本記事では、幕末、日本との通商交渉のためにロシア帝国代表としてやってきたプチャーチンが乗った三隻のフリゲート艦(パルラダ号、ディアナ号、アスコルド号)に焦点をあてた記述にしたいと思います。
この三隻のことをまとめて詳細に紹介している記事は、ネット上、どこにも存在しません。たぶん、このサイトが唯一かと思います。
この記事で『船』にこだわった理由は、これらのフリゲート艦に対して『ロシア帝国の世界最大の軍艦』など嘘の記述が多く見られるからです。たしかに『フリゲート艦』としては世界最大でしたが、戦艦としては、さらに上のランクの100砲を超える戦艦がたくさん存在します。
当時の歴史書物を書く人たちは、『船』に関心がないことがこれで明らかになります。そして、それ故、彼らには歴史が見えていないのではないかと思えてきます。
この記事を読み終わった後で、他の書籍などに書かれているディアナ号に関する記述を読むと、おかしいことに直ぐに気づくはずです。管理人の視点に近づいたということでしょう。
はじめに
「ディアナ号」と聞いて、ピンと来る人は、歴史通の方か、静岡県出身の方ではないでしょうか。
幕末、鎖国時代の徳川幕府を驚かせたロシア軍艦の大阪湾侵入事件。
1854年11月8日(嘉永7年9月18日)、ロシアのプチャーチンは、ディアナ号で大阪に来航。幕府を驚かせました。
実は、ディアナ号が大阪湾に姿を現す13日前の1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、ディアナ号は函館に寄港しています。その時、大阪に向う旨を函館奉行に通告しています。ところが、函館奉行は、このようなことを取次ぐと罰せられる恐れがあると考え、幕府への報告を怠ります。さすがは幕末の幕府役人です。
このため、突如大阪湾に出没したロシアの軍艦に幕府は驚愕することになります。
最初に書きますが、この記事は、執筆中の「勝海舟の謎」のパーツです。
ロシア帝国のフリゲート艦ディアナ号が日本で有名な理由は、この船が嘉永7年11月4日(1854年12月23日)9時15分頃に発生した安政東海地震、その直後(ロシアの記録では4時間半後)に発生した津波により、船が大破し、修理のために回航途中に沈没するという悲運に見舞われたことでしょう。
さらに、ディアナ号の乗組員をロシアに帰国させるために、日本で新たに洋式帆船を造ったというにわかには信じられない事態になったこと。
そして、ディアナ号に積まれていた52門の大砲の行方。
今日はこの謎を追うことにします。
分析の視点
幕末、多くの外国の軍艦が日本に来航していました。アメリカのペリーの黒船ばかりが有名ですが、ペリーの黒船もいつまでも日本に居続けるわけではありません。他国の船も同じこと。外国の艦隊が日本にいる時期はとても限られているということです。
ところが、幕末に詳しい歴史の本を読んでもこのような視点で書かれている本はほとんどありません。○○国が軍艦を派遣して幕府に圧力をかけた、という点の情報しか見かけません。
欧米のどの国の軍艦でも、日本を攻撃するには兵站が伸びきっているため、現実問題として難しい。
欧米各国が共同して日本を攻撃する恐れがあった、などの推論を書くのであれば、その時点での各国の艦隊の位置を把握していなければなりません。本当に連合国による攻撃が可能だったのか。
しかし、そのような記述は見かけません。このような基本的なことも調べもせずに自説を主張している、と管理人には映ります。
幕末の歴史の記述の中に、クリミア戦争もナポレオン3世も出てこないようでは、そもそも幕末の歴史を日本の中だけで捉えようとする偏った歴史観の研究者なのではないか。このような研究者の頭の中は、「鎖国」状態なのかも知れません。
幕末の外交を考える上で、『船』のことをもっと重要視する必要があるように思います。
歴史家が書いた文章を読むととても視野が狭いように感じます。たとえば、将棋盤全体を見るのではなく、目先の「歩」を取るかどうかに着目している、と管理人は感じます。次の一手で王様が詰んでしまうのに、盤上の駒の配置を見ておらず、目先の歩ばかりが気になる。
これをこの記事のテーマにあてはめると、日本に寄港した目先の外国船にしか関心を示さず、たったそれだけの情報で歴史を解釈しようとしている。盤上、つまり、各国のどのような火力を持つ軍艦がどのように配備されていたのかということなどお構いなしに、わずかばかりの情報をつなげて歩をどうするかという視点で解釈をしている。
そこで、この記事では、ロシアのフリゲート艦に着目し、その動きを詳細に追うことにしました。すると、これまで誰も指摘していない様々なことが見えてきます。
管理人にとってのディアナ号の謎とは
管理人がディアナ号について関心を持った理由は、プチャーチンの不思議な行動でした。
津波により乗ってきた軍艦は大破し、その後沈没します。ディアナ号の乗組員をロシアに返すために、プチャーチンは洋式帆船の建造を幕府に申出ます。
鎖国中の日本に勝手にやってきて、無断で領海内に侵入。たまたま津波で乗ってきた船が沈没したとしても、帰国のために日本で帆船を建造したいなど、図々しいにもほどがある。やはり、(攘夷派が主張するように)ディアナ号の乗組員全員を、不法入国の罪で打ち首獄門にするのが正しい選択!?
幕府は、申出のあった翌日にはこれを許可しています。何をするにも時間ばかりかかっていた幕府が翌日には承認したのです。(後で詳細な年表を示すので、以降、日付等は省略します)
そこで帆船の建造が始り、完成したのが「ヘダ号」です。建造地の「戸田(へだ)」の地名を取り命名されたようです。
問題は、この船の搭乗人数です。
ディアナ号の乗組員をロシアに帰す、を目的として建造されたヘダ号。ところが、この船は小さすぎて、乗組員全員を乗せることができません。
こんなことがあるでしょうか。実務を経験していない人は、何ら矛盾に思わないようです。これって、目的と結果の関係で見れば、デタラメです。
ディアナ号の乗組員をロシアに帰国させるという「目的」で建造した「ヘダ号」がディアナ号乗組員の十分の一程度しか乗れないものだったなど、滑稽としか言いようがありません。
しかし、今なら滑稽と笑えても当時は切腹もの。
したがって、現代から見ると「滑稽」に見えることも、当時としては妥当な判断だった、と考えるべきでしょう。
ディアナ号の乗組員は何名なのでしょうか。ロシアのサイトに掲載されていた資料には定員486人とあります。
この定員は、軍艦の定員なので、ほぼこれと同数の人間が乗っていたと考えられます。この定員は適当に割出したものではなく、必要性から割出したもののようで、他の軍艦の例を見ても定員ピッタリに乗船しているようです。この事実を侮ってはいけない。
結局、ディアナ号の乗組員たちは、アメリカの民間帆船などを使い、3陣に分れて帰国することになります。
なに、これ?
ディアナ号の船員数は何人ですか?
ヘダ号でロシアに帰国した船員は何人ですか?
本当にヘダ号を造る必要があったのですか?
