葛飾北斎の謎を追う

古代の謎・歴史ヒストリー

はじめに

 江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎。「富岳三十六景」「北斎漫画」などの代表作で知られる北斎を知らない人はいないのではないかと思います。

 そして、海外でもとても有名な人物です。1999年にアメリカの雑誌『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一選ばれたのが葛飾北斎でした(86位)。


   海外で最も人気のある北斎の「神奈川沖浪裏」 GIFアニメーション版

 北斎のお墓は、浅草の「誓教寺(せいきょうじ)」にあります。

 ぶらりとお墓参りをしたとき、墓前に花が添えられていると、故人の現在における人気のバロメーターのように思えます。

 例えば、2013年11月8日に亡くなった歌手の島倉千代子さん。彼女のお墓は品川の東海寺にあります。長州ファイブの一人で日本の鉄道の父とも称される「井上勝」のお墓の隣にあります。井上のお墓には花1本供えられていないのですが、島倉千代子のお墓にはたくさんの花が供えられていました。
  Photo: なんでも保管庫

 葛飾北斎については、調べている人がたくさんいて驚いてしまいます。

 今回、管理人が『北斎のなぞ』を書くにあたり、他の研究者にはとても太刀打ちできないので、視角を変えることにします。

 このサイトのなぞ解きの記事は、誰も見たことも聞いたこともない新たな説を唱える・・・ことに執着しているのですが、なかなか思い通りにはなりません。

 管理人が北斎についての様々な情報に触れて感じたことは、北斎がなぜ長寿だったのか、という極めて素朴な疑問に誰も答えを持っていないということでした。書かれている内容は、とても”なおざり”。知識としての情報しか持っていない人たちの書き方のように感じました。

 そこで本記事は、葛飾北斎がなぜ長生きをしたのか、という視点で書いていきたいと思います。

 記述は、「葛飾北斎伝」(飯島虚心著、1893)をベースとします。その理由は後ほど出てきます。

北斎の生まれは?

 北斎は、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉に生まれました。他の資料では、『江戸本所割下水の百姓・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎。四、五歳の頃、本所松坂町に住む幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となる。』というような記述も見受けられます。これがおかしいことは直ぐに分かります。

 宝暦10年に江戸本所割下水という場所に百姓の川村氏が住んでいたのでしょうか? そもそもその場所は、現在の住所でいうとどこにあたるのでしょうか?

 北斎生誕の地とされている「江戸本所割下水」は、東京都墨田区亀沢2丁目15−10。現地に「北斎生誕の地」という案内柱が立っています。

 ここを目印にGoogle Earthで幕末、1858年の古地図を重ね合わせてみると、そこには武家屋敷が並んでいます。昔は、武士・寺の区域と町民の住む区域は明確に区分けされていました。ここは『百姓の川村氏』が住める場所ではないようです。この百姓の子や養子の話は、北斎の孫娘白井多知女の遺書に依っているのですが、間違っているように思います。

北斎生誕の地 1858年古地図

北斎生誕の地 1858年古地図拡大

  Source: Google Earth

 「葛飾北斎伝」には、北斎の出自について次のように書かれています。

 父は、徳川家用達の鏡師であった中島伊勢、母は、吉良上野介の家臣で、赤穂義士の討ち入りの際に討ち死にした小林平八郎の孫にあたる人なのだそうです。北斎自身が自らの出自をそのように話していたとか。

 そもそも、百姓の子供が武家に養子に入るなどあり得ない。神童といわれるような、とりわけ聡明な子供ならばあり得るかも知れませんが、養子に出たのが4、5歳ということなので、この線はない。北斎の長男は旗本の家に養子に出ているので、やはり、北斎は武家の出身と見るのが妥当なように思います。「葛飾北斎伝」では、北斎の母は、吉良上野介の孫娘であったという説があることも紹介しています。

 面白いことに、他の説で出てくる養子先である本所松坂町の家があった場所は、吉良上野介が討ち取られた正にその屋敷があった場所。どちらの説が正しいかは分かりませんが、忠臣蔵との関係が深そうです。

北斎はなぜ長生きできたのか

 葛飾北斎は88歳の天寿を全うしました。亡くなったのは、1849年5月10日(嘉永2年4月18日)のこと。数えでは90歳。江戸時代後期に88歳まで生きたのですから、かなり長寿だったと言えます。

 弘化3年閏5月10日生まれの皇女和宮は、この時3歳でした。幕末については、和宮を中心に考えるのが管理人のスタイルです。

 管理人の最初の疑問は、北斎はなぜ長生きできたのかということ。というのは、北斎の生活はお世辞にも健康的であったとは言えないからです。

 家の中はゴミだらけ。ゴミが溜まると引越。これを繰り返し、生涯で93回も引っ越ししたことは有名な話です。さらに、食事は出前をとっていたとか、よそから頂いた生魚は調理が面倒なので誰かにあげた、布団に入ったままで絵を描き、眠くなったらそのまま寝た、など長寿とは無縁の暮らしぶりだったようです。


      お栄(応為)と北斎、露木為一「北斎仮宅之図」

 北斎は酒・タバコはやらなかったそうですが、健康的な情報はこれだけ。どう考えても、同世代の人たちよりも長生きしそうにありません。同居していた出戻り娘のお栄はタバコを吸っていました。北斎にとっては間接喫煙していたことになります。でも、北斎が肺の病に罹ることはなかったようです。

