ヴォイニッチ手稿の謎に迫る

ミステリー

はじめに

日本ではあまり知られていない『謎』のひとつに『ヴォイニッチ手稿(Voynich manuscript)の謎』というものがあります。

これは、古書商ヴォイニッチが再発見し、1915年にその存在が公表されたことからこの名前が付いている『古書』なのですが、とても奇妙な代物です。

何が奇妙かというと、現代の専門家でも解読できない文字で記述されているのです。さらに、ほとんどのページに奇妙なイラストが描かれています。

時折、「ヴォイニッチ手稿が解読された!」と話題になるのですが、日本ではほとんど話題になりません。

なぜか分かりますか?

日本には、「神代文字」というカテゴリーに括られる20以上の謎の文字が存在し、その起源の一部は縄文時代にまで遡るのではないかとされているようです。

「ヴォイニッチ手稿」の文字が暗号みたいで読めないとしても、この本が作られたのは、どんなに古く見積もっても15世紀初頭のこと。日本は室町時代です。ミステリー好きの日本人でも、室町時代という最近の時代に書かれた「ヴォイニッチ手稿」など、あまり関心を呼ばないのではないでしょうか。

ところで、欧米では、これについての研究が盛んで、たくさんのネット上の情報があります。特に米国では関心が高いようです。米国は歴史の短い国なので、このような最近の謎が大好きなようです。ヴォイニッチは晩年にアメリカに帰化しており、ニューヨークで米国市民として亡くなっています。そのことも影響しているのかも。

「ヴォイニッチ手稿は偽物」というタイトルのサイトを見かけますが、はっきり言って閲覧する価値のないサイトです。アクセス数を稼ぐことだけに関心のあるサイトなのでしょう。「偽物」と言うからには、それを証明しなければならない。そもそも記事内容が他人の記事のパクりで、まともに閲覧するとバカを見ます。単なる「釣りタイトル」です。

ヴォイニッチ手稿が偽物だと断定できる証拠は、ただの一つも見つかっていないのです。

今日は、この古書の謎を追ってみたいと思います。

ヴォイニッチ手稿とは

『ヴォイニッチ手稿』とは何か? 早速、Wikipediaで見てみましょう。

「ヴォイニッチ手稿( ヴォイニッチしゅこう、ヴォイニッチ写本、ヴォイニック写本とも、英語: Voynich Manuscript)とは、1912年にイタリアで発見された古文書(写本)。未解読の文字が記され、多数の奇妙な絵が描かれていることが特徴である。」

「大きさは23.5cm×16.2cm×5cmで、左から右読み、現存する分で約240ページの羊皮紙でできている。未解読の文字で書かれた文章の他、大半のページに様々な彩色された生物を思わせる挿絵が描かれている。文章に使用されている言語は今まで何度も解読の試みが行われているが、解明されていない。名称は発見者であるポーランド系アメリカ人の革命家で古書収集家のウィルフリッド・ヴォイニッチにちなむ。彼は1912年にイタリアで同書を発見した。」

日本語Wikipediaはあっさりした書き方で、要点のみ記載されていますが、よくまとめられていると思います。これに対し、英語版Wikipediaはとても詳しく、そして、どうでもよいことがタラタラと記載されています。

実際に手稿を見てみましょう。
ほとんどのページにイラストと文字が記載されています。文字だけのページは巻末の20ページほどに過ぎません。

このページの文字の部分を拡大すると以下のような見たこともない謎めいた暗号のようなもので書かれています。

240ページもある手稿には、大量の文字が書かれています。一説にはその数17万字。残された粘土板や石碑から解読しようとするわけではないのに。なぜ、この文字の解読ができないのか不思議です。解読するには文字数が足りないなどと甘えたことを言っている大学の先生がいますが、そんな人には、ロゼッタストーンの解読など無理でしょう。最初から、解読する気などないのです。

原典を見たい!

まず、原典はどこにあるのか。米国のイェール大学に保管されており、2017年9月よりインターネットで閲覧、ダウンロードすることが可能です。

この手の謎の資料は、一部の研究者しか閲覧できず、一般人はその研究成果を待つしか方法がなかったのですが、時代が変わって、だれでもが研究者の仲間入りができるようになりました。

ヴォイニッチ手稿は、原本を所蔵するイェール大学のバイニキー・レアブック図書館(Yale University Beinecke Rare Book Library )にあり[カタログナンバー:MS 408(リンク切れのためリンク削除)]で、誰でも見ることができます。 画像形式では、jpg版とtif版の2タイプが公開されています。とても高画質のもので、大学側の意気込みが感じられます。

何が謎なのか?

Wikipediaの説明を読むと、最初に思うのは、「ヴォイニッチ」って誰? ということではないでしょうか。所有者が偽造文献を作成するというのは、この世界ではよくあること。

シオン修道会の話をデッチ上げたピエール・プランタールという人物がいます。彼は、『秘密文書』という名前の自作の偽造書物をつくり、パリの国立図書館に贈呈し、その50年後に、自らそれを『発見』したと称して、この本の信憑性を高めようとしましたが、1993年、自分で偽造したものであると告白しました。

この手の話は、『発見者が一番怪しい!』

そこで、まずはヴォイニッチ手稿の「ヴォイニッチ氏」とはどのような人だったのか、このことを調べる必要がありそうです。後で詳しく説明しますが、ここでは簡単に紹介します。

この辺を詳しく書いてある書籍『ヴォイニッチ写本の謎』1) があるので、それを引用したいと思います。なんと、ヴォイニッチの親族が書いた書籍なので、名声欲しさの自称『研究者』の論文よりも説得力があります。自称『研究者』の連中は、情報のねつ造、隠蔽、曲解、こじつけを平気で行うので要注意ですが、親族の方がまだ信頼が置けます。

ウィルフリド・マイケル・ヴォイニッチ(Native name Wilfrid Michał Habdank-Wojnicz)は、1865年11月12日、リトアニア北西部のテルシェイで生まれ、1930年3月19日、ニューヨークで64歳の生涯を閉じました。

ヴォイニッチ手稿全体を俯瞰してみる

イェール大学バイニキー・レアブック図書館が公開しているヴォイニッチ手稿のjpg画像は、表紙等も含め全部で213枚です。これがどうのよう構成になっているのか、画像をタイル表示にして俯瞰してみることにします。

最後の20ページほどは文字だけが書かれていますが、それ以外の全てのページに何らかのイラストが描かれていることが分かります。

そして、そのイラストのサイズは、ページ全面を使った大きなものもたくさんあります。このため、イラストは『挿絵』として用いられたものではなく、むしろ、イラストを説明するために文字が書かれている、と管理人は考えます。