これが、管理人の最初の疑問です。
ところで、ヘダ号とは、ロシア語で何と書くのか。それは、「Хеда(英語:Kheda)」です。ロシア語文献を調べるときに役立つと思い、記載しました。
次に、管理人が疑問に思ったことは、「ディアナ号の大砲」。
実は、この疑問は、勝海舟について調べているときに、勝がこの大砲を横浜に運んだらしいという記述を見つけたことから生じたものです。
「ディアナ号の大砲」。ワクワクするキャッチーなワードですね。
52門の「ディアナ号の大砲」。当時、世界最新鋭のロシア帝国フリゲート艦に積まれていた大砲です。
どんなものだったのでしょうか。
「ディアナ号の大砲」は、これです。本物かは別にして、同型のものが積まれていました。この写真を撮影するためだけに板橋まで行ってきました(笑)。
ディアナ号の死の年表
「ディアナ号」。英語読みすると「ダイアナ号」。処女航海で世界をほぼ一周して、日本にたどり着いたものの、津波に巻込まれて、それが原因で沈没。
こんな数奇な運命を辿った船を、管理人は他に知りません。
下の年表を誰も見たことがないはずです。かなりの時間をかけて作りました(未完成なので順次更新します)。
この年表を見ると、なぜ、ヘダ号を造る必要があったのかが見えてきます。そして、冒頭に書いた記述の意味が分るのではないでしょうか。
1852年5月19日 進水
1852年7月 運用開始。アルハンゲリスクからクロンシュタットに移される。
1853年10月4日、ディアナ号はクロンシュタットを離れて極東ロシアへと転身。フリゲート艦の指揮官は経験豊富なレソフスキー(S. Lesovsky)中尉が任命された。彼はこの任務のためにプチャーチン(E. V. Putyatin)伯爵の要請で黒海艦隊から呼び戻された。
1853年10月13日から20日まで コペンハーゲンに停泊
1853年10月31日、ディアナ号は大西洋に向かう。
1853年11月14日から18日まで、ディアナ号はカナリア諸島のラ・ゴメラ島(La Gomera)のサンセバスチャン・デ・ ラ・ゴメラの港に停泊。
1853年12月1日、赤道を渡る。
1853年12月13日、リオデジャネイロに投錨
1854年1月7日、リオデジャネイロを出港
1854年2月22日、ホーン岬を通過し太平洋に出る。
1854年2月 チリのバルパライソ(Valparaíso)に入港。船の修理のために停泊
1854年3月11日、バルパライソを出港。サンドイッチ諸島(ハワイ)に向う。
1854年3月28日、イギリスとフランスはオスマン帝国と同盟を結んで、ロシアに宣戦布告(クリミア戦争)。
1854年 5月6日、ディアナ号、ホノルルに到着(56日間の航海)
1854年5月29日、ディアナ号のレソフスキー艦長は、フランス・イギリスがロシアに宣戦布告し、さらにイギリス太平洋艦隊司令官プライス提督が「ディアナ号」を捕獲するために探しているとの情報を得る。
1854年7月11日、デ=カストリ湾でプチャーチンと合流
1854年8月18日、6隻の英仏連合艦隊(3隻のフリゲート艦、コルヴェット艦、ブリッグ艦、蒸気式戦艦)がアバチャ湾に投錨
1854年8月28日、~9月7日、ペトロパブロフスク包囲戦(イギリス太平洋艦隊司令官:提督デイヴィッド・プライス少将)
1854年10月21日(嘉永7年8月30日、ディアナ号、函館に寄港。大阪に向う旨通告
1854年11月8日(安政1年9月18日)、プチャーチン、ディアナ号で大阪に来航
1854年12月4日(嘉永7年10月15日)、ディアナ号下田港に入港
1854年12月14日(嘉永7年10月25日)、プチャーチン、日本との交渉を再開
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)9時15分頃安政東海地震。津波によりディアナ号の舵が大破し、竜骨損傷。水兵1名死亡
1855年1月11日(嘉永7年11月23日)ディアナ号の修理のための港を戸田とすることを決定。
1855年1月15日(安政元年11月27日:この日から安政元年)、ディアナ号、戸田港へ廻航する途中、田子の浦沖で座礁
1855年1月19日(安政元年12月2日)、ディアナ号沈没
1855年1月22日(安政元年12月5日)、プチャーチンが船員帰国のために小型帆船を建造する策を幕府に提示
1855年1月23日(安政元年12月6日)、幕府はプチャーチンの策を認める。戸田で建造を開始
1855年4月26日(安政2年3月10日)、ヘダ号進水
1855年5月2日(安政2年3月16日)、戸田を出港し、不具合個所の手直しを行う
1855年5月8日(安政2年3月22日)、ヘダ号は幕府に通告なしに密かに日本を離れた
1855年5月21日(安政2年4月6日)、ヘダ号、ロシア領カムチャッカ半島のペトロパブロフスクへ寄港
1855年6月20日(安政2年5月7日)、さらに航海を続けニコラエフスクへ到着(6月8日説も)。そこでプチャーチンらは下船。陸路、首都・サンクトペテルブルクに帰還する(11月)。
クリミア戦争が終るのは、1856年3月30日のことです。まさに、ディアナ号、そして、ヘダ号については、クリミア戦争を抜きに語ることができないことが分ります。
ヘダ号に乗り、ニコラエフスクに到着したプチャーチンは、そこから陸路、サンクトペテルブルクに戻っています。当時はシベリア鉄道がない時代。陸路を騎馬で戻るというのは考えただけでも恐ろしい。Google Earthで計測すると2地点間の直線距離はちょうど6000kmです。夏でなければサンクトペテルブルクにたどり着けそうにありません。
そうなのです。冬の間は活動できない極東ロシアの話をするときには、何月の出来事なのかがとても重要になります。年しか記載していないのでは、情報が全く伝わらない。
競走馬に付ける「ブリンカー」と呼ばれる、これを着用することで真横や後方の視野を遮る装具があります。年しか記載しないのは、執筆者が「ブリンカー」の効果を狙っているのかも知れません。一つの見方しかできないように情報を開示せず秘匿する。
この記事では、日付にこだわって徹底的に調べました。年月しか書いていない箇所は、日付まで調べられなかったということです。
ディアナ号の仕様とは
ディアナ号とはどんな船だったのか。これをまとめてみます。
ディアナ号は、当時、ロシア帝国海軍の中でも最新鋭の52砲フリゲート艦でした。3本マストのフリゲート艦で機帆船ではありません。なぜ、最新鋭なのに蒸気機関を積んでいないのか。それは、燃料が続かないからです。
当時の蒸気機関の燃焼効率はとても悪く、蒸気機関を積んでも、船を建造した北海から極東に向う船には無用の長物でした。蒸気機関が使い物になるのはもう少し後の時代になります。
ディアナ号の仕様は以下のようなものでした。
船種: フリゲート艦
所属: ロシア帝国バルチック艦隊
製造所: Solombalskaya造船所
設計: FT Zagulyaev
着工: 1851年5月21日
進水: 1852年5月19日
運用開始: 1852年7月
運用停止: 1854年12月
主な仕様
総トン数: 2050 トン
上甲板長:52.8 メートル
船幅: 13.6メートル
航行: 帆船(3本マスト)
乗組員: 486人
兵器: 大砲 52門
この仕様を見ても、普通の人には、ただの数字の羅列としか映らない。問題は、このサイズの船って、当時の戦艦の中で大きいの? それとも中くらい? あるいは小さいの?