 管理人と同じ疑問を持った方が『Yahoo!知恵袋』に質問していました。その回答を参考に見てみましょう。この手の話題にとても詳しい方がたくさんいます。

 質問 「葛飾北斎はかなり長命でしたが、なにか特別な食事か療養をしていたのでしょうか?」(Yahoo!知恵袋

 回答 「着ている着物はボロボロ、まともに掃除もしないため部屋はゴミや埃や塵だらけ(部屋が汚れるたびに引っ越ししたという。引っ越し回数は生涯に93回。ただ70代半ばでも56回というので、死ぬまでの約15年で40回近く引っ越ししたことになる)、買ってきた食べ物も皿にもらず、箸も使わず手でつまみ、食べたものは散らかしたままという、まあ不潔極まりない状態で生活していたこと。

 生活は赤貧そのもので、版元にも借金を申し込み(そのくせ金には無頓着)、70代では素行の悪い孫には手を焼くなど、私生活も決していいという状態ではない、普通ならとても90歳まで生きられる状態ではありませんでした。

 ただ不潔極まりない生活をしていた北斎も、健康には気を使っていたようです。

 絵師の河鍋暁斎によると、北斎は酒もたばこも一切やらず、お茶も上等なものは好まなかったといいます。食事には全く気を使わず、娘の阿栄が買ってきたものや、人から貰ったものを食べる程度でした。ただお菓子だけは大好物でしたが。

 そのくせ薬は自分で作っていました。70歳手前で脳卒中に襲われた時は、自分で中国の医学書を調べ、ユズを煮込んで作った漢方薬で治療したといい、またリュウガンを乾燥させたものと砂糖、焼酎を混ぜたオリジナルの「長寿の薬」というものもあり、これを朝晩2回服用してたため、そのため晩年も健康であったといわれます。」(”jasonkodai2199“さんのベストアンサーを引用)

 上の文中で「阿栄」とは「お栄(葛飾応為)」のことですね。北斎の生活を見ていると、とても長生きできるようには思えません。酒やタバコはやらなかったとしても、このような生活、そして食事では長生きできるとは思えません。でも、北斎は88歳まで生きました。

 管理人がこのことにこだわる理由は、もし北斎が68歳の時に患った中風(脳溢血)で死んでいたら、これほど有名にはならなかったと思うからです。代表作である錦絵『富嶽三十六景』が描かれたのは北斎が72歳の時です。そして、75歳の時に絵本『富嶽百景』、『絵本忠経』が刊行されています。

 幕末・明治維新の歴史を見ていると、結局、長生きした人が他の人の手柄を総取りにしている、という構図が見えてきます。北斎の場合はなんと言ってもその圧倒的な数の作品数。やはり、長生きが名を残す秘訣のようです。

 生涯現役の絵師。北斎の人生は、現代人にとってもうらやましいと感じてしまう。高齢化社会の現在、北斎の長寿の秘訣こそ、大きな謎なのではないでしょうか。現代の健康法に従えば、長寿などあり得ない生活を続けていた北斎がなぜ長命だったのか。不思議ですよね。

 なぜ、北斎は健康だったのか? 『Yahoo!知恵袋』の回答を読んでもその答えは見つからない。確かに、この回答はよく書けていると思いますが、少なくとも、管理人の疑問の答えにはなっていないと思います。

 北斎の長寿の根源はもっと別のところにありそうです。

食事とゴミ屋敷のなぞ

 長寿の理由としてまず着目べき点は「食事」でしょう。

 北斎は、料理は買ってきたり、もらったりしており、自分では作りませんでした。

 料理もせずにゴミ屋敷? でも、奥さんがいたはずです。

 この辺の情報が怪しいことが分かります。

 北斎の後妻”こと女”が亡くなったのは、北斎が中風を患った翌年(1828年7月4日)のことで、この時、北斎は68歳でした。それ以降も娘のお栄が同居していました。このような状況で、料理もせず、家の中は『ゴミ屋敷』だったとはとても考えられない。もし、『ゴミ屋敷』だったことが真実ならば、”こと女”もお栄も、北斎に負けず劣らず考えられないほどの『変人』だったことになります。まあ、お栄は変人だったようですが。

 このため、管理人は『ゴミ屋敷』であったというのは都市伝説だと考えます。確かに、その現場を見た人物がいたのでしょう。その記録を軽視するつもりはありません。でも、北斎はたびたび転居しており、”こと女”が北斎と一緒に同じタイミングで転居していたとは、管理人には思えないのです。引越にタイムラグがあったのではないか? 北斎だけが先に転居し、そこを訪れた人物が「ゴミ屋敷」と感じた。そんな気がします。

 たいして大きくない長屋です。余程ずぼらな奥さんでもそれなりに片付けるのではないでしょうか。

 ある場面を見た人の言動がそのまま北斎の人生全体のことであるかのように曲解されていると、管理人は考えます。

 ここで、再度書きますが、管理人の関心は、北斎の長寿の秘訣。北斎が不衛生な生活をしていたという根拠はどこにもないように思います。ボロを着ているのと不衛生は違います。書き損じの紙があちらこちらに散らばっているのと不衛生とは違います。先行研究を読むと、ここら辺を混同しているように思います。

  Wikipediaで「料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住んだときは、3食とも店から出前させていた。だから家に食器一つなく、器に移し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置した。土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた、女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した」という記述があります。

 このような記述からゴミ屋敷が連想されるようです。でも、ゴミ屋敷の住民が長寿とはとても考えられない。情報が間違っているのです。ひとつひとつの情報は正しいのかも知れませんが、それぞれの状況説明を無視して、それをつなぎ合わせた時点で間違いが生じているように感じます。

 そもそも長屋は6畳のスペースしかありません。そこに、台所と土間で1.5畳。住居スペースは4.5畳。ゴミが溜まったから引越を繰り返した、という主張は腑に落ちません。「ゴミが散乱」と「引越93回」という伝聞をつなぎ合わせて誰かが創作したもののように思います。