イラストには何が描かれているのか

描かれているイラストは、大きく分けて3種類ありそうです。

一つは、植物のイラストです。これは「草本類」のみで、「木本類」のイラストはありません。このタイプの昔の絵は、『生命の樹』に代表されるように「木本」を描くことが多いと思いますが、描かれているのは草だけです。さらに特徴的なのは、草の茎や葉だけではなく、根まで描かれていること。一部のイラストには、花も描かれています。

このことから、この本は『薬草図鑑』なのではないか、との憶測もあるようです。この本の最初の部分はほぼ確実にハーブが描かれているようですが、実際の標本、または現代の薬草図を用いても、その植物の同定に失敗しました。

二つ目は、人間です。この手稿には多くの人間が描かれていますが、それが登場するのは、手稿の中盤以降です。前半部分は植物だけが描かれ、人間は登場しません。

描かれている人間は、全員が裸婦です。小学生でももっと上手に描けると思えるほど稚拙なイラストです。植物の絵もとてもへたくそで、このため、何の植物なのか特定が困難なのだそうです。

裸婦は大抵複数人が描かれており、何らかの液体の中に入っている。

管理人が気になったのは、裸婦たちの髪の長さです。ほとんどの裸婦は、髪の毛を丸く結っているか、風呂用ヘアキャップをかぶっているように見え、髪の毛を背中に長く垂らしている人はほとんどいません。

髪を垂らした婦人のイラストは珍しい。

また、人物は、単独で描かれることはほとんどなく、複数の婦人が描かれています。多いものでは16人くらいです。

さらに、婦人たちの下腹部には陰毛が描かれていることから、少なくともキリスト教の宗教画とは関係がないといえそうです。

ただし、一部の絵には、十字架を手に持っている婦人が描かれていますが、キリスト教色はきわめて限定的という印象を受けます。

婦人たちは、何か生き物の『器官を思わせるようなパイプ』と『池』でつながった通路を歩いて渡っているようにも見えます。皆、同じ方向を向いています。

『池』では、婦人たちの足の形状が曲がり、中腰になっており、まるで『半身浴』をしているようにも見えます。

三つ目は、星です。まるで占星術で使われる天体の配置図(ホロスコープ)のようにも見えるイラストが多数描かれています。

円をいくつかに分割したものがほとんどですが、分割している数は、4分割、8分割、24分割など、様々です。

また、本の最後の方では、星の形状や色の違いで”何か”を説明しているように見える書き方になっています。イラストの凡例を示しているようにも見えます。これらのページを何らかのレシピと考えている人がいるらしいのですが、左端の星のことさえ見逃しているレシピ説は、お話になりません。この手稿をほとんど分析せずに自分の主張だけはしたいというタイプの人の個人的見解のように思います。

謎の文字とはどのようなものか?

現代でも解読不能な文字とはどのようなものなのでしょうか。これを具体的に見ていくことにしましょう。

文字列を見て、まず気づくのは、文字が左から右に書かれたものであるということです。これは、筆運びから推測できます。

次に、文字の形状です。

使われている単語の数は少ないように思えます。同じ単語が連続して使われている部分もあります。

概ね20~25の単語で大部分が書かれているようです。ただし、1〜2回しか発生しない数十種類の単語もあります。句読点はありません。

文字の数は36個程度かも。ヴォイニッチ手稿で使われている文字(Voynich Manuscript (VMS))を研究している人はたくさんいるようです。

テキストは170,000文字以上で構成されています。これだけ膨大な量の手書きの文章にもかかわらず、書き損じの部分は確認されていません。

いくつかの単語は、特定のセクションにのみ、またはわずかなページにのみ存在します。

単語の文字数を見ると、2文字以下または10文字以上の単語はありません。

また、アクセント記号やウムラウト等の記号は確認できません。

文頭で大文字らしきものは確認できません。ただし、文頭の1文字目を大きく書いているケースが多く見られます。

文頭で使われる文字の種類は限定的に見えます。以下の3文字が多く使われているのではないかと思います。

ページの構成

イェール大学公開の画像で、手稿の外観画像を除く文字の書かれているページに着目します。

通常は、羊皮紙葉(フォリオfolio)を重ね合わせてとじたものをコデックスといいますが、日本ではあまりなじみのない言い方なのですが、この手稿の場合は、この用語を使わないとページ構成を説明できません。

フャリオ番号が書かれているのは 1 から 116 までです。羊皮紙の表と裏に番号が振られています。すると、羊皮紙の枚数は58枚となるのですが、そう単純ではない。

この番号付けは、本の見開きで1フォリオとしています(フォリオの考え方。ページはフォリオの右側、左側と表記)。つまり、通常の本のようにページを振ると、ページ数は2倍の232ページになります。

このフォリオ番号付けを、もし執筆者自らが行ったとするのなら、この本は、見開き状態で見るのが正しい閲覧方法なのかも知れません。

本のページをたどっていくと、欠落しているページがあります。以下に示す14フォリオ(通常の本の28ページ分)です。

欠落しているフォリオ(1フォリオは見開きで2ページ相当): 12, 59, 60, 61, 62, 63, 64, 74, 91, 92, 97, 98, 109, 110

特に、フォリオ59からフォリオ64までが連続して欠落しています。上述したように、表と裏にフォリオ番号が振られているので、欠落している羊皮紙の枚数は3枚ということになります。フォリオ91と92で1枚。フォリオ97と98で1枚、フォリオ109と110で1枚の計6枚の羊皮紙が欠落しています。なお、フォリオ12は、実際には存在しないと思われます。その理由は、フォリオ11右の裏がフォリオ13左面に透けて見えるからです。つまり、フォリオ11の裏はフォリオ13になっています。フォリオ74についてはよく分かりません。

コデックスにするときに糸でしっかり綴じられているはずなので、誰かが意図的に特定のフォリオを抜き取ったようにも思えます。そこには何が書かれていたのか?