さあ、歴史好きの人に質問です。これに答えてください。
本サイトの過去記事を紐解くと、以下の記事をアップしています。
「北極海にこつ然と消えた二隻の英国軍艦!フランクリン探検隊の謎を追う」
1845年5月19日、イギリスのテムズ川下流の港グリーンヒザを2隻の軍艦が出港しました。船の名は、エレバス号とテラー号。1年後、この2隻の軍艦の乗組員全員が死亡するという痛ましい事故が起きました。
ディアナ号が建造に着手したのは1851年なので、事故発生の5年ほど後に建造されたことになります。
ペリーの黒船で有名なポーハタン号は1850年進水で、長さが77.32m、幅が14m。サスケハナ号は、同じ1850年進水で、長さが78.3m、幅が13.7mです(詳しくは過去記事参照)。
ディアナ号は米国の黒船に比べ、船長では7割くらいで、幅は同じくらいという感じでしょうか。
7割と聞くと同じくらいに思えるのですが、実際に見るとかなり小さく見えます。しかし、ディアナ号は幅がポーハタン号と同じくらいあるので、ポーハタン号より一回り小さい軍艦という感じに見えたのではないでしょうか。
クリミア戦争が勃発して、イギリス・フランスと交戦状態になったロシアの軍艦。この状況を知って徳川幕府との交渉にディアナ号1隻で乗込んだプチャーチン。いつ、イギリス・フランスの軍艦に遭遇するかも知れない危険な任務でした。
そして、なぜ、プチャーチンが、大阪湾を目指したのかが分ります。それ以外に選択肢がなかったと言うことでしょう。長崎に向えば、交戦国の艦隊と遭遇するリスクがあります。しかし、大阪湾は瀬戸内に入るため、周囲の半島から攻撃される恐れがあるため、他の欧米諸国の軍艦も通過したことのないルートでした。
プチャーチンはこの虚を衝き、大阪湾に侵入し、幕府を驚愕させることになります。外国嫌いの孝明天皇のいる京都のすぐ近くまで異国の軍艦が侵入したのです。
なぜディアナ号を戸田に回航することになったのか
ディアナ号は下田港に停泊中、津波により船体に甚大な被害を受けます。舵が折れ、船の背骨である竜骨がひどく損傷し、自力での航行ができなくなりました。被災の二日後、プチャーチンは、ディアナ号を修復するための港を借りたい旨幕府に申し出ます。
幕府は下田での修理を申し出ますが、プチャーチンは断ります。プチャーチンは、以前から港が狭いことなどの理由から下田港を嫌っていました。さらに、ディアナ号が下田港に停泊・修理しているのが通りかかった英仏外国船から丸見えになることを心配していました。下田は南に開けた港だからです。港に停泊中は攻撃されることはないでしょうが、港から出てきたところを英仏軍艦に待ち伏せされる危険があります。
このため、幕府が提示した幾つかの候補地を視察した結果、戸田なら外国船から見つからないということで、戸田が選ばれることになります。
このような経緯は、勝海舟がまとめた『開国起源』[2)p.282~]に書かれています。老中阿部正弘の指示文書も収録されているので興味深い。
ヘダ号が戸田で建造されることになるのも同じ理由でしょう。
プチャーチンとは
プチャーチンと聞いて、知っていると答える人は少ないように思います。プーチンなら知っているけれど、と答える人が圧倒的に多いと思います。
プチャーチンは、幕末、日本との間で、日露和親条約、日露修好通商条約を締結するためにロシア帝国が派遣した遣日全権使節です。
ところで、プチャーチンは日本人が一番好きなロシア人だと知っていました?
そもそもプチャーチンを知っている人が少ないのに、日本人が一番好きなロシア人と言われても困ります。日本人が一番好きなロシア人は、フィギュアスケート女子のザギトワだよ、と突っ込みを入れたくなります。
まあ、その真偽のほどはともかくとして、プチャーチンについて好感を持っている日本人が多いことは事実です。
なお、この話は白石仁明氏の書籍『日本人が一番好きなロシア人 プチャーチン』、新人物往来社、2010、の本のタイトルによります。白石氏自身もプチャーチンのことをほとんど知らなかったと告白されているので、思わず笑ってしまいました。こんな本、大好きです。
さて、プチャーチンという人物をここで簡単に整理しましょう。いつものようにWikipediaの記述で確認します。
1853年に日本の長崎に来航。その後1855年には、日本と日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した。
1842年、イギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、プチャーチンは、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要を感じ、皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられた。しかし、トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣は実現しなかった。1849年に侍従武官に任命され、1851年には侍従武官長に任命されている。
1852年、海軍中将に昇進し、同時にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが日本との条約締結のため出航したことを知ったコンスタンチン大公から日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられ、皇帝ニコライ1世により平和的に交渉することを命令された。
1852年9月、ペテルブルクを出発しイギリスに渡りボストーク号を購入。11月、クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流した。ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった。
Wikipedia、「プチャーチン」
少し長い引用になりましたが、プチャーチンが最初に日本・長崎に来たのは1853年8月22日 (嘉永6年7月18日)のこと。その時は、4隻の船で来ました。
旗艦パルラダ号、ボストーク号、オリバーツァ号、メンシコフ号の4隻です。
この時の幕府との交渉はうまくいかず、プチャーチンの艦隊は1854年2月5日(嘉永7年1月8日)、長崎を離れます(1854年4月20日に長崎に再度入港しています)。
そして、次に現れたのが1854年11月7日(嘉永7年9月17日)のこと。プチャーチンの軍艦ディアナ号が大坂天保山沖に到着し、幕府を震撼させます。今度は、艦隊ではなく、フリゲート艦ディアナ号単艦での来訪でした。
なぜ?
最初のプチャーチンの艦隊と各船の仕様とは
管理人が最初に疑問に思ったことは、プチャーチンが最初に長崎に来たときの4隻からなる艦隊ってどんな船だったのだろうということです。
実は、このことはどこにも書かれていない。
パルラダ号とボストーク号のことは調べれば簡単に分かります。しかし、オリバーツァ号、さらにメンシコフ号について詳しく書いているサイトはほとんどありません。
管理人が二番目に疑問に思ったことは、オリバーツァ号とメンシコフ号はどこから来たのだろう、ということです。プチャーチンの乗ったパルラダ号と僚艦ボストーク号は、父島で他の2隻と合流しています。
三番目の疑問は、パルラダ号とボストーク号は喜望峰を周って日本に来ましたが、ディアナ号は反対周りでホーン岬を回って太平洋を横断し、日本に来ました。なぜ?
順番に疑問を解いていきます。
まず、プチャーチンの4隻の艦隊の仕様です。以下の表のようになっています。
Image: Wikipedia、フリゲート艦パルラダ号
注目すべきは、パルラダ号のドラフト。これが原因で、この船は自沈することになります。
パルラダ号はサンクトペテルブルクのアドミラルティ造船所で建造されたフリゲート艦です。1832年9月1日進水の老朽艦です。この船は王室の外国訪問用に建造されたもので、豪華な装飾が施され、デザインも洗練されていましたが、極東までの長旅には不向きで、日本に向かう途中、何度も浸水し、そのたびに港に長期間停泊して修理することになります。
プチャーチンは、1853年6月5日、シンガポールに到着します。ここで本国に対し最新鋭艦ディアナ号の派遣を要請しています。
ここで話は、プチャーチンが日本との交渉を終えた時点に飛びます。
日本との交渉に失敗しソヴィエツカヤ・ガヴァニに入港したパルラダ号は、冬を前にしてアムール川に入ろうとしますが、ドラフトが大きくてどうしても入ることができず、港で越冬。これにより船は大きな損傷を受け、英仏軍に捕獲されることを恐れ、自沈することになります。
ボストーク号はイギリスで購入した中古の蒸気船スクーナーで、商船「フィアレス:Fearless」を購入し、軍艦に改造したものです。ただし、大砲の数はわずか 4門です。プチャーチンが長崎での交渉が長期化していたとき、母国との連絡と物資の調達のためにこの船を使いますが、その理由は、船の仕様を見れば分かります。プチャーチン艦隊の中で唯一のスクリュー推進の蒸気船でした。