北斎の逸話の出典は飯島虚心の『葛飾北斎伝』のみ

 永田生慈氏が今年出版した『葛飾北斎の本懐』7) という本の中で、「北斎への評価は妥当なのか」という章を設け、北斎に関する情報が『葛飾北斎伝』にのみ依存している状況を指摘しています。

 永田生慈氏のこの書籍は、とても読みやすく、管理人のような素人でも理解しやすいような書き方がなされており、気に入りました。他者の説をこき下ろすことで自説を主張しようとする他の作家の書く文章に辟易していたので、『葛飾北斎の本懐』という書物に惹かれました。彼の文章の特徴は、自分の考えを述べるにあたり、その根拠となる出典を徹底して明らかにしていることです。そして、出典に書かれてあることが複数の資料から確認できない場合には、それを明示しています。

 このようなことは本来、当たり前のことのように思えますが、現実に本を書こうとすると、それができないのです。膨大な量の文献を読みこなしているからこそ出来る書き方なのです。「何を知ったか」ではなく、「何が分からないのか」ということ。前者は、ある本を読めば簡単に取得できる知識です。しかし、後者は、全てに精通していなければ、決して書くことのできない内容なのです。もし、書いてあるとしたら、他の研究者の発表を孫引きしているだけかも知れません。

 『葛飾北斎の本懐』で永田氏は、『葛飾北斎伝』に記載されている北斎の逸話を徹底的に検討しています。

 飯島虚心の『葛飾北斎伝』は、その出典を明らかにする書き方をしています。現代のいい加減なマスコミの書く文章とは違います。

 『葛飾北斎伝』のかき出し部分を読んで最初に感じたことは、どこかで見た記憶があるということでした。記憶を辿ると、それは、和宮に関する記録をまとめた書籍『静寬院宮御親筆詠草』(昭和二年)でした。

 『葛飾北斎伝』が刊行されたのは明治26年のこと。著者飯島虚心(半十郎)は、幕末のことが忘れ去られていく状況に危機感を感じたのでしょう。北斎の業績をまとめようとします。しかし、北斎が亡くなってから既に40年以上の歳月が流れています。北斎のことを直接知る、面談できた数人との記録をまとめたものが、現在巷に溢れている北斎に関する情報の”すべて”です。

 飯島虚心は、面談で誰が言ったことなのかを克明に記載しています。それを踏まえ、永田氏が行う分析は読み応えがあります。出典・根拠をうやむやにしながら自説の展開を図る一般の評論家やライターとは一線を画していると感じました。

 飯島虚心の原文を読むのは大変なので、岩波文庫から出ている鈴木重三校注の『葛飾北斎伝』を読んでみました。一通り丁寧に読んでみました。

 そこで分かったことは、人の話は信用できないということ。飯島もかなり苦労してこの本を執筆したようです。例えば、北斎は酒を飲まなかったのですが、大酒飲みだったと証言する人が現れたりしたようです。一定の画料収入があったはずなのに、北斎が生涯赤貧だったことから、酒で身上(しんしょう)潰した、という憶測が生まれたようです。

 しかし、飯島が調べていくと、それは根拠のないことだと分かり、やはり、下戸だったことが判明します。このような本をまとめる作業がいかに難しいものかを示す好例です。

 北斎についての次のような逸話は、すべて飯島虚心の『葛飾北斎伝』に拠っていることが分かりました。思った通りです。
1. 出生 (p.31)
2. 春好が北斎の看板を壊す (p.40)
3. 唐辛子売り (p.47)
4. 寝るとき蕎麦二杯 (p.48)
5. カピタンの絵の注文トラブル (p.62)
6. 達磨の絵 (p.67)
(ページは8)による)

 これらの逸話は、上下巻からなる『葛飾北斎伝』の上巻の最初の方に書かれている内容なのですが、それに対して飯島は様々な疑問を呈しています。その部分が逸話には反映されておらず、特定の記述のみが一人歩きしているようです。

長寿の秘訣は蕎麦か!?

 北斎は死に至るまで、寝につく前には必ず蕎麦を食べることを続けたそうです。

 やはり、蕎麦が長生きのもとだったのでしょうか。

 北斎はなぜ脳卒中になったのか。その時までの食生活とはどんなものだったのか。脳卒中になった後に食生活は変わったのか?

 実はよく分かりません。『葛飾北斎伝』には、北斎は寝る前に蕎麦を二杯食べていたという情報が書いてあるのですが、それがいつの時点の情報なのかは分かりません。しかし、脳卒中後のことであると思います。この手の情報は、最新のものであった筈で、そうであるならば、北斎晩年の食習慣ということになります。

 脳卒中の原因は、塩分の摂り過ぎ、と思った方は、情報通ではないようです。高血圧と塩分の関係は、証明されていません。60年前に発表されたわずかな症例に基づく説でした。減塩により様々な障害が発生する症例が多数報告されているようです。それが今日、大々的に信仰されている理由は、血圧降下剤で巨万の利益を得ている製薬会社のロビー活動の成果のようです。高血圧の人は、血圧降下剤を生涯飲み続ける必要があるからです。

 最近の研究で、高血圧の本当の原因とされているのが脂肪です。脂肪の塊であるプラークを取り除くことができれば血圧は下がります。血圧降下剤を使う必要はありません。その基本は、脂肪の多い食べ物は食べないこと。さらに、「煮る」「蒸す」といった油を使わない調理法を用いること。

 北斎が食べていた蕎麦は、値段が16文の二八蕎麦だったと思います。蕎麦なので、当然、油はまったく使いません。元々素食だった北斎は、卒中に罹患した後、蕎麦主体の食生活に切り替えたことで、長寿を全うしたように思えます。

葛飾北斎が作った脳卒中の薬を作ってみる

 北斎が68歳の時、脳卒中で倒れます。その時、自分で作った薬『そつちうのくすり』を飲んで完治し、その後はますます精力的に作品作りに励むことになります。

 北斎が作った『卒中の薬(そつちうのくすり)』とはどんなものだったのでしょうか。そんな良いものがあるのなら、是非飲んでみたい!