一方で、フォリオ番号を振っていないものも多くあります。それが(画像ファイルでは)12枚で、通常の本のページ数では(3ページ以上のものが多いため)44ページ分もあります。イェール大学の画像番号が本のページ順を正しく示しているとすると、これらのフォリオ番号を振っていない羊皮紙は、番号が連続しているフォリオとフォリオの間に入る形となります。これでは何のためのフォリオ番号付けなのか分かりません。

また、フォリオの中には通常のサイズより大きな羊皮紙が使われ、それが織りたたまれた形式のものが多くあります。2ページの見開きだけではなく、見開き3ページ、4ページ、6ページもあります。これらのフォリオには番号はありません。

文字の書いてある最後のページは、フォリオ番号の最終の裏面、(117ページ相当)です。そこには、4行の文章が記載されています。ここに書かれている文字は、それ以前とは違う文字のように見えます。もしかしたらラテン語なのかも知れません。

特異なページとして、見開きの中に2ページ分の番号が振られているものがあります。イェール大学の画像では二枚に分割されていますが、実際には、フォリオ86とフォリオ87は同じ見開きの中にあります。

同様に、68ページと69ページは別のファイルになっていますが、実際には見開きのページです。二つのファイルを合成したものが下の画像です。5ページに渡る見開きになります。著者の意図した通りに画像を調整する必要がありそうです。

本の外観は下の画像のようになっています。表紙、背表紙ともに文字は記載されていません。

本を上から見ると、どのように閉じられているのかが分かります。通常は、綴じ代は片側だけで、もう一方の端は切りそろえられていますが、この本の場合、折りたたまれた見開きページが多いため、本の両側がたたまれたように見えます。

イェール大学の所蔵目録にはどう書かれているか

ヴォイニッチ手稿を所蔵するイェール大学のバイネッケ・レア・ブック・アンド・マヌスクリップト図書館のバイネッケ書庫目録(Beinecke Rare Book & Manuscript Library)には、この本について、六部構成からなると捉え、次のように分析しているようです。

  • 第1部
    フォリオ1r-66v゚  植物学の部。113枚の未確認植物の挿画。各植物の花、葉、根系の表現に特別の注意が払われている。挿画にテキスト付き。
  • 第2部
    フォリオ67r-73v゚ 天文学もしくは占星術の部。25個の円形の天体図。同心円もしくは放射状の区画を持つ。一部のものは中心に月もしくは太陽。区画には星および文字が書き込まれ、また黄道十二宮の記号と、裸の女性のいる同心円の描かれたものもある。彼女らの一部は自立し、他の一部は容器もしくは管のような物体から身体を出している。少々の連続的テキスト。
  • 第3部
    フォリオ75r-84v゚ ”生物学”の部。小さな裸の女性の挿画。ほとんどは膨張した腹部と誇張された臀部を持ち、液体もしくは連絡管および嚢(ふくろ)に浸漬、もしくはそこより身体を出す。これらの挿画は手稿全体でも最も謎めいた部分であり、人間の生殖プロセスおよび魂の受肉の過程を象徴的に表すものとされてきた・・・。
  • 第4部
    フォリオ85r-86v゚ 6倍のフォリオを折りたたんだ紙葉。精巧な九つのメダイヨン。それぞれに星および細胞のようなもの繊維的構造が各円をつないでいる。一部のメダイヨンには星々の満ちた花弁状の光線があり、また別のものには筒の束のような構造がある。
  • 第5部
    フォリオ87r-102v゚ 薬学の部。100種類以上の薬草の葉と根の挿画。それぞれに説明書きを付す。ほとんどのページに、花瓶に似た薬剤調合用壺の図。その色は赤、緑と黄、もしくは青と緑。いくつかの連続するテキスト。
  • 第6部
    フォリオ103r-117v゚ 連続するテキスト。右ページの左辺および右辺に星。フォリオ117vには三行の<鍵>と称されるもの。その冒頭は暗号とアナグラムによってロジャー・ベーコンを指すといわれる。(記述は、1),pp.22,23より引用)

ここで、117ページという最終ページのことが書かれています。3行(実際にはその上にメモのような1行あり)の半分がヴォイニッチ文字、半分がラテン語で書かれているそうです。

 資料を読んでいたら、『v゜』という文字が出てきました。これは何だろうと調べてみたら、「verso」の略で、本の左ページ(通常なら偶数のページ)を示すのだそうです。【略】v. ; vo.  その反対語が、「recto」。本の右ページ(通常奇数ページ番号になる)を表します。【略】r.

ヴォイニッチ手稿の研究者のページ記載方法は、『f98v』や『f98r』などとなっています。これは、羊皮紙の綴じ方が二つ折りしたものを次々と綴じゆきコーデックスにしたという前提のようです。この場合、全てのページは見開きで見ることができます。しかし、上で示した本の綴じ方の画像から分かるように、2枚の羊皮紙を重ねて二つ折りにしたものもあります。この場合のfolioとは何を指しているのでしょうか。


Photo source: Siloé, arte y bibliofilia

コデックスの綴じ糸を外すと下のような羊皮紙のシートになります。

これを見て不思議に思うのは、厚さです。120枚以上の羊皮紙なのでこのくらいの厚さになるのは当然ですが、問題は、コデックスの厚さの方です。前掲の画像を見ると分かるように、あまりにも薄い感じがしますし、枚数も少ない。ヴォイニッチ手稿って本当に1冊なのと思ってしまうほど薄い。

手稿に使われている文字の特徴

ヴォイニッチ手稿で使われている文字の”書体”は、16世紀以前にイタリアなどで使われていた書体『ユマニスト体』に似ているようにも見えますが、比較してみると全然似ていない。

下の写真は、ボリビアのスクレにあるラ・レコレタ修道院で撮影したものです。使われている書体は、16世紀のスペイン、イタリアで多用された丸みを帯びたゴシック体「ロトゥンダ体」ではないでしょうか。

下の写真はグレゴリオ聖歌楽譜ではないかと思います。本の幅は見開きで1メートルくらいある巨大なものです。

手稿に手描きされた文字は、「ユマニスト体」とよばれるイタリック書体の一種に似ており、ひとつひとつは、ルネッサンス期によく用いられたラテン語の略記法やアラビア数字、占星術や錬金術で使われる略記号と似ている、とされています。

15世紀中頃、グーテンベルクが金属活字を使った活版印刷を始めた頃につかった文字の書体は、幅が圧縮された亀の子文字、ひげ文字とも呼ばれる『ブラックレター体』でした。これにより、羊皮紙の節約になったようです。

一方、イタリアではゴシック的でキリスト色が強いうえに醜いとして、古代ローマの碑文を参考に書体を作りました。こうした書体は『ユマニスト体(人文主義書体:Humanist minuscule)』と呼ばれ、その後の歴史の主役のローマン体となりました。2)

Wikiの英語版でこの書体を確認すると下のようなものでした。確かに、ヴォイニッチ文字と似ているようにも見える。この書体は1400年の直前にフィレンツェで発明されたもので、読みやすい流麗な書体として生み出されたものです。このため、以前より15世紀以降に書かれたものではないかと言われてきたのですが、放射性炭素分析の結果も15世紀初頭を示すものとなりました。

Source: Wikipedia “Humanist minuscule”