オリヴーツァ号はコルベット。黒海艦隊、バルチック艦隊に配備されていましたが、これを極東に持ってきたようです。この足取りが追えない。
最後にメンシコフ侯爵号。この船は軍艦ではなく輸送船。ハワイで購入したもので、建造したのはアメリカのようです。露米会社(RAC)という当時、ロシア領アラスカ・カムチャツカを実質管理していた半官半民の会社の船でした。武装輸送船だったようですが、詳細は不明です。ただし、北部太平洋、ベーリング海域で運用することを想定した船であるため、使い勝手のよい船だったと思われます。乗組員も28人と少人数で運行可能でした。
プチャーチンの乗ったパルラダ号と僚艦ボストーク号が、なぜ、父島で他の二隻の船と合流したのかがこれで分かります。メンシコフ侯爵号はハワイから父島に向かって、ロシアからの二隻の軍艦の到着を待っていたのです。パルラダ号は喜望峰を周り、セイロン ⇒ シンガポール ⇒ 香港 ⇒ フィリピン ⇒ 父島、というルートを辿ります。プチャーチンはなぜマニラから長崎に向かわず、遙か東に位置する父島に向かったのか。それは、オリバーツァ号・メンシコフ侯爵号と合流する場所として父島が選ばれたためでしょう。ペリー艦隊も浦賀に姿を現す前、1853年6月15日、父島に停泊しています。プチャーチンが父島に着いたのは1853年8月7日なので、ペリーより53日後に到着したことになります。
このように、プチャーチン艦隊4隻の仕様が分かると、なぜ、ある船が特別な任務に就いたのかが手に取るように分かります。
これらのことは、わずかばかりの情報に基づき組み立てられている歴史書のどこにも書かれていないことです。
極東におけるロシア帝国の港
プチャーチンの記録を読んでいると、登場する極東のロシアの港は三つです。
ロシア領カムチャッカ半島の『ペトロパブロフスク』と樺太北部の対岸にある『ニコラエフスク(ニコラエフスク・ナ・アムーレ )』、その南にあるインペリアルハーバー(現ソヴィエツカヤ・ガヴァニ)でしょう。このうち、ペトロパブロフスクだけがロシア帝国にとって極東にある唯一の『不凍港』でした。
清国から沿海地方が割譲され、ウラジオストクとナホトカが建設されるのは1860年になります。ロシアが欲しくてたまらなかった不凍港をついに手に入れました。
つまり、これら二つの港の開港は、プチャーチンが最後に日本を離れた1858年8月の2年後ということになります。プチャーチンが日本と交渉をしていた当時、軍艦が寄港できるようなウラジオストクもナホトカもなかったのです。
パルラダ号が日本に向かう航路として、当初はディアナ号が辿ったホーン岬ルートを考えていました。オリヴーツァ号とメンシコフ侯爵号とはハワイで合流する予定でした。
しかし、プチャーチンはイギリス停泊中にペリーの艦隊が日本に向かったことを知り、より早く日本まで行ける喜望峰を回るルートに変更します。他の2隻の船とは父島で合流することします。
老朽艦パルラダ号では、海の最悪の難所ホーン岬を回るルートは危険だとの判断が働いたのでしょう。このルートは大西洋と太平洋を横断することになり、船が破損しても修理できる港がありません。
Google Earthでざっと計測すると、ポーツマスから長崎までのパルラダ号とヴォストーク号が実際に辿ったルートは約31,000Kmです。これに対しホーン岬を回るルートは約35,000Kmになります。
しかし、これは、結果的にはよくない選択だったようです。パルラダ号は何度も嵐に遭い、浸水します。その修理で足止めを食うことになります。さらに、壊血病やコレラが蔓延します。日本にたどり着くまでの間に、乗組員に死者が出ていたのではないでしょうか。
なお、パルラダ号とヴォストーク号は一緒に航海していません。航海は別々でした。
ディアナ号の乗組員たちの帰国
ここで話はディアナ号に戻ります。
プチャーチンの行動の謎の一つが、ディアナ号を失った後、なぜ、帆船を造ってロシアに帰ろうとしたのかということ。以前書いた『江戸時代の漂流記「尾張者異國漂流物語」の「宝登山島」の謎に迫る』を思い出します。フィリピンのバタン島に漂着した船乗りたちが、船を造って日本まで戻ってくると言う実話を紹介した記事です。
ディアナ号の乗組員は、全部で何人いたのでしょうか。
ディアナ号が日本に着いたときには、487名の乗組員がいましたが、戸田で3人が亡くなります。
地震・津波のあった1854年12月23日、水兵アレクセイ・ソボレフが大砲に挟まれて死亡しました。(戸田の玉泉寺の案内板は11日になっていますが、間違いです。)
1855年3月25日、戸田で下士官アレクセイ・ボショーチキンが死亡します。
1855年5月15日、戸田で水兵ワシーリー・バケーエフが死亡します。
残ったディアナ号の乗組員たちは、484名です。
彼らは、帆船を日本の協力で造り、ロシアに戻りました・・・ではないのです。
ヘダ号という船の仕様はどんなものだったのでしょうか。まず、これから見てみましょう。
全長22.7m、87.52トン、乗員数60名。メンシコフ侯爵号よりも一回り小さな船でした。
この船に484名の乗組員がすし詰めになって乗り込み、ロシアに帰還しました、とはなりません。
せっかく造った洋式帆船ヘダ号。しかし、定員は60名に過ぎません。でも、それは帆船を造り始めるときには分かっていたことです。
では、どのように考えていたのでしょうか。
実は、幕府は、ヘダ号建造と並行して、同型の帆船を造り始めます。その後増産し、戸田製の6隻が1856年1月頃(安政2年12月)までには完成しています(Wikipedia、「君沢形」)。
定員60名 x 7隻 = 420名
などと、数字遊びをしたくなりますが、7隻のヘダ号同型船(君沢形)でディアナ号乗組員全員をロシアに送り届けるなどできない相談です。帆船を運航できる人がいないからです。
プチャーチンや幕府はどのように考えていたのでしょうか。プチャーチンは、ヘダ号で乗組員の一部とともにニコラエフスクまで戻り、ディアナ号沈没をロシア政府に伝え、前回の訪日で使ったパルラダ号を派遣して、残りの乗組員を収容する。最初はこんな計画だったのではないかと思います。
川路聖謨『長崎日記・下田日記』p.180 に「プチャーチンは、一昨五日、ディアナ号沈没の窮余の一策として、代船を新造して故国に迎船を呼びに行く計画を立て、応接掛に対し二十人乗りバッテイラの建造許可を申請した。」
プチャーチンは知らなかったのですが、パルラダ号は越冬のためにアムール川に入ろうとしますがこれに失敗し、停泊中の湾内で嵐に遭い損傷します。これにより、外洋に出ることはできない状態にありました。
しかし、クリミア戦争により交戦状態にある英仏の軍艦が日本の周辺でロシア軍艦を探しているとの情報を他国の外交官から得たのかも知れません。一刻も早く、全員が帰国できるような方策を見つける必要があります。
結局、プチャーチンら幹部が選んだ方法は、ヘダ号に主要な士官が乗り、残りの船員は米国とドイツの商船に分乗して帰国するというものでした。
【第一陣】
1855年4月(安政2年3月)、アメリカ船を雇いアメリカのスクーナーのLesovsky号(米国商船Caroline Footeとの記述も:開国起源Ⅰ、p.330)で、159名の部下をカムチャッカ半島ペトロパブロフスクへ向け先発させます。彼らは無事に到着します。
【第二陣】
1855年5月8日(安政2年3月22日)、プチャーチン以下47名のロシア士官らはヘダ号でペトロパブロフスクに向けて出港。1855年5月21日(安政2年4月6日)、ペトロパブロフスクに入港します。しかし、そこはもぬけの殻。プチャーチンは、英仏によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦(1854年8月28日から9月7日まで)のことを知らなかったのです。
この戦いでロシア軍は勝利したものの、地理的に守備隊の増強が難しいことから、この港を放棄することとし、英仏の反撃の前に守備隊は撤退しました。港に残っていた駐屯兵からこのことを聞き、ヘダ号は直ちに出港、ニコラエフスクを目指しました。6月20日(5月7日)、ニコラエフスクに入港。その後、プチャーチンは、陸路、ペテルブルグに戻りました。
【第三陣】
1855年6月、戸田に残留するロシア人278名がドイツ商船グレタでペトロパブロフスクを目指したが、1855年7月2日(安政2年5月19日)、サハリン沖でこの海域を哨戒中のイギリス軍艦に拿捕され捕虜となってしまいます。その後、彼らはイギリスに送られます。彼らが釈放されるのはクリミア戦争後のことになります。
なんてスリリングなのでしょう。
もし、ディアナ号が失われていなければ、オホーツク海の勢力図は全く違ったものになっていたのかも知れません。
ところで、パルラダ号はどうなった?
