できるのか不思議でした。写真の説明は一切なく、どこで撮影されたものかも分からずじまい。現在ネットで探しても、この画像を見つけることは難しいと思います。

 水面に恐ろしいほどクッキリと人物が写り込んでいます。こんなことはあり得ない、と思ったのですが、この角度の合成写真を作るのは無理。この写真が空気神社で撮影されたものだと分かったとき、謎が解けました。水面に映っているとばかり思っていたのは、ステンレス板の反射でした。どおりで綺麗に映り込んでいるはずです。 

 

Image: Wikimedia, 空気神社

 ここでの参拝の作法は、「二拝四拍手仰ぎ一拝」。しかし、それって誰が決めたのでしょうか。空気神社は宗教とは無縁の単なるモニュメントです。それなのに拝礼の作法が定められています。日本の神社の実態が分かるようで楽しくなります。

 日本の神社の儀礼は、人間が定めるものなのです。その方式がおかしいとは、祭られている神様は決して言いません。

日本人は無信教は「うそ!」。何でもかんでも神様にしてしまう国民

 管理人が海外赴任するとき、無信教というと変に思われるから、何か言った方が良いと先輩方にアドバイスされました。

 葬式は仏式で結婚式は神式。これのどれが信仰している宗教なのかと問われたら困ると戸惑った記憶があります。

 では、日本人は神様を信じていないかと言えばそんなことはありません。毎年、元日にはどこの神社も大変な人出で賑わいます。神社ばかりではなく、お寺も同様です。そして、お賽銭を投じます。

 神社に行って自分のお金ではなく、女子アナウンサーから借りてお賽銭をあげるのは「ブラタモリ」のタモリさんくらいでしょう。そして、お賽銭をホストバーにつぎ込んだ罰当たりな女神主もいましたが、弟に殺されました。姉も弟もお賽銭に目がくらんだ罰当たりということなのでしょう。

 上で紹介した空気神社も含めて神社の敷地は荘厳な雰囲気が漂っています。通常の神社は、数百年から千年以上の歴史のある施設です。それを氏子の皆さんが支えてきたからこそ現存している。お寺は総代の方々により支えられています。ホスト狂いの女神主など日本宗教界の恥です。それを諫められない氏子しかいないのでは、もはやその信仰の終末を迎えています。

 日本人は、特定の神様を信じるという習慣はありません。神様選びで最も重要なのが「御利益があるか」ということです。家内安全、病気平癒、さらには縁切りまで、人間の欲求の数だけ神社が用意されているように感じます。病気は、身体の部位や病名まで事細かく分かれ、専門の神社が存在します。こんな信仰は世界中探してもありません。あるはずもない。何しろ、とげ抜き地蔵まであるのですから、世界と比較する気力も起きません。

 これはまさに、日本が産んだ宗教のあるべき姿・・・なのかも。

 日本人にとって、信仰する対象は自分で選ぶもので、誰かに強制されるものではありません。御利益を感じられなければ、すぐに神社を変えます。先祖代々受け継がれてきた宗教的風習も、御利益がなければ数代で廃れていきます。それが日本の宗教観念です。

 戒律ばかり厳しくて、御利益を期待すること自体禁じられているような宗教は、日本人には馴染まない。この厳しい戒律が人間性を無視したものであるため、聖職者が性職者となる犯罪をよく耳にします。キリスト教の教会は性職者の巣窟、との認識が信者の話題の種になっています。カトリック教を信じている国に赴任すると、この手の逸話に事欠かない。信者が聖職者を性職者と言っているのですから、そんな宗教が長続きするはずがないと思うのですが、何千年も続いている不思議。

 彼らが生き残るための方策として選んだのが「迫害の歴史」です。これを宣伝することで生きながらえてきた哀しい宗教と感じます。何しろ、地球の裏側、ボリビアの教会に長崎の日本二十六聖人殉教のフレスコ画があるのですから、迫害されることを布教の宣伝に使っているのは明らかでしょう。現世御利益を戒め、迫害死した人を聖人として称えるという独特な宗教観を形成しています。

 宗教創始者ではなく後世の人たちが勝手に作り出した戒律の被害者です。聖職者も信者も共に被害者です。

 御利益を期待するのは日本人だけかと言えば違います。世界中、どの国でも「現世の御利益」を期待しています。人間なので考え方は基本的に同じ。現世御利益のない宗教など詐欺と同じです。