歌川国芳の団扇絵「名酒揃 志ら玉」改変「卒中の薬
 元絵は歌川国芳、団扇絵「名酒揃 志ら玉」

 そこで、早速作ってみました(笑)。

 まずは、作り方を調べます。これは飯島虚心の『葛飾北斎伝』上巻の50ページから51ページにかけて書かれています。

『そつちうのくすりの事 

 二十四時(とき)たたざる内に用ゐる 二十四時半時かけてもききます。

 極上々の酒壹合 ゆず一ツ こまかにきざみ、どなべにてしずかに、につめ、水あめくらいににつめ、さゆにて二度くらいにもちゆる。たねは につめた上にて とりすて候。』

 図には、

 ○ ゆず 
 ○ こまかにきざみ 
 ○ 竹へらにてきざみ候、鉋丁、小刀、鉄胴の類はきらひ申候
 ○ 鍋 鉄銅は、きらひ申候


 Source: 『葛飾北斎伝』上巻 pp.57-58、国立国会図書館デジタルコレクション より作成

 原文は読みにくいので、現代語訳すると以下のようになります。時間は不定時法。

 『卒中の薬のこと

 二日以内に服用。その後でも効く。

 材料は、柚子1個、特上の純米酒1合。柚子を刻み、土鍋に入れて静かに煮詰め、水飴くらいになるまで煮詰める。これを白湯に入れ、一日二度ほど服用。

 作るときの注意として、柚子の成分が鉄や銅を嫌うので、柚子を切るときは竹へらを用いる。』

 レシピが分かったので作ってみます。

【材料】
 柚子 2個
 純米酒 180cc(1合)
 水 3カップ

【作り方】

  • 柚子をきれいに洗い、水気を拭き取る。
  • 竹ナイフがないので、柚子の皮を手で細かくちぎって土鍋に投入
  • 日本酒を入れて、弱火で30分煮る。
  • すると、酒がほとんど蒸発するので、そこに、水3カップを加え、1時間半弱火でコトコト煮る。

 

 北斎のレシピでは水のことは書いていないのですが、水を入れないと長時間煮ることができないので加えました。2時間煮た柚子がこちら。自家製の『葛飾北斎レシピによる卒中の薬』です。これで脳卒中の心配ともおさらばです。

 味見してみたら、「・・・・」。砂糖が入っていないので、美味しいはずがありません。しかし、長時間の加熱により柚子の酸味はかなり飛んでいます。問題は、柚子の皮に含まれる苦み、というか”えぐみ”。

 これを美味しく飲むには、日本酒にこの液体を小さじ一杯入れて、・・・、(日本酒好きの管理人の発想です)。氷砂糖を入れても良いかも。また、できあがったシロップをホワイトリカー35度に漬け込むのも良さそうです。でも、グビグビ飲んでしまいそうで怖い!

 北斎が中風を患ったのは1827年(文政10年)、68歳の時。では、何月に発病したのでしょうか。記録はないのですが、『柚子』がヒントになります。柚子が市場に出回るのは10~12月のみ。北斎が罹患したのはこの時期だったことが分かります。

 レシピを見て気づいたのですが、このレシピのままだと柚子が出回る10月から12月頃しかこの薬を作れないことになる。脳卒中はいつ発病するか分からないので、やはり焼酎漬けが良いように思います。

長寿の秘訣は「クワイ」か!?

 ここまで乱れた生活を送りながらも北斎が長命だった理由として、クワイを毎日食べていたから、という説があります。

 特定の食材を「毎日食べたから健康」だったという説がうさんくさいのは、大抵の食材は、「毎日食べることは不可能」だからです。クワイの収穫時期は、9月頃から、翌年春先までのようなので、収穫期以外の時期は、当然、食べることができない。米などの長期保存が可能な食材とは違います。したがって、「クワイ長寿説」は最初からお話にならない説と言えます。

長寿の秘訣は歩くこと?

 北斎は、生涯で多くの旅をしています。長野県の小布施には4回も訪れています。それも最晩年にも訪れていることから、北斎が長距離を歩くということを厭わなかったことが分かります。

 ここから分かることは、北斎は、家に閉じこもってばかりで絵を描いていたという分けではないと言うこと。そのような生活を続けていたら、足腰が弱って、とても小布施までは歩いて行けません。日頃から、あちこちに出かけて、足腰を鍛えていたのではないかと思います。管理人のようにインドア派の人間にとって、東京から小布施まで歩いて行けと言われたら、絶対断ります。

 『歩く』ということも北斎の長寿の理由のように思えます。

 北斎奇人説のひとつに、道で知人に出会っても挨拶もしなかった、と言うものがあります。法華経の念仏をブツブツと唱えながら歩いていたようです。

 北斎は、家にこもって絵ばかりを描いていたと思われがちですが、何度か長旅にも出かけています。

 ざっとまとめてみました。47歳の頃、房総半島、木更津のあたりに旅しています。また、名古屋、紀州、伊勢、大阪の旅に二度ほどで掛けています。さらに、信州長野の北にある小布施村に4回も旅しています。  