プチャーチンがパルラダ号に乗って最初に長崎に現れたとき、交渉は決裂し、一旦、琉球、マニラに向かった後、再度長崎を訪れています。その後、長崎を離れ、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)、プチャーチンの艦隊はインペリアルハーバー(現ソヴィエツカヤ・ガヴァニ)に入港します。
ここで、英仏と戦争状態にあることを知ります。
この港は、その前年、1853年5月23日に露米会社の船舶「ニコライ」でこの地域を探検していたロシア帝国海軍大尉ニコライ・コンスタンティノヴィチ・ボシュニャックが、間宮海峡沿いのアジア大陸の海岸に天然の良港となる水深の深い入り組んだこの湾を探していて見つけたもので、港としてはできたばかりでした。
1854年6月21日(嘉永7年5月26日)、ソヴィエツカヤ・ガヴァニで東シベリア総督ムラヴィヨフ・アムールスキーとプチャーチンの協議が行われ、東シベリア沿岸の防備強化のためプチャーチンの艦隊を解散、ヴォストークとオリーヴツァは東シベリア総督の指揮下に、メンシコフ公爵号は露米会社の指揮下にそれぞれ編入、老朽艦パルラダ号は、捕獲を避けるため武装解除の上アムール川河口へ送ることが決まりました。
- パルラダ号の大砲等重量物をソヴィエツカヤ港に陸揚げし、喫水線を上げるよう準備をする。
- 1854年8月4日(嘉永7年7月11日) ディアナ号、デ・カスト湾に到着
- 1854年8月28日(嘉永7年閏7月5日) 英仏によりペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦始まる。(9月7日まで)
- 1854年9月(嘉永7年閏7月) プチャーチン、ソヴィエツカヤ・ガヴァニで本国から回航して来たディアナ号に乗り換える。
- 1854年10月15日(嘉永7年8月24日) プチャーチンを乗せた新鋭ロシア艦ディアナ号、函館に向け出港
- 1855年5月21日(安政2年4月6日) プチャーチンを乗せたヘダ号がカムチャッカ半島ペトロパブロフスクに入港。残留していた駐屯兵から、英仏との戦闘の発生と守備隊の撤退を知らされ、直ちに出港。
- 1855年6月20日(安政2年5月7日) プチャーチンを乗せたヘダ号、ニコラエフスクに到着。
- 1856年1月31日(安政2年12月24日) パルラダ号自沈
アムール川河口に回航されたパルラダ号は、喫水が深く、川に入ることができません。さらに、嵐により船が損傷し、長距離の航海ができなくなります。
そこで、1854年9月の終わりに、パルラダ号は、越冬のためにインペリアルハーバーのKonstantinovskaya湾に牽引されました。
すでに8月に、英仏艦隊はペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦が始まっていました。
1855年4月、カム提督対ザボイコの指揮下にあるカムチャツカの小艦隊の船がインペリアルハーバーに入り、そこで船員たちはパルラダ号を氷で覆い隠しました。
しかし、11月にパルラダ号を自沈させることが決まります。この決定は物議を醸すことになります。英仏軍艦の包囲戦は終わっており、パルラダ号が捕獲されるリスクは、その時点では少なくなっていたからです。もう一冬越冬させたいとの働きかけもむなしく、決定が覆ることはなく、1856年1月31日、氷を割って湾の中に曳航されたパルラダ号は爆破され、海の藻屑と消え去りました。
アスコルド号とは
アスコルド号とは、プチャーチンの最後の訪日の頃(1858年)に使われた軍艦です。その頃のプチャーチンの仕事は、清国との関係を強化し、ロシアの極東沿岸の権益確保を図ることでした。
プチャーチンを中国からロシアの港に輸送していたのがアスコルド号です。なお、スクリュー推進のコルベット、アメリカ号も訪日に使われていますが、この船は554トンと小さいので、本記事では省略します(切りがないので)。
ところで、このアスコルド号という船のことは、歴史から消されてしまっているのか、いくら探しても情報がほとんど見つかりません。とても不思議です。ロシアのサイトでも見つけるのに苦労するほど。
これほど情報の見つからない船も珍しい。たまにネット上で見かけるのは、長崎関連の記事です。しかし、日付が徹底的に削除されており、何月のことなのかさっぱり分からない記述になっています。
これは、明らかな情報の隠蔽でしょう。
何なんだろう? この船って!
ネットで探しても簡単には見つからないアスコルド号の情報を徹底的に調べるのがこのサイトの特徴です(笑)。
やっと見つけたアスコルド号のデータをまとめると、船の仕様は次のようなものです。
アスコルド号は、ロシア海軍の最初のスクリュー式フリゲート艦の一つでした。
1854年に建造され、排水量は2834トン。 46門の大砲を積んだフリゲート艦です。ディアナ号の建造の2年後に造られた船で、船の長さはディアナ号より1.2倍長い。
1856年10月頃、アスコルド号はクロンシュタットを出港し、喜望峰を回るルートで極東を目指します。アスコルド号の艦長は、イヴァン・ウンコフスキー(Ivan Unkovsky 1822年3月29日-1886年8月11日(享年64))。なんと、パルラダ号の艦長だった人です。
そして、この船に乗っているのは、もちろん、プチャーチンです。
プチャーチンは、ウンコフスキーと長いつきあいで、とても信頼していたようです。プチャーチンが乗る船は常にウンコフスキーが船長を務める、という関係ができあがっていたようです。プチャーチンがパルラダ号で日本に来ることが決まったとき、プチャーチンはウンコフスキーを他の配属先から引き抜き、パルラダ号の艦長にします。
実は、プチャーチンが1857年に日本に来るとき、どうやって来たのか不思議だったのですが、アスコルド号の艦長がウンコフスキーだと知って、この船で来たと確信しました。
アスコロド号の極東への旅も困難を極めました。
アスコロド号乗員は456人でしたが、26人の水兵が行方不明になったり、病死したり、水戸藩士に斬り殺されたりしました。
極東への航海の途中、船の船尾が損壊し、多数の機械の故障、ひどい浸水が発生し、蒸気機関が使えなくなります。船を修理する港もなく、海上で修理することになります。そのような過酷な状況は乗組員たちの健康にも影響を与えました。
ディアナ号沈没後に本国に帰国したプチャーチンが再び日本の歴史に登場するのは、1857年9月です。つまり、これまでにアスコルド号はニコラエフスクに到着していたことになります。しかし、アスコルド号の損傷が激しいため、プチャーチンはアメリカ号を使うことにします。
1857年9月21日(安政4年8月4日)、プチャーチンはコルベット艦アメリカ号で、再度長崎に来航します。
しかし、今回プチャーチンが極東に派遣された目的は、清国との調整・領土の拡大でした。
清国ではアロー戦争の調停を名目にロシアが介入し、プチャーチンが天津において清との間に天津条約を締結します(1858年6月13日)。
プチャーチンは、アメリカ号で天津 – 上海 からハバロフスクに向かいます。
途中、アメリカ号は函館に寄港します。ここでプチャーチンは修理を終えたアスコルド号に乗り換えています。そして、長崎に向かいます。
プチャーチンが長崎に向かった理由は、船内でコレラが発生したためのようです。7月中旬、病気の乗組員26名を長崎で降ろし、滞在わずか三日間で長崎を出港します。すぐに下田(1858年7月26日入港)、そして神奈川(1858年7月30日入港)に向かいます。