 ヴォイニッチ文字の特徴は、「アルファベット」らしき文字が見当たらないこと。もちろん、「c, o」はどの言語でも似た形の文字が使われているので、これらは除外します。ラテン語の略字辞典9) を見ると、ヴォイニッチ文字に似たものをいくつか見つけることができます。


Source: 9)


Source: 9)


Source: 9)

しかし、ラテン語で書かれた書物では、時代を問わず、略字の前後で見たことのあるアルファベットを見つけることができます。これに対して、ヴォイニッチ手稿では、アルファベットに近い文字を見つけることさえできません。このことから、ラテン語の省略形が使われたとする説は全く信頼できません。

中世以前の書物を見ると、文字は曲線に乏しく角の多い書体です。これは、文書を記録するためのツールが影響していると思われます。つまり、紙(羊皮紙の質)とペンの質という筆記用具の発達がなければ、ヴォイニッチ文字のような流麗な書体で書くことは困難です。

以前、学校の印刷物の原稿を作るときに使われていたガリ版刷りでは、鉄筆で文字を書くため、通常は楷書体でしか書けませんでした(世の中には器用な方がいて、鉄筆を使って草書体で美しい文字を書く人も皆無ではありませんが、その場合、きれいに印刷できるかは、実際に印刷してみないと分からない)。

YouTubeを見ると、ヴォイニッチ手稿を書いている再現シーンのような場面がありましたが、この文字を書くためには、最高級の羊皮紙とペンが必要だと痛感しました。

研究者やマニアの間では、ヴォイニッチ文字をフォントにしたEVA: European Voynich Alphabet (EVA)というフォントが使われているようです。ネットで探すと数種類のEVAがすぐに見つかります。

手稿が書かれたのはいつか?

手稿が書かれたのは、2011年にアリゾナ大学物理学科の准教授Greg Hodgins博士らの手で行われた羊皮紙をサンプルとした放射性炭素年代測定の分析結果から、15世紀初頭(1404-1438)ごろと判明しました。

後年、古い羊皮紙を使用して本が書かれることもあるので、この分析結果は、本が書かれた年代を示すものとは必ずしも言えないのですが、逆に、1404年以前に書かれた書物ではないということは確実に言えます。

1404年と聞いて思い出すのは、山名宗全が生まれた年ということ。1467年から11年続いた応仁の乱の主役の一人です。1404年当時、隠居したものの絶大な権力を有した足利義満の時代でした。この年、中国の明との間で日明貿易(勘合貿易)が始まります。

この時代のヨーロッパを見ると、相変わらず国境線が頻繁に変わっています。


1400年のヨーロッパ。 Source: Euratlas 地図より作成

1400年から1450年までの国境の変遷。


Source: YouTube “Watch as 1000 years of European borders change timelapse map” より作成

この時代、ヨーロッパの西では、イングランドとフランスは100年戦争のまっただ中。ジャンヌ・ダルクが登場するのは1429年のこと。

東では、キリスト教改革派(プロテスタントの先駆)のボヘミアとポーランドを中心とするフス派の信者と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で『フス戦争(1419-1439)』が行われました。

南では、ミラノ公国とヴェネツィア共和国とが戦争を10年(1423年 – 1433年)行っています。レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれるのは1452年です。

14世紀に起きたペストの大流行や百年戦争により、土地は荒れ、人口も減少していました。疲弊した人々は、新しい価値観を求めるようになっていき、イタリア・ルネサンスの時代を迎えることになります。

このような時代背景の下でヴォイニッチ手稿が書かれたと思われます。

誰が執筆したのか?

Wikipediaを見ると、・・・読むのがいやになります。

「作者については諸説ある。イングランドの学者、ロジャー・ベーコンとする説では、挿し絵から見て薬草学に関する何かの知識か見解を宗教的迫害から守るため、非常に特殊な暗号を使って記載したのではないかとしている。イングランド生まれの錬金術師、エドワード・ケリーとする説では、錬金術に傾倒していたルドルフ2世から金を詐取するため、もしくはパートナーのジョン・ディーをかつぐために偽造したとしている。ディーはルドルフ2世の手稿入手の背景にいた人物とされる。」

Wikipediaのこの項の執筆者に対し、そもそも出典も挙げずに記載する無神経さと、他人の文献を寄せ集めて作ったという文章の稚拙さが目に付きます。いや、鼻につきます。もう少しまじめに記載してほしいものです。この文章の欠陥は、記載する意味が全くないということ。もっともらしく歴史上の人物や人物をちりばめているだけの文章です。この記述は読むに値しない。書いた本人も出典を確認できず、パクった文章には出典が書かれていない、ということでしょう。

根拠のない戯言を拡散する無責任さには腹が立ちます。

ヴォイニッチってどんな人?

ヴォイニッチ手稿を再発見したヴォイニッチ氏とはどんな人物なのか、調べてみます。

ウィルフリッド・ヴォイニッチ(Wilfrid Michael Voynich )の生涯を年表にまとめてみました。

  • 1865 10月31日、リトアニア北西部テルシェイに生まれる(当時はロシア帝国支配下)。
  • モスクワ大学卒。化学の学位と薬剤師の資格を取得
  • 1885 ポーランド民族主義運動に参加し、逮捕・投獄される。
  • 1886 ワルシャワ要塞に収監されている同志の救出に失敗し、ロシア帝国の警察に逮捕・投獄される。
  • 1887 投獄中のワルシャワの監獄の窓越しに、将来の妻、英国人のエセル・リリアン・ブールの姿を見る。
  • 1890 シベリアに移送されるが脱出し、イギリスに渡る。10月5日、ロンドンでエセルと再会
  • 英国の大衆に革命関係の本を売るため書店業に携わるようになる。
  • 1895 信奉していた活動家ステプニックの死去に伴い、活動運動から身を引く。
  • 1898 ロンドンで本屋を開業
  • 1902 9月、エセルと結婚
  • 1904 英国市民権を得る。書店の経営は順調で、ロンドンのほか、パリ、フィレンツェ、ワルシャワにも支店を構える。
  • 1905 ロシア第一革命
  • 1912 イタリアのモンドラゴーネ寺院(Villa Mondragone) でヴォイニッチ手稿を発見し、入手する。
  • 1914 ニューヨークに出店
  • 1915 リトアニア人が住む地域がドイツ帝国に占領される。
  • 1920 米国に移住。ニューヨークに居住
  • 1922    フィレンツェのオフィスを閉鎖
  • 1930 3月19日、ニューヨークで死去(享年64)
  • 1937    ロンドンのオフィスを閉鎖