西暦和暦年齢画号旅  行
1806年文化3年47画狂人北斎房総半島、木更津に旅行。曲亭馬琴宅に滞在。
1811年文化8年52戴斗甲府方面に旅。読本『椿説弓張月』完結
1812年文化9年53戴斗関西方面(名古屋、大阪、紀州、吉野)に旅。秋頃、名古屋滞在、牧墨僊と知り合う。絵手本『略画早指南』刊。『北斎漫画』の下絵を描く
1817年文化14年58戴斗名古屋を訪問し1年滞在。西本願寺掛所で120畳の大達磨の絵を描く(文化14年10月5日)。 (文化15年は4月21日まで(西暦1818年5月25日)、翌日は文政元年4月22日
1818年文政元年59戴斗文化14年春から1年かけて尾張名古屋、伊勢、紀州(文化15年2,3月)、大阪をめぐる。屏風 七小町「鸚鵡小町」を描く
1827年文政10年68為一68歳の頃中風を患う
1834年天保5年75画狂老人卍孫のせいで江戸追放となり、天保5年冬か6年春に三浦半島、相州浦賀に潜居。「諸国名橋奇覧」(全十一枚)。
1842年天保13年83画狂老人卍初めて小布施を訪れる。高井鴻山37歳。
1844年弘化元年85画狂老人卍天保15年、半年かけて東町祭屋台の天井絵「龍」と「鳳凰」図を描く
1845年弘化2年86画狂老人卍小布施の上町祭屋台の制作に取りかかる。高井鴻山の依頼を受けて、屋台天井絵の怒濤図「男浪」と「女浪」図を半年の歳月をかけて描く。完成まで3年。
1849年嘉永2年90画狂老人卍西暦5月10日(旧暦4月18日)午前4時頃、浅草聖天町遍照院境内の仮宅に没する

 関西への旅は、1年がかりの長旅でした。小布施の滞在も半年間という長期滞在です。

 特に小布施の旅は80歳を過ぎてからです。

 昨年、東京から長野の善光寺まで車で行ったのですが、かなり遠いという印象でした。関越自動車道がむちゃくちゃ混んでいて、長野は遠かった。新幹線なら2時間半ですが。

 北斎が生きた時代、江戸から小布施までは、240キロの道のりを、宿場町に立寄りながらの約5泊6日で旅したようです。

 この距離を何度も往復しているのですから、北斎の足腰はとても丈夫だったと言わざるを得ません。同じ年代の人たちはとうの昔に鬼籍に入っているのですから、北斎が健脚だったことは間違いありません。

 北斎は、多くの風景画を描いています。40代で江戸の市中を描いた「東遊(あずまあそび)」が出されました。江戸中歩き回ったと思われます。さらに、鳥瞰図『総房海陸勝景奇覧』は、房総半島から江戸湾、そして三浦半島にかけて、まるで鳥が空から見下ろすような見方で描いた大パノラマ図です。これには、地名や山・川の名、名所などが正確に書き込まれ、当時の地理が一目で分かります。実際に歩いたことがなければ描けない図です。

 天保4年(1833年)、74歳で描いた「諸国瀧廻り」(全八枚)も辺鄙な場所にある滝が描かれています。

 こうしてみると、北斎は、寝食を忘れ、家に閉じ籠もって絵ばかり描いていた、という構図ではなく、意外にアウトドア派だったのではないか、そんな気がしてきます。

 80歳後半でも片道240キロの道のりを歩いた北斎。長寿の秘訣は、この足腰の強さにこそありそうな気がします。

長生きの秘訣は、信仰と名前にあった?

 北斎が用いた名前に長寿の秘密が隠されているかもしれません。

 北斎の苗字『葛飾』は出生地の地名から採ったもののようです。そして名前の『北斎』は、妙見菩薩信仰がかかわっています。

 寛政7年(1795年)、36歳の時、15年間使った「勝川春朗」号の後に名乗った「俵屋宗理」という名をわずか1年あまりで変え、「北斎宗理」の号を用います。この時期、北斎にとって最も苦しい時期だったのではないでしょうか。

 寛政5年(1793年)、34歳の時、狩野融川に破門され、勝川門を去ることになります。この年、二女が誕生しますが、翌年、妻が亡くなります。その翌年、後妻の”こと女”と結婚します。そして、その翌年、二男が生まれます。

 北斎の系譜をまとめていくと、このように、家族のことも年表に落とし込んでいくことができます。すると、お栄が生まれたのは、寛政12年(1800年)、41歳の時ではないかと推測できます。

 寛政10年(1798年)、39歳の時、宗理号を門人・琳斎宗二に譲り、「北斎辰政」と号します。

 『辰政:ときまさ』の名前は、古代中国の北極星(北辰:ほくしん)を天帝とする思想とインドの仏教思想が混じり合って生まれた妙見菩薩信仰に由来しています。北斎は、妙見菩薩を信仰しており、妙見の化身は夜空にまたたく「北斗七星」あるいは「北辰」とよぶが、これを合体させて、「北斎辰政」を名乗ったと考えられています。「北斎」という号は「北斎辰政」の略称です。

 そもそも妙見信仰とは、仏教でいう北辰妙見菩薩(ほくしんみょうけんぼさつ)に対する信仰のことですが、その原姿は、道教における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰なのだそうです。

 道教では、北天にあって動かない北極星(北辰)を宇宙の全てを支配する最高神・天帝(太一神)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともされる北斗七星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福がもたらされ、長生きできるとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から免れないともされた、そうです。8)