 特定の宗教に邁進している人もいますが、そういう人は、その活動によって「現世御利益」が得られるからやっている。組織の上位ポストに就くなどの目的があるのでしょう。

 悪いことをすると地獄に落ちる、のが怖くて悪いことはできないという犯罪者はいません。日本では、「神様が見ている」ではなく、「お天道様(おてんとうさま)が見ている」と太陽を神として捉えた言い方をします。ことわざの中でさえ、神は「太陽」など抽象的なものなのです。

日本人の根本思想は、全てのものに神が宿る 

 一神教を信じている人たちから見れば、日本人は神を信じていない、と映るかも知れません。しかし、神を信じていなければ、神社に寺院にも詣でることはありません。そして、それらの施設が数百年、千年以上も続いている筈もありません。

 世界の三大宗教を信仰する人たちからすれば、日本人の信仰はとても初歩的な原始宗教、アニミズムと見下す傾向があります。自分たちの宗教こそが宇宙原理に基づいているという発想なのでしょう。西洋人特有の匂いがする発想なのですが、ヨーロッパに憧れた日本のお年より達はこの考え方を支持する傾向があります。パリに長年住みながら、こっそり日本食を食べているおばあさん達です。

しかし、それが原因となり、過去のみならず現在に至るまで人々を不幸に陥れているのが、彼らが信仰する宗教です。それは世界各地で発生している紛争の根源が、宗教の違いによって生じていることからも明らかです。

 三大宗教の創立者は、そんなことは言っていない。創始者の後継者と称する後の人たちが自分の都合のいいように作り出したルールに従って、自分の利益になることに邁進している。ルール作りの手法は、まさに、空気神社の拝礼作法を見れば分かります。後の人たちが勝手に作ったのです。信仰している神様が指示したわけではありません。

 世界三大宗教の信者が馬鹿にするアニミズムですが、実は、三大宗教より古い歴史があります。特定の教祖が作り出して、後の人たちが勝手にルール作りをした宗教ではなく、アニミズムは自然発生的に生じた信仰です。人知の及ばない不合理な自然災害。台風、地震、火山噴火、津波、洪水、土砂崩れなど、日本は自然災害大国です。そんな環境に生きてきた日本人に特定の神の存在を説いても誰も信じません。そもそも、キリストは、津波も地震も台風も知らない人です。日本人の苦悩を彼はどうやって理解し、どのように理解しているのか、誰にも分からない? 信者が救いを求めても、その災害は自分の知識の範疇外です、と逃げられそうです。

 ここで改めて感じるのは、日本人に染みついた自然に対する畏敬の念です。それは、決して日本人だけの特性ではなく、世界中の国で見られるものです。しかし、日本以外の国では、特定の宗教により、それが覆い塞がれています。特定の神を信じなさい、という教えです。

 幸いなことに、日本では三大宗教による国民の精神侵食が防がれました。日本には「しんとう」がある。日本には天皇がいるじゃないか、という意見もあるでしょうが、天皇が時の権力者によって操られていたことが歴史研究により明らかになると、現代日本において天皇を神と崇める人はほとんどいないと感じます。そもそも、歴史の話しではなく、宗教の話しとして「神道とは何か」を説明できる日本人などほとんど皆無でしょう。

 じゃぁ、天皇は不要かと問われれば、そんな質問をする人の身体調査をすべきかと感じます。どのメディアか?、どの活動家か? たぶん、どこかの国の工作資金をもらっている。その人は、高級車に乗っていませんか? 高級マンションに住んでいませんか? 公表している職業収入と見合わない優雅な生活をしていませんか? ということです。

 国民に愛される天皇家。日本国民はそれだけで満足です。

 日本人の発想は、全てのものに神が宿る、というもの。誰に教えられたわけでもないのに身についた考え方。道ばたの石にも、森にも、山の岩にも神が宿る。だから、中国人や韓国人を瞬時に見分けることができます。彼らは日本人ならこんなことはやらない、と思うようなことを平気でやるからです。

 エチケットやマナーといった言葉で説明する人がいますが、それって、「外国語でしょ」。

 日本語で答えてください。

 エチケットやマナーといった外国語を借りて表現している用語を日本語にしようとすると様々な難しさに遭遇します。

 あるラーメン店で韓国人ユーチューバーがさっきまで地面に立てていた汚い三脚をカウンターに置いて生配信している光景を見かけました。これって、マナー違反? それともエチケット違反? 日本人ユーチューバーなら絶対にやらない行為です、・・・と信じたい!