Wikipediaには、「ヴォイニッチはポーランドの革命家である」と書かれています。実際に、妻のエセルと共に革命運動に携わっていた時期もあるのですが、30歳の時に足を洗ったようです。ただし、政治活動家というものは、(組織の秘密を知っているため)簡単には足抜けができないようなので、本当のところは分かりません。古書販売で稼いだお金をポーランド独立の活動資金として流していた可能性もあります。

また、ヴォイニッチは、モスクワ大学で化学の学位と薬剤師の資格を取得しています。ヴォイニッチ手稿のイラスト画と重なります。少なくとも、(偽書だとすると)手稿をねつ造することが可能な知識と教養を持った人のようです。

妻のエセル・リリアン・ブール(Ethel Lilian Boole)は、1864年5月11日生まれで、ヴォイニッチより1歳年上です。彼女は、高名なイギリス人数学者ジョージ・ブールの末娘として生まれ、1960年7月27日、ニューヨークにおいて96歳で亡くなっています。とても長寿です。

なお、日本語版Wikipedia『ウィルフリッド・ヴォイニッチ』には、二人の結婚が1893年と書かれていますが、これは誤りです。1902年が正しい。Wiki英語版等様々な資料では1902年となっています(どうでもよいのですが、間違っている記述があると気になります(なお、結婚前から、二人は一緒に住んでおり、彼女はヴォイニッチ夫人と名乗っていたそうです。Wiki執筆者は誤った出典を引用しているようです)。

ヴォイニッチ手稿の来歴を調べる

ヴォイニッチは、1912年にローマの近くのフラスカッチのモンドラゴーネ寺院の写本群の中からこの手稿を発見しました。しかし、このことが分かったのは、1960年に妻のエセルが残した手紙からでした。つまり、それまではこの手稿の出所を誰も知らなかったのです。

ヴォイニッチがこの手稿を公開するのは手稿発見から9年後のこと。1921年、フィラデルフィアの米国哲学学会で初めてこの本が紹介され、その後、彼のカタログで公開されました。しかし、手稿の入手先については口外することはありませんでした。

ここで登場するのが、ペンシルベニア大学哲学教授ウィリアム・ロメーヌ・ニューボールド(William romaine Newbold:1865 – 1926)です。ヴォイニッチは、手稿の解読を彼に依頼します。そして、この本が13世紀のイギリスのフランチェスコ修道会士ロジャー・ベーコンによって書かれたものであるとするヴォイニッチの話に同意します。ニューボールドは、1921年、ヴォイニッヒ・ロジャー・ベーコン手稿(The Voynich Roger Bacon Manuscript)が刊行されます。そして、彼の死の2年後の1928年に『ロジャー・ベーコンの暗号(The Cipher of Roger Bacon)』(全44ページ)が友人の手で公表されます。

彼がつけたこの本の値段は16万ドルです。当時の物価は現在の10分の1くらいなので、現在価格では2億円弱といったところでしょうか。この手稿が稀覯本(きこうぼん)であることは間違いないようですが、何が書かれているのか、誰が書いたのかすらも分からない本を購入しようとする人は現れません。

ヴォイニッチは、この本を入手して以来、その来歴と移動の跡を追い、この著者が誰なのか突き止めようとしました。古書を高く売るために必要な手順です。

ヴォイニッチは、これを13世紀のイギリスのフランチェスコ修道会士ロジャー・ベーコンの作品であると信じていました。

上の写真で出てくるスクレのラ・レコレタ修道院は、フランチェスコ修道会に属するものです。この修道院に関する記事に関心のある方は、本サイトの猫と世界遺産のブログ『世界遺産スクレ:ラ・レコレタ修道院と樹齢千年のセドロの木』をご覧ください。

ロジャー・ベーコン(1214 – 1294)は、理論だけでなく経験知や実験観察を重視したので近代科学の先駆者といわれる人物で、哲学者として有名なフランシス・ベーコン(1561 – 1626)とは別人です(笑:この笑いは自分に対して)。

この本の著者が13世紀に生きたロジャー・ベーコンではないことは、C14測定で科学的に証明されました。

1930年3月19日、ヴォイニッチはニューヨークで64年の生涯を閉じます。彼は、「公的機関には10万ドルでヴォイニッチ手稿を売却してもよいが、個人収集家には価格にかかわらず売却してはならない」という遺言を残し、所有権は妻エセルと秘書アン・マーガレット・ニル(Anne M. Nill)との共同所有となります。

大恐慌が始まった時、ヴォイニッチの仕事は悪化の一途をたどっていました。そして、彼の死。アンは、エセルのビジネスパートナーとしてよく彼女を支えました。そして、1960年、エセルが96歳で亡くなり、アンは最終的にヴォイニッチ手稿の単独所有権者となります。

アン・ニルは、ニューヨーク州バッファローで1894年1月12日に生まれ、1961年9月24日にニューヨークで亡くなっています。67歳でした。アンの死は、なんと、エセルが亡くなった翌年のことです。ヴォイニッチが亡くなったとき、アンは36歳でした。

エセルはアンに、自分の死後に開封するようにと一通の手紙を渡していました。そこに書かれていたのは、ヴォイニッチが手稿を入手した経緯についての詳細でした。ヴォイニッチは生前、手稿の入手先には口を閉ざし、「南ヨーロッパのとある城」としか言いませんでした。エセルがアンに託した手紙により、この秘密が明らかになります。

エセルの手紙によれば、この手稿はイタリアのフラスカーティーにあるかつてイエズス会の僧院ヴィラ・モンドラゴーネ(villa mondoragone:現在、ローマ大学第2キャンパス)のコレクションの一部だったことが明かされます。イエズス会士らは、ヴィラの修復のために稀覯写本の一部を売却せざるを得なくなったようです。もし、これが本当だったとしたら、コレクションの売却が正当なものだったのかという別の問題が生じることになります。僧院ヴィラにコレクションを売却する権限があったのかということです。ここら辺のことは管理人には関心がないので、深追いすることはやめます。

眼鏡を外したAnne Nill

 1961年7月12日、アンはヴォイニッチ手稿を、新しい雇い主である稀覯本ディーラーのハンス・P・クラウス(Hans Peter Kraus: 1907 – 1988)に24,500ドル(15,000ドル?)で売却します。しかし、その二ヶ月後、アンは亡くなります。アンのお墓は、研究者のDana Scottによれば、アンの出生地バッファローの『Forest Lawn Cemetery, Section 8, Lot # 436』にあるそうです(が、どうやら別人の墓らしい)。7)

この取引は、ヴォイニッチ家の財産処分問題が関係しているようです。これをクラウスは、160,000ドルで売却しようと試みますが、買い手が現れず、最終的に、1969年、クラウスは、ヴォイニッチ手稿をイェール大学に寄贈します。そして、現在に至ります。