この日付を見れば、プチャーチンが非常にタイトなスケジュールで行動していたことが分かります。
この後のアスコルド号の足取りが追えないのですが、1858年8月19日、日露修好通商条約調印をすませたプチャーチンは8月20日に神奈川に戻り、数日後にアスコルド号に乗って上海へ出発します。
上海に近づいたとき、猛烈な台風に見舞われ、アスコルド号が大きく損傷します。プチャーチンは、郵便蒸気船に乗り換え上海を目指します。アスコルド号はなんとか上海に入港しますが、上海を出港して直ぐに再び暴風雨に見舞われ、船は西に流されます。
シンガポールの近くまで流されたアスコルド号は、応急修理を施し、修理のために長崎に寄港することになります。通商条約はまだ発効していなかったのですが、ディアナ号沈没時の日本側の好対応に期待した決定でした。
アスコルド号の乗組員500人あまりが長崎に留まり、8ヶ月間を過ごすのはこの頃です。
ロシア語の資料では、日本側は貧しい農家の13歳以下の処女の少女を船員の妾として提供し、彼女たちはその時もらったお金で良い嫁ぎ先を見つけたように書かれています。さらに、幕府が提供した居住地を植民地と書いています。
日本人はこれらの歴史は知らないふりをします。欧米の資料では、横浜は、植民地と書かれています。外国の軍隊が駐留していたのですから、その認識は間違っているとは言えないかも。
このような視点で歴史を見ることは、戦後の歴史家が避けてきたことでしょう。外国人、外国政府・国民は皆、日本の対応に感謝したと教えられ、それ以外のことは考えたこともない。日本人は、「ボーッと生きてきた」ようで、チコちゃんに叱られそうです。
1858年、日本近海までたどり着いたアスコルド号は、船の修理のために長崎に寄港することになります。修理を終えて長崎を出発したのは1859年6月26日です。長崎に修理のために8ヶ月間滞在したということは、長崎に寄港したのは1858年10月ということです。
アスコルド号の記録があまりにもなさ過ぎるので、年表にまとめてみました。
1856年10月頃、プチャーチンを乗せてクロンシュタットを出港。喜望峰周りで極東を目指す。
1856年8月7日(安政3年7月7日)、日露和親条約効力発効(1856年8月7日)
1856年11月7日(安政3年10月10日)、プチャーチンの副官だったポシュート海軍大佐が全権として下田に来航(プチャーチンはこの時、日本に向かうアスコルド号の船上)
1856年12月7日(安政3年11月10日)、日露和親条約を批准。ディアナ号の大砲52門、航海用具が日本に贈呈される。
1857年1月4日、アスコルド号、赤道を通過。
1857年7月頃、プチャーチン、アスコルド号でニコラエフスクに到着。
1857年9月21日、プチャーチンが、コルベット艦アメリカ号で、再度長崎に来航。今度は、日露通商条約締結を要求。25日には長崎を出港
1857年10月11日(安政4年8月24日)、プチャーチンが長崎に来航。
1857年10月24日(安政4年9月7日)、プチャーチンと水野筑後守忠徳らとの間で日露追加条約調印
1857年10月27日(安政4年9月10日)、プチャーチンが日露追加条約を締結し長崎を去る
1857年11月、プチャーチン、上海、香港に滞在
1858年6月13日、清ではアロー戦争の調停を名目にロシアが介入し、プチャーチンが天津において清との間に天津条約を締結
1858年6月末、プチャーチン、函館でアメリカ号からアスコルド号に乗り換える。アメリカ号は駐日ロシア領事を乗艦させるためニコラエフスクに向かう。
1858年7月中旬、プチャーチン、アスコルド号で長崎に入港。25名の病気の船員を長崎に残し3日後に出港。
1858年7月26日(安政5年6月16日)、プチャーチン、アスコルド号で下田に入港
1858年7月30日(安政5年6月20日)、プチャーチン、アスコルド号で下田から神奈川に入港
1858年8月12日(安政5年7月4日)、プチャーチン、江戸芝真福寺に入る。
1858年8月17日(安政5年7月9日)、プチャ-チン、間部下総守詮勝に会見、老中太田資始邸を訪問
1858年8月19日(安政5年7月11日)、日露修好通商条約調印
1858年8月20日(安政5年7月12日)、プチャーチン、将軍(継嗣慶福が代理)に謁見
1858年8月21日(安政5年7月13日)、プチャーチン、江戸湾を退去し、上海に向かう。
1858年8月26日(安政5年7月18日)、プチャーチン、ロシアに帰国。以降、プチャーチンが再び日本に来ることはありません。
1858年9月(安政5年8月)、アスコルド号、上海に向かう途中嵐に遭い、船が破損。上海出航後、またもや嵐に遭い、流され、シンガポール(Raffles island)の近くで応急修理のために3週間停泊。ここで悪性のマラリアが流行し、乗組員が罹患。本格的な修理のため、修理費が10倍する上海ではなく長崎に行くことを決定。長崎までの10日間の航海中、乗組員数名が死亡。
1858年10月下旬(安政5年9月)、アスコルド号、長崎に入港し、船の修理を行う。翌年6月までの8ヶ月間
1859年6月23日(安政6年5月23日)、東シベリア総督ムラヴィヨフが函館に到着。一旦中国に渡り再び8月2日に函館に戻る。
1859年6月26日(安政6年5月26日)、アスコルド号、修理を終えて帰国すべく長崎を出港、函館に向かう。
1859年8月6日(安政6年7月8日)、ムラヴィヨフ、長崎で修理を終え函館に寄港したアスコルド号に乗り江戸に向かう(条約批准書交換のため。)。
1859年8月25日(安政6年7月27日)、横浜でアスコルド号の士官ら3名の殺傷事件発生
1859年9月5日(安政6年8月9日)、総督ムラヴィヨフは、大艦隊のうちの一隻、アスコルド号を事件の推移を監視させるため残して、江戸を離れ箱館に向う。
1859年10月頃、アスコルド号、極東での任務を終え、母港クロンシュタットに向かう。
1860年5月10日、アスコルド号、喜望峰周りでクロンシュタットに到着
1861年4月8日、アスコルド号、クロンシュタットで除籍の上、スクラップ売却
アスコルド号は、多くの乗組員を失いました。ある資料では50名以上の船員が死亡したと書かれています。度重なる台風、マラリア、コレラ、武士による船員襲撃など、これほど多難な船も珍しい。アスコルド島はアスコルド号にちなんで付けられた名前ですが、アスコルド号そのものの記録がほとんど見当たらない。
今回、ここまで調べて、やっとアスコルド号の生涯が分かりました。彼女は、わずか7年の運行で解体されてしまいます。彼女の船体がどれほど痛んでいたのか、どれほど過酷な航海だったのかか、この就航期間の短さから分かります。無事に母港に帰れただけでも幸せと思わなければいけないのでしょうね。
ところで、オーロラ号はどこに行った?
ここで突然、オーロラ号が登場します。ロシアのフリゲート艦です。
英仏艦隊によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦(1854年8月28日から9月7日まで)で、オーロラ号がペトロパブロフスク港に停泊していた唯一のロシアフリゲート艦でした。オーロラ号は、右舷側方の大砲を降ろし、陸地の砲台に配置します。そして、湾の奥に隠れ、左舷を敵が来襲する方向に向け、敵の攻撃に備えました。
管理人がオーロラ号のことを知ったのは、ディアナ号の日本までの航海を追う過程で、ハワイでオーロラ号と合流する予定だったという記事を見つけたことです。いきなり出てきたオーロラ号という船の存在に面食らいました。
この船はどんな仕様なのだろう?