 マナーでもエチケットでもない! 国民性の違いでしょうか。日本人なら、「親の顔が見たい」という行為ですが、彼は何とも思っていないようです。日本人が感じる違和感を理解できないのです。

 別の例では、道ばたで携帯電話で話している若い中国人。吸っていたタバコをそのまま道ばたに投げ捨てました。管理人が記憶する限り、このような光景を見たのは昭和30年代以来かも。吸い殻を消すそぶりすらなく、携帯電話に集中しています。これも、中国人でよく見かける光景です。携帯電話で話していれば、全てが許される、と勘違いしているように感じます。

 日本人がマナーが良くなったとかエチケットか良くなったとかという批評は欧米に比較してという、外国も知らない自称評論家達のコメントです。たしかに、前述の韓国人や中国人のような行動は、昭和の時代には当たり前でした。しかし、それは、「昭和」のお話。当然、現代社会でそんなことをすれば、批判されます。

 ただ、全てのものに神が宿る、という国民の共通意識は昭和の方が高かったように感じます。貧しい時代だったので、とにかくあらゆる”もの”を大切にしました。そして、(伝統的な)神様に対する信仰も深かったと思います。貧しい時代だったからこそ、宗教的な忌諱に触れる行為に対しては、強烈な批判が起きました。

 水も火も土も大切にされました。町のあちこちに手押しポンプの共同井戸がありました。いろりの火は種火とするため灰を被せ、翌日にすぐ使えるように火種が保持されました。山林は落ち葉を集めることでこれを維持し、集めた落ち葉は堆肥にし、畑の土壌改良に使われました。

 山、海、そして岩や巨木の神様を祭る祭司が執り行われていました。

 全てのものに神が宿るという日本人の発想は、生活の至る所に神様を創り出しました。竈(かまど)の神様、板場(床下)の神様、便所の神様、などなど。

 一歩家の外に出ると、道ばたにはお地蔵様や観音像が鎮座しています。山に行けば、巨岩や大木には神様が降りた神聖な場所を示す「しめ縄」が張られています。神社仏閣に至っては言に及ばず、です。

 このような日本が、なぜ、無信教と言われるのか。結局、そう言っている人の価値観のレベルなのだと気づきます。

 日本人ほど信心深い国民は世界的に珍しいのではないか。そう思えてきます。

 日本人は、ほんとうに無神論者なのでしょうか。なぜ、現世御利益を期待してはいけないのでしょうか。何のための宗教なのでしょうか。

 この疑問が、冒頭で宗教の定義にこだわった理由です。

 外国人観光客にアニメの聖地巡礼が人気だと聞きました。もし、そうであるのなら、日本人の宗教観をアニメでもっと発信して欲しいと思います。

 そうすれば、日本人の宗教観はこうだと、胸を張って外国人にアピールできるのにと感じました。

 人知を越えた災害大国だからこそ育まれた宗教観。原始宗教は結局は住民の気持ちに寄り添っているという事実。神を自由に選べるほど多彩な八百万の神の存在。たくさん神がいるから、他の神様を信仰しても神々は誰も怒らない、という信仰の自由と神々のおおらかさ。御利益がなければ廃れる神々の葛藤。千年以上、神社仏閣を支え続ける氏子や総代の存在。

 こんな宗教を持つのは世界の中でも日本だけでしょう。

 しかし、そんな特性があるからこそ、日本人は新興宗教に騙されやすい、という特性があります。何のことか分かりますよね。

「日ユ同祖論」によれば失われた古代イスラエルの12部族は日本に来たかも

 古代イスラエルの12部族が日本に来たというトンデモ説がありますが、日本人はユダヤ教を信じていません。万に一つ、「日ユ同祖論」が正しいとしても、ユダヤ教とは無関係と言うことになります。

数日前、NHKダークサイドミステリーで「日本とユダヤの謎めいた関係を検証」という番組が放映されました。それによれば、「日ユ同祖論」は新しい説で、Wikipediaには次のように書かれています。