 妙見信仰をして、北極星を崇めれば、北斎のように長生きできるのかも知れません。

 管理人の父親は、若い頃、頻繁に名前を変えていました。悪いことをしたから改名したのではなく、「姓名判断」に凝っていたからです。漢字の一部を変えるだけではなく、名前そのものも変えたりいろいろやったみたいですが、結局は元の名前に落ち着きました。

 北斎は頻繁に名前を変えたとされていますが、年表をつくってみると、実際に使われたのはそれほど多くはないような気がします。勝川春朗、俵屋宗理、北斎宗理、北斎辰政、葛飾北斎、画狂人北斎、戴斗、為一、そして、最後の「画狂老人卍」くらいが主に使われた号のようです。

 改名するのは、それなりの理由があった筈です。北斎の運気を高めた「北斎」という号も捨てがたく、「北斎改め○○」という書き方もしています。名前を門人に譲り渡し、そのお金を生活費に充てていたという話もあるようです。しかし、「筆1本あれば食べていける」と豪語していた北斎が、生活のために名前を売っていたという説は信じがたい気がします。改名には、なにか別の理由があったのではないでしょうか。

 もしかしたら、長期の旅行と改名とは何らかの関係があるのかも知れません。

 文化7年(1810年)、51歳の時、「戴斗(たいと)」の号を用いますが、この時期、弟子が200人ほどいたようです。そのため、後に、彼らのための絵手本として『北斎漫画』が刊行されることになります。弟子たちからわずかばかりの授業料をもらっただけでも生活に困らない気がします。当時の町道場に200人の弟子がいたら、道場主は生活に困らない。それなのに、北斎の場合は、生涯貧乏だった、という誰かが貼ったレッテルで判断されるため、後世、なぜ、貧乏だったのかが誰にも分からなくなりました。

 版元からの画料が入った袋を中身も見ずにそのまま集金人に渡したとか、孫のばくちの借金を肩代わりしたとか、本当は大酒飲みだったとか、わずかに残る話をつなぎ合わせて、いろいろな説が出てきますが、実際の所は誰にも分からない。

 北斎は、いろいろなところで借金を申し出ていたようです。その証文が残っているということは、借金を返済していないことになります。しかし、貸し手側は、返済を期待していなかったのでしょう。借り手である北斎も、返済する気持ちなど元々ない。そんな関係の資金融通だったのではないでしょうか。北斎にお金を融通しようとする貸し手はいくらでもいる。  天保の改革による出版統制では、浮世絵の題材が制限され、庶民向けの小説類も同様で、登場人物を歌舞伎役者に似せて描くことや、ぜいたくな風俗を描写することが禁止されました。これにより、版元が閉店を余儀なくされ、絵師たちの仕事が奪われることとなります。このため、北斎も飢餓に苦しんだ、という論調を展開したくなるのですが、北斎が飢餓に苦しむのであれば、他の絵師たちは全員飢え死にしていたはずです。この話が、わずかばかりの情報をつなぎ合わせた都市伝説であることはすぐにわかります。

 ふと、こんなことを考えました。

 冷蔵庫にたくさんの食材をストックする人といつも空っぽの人の違い。前者は、いざというときのためにストックしているのでしょう。後者は、近くのコンビニが冷蔵庫代わりなので、自宅の冷蔵庫はいつも空。しかも、コンビニは”つけ払い”で金利・催促なし。

 北斎の場合、必要なときに資金を融通してくれる貸し手はいくらでもいるので、あえて自宅に(資金を)ストックしておく必要はない。他人の財布が自分の財布。元々、住環境や衣類には関心がなく、絵を描くための取材旅行の旅費と絵の道具の購入代金さえあればそれで満足。北斎は、そんな人だったのではないでしょうか。そんな生き方の人は多くいるように思います。

 明治維新、無血開城の立役者である勝海舟は、徳川家を継いだ徳川家達に従い、静岡に住みます。このとき、徳川宗家に従い静岡に移住したものの、禄を失い生活が困窮した元幕臣たちのために、勝は大量の書を書き、彼らに渡していました。勝海舟の書は、人気があり、高値で売れたようです。

 北斎の場合も、筆一本あれば、生きていくのに困らない。お金には全く執着しない。他人の財布が自分の財布。必要なときに借金を申し出れば、皆が快く貸してくれる。

 万物を描き尽くすという画の道をまい進する北斎にとって、同じような生き方をした過去の人物のことを常に意識していたのではないでしょうか。

 北斎は、「達磨」の絵をたくさん描いています。

 有名な白隠慧鶴(1686年 – 1769年)筆の「達磨図」に描かれているのは「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」の四文字。画の中で、達磨大師が「見性成佛」と唱えています。白隠慧鶴は江戸中期の禅僧で、臨済宗中興の祖と称され、この様な達磨図を生涯に数多く描き残しました。他の画では、「直指人心見性成佛」を唱えてているものもあります。

 文化14年(1817年)10月5日、北斎58歳の時、名古屋訪問し、西本願寺掛所で120畳の大達磨の絵を描きましたが、その構図や雰囲気は、白隠の「達磨図」とそっくりです。

おわりに

 北斎の生き方は、衣食住、金銭に全く執着しない、まるで禅僧のような生き方ではないでしょうか。禅の初祖とされたのが達磨です。

 北斎が執着していることはただ一つ。画の道を究め、森羅万象、あらゆることを描き尽くすこと。当時の禅僧よりも北斎の方がはるかに解脱して涅槃に近づいていたのではないでしょうか。

 スケッチなどのため日頃から歩いて足腰を鍛える。物事に執着せず、物欲を持たない。酒・たばこはやらず、食べ物は粗食でお茶も高級品は好まない。ただ一つのことを極めるため、頭を使い、常に勉強を怠らない。