もう少し詳しく、この本の来歴を調べてみることにします。(ヴォイニッチ手稿:VM)

年 月 出 来 事 備    考
1200年代 イギリスのフランチェスコ会士ロジャー・ベーコン(Roger Bacon、1214年 – 1294年)がVMを暗号で書く。
錬金術師ジョン・ディー(John Dee :1527 – 1608) がVMを神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に600ダカットで売る。 Wikipediaによると、”600 gold ducats (about 2.07 kg of gold)” とあるので、金の現在価値換算では1千万円程度となる。
1608-1622 ルドルフ2世の医師ヤコブス・シナピウス(Jacobus Sinapius、ヤコブズ・デ・テペネチ(1575 – 25 September 1622))がVMを入手。
1622年7月 ルドルフ2世の図書館責任者ヤコブス・シナピウスの死により、宮廷で働いていたゲオルグ・バレシュ(Georg Baresch: 1585-1662) がVSを入手 プラハ出身で、チェコの古物収集家・錬金術師
1637年 ゲオルグ・バレシュはローマのキルヒャーにVSの一部を写し書きしたものを添付し、解読の手がかりを求める。 VMかどうかは添付の写しが無く未確認
1639年 ゲオルク・バレシュはキルヒャーに二度目の手紙を書き、VSの一部を写し書きしたものを添付し、解読の手がかりを求める。 VMかどうかは添付の写しが無く未確認
1662年 ゲオルグ・バレシュ死亡。 ヨハネス・マーカス・マルシ(Johannes Marcus Marci: 13 June 1595 – 10 April 1667)がバレッシュの蔵書の中からVMを入手
1666/8/19 ヨハネス・マーカス・マルシ(Johannes Marcus Marci: 13 June 1595 – 10 April 1667)がキルヒャーに手紙を書く。 この手紙がヴォイニッチが入手したときVSの表紙に貼り付けられていた。
1666年 1666年、アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher:1601年5月2日 – 1680年11月27日)はヴォイニッチ手稿を受け取った。手稿は1870年の教皇領のイタリア王国への併合までローマ学院に所蔵されていた。
1912年 ヴォイニッチはローマの僧院ヴィラ・モンドラゴーネでVMを入手 この入手先が明かされるのは妻エセルが残した手紙による。
1915/10/01 シカゴ芸術協会においてVMを展示し、未解読の暗号でロジャー・ベーコンの作品と説明 ペンシルヴァニア大学哲学教授ニューボルト(William Romaine Newbold (1865 – September 8, 1926) )がVMの存在を知る。
1919年 ヴォイニッチがニューボルトにVMの3ページ分のコピーを送り翻訳を依頼。3枚のうち1枚が最終ページ。
1921/04/20 ニューボルトがフィラデルフィア医師会で、「ヴォイニッチ=ロジャー・ベーコン手稿」と題する講演を行う。
1921/04/20 ニューボルト、フィラデルフィアのフィジシャンズ大学(College of Physicians)での講演でロジャー・ベーコンと書簡について言及 “A Preliminary Sketch of the History of the Roger Bacon Cipher Manuscript”
1921/04/21 ニューボルト、アメリカ哲学協会年次総会で「ロジャー・ベーコンの暗号」と題する講演を行う。 暗号システムを説明
1926/09/08 ニューボルト死亡
1928年 ニューボルトの同僚ローランド・グラッブ・ケントがニューボルトの遺稿をまとめ「ロジャー・ベーコンの暗号」として出版
1930/03/19 ウィルフリッド・ヴォイニッチ死亡
1931年 シカゴ大学英語学教授ジョン・マシューズ・マンリーが、ニューボルトの解読方法では復号ではなく暗号化が困難として反論
1960/07/27 ヴォイニッチ夫人エセル死亡(享年96) エセルが残した手紙で、VMの入手先が初めて明かされる。

途中までです。

手稿は暗号で書かれているのか

もし、ヴォイニッチ手稿が暗号で書かれているとすると、言語学者が解読できないのも頷けます。

でも、少し考えれば、そんなはずがないことは明らかです。『この本は暗号で書かれている秘密の文書ですよ』と自ら公言しているようなものだからです。膨大な手間暇をかけて、暗号で作りましたよ、と誰もが分かるような本を作る人などいないと思います。前述したピエール・プランタールの『秘密文書』のようです。

さらに、暗号化したら、それを読むためには「復号」という作業が必要となります。数行の暗号なら復号は容易でしょうが、17万字の文字の復号を誰がやるのでしょうか。

したがって、「暗号説」は、最初から却下です。読めないのは、暗号ではなく、略字が用いられているからではないでしょうか。略字なら、それを知ればすらすらと読むことができます。

メアリー・ディンペリオ(Mary E. D’Imperio)というアメリカの暗号学者が1975年より研究に参加し、1978年に研究結果を報告書『The Voynich Manuscript: An Elegant Enigma(ヴォイニッチ手稿 そのエレガントな謎)』3) にまとめて公表しています。DLして誰でも読むことができます。(Wikiの出典リンクは画質が悪く読めないので、本サイト出典リンクがお勧めです)

「ディンペリオは、ラテン語の略記法との比較を行っている。これは中世とルネッサンス期に用いられたものだが、その一部は今も医師の処方箋に使われている。ヴォイニッチ文字の『cc』は、ra, ci, cri, を表すラテン語の略記法と同じものである。・・・」1) p.28

結論から書くと、彼女はヴォイニッチ手稿の解読に失敗します。そして、暗号解読方法の仮説のみ残します。ネット上に出回っている様々な説は、彼女の報告書の孫引きがほとんどです。

面白いことに、『メアリー・ディンペリオ』の名は、ヴォイニッチ手稿を紹介するサイトでは必ず登場するのですが、彼女が何者なのかは誰も明示していません。どこの誰の研究成果なのかが、研究内容とそのレベルを知る上で重要なはずなのに、誰も疑問にも思わない。ヴォイニッチ手稿の研究者って所詮はこの程度という感じです。お粗末すぎる。

第二次世界大戦で、当時最高と言われたドイツの「エグニマ」や日本の「九七式暗号」が解読されたのは、解読者が優れていたことは間違いないのですが、実際には、暗号機本体が連合国側に渡っており、暗号の仕組みが明らかになっていたのです。あとは、組み合わせ方だけ。「九七式暗号」を解読したフリードマンもヴォイニッチ手稿の解読に挑みますが、当然、解読できない。ヴォイニッチ手稿が暗号で書かれているとするならば、まずは暗号の仕組みから。