明治期に来日したスコットランド人のニコラス・マクラウド(ノーマン・マクラウド、N・マクレオッドは、日本と古代ユダヤとの相似性の調査を進め、世界で最初に日ユ同祖論を提唱、体系化した。日ユ同祖論の歴史は、彼の日本での英語の著作The Epitome of The Ancient History of Japan(『日本古代史の縮図』、長崎日の出書房、1878年)と Illustrations to the epitome of the ancient history of Japan(『日本古代歴史図解』、京都、1878年)によって始まった。

Wikipedia, 「日ユ道祖論」

 Wikipediaのこの項目はかなり充実しているように見えるのですが、明治以降の事柄をあれこれ並べているだけという印象も受けます。自己流で誰からも指導されたことのない人の文章の書き方になっています。

 英語版のWikipediaの方がまっとうな記述になっていると思います。

 日本語版Wikipediaは、結局、そもそも論の部分には一切触れずに書かれています。そもそも論とは、古代イスラエルの12部族についての記述。結局、そのような史料は一切存在しないのです。12氏族について書かれているのは「旧約聖書」の『列王記』16:9および15:29。それ以降の史料はありません。Wikipediaには「○○説では」、という例がたくさん挙げられていますが、その出典は一切ありません。史料に基づかない「仮説」、「作文」だからです。

 紀元前722-720年、イスラエル王国がアッシリアに敗北し、10部族が追放される(「失われた10部族」)(駐イスラエル日本大使館HP)。分かっているのはこれだけです。史料が存在しないのですから、「数人が日本にたどり着いた」などと書けるはずもありません。このようなことを平気で書く人がいますが、それはネタとして書いていることが分かります。

 Wikipedia英語版、’Ten Lost Tribes’には、「ユダヤの歴史家ヨセフス(37-100年)は、「現在でもローマに服従しているアジアとヨーロッパの二つの部族があるが、ユーフラテス川を越えたところに十の部族があり、数で評価することのできない膨大な人々である」と述べています。」と記されています。

 今回のダークサイドミステリーの番組では、古代ヘブライ語と日本語とで「音が似ている」、「紋章が似ている」などの「日ユ道祖論」者が主張する点を批判的に検証していましたが、今ひとつ切れ味に欠ける内容になっていました。そもそも、何の専門性もない専門家でもない人をコメンテーターとして登場させても番組の価値を低めるだけです。

 管理人としては、日ユ道祖論を最初に提唱したニコラス・マクラウドについてもっと調べて欲しかったと感じました。なにしろ、この説の言い出しっぺなのに、この人物のことを誰も知らないのです。

 マクラウドはどれほどユダヤ教に精通している人間なのか。それが分からないと、彼の書いた文章の深さが理解できない。マクラウドはキリスト教徒で、単に、ユダヤ教の祭典に出席したことがある程度の知識なのか、それとも敬虔なユダヤ教信者なのかなどの疑問を解くカギが、一切分からないのです。

チューダー・パーフィット(Tudor Parfitt)は、「イスラエルの起源に関する幻想の広まりは、西洋の植民地企業の一貫した特徴となっている」と述べており、次のように述べています。

実際に、私たちは日本において、太平洋地域で最も注目すべきユダヤ的な過去の想像が進化していることが分かります。世界の他の地域と同様に、この国のある側面がイスラエルのモデルを通じて説明されるという理論は、西洋の関与者によって紹介されました。

研究者兼著者のジョン・エンタインは、日本人とユダヤ人の間に重要なつながりがある可能性を排除するDNAの証拠について強調しています。

大航海時代において、ヨーロッパの探検家たちは最初に接触した多くの民族と「十失われた部族」とつなげようと試みました。時にはキリスト教伝道師を導入する試みとも結びついていました。東アジアの国と失われた部族を関連づけた最初の人物は、イエズス会の宣教師で通訳でもあったジョアン・ロドリゲス(João Rodrigues: 1561年-1634年)でした。1608年、彼は中国人がイスラエルの失われた部族の子孫であると主張しました。彼は中国の賢人である孔子と老子がユダヤ教からアイデアを取ったと信じていました。しかし、ロドリゲスは後にこの理論を放棄しました。彼の『日本教会史』では、彼は日本が大陸からの二度の移民の波によって人口が形成されたと主張しました。一つは浙江から、もう一つは朝鮮からのグループです。