 結局のところ、北斎の長寿の秘訣はこれに尽きるのではないでしょうか。  小布施の岩松院に天井絵『八方睨み鳳凰図』を描いたのは、89歳の時。翌年、北斎は亡くなります。死の前年に江戸から小布施まで往復したのですから、管理人の結論は説得力があるように思います。

葛飾北斎の略年表

西暦和暦年齢画号出来事備考
1760年宝暦10年19月23日(1760年10月31日)江戸本所割下水の百姓・川村某の子として生まれる。幼名は時太郎
1761年宝暦11年2
1762年宝暦12年3
1763年宝暦13年4四、五歳の頃、本所松坂町に住む幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となる。百姓の子が武家の養子になるのは異常
1764年明和元年5鉄蔵と改名し、以降、本名を中島と名乗る。
1765年明和2年6このころ好んで絵を描く十返舎一九生まれる
1766年明和3年7
1767年明和4年8曲亭馬琴生まれる
1768年明和5年9
1769年明和6年10
1770年明和7年11鈴木春信没53歳
1771年明和8年12
1772年安永元年13田沼意次老中となる
1773年安永2年14
1774年安永3年15
1775年安永4年16このころから木版彫刻の技術を学ぶ。14歳説も
1776年安永5年17
1777年安永6年18
1778年安永7年1919際の時、浮世絵師を志し、似顔役者絵で知られた勝川春章に入門か。
1779年安永8年20勝川春朗勝川春朗と号し、役者絵で画界デビュー。中村座八月興行『敵討仇名かしく』より取材した「四代目・岩井半四郎のかくし図」ほか三点を描く12月18日平賀源内没
1780年安永9年21勝川春朗黄表紙など挿絵の分野に進出
1781年天明元年22勝川春朗黄表紙『有難通一字』刊(是和齋(これわさい)名)洒落本や囃本に進出
1782年天明2年23勝川春朗洒落本や噺本に進出。このころ三田台に居住か。黄表紙『鎌倉通臣伝』刊(魚仏(ぎょぶつ)名)
1783年天明3年24勝川春朗
1784年天明4年25勝川春朗
1785年天明5年26勝川春朗群馬亭と号する。戯作を書す。
1786年天明6年27勝川春朗黄表紙『我が家楽之鎌倉山』群馬亭画柳川重信誕生。田沼意次罷免
1787年天明7年28勝川春朗天明7年(1787)、北斎は俵屋宗理の画風を慕い、群馬亭から名を改めて菱川宗理と称します。
1788年天明8年29勝川春朗この辺りで先妻と結婚か
1789年寛政元年30勝川春朗このころから浮世絵、美人画、武者絵などにも進出長男誕生か。このころから浮絵、美人画、武者絵などにも進出
1790年寛政2年31勝川春朗このころ葛飾に居住か
1791年寛政3年32勝川春朗蔦屋重三郎処罰お美与この辺りで誕生
1792年寛政4年33勝川春朗黄表紙『昔々桃太郎発端説話』山東京伝作・春朗画・蔦屋版4月、春章死去(1726-1792)
1793年寛政5年34勝川春朗このころ狩野融川に破門されるという(1794年説も)。勝川門を去る。二女誕生か
1794年寛政6年35俵屋宗理このころ春朗号を廃して俵屋宗理を襲名するか。先妻没。苦しい生活。七味唐辛子を売る先妻死亡
1795年寛政7年36北斎宗理」「北斎宗理」の号を用いる。このころ浅草大六天神脇町に居住か。俵屋宗理の跡つぎ二代目宗理となること女と結婚か
1796年寛政8年37北斎宗理」二男誕生か(のち御家人加瀬氏の養子、崎十郎と改名)
1797年寛政9年38北斎宗理」5月6日 蔦屋重三郎死去
1798年寛政10年39北斎辰政宗理号を門人・琳斎宗二に譲り、北斎辰政と号する。本所林町に居住か可候(かこう)を名乗る
1799年寛政11年40不染居北斎の号あり。狂歌本『東遊』刊
1800年寛政12年41狂歌本『東都名所一覧』。このころ山手辺に居住かお栄誕生か
1801年享和元年42画狂人北斎このころ上野山下辺に居住か
1802年享和2年43画狂人北斎狂歌本『画本忠臣蔵』、狂詩本『潮来絶句集』刊
1803年享和3年44画狂人北斎大田南畝、烏亭焉馬に招かれ、席画する
1804年文化元年45画狂人北斎4月13日、江戸音羽護国寺の観世音開帳で120畳大の半身大達磨を描く①東海道五十三次 ここから。
1805年文化2年46葛飾北斎、画狂人北斎久々蜃の号あり。この頃から葛飾北斎と名乗る
1806年文化3年47画狂人北斎曲亭馬琴宅に滞在。房総半島、木更津に旅行。
1807年文化4年48読本『椿説弓張月』(馬琴作)刊行開始永代橋崩落
1808年文化5年49このころ亀沢町に新宅。柳橋で書画会
1809年文化6年50このころ本所領国橋辺に居住か
1810年文化7年51戴斗「戴斗(たいと)」の号を用いる。絵手本『己痴羣夢多字画尽』刊。戴斗と号す。この頃、弟子が200人
1811年文化8年52戴斗読本『椿説弓張月』完結甲府方面に旅
1812年文化9年53戴斗絵手本『略画早指南』刊。関西旅行で、秋頃、名古屋滞在、牧墨僊と知り合い、同邸滞在し『北斎漫画』の下絵300図を描く関西方面(名古屋、大阪、紀州、吉野)に旅
1813年文化10年54戴斗読本『北越奇談』刊お美与 柳川重信(27歳)と結婚
1814年文化11年55戴斗『北斎漫画」初編刊行:名古屋の版元永楽屋東四郎から刊行