フリードマンは、思わせぶりなアナグラムのメッセージ「私はアナグラムやアクロスティックのサイファだとは思っていない。それらは検討にほとんど値しない。全くの無駄であり、何の証明にもならないだろう。終わり」を残します。

このアナグラムの文字を誰も解読できなかったのですが、正しく並べ替えたものは、フリードマンの死後に公表されます。

「ヴォイニッチ手稿は、ア・プリオリなタイプの人工的もしくは普遍的言語を作成しようとする初期の試みである。- フリードマン」

この「ア・プリオリなタイプ」とは、現存している言語構造とは全く異なる原理に基づいて作られるものらしい。

ヴォイニッチ手稿の人工言語説は、結局のところ、フリードマンのこの戯れ言を根拠にしているようですが、その論拠は?
何しろ、フリードマンがその根拠を説明していないので、誰も知らない。「フリードマンが言ったから」がかれらの論拠のようです。

ステレオタイプの人たちの垂れ流す情報は百害あって一利なしです。

ちなみに、管理人が調べた1978年時点での彼女の肩書きは以下の通りです。NSAの分析官ですね。NSAのコンサルタントとして働いていたようです。

NATIONAL SECURITY AGENCY/CENTRAL SECURITY SERVICE FORT GEORGE G MEADE MD.

ヴォイニッチ手稿を解読する方法について、たくさんの仮説が提示されていますが、どれもこれもが中途半端なものばかり。「一部を解読した」など意味不明。全部解読しろよ。

短い人生。こんな解読方法を試しました・・、という研究成果(?)につきあう気は更々ない。

ついに解読されたヴォイニッチ手稿

『2017年9月9日、信頼あるタイムズ紙系列の雑誌媒体「THE TIMES LITERARY SUPPLEMENT」において、歴史研究者のNicholas Gibbs氏がヴォイニッチ手稿の解読に成功したと発表しました。』4)

おいおい! 管理人が同じ記事を書くとすると、「2017年9月9日、信頼を保つために、いつでも責任転嫁して潰せるように敢えてつくった系列会社「THE TIMES LITERARY SUPPLEMENT」において、誰だか知らない自称歴史研究者のNicholas Gibbs氏がヴォイニッチ手稿の解読に成功した、と誰も確認できないようないい加減なことを発表しました。本当かどうかは皆さんが判断することであり、当社は一切の責任は負いません。報道の自由は守られるのが当たり前。責任はすべて Gibbs氏にありますので念のため」となるかも。

ネットが発達した現代。いい加減で中途半端な「解読に成功」的記事は、すぐに猛反発を受けます。案の定、この説に対して批判的な意見が多く出されているようです。でも、自分で確認するまでは、本当のところは分からない。ネットの批判が正しいとは限らない。ラテン語の女性研究者のヒステリーじみた批判にはうんざりです。批判するのなら、「正しいラテン語はこうだ!」と例を示せばよいのに、示さない。示せないのです。示した時点で、「おまえの方が勉強不足」という烙印をその道の大御所から押されてしまうリスクがあるからです。

「専門家が言った」として文責を避けようとする記述が横行しています。ネット販売の「個人の感想です」と同じ手法です。

メアリー・ディンペリオのことを「暗号学者」と皆が書いています。コンサルのことを学者とは日本語では言いません。「暗号学者」という日本語を見たら、どこかの大学の教授か講師と思ってしまう。大衆をミスリードする明らかな誤訳です。

「The times Literary supplement」の記事が公開されたのは、2017年9月5日のこと。これにいち早く反応したのが、『Gigazine』で9月7日です。『「ヴォイニッチ手稿」を解読する試み、「世界一ミステリアスな本」には本当のところ何が書かれているのか?』という記事で、このことを紹介しています。その他大勢のライターの記事は、9月10日以降に集中しています。まるで全ての記事を同じ人間が書いたのではないかと疑いたくなるほど中身のない記事ばかりです。

ところが、9月6日の時点で、この情報に反応し、詳細な分析を行っているサイトがあります。

管理人が驚いたのは、その分析の精度です。検索してもなかなか上位にヒットしないサイトさんなので、ほとんどの人は知らないと思いますが、書かれている内容はすばらしい。本当に驚きました。

どのような方が書かれているのか不明ですが、すごいの一言です。「The times Literary supplement」の記事掲載の翌日に、このレベルの記事を書けるなんて、と脱帽です。

『ヴォイニッチ手稿の解読とラテン語』(trivialworldのblog)

関心のある方は、上のリンクからご覧ください。

この項は、とりあえず、ここで打ち切ります。そのうち、追記したいと思います。

自分でもやってみる

ヴォイニッチ手稿の解読は、過去100年にわたり、多くの専門家やアマチュアの方が取り組んできました。その結果は、全滅状態です。「ほとんど解読に失敗した」など書いている本がありますが、嘘です。一つも解読できていません。「ほとんど」ではなく、全員が解読に失敗している。

ヴォイニッチ手稿が偽造したものであり、解読などできない、という人もいます。しかし、その人はそれを証明していない。何ら証拠も示さずに、ネット上で簡単に見つかる話をつなげただけで偽造だとか解読不能だとか言っているだけです。謎の解明で必ず出てくる口だけ達者な人たちです。

ヴォイニッチが偽造したと考えるこれらの人たちの根拠は、①古い羊皮紙はヴォイニッチがいた当時、簡単に入手できた、②羊皮紙の値段はそんなに高いものではない、③字体は少し練習すれば簡単に書けるようになる、というもの。

それほど簡単にできるのなら、やって見せて欲しい。完全復元して見せろよ。

実は、YouTubeで見たのですが、スペインで完全復元版を作成し、販売しているようです。材質は羊皮紙で、全て手書き。つまり完全復元した会社は存在するようです。しかし、管理人は、もし、完全復元できたとしても、それは、般若心経を写経しました、と言っているようなもので、般若心経そのものを作り出したわけではない、と思います。

手稿に書かれている全ての文字を抽出し、統計分析した

そこで、管理人は、全く別のアプローチを試してみました。そのヒントとなったのは、上で書いたように「羊皮紙の裏の文字やイラストが表に透けて見える」ということでした。革製品をイメージしていたので、羊皮紙は分厚いものだと思い込んでいましたが、裏の文字が透けて見えるほど薄いようです。

そこで思いついたのが、『この本は、太陽に透かしてみるのが正しい見方なのでは?」と考えました。

おわりに

世の中には、頭のよい人がいるものだとつくづく思います。

他人の記事をパクって、まとめ記事しか書けない人もいれば、それさえもかけない人もいる。

まとめサイトを書いている方は、かなりの時間をかけて調べていると思います。多くの情報をまとめ上げる力量には感心しますが、そればかりやっていると、オリジナルの文章が書けなくなるという弊害が生じます。