チューダー・パーフィットによれば、「この理論の最初の本格的な発展は、ニコラス・マクリオド(Nicholas McLeod)によって提案されました。彼は、イワシ業界でキャリアをスタートさせたスコットランド人で、その後宣教師として日本にたどり着いた」と述べています。マクリオドは1870年に『日本古代史要』を出版しました。ツヴィ・ベン=ドール・ベニテ(Zvi Ben-Dor Benite)によれば、マクリオドは宣教師であり、数十年にわたって日本と朝鮮で「真のイスラエル人」を探し続けました。また、『日本古代史要』の挿絵において、日本人にはイスラエルの失われた部族の子孫であると主張し、彼らが貴族や伝統的な祭司階級を形成していると述べています。この理論の根拠として引用された証拠には、天皇神武とモーセの伝説の類似性、一部の日本人に見られる「ポルトガル系ユダヤ人」の人種的特徴、および神道とユダヤ教の類似性が含まれています。

Wikipedia, ‘Japanese-Jewish common ancestry theory’ , ChatGPTによる和訳

 さて、振り出しに戻りましょう。

 ニコラス・マクラウドが書いた「The Epitome of The Ancient History of Japan」にはどんなことが書かれているのでしょうか。暇な人は読んでみてください。

 目次は次のようになっています。読む気力が失せる目次立てですね。本の冒頭にある目次と本文の項目立てが一致しないお粗末な本です。

 とりあえず、このバージョンでアップします。ニコラス・マクラウドの本を読む気力が沸かないし、日ユ道祖論も関心がない。以前、外国人が書いたこれに関連する本を読んだのですが、食傷気味という内容でした。

 そもそも、ユダヤ教を捨てた人はユダヤ人ではないし、10氏族の一部が日本までたどり着き、日本人の祖先になったとしても、信仰を捨て聖書に無関心な日本人になった、という結論ではお笑いの世界です。ニコラス・マクラウド氏はどう考えていたのでしょうか。

 「隠れユダヤ教徒」として2000年の時を超え信仰を継続している、というストーリーにならないのなら、つまらない。日ユ道祖論なんてネタとしてさえも成立していない気がします。

 ユダヤ教徒の中に日ユ道祖論に関心を示す人がいるとすれば、「10氏族が日本までたどり着き、無信教徒になった」、というストーリーではなく、二千年以上の時を経ても、どこまでもユダヤ教を信仰している人たちがいる、ということを前提としていると感じます。彼らにとって、ユダヤ教を信仰していない人は、同胞でも同じ部族出身者でもなく、赤の他人だからです。あるいは、異教徒の敵と見なす可能性もあります。というのは、ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じる人たちのことで、民族も人種も一切関係ないのです。

 それを勘違いしているのが、日本の一部のネット民。「民族」と「氏族」、そして、「ユダヤ教」について勘違いしている人たちがいるようです。他の宗教に改宗した10氏族などユダヤ教徒には何の関心もない存在なのです。それに食いつくのは「民族主義者」と言われる人たち。危ない世界なので近づかない方が良いでしょう。

 こんなトンデモ話に時間を使うより、たとえば、奈良大学の田中文憲氏が大学の紀要に発表した「ジェイコブ・シフ -ユダヤ人銀行家-」を読むのがためになる気がします。明治政府の資金調達と欧米の銀行団との交渉過程が詳しく書かれています。

 この論文の中で管理人が初めて知ったのは、ロシアにおけるユダヤ人への迫害でした。明治から大正にかけての日本政府の外債による資金調達。熾烈を極めた環境の中で高橋是清が何度も登場する論文なのでとても興味深く読みました。

 都立小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」には、高橋是清邸が移設されています。本サイトでは池田七帆ちゃん関連で「江戸東京たてもの園」は紹介していますが、二・二六事件で暗殺された高橋是清邸は未紹介のままです。そのうち書きたいと思います。

追記します。13ページまで読んでみました

 「The Epitome of The Ancient History of Japan」を13ページまで読んでみましたが、はっきり言って呆れてしまう本ですね。本の冒頭にいきなり日本にはユダヤ人がいることを前提とした書き方になっていて、黒人も登場します。そして、それについては何の説明もない。神武天皇と織田信長、太閤秀吉、徳川家康、天皇、アイヌの人たち、日向、鹿児島。登場人物や場所はほぼこれが全て。この登場人物で話しを組み立てるのですから、何を言っているのか意味不明です。