1815年文化12年56戴斗
1816年文化13年57戴斗孫 この辺りで誕生か
1817年文化14年58戴斗名古屋訪問し1年滞在。和暦10月5日、西本願寺掛所で120畳の大達磨の絵を描く。 (文化15年は4月21日まで(西暦1818年5月25日)、翌日は文政元年4月22日名古屋滞在
1818年文政元年59戴斗文化14年春から1年かけて尾張名古屋、伊勢、紀州(文化15年2,3月)、大阪をめぐる。屏風 七小町「鸚鵡小町」を描く紀州方面へ旅行
1819年文政2年60為一「戴斗」の名を門人斗円楼北に譲り、「為一」を名乗る。
1820年文政3年61為一落款に「為一」を用いる
1821年文政4年62為一11月13日(1821年12月07日)、四女・お猶死去か またはお美与のことか
1822年文政5年63為一北斎は江戸参府のオランダ商館長・ブロムホフから絵画製作の注文を受けた。お美与 柳川と離婚。実家に戻る
1823年文政6年64為一『富嶽三十六景』の初版制作始まる。このころから川柳の号に「卍」を用いる。1823年8月シーボルト来日
1824年文政7年65為一
1825年文政8年66為一
1826年文政9年67為一オランダ商館長に絵画引き渡し。北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼しました。?『略画早指南』刊1826年4月、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行
1827年文政10年68為一68歳の頃中風を患う
1828年文政11年69為一6月05日(1828年7月4日)、後妻こと女死亡 この年より『北斎漫画』始まるシーボルト事件発覚
1829年文政12年70為一
1830年天保元年71為一東海道五十三次 ここまで
1831年天保2年72為一信州小布施村で1年間滞在(高井鴻山はこの頃京都にいるので、誤りとされる)富嶽三十六景。天保2年から5年までシリーズで刊行
1832年天保3年73為一柳川重信没(46歳) 息子は16歳くらい。
1833年天保4年74為一4年 「諸国瀧廻り」(全八枚)
1834年天保5年75画狂老人卍5年 「諸国名橋奇覧」(全十一枚)。孫のせいで江戸追放となり、天保5年冬か6年春に三浦半島、相州浦賀に潜居富嶽百景。本年までに転居の回数は56回に及ぶといわれる。
1835年天保6年76画狂老人卍
1836年天保7年77画狂老人卍
1837年天保8年78画狂老人卍
1838年天保9年79画狂老人卍
1839年天保10年80画狂老人卍80歳を過ぎてから北斎は北信濃の小布施を4回も訪れたと言われています。この頃、本所石原片町、その後、本所達磨横丁に住む。達磨横丁では初めて火災に遭い、多くの縮図を消失したとされる。
1840年天保11年81画狂老人卍
1841年天保12年82画狂老人卍
1842年天保13年83画狂老人卍初めて小布施を訪れる。高井鴻山37歳。天保の改革で思うように絵が描けず、江戸を離れる。本年までに転居回数は60回に及ぶとされる。
1843年天保14年84画狂老人卍
1844年弘化元年85画狂老人卍天保15年、半年かけて東町祭屋台の天井絵「龍」と「鳳凰」図を描くこの年、初めて小布施を訪問説も
1845年弘化2年86画狂老人卍小布施の上町祭屋台の制作に取りかかる。高井鴻山の依頼を受けて、屋台天井絵の怒濤図「男浪」と「女浪」図を半年の歳月をかけて描く。完成まで3年。
1846年弘化3年87画狂老人卍
1847年弘化4年88画狂老人卍
1848年嘉永元年89画狂老人卍小布施の岩松院に天井絵『八方睨み鳳凰図』を描く。転居回数は93回目と言われる。
1849年嘉永2年90画狂老人卍4月18日午前4時頃、浅草聖天町遍照院境内の仮宅に没する
1849年嘉永2年4月19日(1849年5月11日)午前10時より、菩提寺の誓教寺で葬儀。
1856年フランスの銅版画家フェリックス・ブラックモンが友人の摺師の家で日本から送られてきた陶磁器の梱包に用いられた『北斎漫画』を発見した。

出典

北斎七つのナゾ」、中右瑛、里文出版、2002
「葛飾北斎 江戸から世界を魅了した画狂」、美術手帖編、美術出版社、2017
「葛飾北斎の本懐」、長田生慈、角川選書、2017
http://ameblo.jp/ka144/entry-11735654513.html

参考文献

1. 「北斎絵事典【完全版】」、永田生慈、東京美術
2. 「葛飾北斎伝」、飯島虚心著・鈴木重三校注 、岩波書店、1999
3. 『葛飾北斎伝』上巻・下巻、飯島半十郎 著、蓬枢閣、1893、国立国会図書館デジタルコレクション
4.  http://www.boston-japonisme.jp/japonisme/hokusai.html
5. 「飯島半十郎の生涯と思想」(その一)~(その三)、小林恵子、国立音楽大学、1999
6. 『北斎の七つのナゾ』、中右 瑛、里文出版、2002
7. 『葛飾北斎の本懐』、永田生慈、角川選書584、2017 8. 『葛飾北斎伝』、飯島虚心著・鈴木重三校注、岩波文庫、1999
8. 「妙見信仰とは」 9. 『葛飾北斎 江戸から世界を魅了した画狂』、美術手帖編、美術出版社、2017