ディアナ号が極東に配備されるのと同時期に、フリゲート艦オーロラ号がディアナ号と同じルートで極東を目指していました。
オーロラ号は、ハワイでディアナ号と合流する手はずでしたが、船内で伝染病が発生したため、ハワイを経由せず、ペルーのカヤオから直接、ペトロパブロフスクを目指すことになります。 太平洋で暴風雨に遭い、8人の船員が死亡し、35人の船員が重病となります。この時、オーロラ号が太平洋の横断に要した日数は66日間で、当時世界最速記録だったそうです。
1853年8月21日、フリゲート艦オーロラ号はクロンシュタットから極東へ向け出発し、1854年6月19日にペトロパブロフスク港に到着しました。ディアナ号がクロンシュタットを出港したのは1853年10月4日なので、オーロラ号の方が44日早く出港していますが、北海で嵐に遭い、船が大きく損傷したためポーツマスで修理することになります。
ディアナ号もホーン岬で嵐に遭い、チリのバルパライソで修理をしています。
ここまで見ていくと、やはり、オーロラ号の仕様を見てみたいと思いますよね。ご用意しました。
オーロラ号が進水したのは、1835年7月27日のこと。パルラダ号の進水は1832年9月1日なので、オーロラ号の方がパルラダ号より2年新しいということになります。しかし、ディアナ号の進水は1852年5月19日なので、オーロラ号は一昔、いや、二昔前のフリゲート艦であることが分かります。
オーロラ号の船体は44砲フリゲート艦の設計ですが、実際には58門の大砲を積んでいました(24ポンド砲 34門、24ポンド カロネード砲 24門)。
Wikipedia(en)の「Siege of Petropavlovsk」(ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦)の項を見ると、オーロラ号の砲数を44門として記載しています。これは英仏連合軍とロシアとの兵力差を示すための単なる数字遊びの記述のようです。そもそも大砲の数で兵力差を測ろうとする方法は何の意味もありません。大砲の性能を計算に入れていないからです。数字だけが一人歩きする恐れがあり、このような記述方法は改めるべきでしょう。
オーロラ号の仕様を見れば、この船が湾の奥に隠れ、左舷の大砲を陸揚げしたのかが分かります。おばあさんフリゲート艦だったのです。お年寄りをいじめてはいけません。オーロラ号は1835年7月27日進水の老朽艦なので、解体されるまで26年間も現役で働いた老女でした。
このように見ると、ロシア極東の司令官にとって、ロシア海軍最新鋭艦ディアナ号沈没がどれほど大きな痛手だったかが分かります。
当時の極東ロシアには、英仏艦隊とまともに戦える戦艦は、ディアナ号しかいなかったのです。
ところが、英仏連合軍はパルラダ号が外洋に出られないほど損傷していることもディアナ号が日本に向かい、そして沈没してしまったことも知りません。英仏軍艦は、ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦の後もこのロシアの2隻のフリゲート艦を必死で探しますが、見つけることができません。英仏海軍はニコラエフスク港の存在を知らないため、日本周辺、オホーツク海のどこかにいるはずのフリゲート艦を恐れていました。大きな火力を持つ2隻のロシアのフリゲート艦に遭遇したら、英仏艦隊も相当の被害を被る可能性がありました。
オーロラ号は、クリミア戦争が終わるまでニコラエフスクに隠れていました。戦争が終わると、母港のクロンシュタットを目指し、1857年6月1日に帰港します。その後、1861年4月8日、オーロラ号はバルト海艦隊の船のリストから除外され、スクラップとして売られます。
当時のこのような逼迫した状況を知らないとプチャーチンの行動が理解できません。
当時の艦隊のイメージが変わる
ペリー艦隊が浦賀に現れたとかプチャーチンの艦隊が長崎に現れたとか聞くと、「艦隊」として行動しているようなイメージを持ちますが、それは誤りのようです。
風任せの帆船なので、多数の船が一緒に行動するのはとても難しい。船の仕様も異なり、帆走速度も全く違います。複数の船が長距離を移動する際には、現地集合か、どこかで待ち合わせるという方法が採られたのでしょう。ペリーとプチャーチンの艦隊の場合、それが父島だったということです。
そういえば、1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため万延元年遣米使節がアメリカに派遣されます。使節団が乗っていたのはポーハタン号ですが、同艦の随伴艦として咸臨丸もアメリカに渡りました。
管理人は、ポーハタン号と咸臨丸は一緒に渡米したとばかり思っていたのですが、違いました。2隻の船の出港の日もサンフランシスコの到着日も違います。さらに、ルートまで違います。ポーハタン号は石炭補給のためにハワイに立ち寄りますが、咸臨丸はサンフランシスコに直行しています。
これって、随伴艦と言えるのでしょうか。
『ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦』の英仏の敗戦は日本にどう伝わったのか
歴史の落とし穴の一つに、「歴史の結果を知っている」現代人の目線で、当時の人もある出来事の後であれば、現代人と同じ情報に接していたという勘違いがあります。
ロシアのカムチャツカ守備隊が英仏連合軍の攻撃を退けた『ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦』の結果は、日本にどう伝わっていたのでしょうか。
当時の日本における外国での出来事の情報源はオランダ語のものに限られていました。上海で発行されている英字新聞を入手したとしても、それをまともに読むことの出来る人がいなかったのです。
海外経験のある管理人には、その理由が分かります。固有名詞が理解できないのです。そもそも、固有名詞なのか一般名詞なのかも分からない見たこともない単語。これが地名だと分かれば翻訳は簡単でしょうが、その地名の場所とはどこを指すのかが分からない。
当時、英語を理解できる日本はいたなどと書くのは簡単ですが、そんな評価は上滑りの幻想に過ぎません。地理・歴史・政治、さらに”組織”などの基本的な知識がないと翻訳などできません。
結局、幕府が頼るのはオランダの情報。
当時のオランダ語の情報誌『オランダ風説書』には、この『包囲戦』の結果についてどのように書かれていたのでしょうか。
『古文書を楽しむ』というサイトで、このことが書かれていたのでご紹介します。
1854年の末是迄とは全く異なる戦場では、英仏艦隊の一部6艘から8艘が、プライス提督の指揮でペトロハウロスクを攻撃する為にカムチャッカに向った。 しかしこの地は堅固の守られており13艘ー17艘のロシア艦隊に英艦2艘、仏艦1艘を奪い取られ、止む無く英仏艦隊は撤退した。
この時、事故でピストルが暴発しプライス提督は死亡した。
(原文)
一千八百五十四年安政元年寅年の末、軍を全く外場所に 移し英吉利仏朗西一手の船に六艘より八艘迄アドミラル 官名ブリセ人名の下知にして、ペトロハウロースキ地名の港より襲んが為カムシカツトカ地名に向罷越候処、ベトロハウ ロースキ地名ハ堅固にかまへ有之、十三艘より十七艘迄の魯西亜海軍ハ英吉利船二艘、仏朗西船一艘奪取、 其外ハ無余儀退陣いたし候様仕成申候、此時不図ヒストール船号の飛発に因てアドミラル官名ブリセ人名落命仕候「安政乙卯賀蘭風説 別段風説書」オランダ別段風説書 安政2年1855年8月1日長崎到着『古文書を楽しむ』 オランダ風説書 その2
もし、幕府の閣僚がこの記述を信じたとしたら、・・・・、たぶん信じたのでしょう。
この記述は、実際の歴史とは大きく異なっています。英仏の敗北があまりにも誇張されて、実際とは異なる英仏艦隊全滅という誤った印象を受けます。
事件から時間が経てば、その歴史的事実を当時の人も正確に把握していたはず、という現代人の考える尺度が通用しない。これが歴史家が最も指摘されたくない視点です。歴史家の提唱する文献の記述だけで構築してきた仮説が簡単に崩壊するから。
おわりに
書きかけですが、今日も眠くなったので、これでオシマイ。続きは明日以降に書きます。やっとアスコルド号の項を書き終えました。ディアナ号の大砲まではほど遠い。かなり長い記事になったので、以降の記述は分割しようかと悩んでいるところです。
今回は、プチャーチンの訪日時期で時代を切り取り、この動きを詳細に調べてみました。すると、どうしても船のことを調べなければ、彼の行動が理解できません。最初の4隻の艦隊のうちの2隻は喜望峰を回ってきたけど、残りの2隻はどこから来たのか。なぜ、父島で合流したのか。