 まるで、連載小説を途中から読み始めたような印象を受けます。書いてあることはむちゃくちゃ。本を書いたことのない人の特徴的な文章になっていて、読むのがつらい。文書構成が論理的ではなく、思い込みを羅列しただけの文章なのに、マクラウドは、一切の根拠も示さずに、わずかな事例を示したことで全ては証明済みのことというスタンスをとり、「読者は理解できる」と思っているようです。

 この内容では、とても文献とは言えない。単なる聞きかじりの羅列に過ぎません。根拠を一切示していないのに、自分では根拠立てて文章を書いていると勘違いしている。邪馬台国に関する本で原田氏が書いた内容がまさに同じ書き方です。

 これでは、「日ユ道祖論」を紹介する人も、マクラウドの本の中身は紹介できないはずです。

 この本のネタ本があるのではないかと感じました。得体の知れない著者ニコラス・マクラウドの感想文・日本旅行聞きかじりメモというのがこの本に対する最適な評価でしょう。 

 ニコラス・マクラウドという人物は、スコットランドのスカイ島出身で、貿易商とも宣教師とも言われています。

 

 Wikipedia英語版 ’Nicholas McLeod’ には次のように書かれています。

「ニコラス・マクラウド(1868年-1889年頃)は、スコットランドのスカイ島出身であり、日本人が失われたイスラエルの部族の末裔であるとする彼の理論で知られています。

チューダー・パーフィット(Tudor Parfitt: 1944- )によれば、マクラウドは、「ヒエリング業界でキャリアをスタートさせた後、宣教師として日本に辿り着いたスコットランド人」とされています。

それ以外には、彼に関してはほとんど確かな情報がありませんが、彼は1878年に長崎で『日本の古代史の要約』(カバータイトル:『日本と失われたイスラエルの部族』)という本を出版し、また京都で『日本の古代史の要約の挿絵』というタイトルで別の本を出版したことは分かっています。

これらの非凡な本の主題は、日本の神聖な階級が失われたイスラエルの部族の末裔であるというものでした。彼は、日本の最初に知られている王であるオセ(Osee)は紀元前730年に即位し、722年に死んだイスラエルの最後の王ホセア(Hoshea)と同一視しました。これらの本には、ユダヤ教と神道の宗教儀式の比較など、古代イスラエルと日本のつながりの証拠としての広範な比較が含まれています。

マクラウドは、1878年に出版された『日本の古代史の要約』を、「ウィリアム・マッケンジー牧師(スコットランド、ノース・リースフリー教会出身)」に捧げました。ツヴィ・ベン=ドール・ベナイトによれば、マクラウドは宣教師であり、日本と韓国で「真のイスラエル人」を探し求めるために数十年を過ごしたとされています。以下の引用は、マクラウドが日本の観察から聖書の預言の成就を結びつける例です。

「日本の文明化されたAa.イヌス、トクガワ、および大都市の町の人々は、最初にジンム天皇によって建てられたテント型の家に住むことで、ノアの預言に基づいており、ヤペテの『彼はシェムの天幕に住むであろう』という言葉が実現しています。」(マクラウド、1878年、p. 7)」

Wikipedia, ‘Nicholas McLeod’, ChatGPT和訳

 以上、Wikipediaの引用ですが、少し補足すると、アイヌについては、彼の本の中で「この言葉は日本語の「アア」という卑しむ意味の言葉と「イヌ」(犬)という言葉から派生しています。」と書いています。実際には「アイヌ」という言葉は、アイヌ語で「人間」を意味します。マクラウドのデタラメぶりが分かると思います。

 上で紹介したイスラエル大使館HPでは、10氏族がイスラエルから追放された年代を紀元前722-720年としています。

 神武天皇が即位したのが、紀元前660年2月11日。10氏族追放から60年あまり後のことになり、辻褄が合います。この間に、イスラエルからはるばる日本までやってきたのでしょう。なんてね。

 神武天皇の即位の年は、日本書紀編纂者が計算で算出した辻褄合わせの年代だと言うことをマクラウドは知らなかったのでしょう。10氏族が日本に来て読み書きを教え、記録を残してくれていれば、日本書紀編纂者も苦労しなかったのに。

 マクラウドが宣教師として日本にやってきたという情報が正しいとするならば、やはり、宣教師を追放した家康が正しかったと感じます。こんな思想の人間がキリスト教布教活動に携わっていたと考えるだけで恐ろしい。

 引用文献
1. N. McLeod,’Epitome of the Ancient History of Japan’, 1878