民放テレビ局が、ドキュメンタリーをつくれなくなったのは、おちゃらけすることで責任逃ればかり考えているせいではないでしょうか。そんな番組は見る気もしないし、時間の無駄。放映内容をおちゃらけでしたと、いつでも逃げられるように作っているので、内容が正確なのかは誰にも分からない。そもそも、正しい内容を放映しているわけではないですよ、と逃げの体制です。

ヴォイニッチ手稿については、以前から気になっていた謎なのですが、管理人的には、Nicholas Gibbs氏の方法で解けるのではないかと思います。実際のところ、メアリー・ディンペリオも同じようなことをやっていますが。

何となく感じるのは、「ヴォイニッチ手稿は、もし解読できたとしてもたいした内容の書物ではない」ということです。たくさんの稚拙なイラストを使って説明しているのを見ると、重要な価値のある書物にはとても見えません。

ヴォイニッチ手稿のことをいろいろ調べていると、2007年あたりが人気のピークだったようで、当時の膨大なリンクを調べるのに苦労しましたが、その後、人気は下火になります。もしかしたら、Nicholas Gibbs氏の打ち上げ花火は、別の意図が潜んでいるのかも知れません。彼は、放送作家のようなので。彼のことを「学者」という用語を使うサイトは要注意です。その程度の内容しか書かれていない証明のようなものです。

Nicholas Gibbs氏は、目次が失われたので分からなくなったなどとたわけたことを言っていますが、確かに、この手稿には、欠落していると思われるページが存在します。最新の画像を見ると、イェール大学では、コデックスを綴じていた紐を切って、フォリオの状態にして画像を撮影しているようです。この紐がいつの年代のものかが気になります。本当にフォリオの並べ替えは行われたのか、本当に目次は欠落しているのか、など、学芸員が調べれば簡単に分かりそうですが、ヴォイニッチ手稿の民間研究者の方たちは、自分の説に一所懸命で、とても視野が狭くなっている気がします。謎を解明するには、どのような情報が必要なのか、だれも考えていないところが、ヴォイニッチ手稿研究者たちのレベルの低さを感じさせます。

管理人の実家の天袋の襖には、水墨画が貼られていました。有名な人の画だったそうです。しかし、それは半分に切られたもので、元々は二倍の大きさだったそうですが、財産分けで半分に切ったのだそうです。実家にあるのとは別のもう片方に著者の落款が押されていたそうです。管理人は、子供心に、美術品を半分に切るという発想に驚くと共に、彼らが自分の親族だと思うと情けなくなったという記憶があります。

ダ・ヴィンチの作とされる『美しき姫君』は、夭折したミラノ公女ビアンカ・スフォルツァを悼む羊皮紙に書かれた詩歌集から切り取られものであることが、羊皮紙の切り口・綴じ紐の痕跡の位置から確認されています。

人間って、こんなことをするのかと思ってしまう。

ヴォイニッチ手稿コデックスが、作られた当時のページ配置だったのかは、綴じ紐と各ページの重なりの痕跡などから分かると思います。

(どうでもよいことですが、胃の不調で亡くなったビアンカは子宮外妊娠が死因で、幕末のタウンゼント・ハリスは生涯童貞だった、など、出典も示さずに辞書を書いたふりをしているWikiの執筆者には、退場を勧告したい! キャッチーな話題だからこそ慎重に出典を調べるべきで、調べた結果は与太話だと分かる。)

筆記体についての記述で思い出したのですが、管理人が生徒だった頃は、英語の授業の板書をノートに写すときは筆記体で書いていました。

ところが、うちの息子たちは英語の筆記体を知りません。ということは、筆記体を読むこともできない。これって、とても問題だと思います。ゆとり教育の弊害なのかどうかは知りませんが、本来修得すべき時期に修得できないと、大人になって自分で修得しようとすると大変な困難に直面することでしょう。「文字」とは、「習い」、「修める」必要があります。

何となく、明治の初め、初代文部大臣となった森有礼のことを思い出します。彼は日本語を廃止して英語を日本の国語に定めようとしたことで有名な人です。彼の案が取り入れられていたとしたら、現代の子供たちは、漢字、ひらがな、カタカナ教育から解放され、英語がペラペラ。子供たちは楽しい生活を送れそうです。

でも、過去の文献は一切読めない。過去の歴史も誰かが書いた英文でしか読めない。これでは、歴史が途絶えてしまったのと同じこと。

ヴォイニッチ文字が他の書籍で確認できないことから、謎の文字となっています。日本語が謎の文字にならなくてよかったと、改めて思いました。

管理人がこの記事を書くきっかけになった本が『ヴォイニッチ写本の謎』です。この書籍は、ゲリー・ケネディとロブ・チャーチルという2名の人物の共著になっています。この人たちっていったい誰なの?

マスコミ関係者特有のひねた文章が、読み進めるうちに臭ってきて鼻につきます。

本の「著者紹介」欄には、二人とも「作家」となっているけど、ネットで調べても彼らのキャリアがヒットしない。もちろん英語で調べても全くヒットしない。この分野の研究者でもなければ、研究実績のある人でもないようです。

管理人でさえ、自分の名前でネット検索すると十数件ヒットします。論文を発表しているからです。外国語版検索エンジンでも結構ヒットします(笑)。

ヴォイニッチ手稿が偽書かどうかを調べる前に、その情報を発信している人がまともな人間なのかを調べることが重要です。西郷隆盛が写っているとのねつ造話題に使われた「フルベッキ写真」のように、情報発信者がいかがわしい人物ではないことを最初に確認する必要があります。

【出典】
1. 『ヴォイニッチ写本の謎』、ゲリー・ケネディ、ロブ・チャーチル、松田和也訳、青土社、2006

2. René Zandbergen, “The history of the Voynich MS”,
3. D’Imperio, M. E., “The Voynich Manuscript: An Elegant Enigma“, 1978 (この本はリンクからPDFをDL可能)
4) 「GIBEON

5) ”Anne Margaret Nill“, FANDOM
6) “Anne M. Nill’s Will and Her Bequest to the Library of Congress of Ethel Voynich’s Unpublished Music“, Colin MacKinnon, 2013
7) “The Journal Of Voynich Studies“, J.VS, 2007

8) “Voynich manuscript: the solution“, The times Literary supplement, September 5, 2017
9) “LEXION ABBREVIATURARUM“, Verlagsbuchhandlung von J.J. Weber, Leipzig, 1928

10) 「文書クラスタリングによる未解読文書の解読可能性の判定:ヴォイニッチ写本の事例」、安形 輝、安形麻理、Library and Information Science No.61, 2009