プチャーチンはディアナ号に乗り換えますが、パルラダ号はどこに行ったのか、など、船にまつわる疑問がどんどん沸いてきました。
そして、極めつけは「アスコルド号」。勝海舟との関係が深い船です。この船のことが全く分からない。まるで歴史から消された船のような感じがします。船名がマリア号からアスコルド号に変更されているようで、調べるのに苦労しています。ロシアのサイトでも見つからない。
プチャーチンの艦隊が最初の長崎来訪の後、なぜ、マニラに向かったのか。幕府の引き延ばし交渉のため、8月に長崎に来たのに、季節は秋から冬になっていました。
帆船には修理が欠かせません。それができる港はどこなのか。新鮮な野菜が手に入らなければ壊血病に罹患するリスクが高まります。
戦艦のリストを調べていて気づいたことは、捕獲艦がかなりの数あるということでした。港に停泊中の戦艦は戦えない。乗組員が下船している可能性もありますが、そもそも、大砲の向きが敵艦とは別の方向を向いている。これでは戦いになりません。
ディアナ号がハワイを出港して直ぐに、ハワイにいたイギリス艦隊はロシアへの宣戦布告の報を母国より受け取り、ディアナ号の追跡を始めます。その目的はディアナ号の捕獲であり、撃沈ではありません。
パルラダ号、ディアナ号、そしてアスコルド号というロシア海軍が誇るフリゲート艦。しかし、日本に到着した頃にはみなボロボロで、修理が必要でした。クロンシュタットから日本にたどり着くまでの間に何度も嵐に遭遇し、途中で修理を余儀なくされます。
ネットで探せば直ぐに見つかるようなことは省略した記述になっているので、分かりにくい部分があるかも知れません。そのうち、全体の構成を変更したいと思います。
今回の執筆にあたり、ロシア語のサイトで得られた情報を多く用いています。しかし、そこには大きな落とし穴がありました。ロシア語のサイトの多くは、日付の記述にユリウス暦を用いています。しかし、西暦(グレゴリオ歴)を用いているサイトもあります。ところが、西暦なのかユリウス暦なのかの説明はありません。これを確認するには、歴史的に有名な出来事の日付を探し出し、それで判断するしかありません。この作業に多くの時間を取られました。
Wikipediaの間違い
「日露和親条約」の項で、条約締結の日付を「、安政2年12月21日(1855年2月7日)」としていますが、これは「安政1年12月21日」の間違いです。
「エフィム・プチャーチン」の項の記述は、かなり問題があります。Wiki執筆者の作文か、引用した出典が間違っているのか、出典を示していないので、その責はWikiの執筆者にあります。
①の部分ですが、米国ペリー艦隊(蒸気フリゲート「ミシシッピ号」単艦)が、ノーフォークを出港し日本に向かったのは、1852年11月24日です。プチャーチンがペリー艦隊が日本に向かっていることを知ったのは、1853年6月25日、香港に到着したときです。
②の部分の主語は何でしょうか。プチャーチンとしか読めません。しかし、プチャーチンがパルラダ号でクロンシュタット軍港を出帆したのは1852年10月7日です。
次の間違いは、管理人が最も嫌いなものです。他人の文献をコピーペするだけの執筆者が書いた項目です。Wikipediaの『ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー』の項目に次の記述があります。
1859年8月6日(安政6年7月8日)、ムラヴィヨフは長崎で修理を終え函館に寄港したアスコルド号に乗り江戸に向かいます。したがって、それより以前の1859年7月26日に幕府と交渉している分けがない。管理人でさえ直ぐにおかしいと気づく日付の間違いにWikiの執筆者が気づかないとは、情けない。他人の資料の和暦と西暦を入れ替えたことで起きたミスですが、情けないとしか言いようがありません。このような基本的な過ちを犯す人の文章は、信頼できません。歴史研究の資質が問われます。
ディアナ号の大砲
下田港停泊中に津波で大破したディアナ号。修理のために戸田へ回航するのに先立ち、船の重量物を下田港に陸揚げして、船を軽くすることになります。この時陸揚げされたのがディアナ号に積まれていた大砲52門と関連装備一式
ところで、この大砲とはどんなものだったのでしょうか。
ディアナ号に積まれていた大砲は、上段22門、下段30門。10)
勝海舟『海軍歴史』1889 に記載されているディアナ号の大砲目録は次のようになっています。
- 鉄製六拾斤長加農(カノン) 四挺
- 鉄製三拾斤短加農(カノン) 十八挺
- 鉄製弐拾斤長加農(カノン) 三十挺
合計 五拾弐挺
ところが、Wikipedia(ロシア語版)ではちょっと違う記述になっています。
- 総砲数 56門(24ポンド)
- 上部デッキ砲 30門(24ポンド)
- 中央デッキ カロネード砲 22門(24ポンド)
- 前甲板カロネード砲 2門(24ポンド)
- 船尾カロネード砲 2門(24ポンド)
つまり、ディアナ号の大砲の数は、56門になっています。
ディアナ号は、もともと52砲フリゲート艦として建造されたものです。どうして56門になっているのでしょうか。
実は、パルラダ号もディアナ号と同じ52砲フリゲート艦です。ところが、イギリスに立ち寄った際に、68ポンド砲4門を購入し、56門の大砲を備えていました。
ディアナ号でも同じようなことがあったのでしょうか。しかし、日本側の記録は52門なので、4門の大砲が不明です。
Wikipediaの出典に誤りがあったのでしょうか。それとも、56門が正しくて、津波で4門の大砲が海に沈んだのでしょうか。Wikipediaの大砲の設置位置を見ると、前甲板カロネード砲 2門(24ポンド)、船尾カロネード砲 2門(24ポンド)となっており、この計4門の大砲が後から設置されたもののようにも見えます。しかし、これについては確認できません。
ここまで。後日につづく。
出典:
1) 『日本人が一番好きなロシア人 プチャーチン』、白石仁明、新人物往来社、2010
この本はとても面白いのですが、年表の日付がガタガタで、記載されている日付は信頼できません。
2) 『勝海舟全集15 開国起源Ⅰ』、勝海舟、講談社、1973
3) “Что сталось с фрегатом “Паллада”?”
パルラダ号の最後について引用
4) Wikipedia, “Путятин, Евфимий Васильевич”
5) “THE FRIGATE ASKOLD AND THE OPENING OF THE RUSSIAN FOREIGN SETTLEMENT AT NAGASAKI“、アスコルド号関連資料。このサイトの日付は西暦。
6) Various Authors , “The Nautical Magazine and Naval Chronicle for 1854”, (Cambridge Library Collection – The Nautical Magazine) Paperback – February 28, 2013 アスコルド号関連資料。この雑誌には、アスコルド号はFrigate Mariaとして記載されている。
7) John D. Grainger, “The First Pacific War: Britain and Russia, 1854-1856”,Boydell Press, 2008 p.51 パルラダ号の航海の部分を引用
8) William McOmie, “THE FRIGATE ASKOLD AND THE OPENING OF THE RUSSIAN FOREIGN SETTLEMENT AT NAGASAKI” オーロー号などの航海ルート、船長名など参照
8) “МКУ «Централизованная библиотечная системагородского округа ЗАТО г. Фокино»”
アスコルド号の仕様など
9) Ilya Vinkovetsky, “Table 2.1 Russian Voyages from European Russia to Russian America and the Russian Far East, 1803-64”, “Russian America: An Overseas Colony of a Continental Empire, 1804-1867” 船長名、航海ルートなど。
10) 『菊池隆吉留記』