はじめに
岩倉使節団の謎。その最大のものは、なんと言っても使節団派遣の目的でしょう。この使節団の派遣目的がよく分からない。いきなりここからかよ、って感じです。
「えっ、目的はWikipediaに書いてあるよ」という声が聞こえてきそうです。
では、Wikipediaではどのように書かれているのか確認してみましょう。
岩倉使節団派遣目的の「定説」
条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する
江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉
西洋文明の調査
使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである。」(Wikipedia『岩倉使節団』)
このWikipediaの説明を読むと、使節団は、条約を改正しようとしたのか、それとも延期しようとしたのかさっぱり分からない記述になっています。それは、「明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである。」の部分。
岩倉使節団は、条約改正に必要とされる国内法整備が間に合わず、条約改正ができないことを相手国政府に伝えるために出かけました。出発にあたり、「条約改正交渉はしない」との留守政府との約束もありました。
なぜ、条約改正交渉をしないのか。とても不思議に思えます。不平等条約の改正が明治政府の悲願であったはずです。
別の辞書も見てみましょう。「デジタル大辞泉」。小学館の辞書を使っているようで、監修者や編集委員の名前も明記されています。
【岩倉使節団】デジタル大辞泉
明治政府が明治4年(1871)に欧米に派遣した使節団。正使の岩倉具視以下、大久保利通・伊藤博文・木戸孝允ら107名がおよそ2年間、各国を歴訪し不平等条約改正を目指したが果たせなかった。
出典|小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
岩倉使節団って「不平等条約改正を目指し」、その結果が果たせなかったと書いてあります。
知らなかった。どの本にもそのようなことは書かれていないし。そうだったのか。岩倉使節団の目的って、条約改正をすることだったんだ! ・・・・、これって、嘘っぱちです。
この項に名前を連ねる人たちは恥ずかしくないのでしょうか。こんなでたらめを書いて。「107名がおよそ2年間、各国を歴訪」をした、とはっきり書いています。それ以外の読み方は不可能です。でも、これも嘘っぱち! 何なんだ! でたらめばかり書かれている。
条約改正とは
なぜ、明治政府は、条約改正交渉を使節団に禁じたのでしょうか。それは、条約改定は諸刃の剣で、改定により、日本にとって、さらなる条約の改悪になる恐れがあったからです。イギリスにとっては、条約改正を機に、タイ国との間で締結した条約のような内容にすることが基本スタンスです。明治の高官たちは条約改正が簡単にはできないことを知っていました。岩倉使節団は、留守政府との間で、条約改正交渉はしないとの取り決めまで行っていました。
岩倉使節団の目的を「条約改正の予備交渉」と説明している歴史家の方もいます。「予備交渉」の意味とその目的、具体的内容はなんなのでしょうか。いくら資料を読んでも疑問は消えません。確かに、各国と結んだ修好通商条約は治外法権や関税自主権がないなど不平等条約でした。
しかし、これを不平等条約だと言っているのは当時の世論、そして現代の日本の歴史家たちで、当時の先進諸外国にとって日本と結んだ条約は、後進国と結んだものとしてはかなり日本側に有利なものだと考えていました。
国内法の整備もされていない野蛮な国日本と対等な条約など結べる訳がない、というわけです。切り捨て御免がまかり通る国で、訴訟や賠償についての規程もない。そんな国相手に治外法権は当たり前の権利との立場です。まさに、諸外国のおっしゃるとおりです。だから、国内法の整備が条約改正には不可欠だったのです。
幕末、徳川幕府が修好通商条約を最初に結んだ国がアメリカでした。これは、下田に総領事として1856年に着任したタウンゼント・ハリス( Townsend Harris)が、中国侵略を進めるイギリスの危険性を強調し、友好的なアメリカと条約を結んだ方が得であると徳川幕府を説得をしたことに起因します。アヘン戦争のことを知っている幕府は、ハリスの言葉を信じて調印します。1858年7月29日、日米修好通商条約十四ヵ条、および貿易章程七則がポーハタン号(USS Powhatan)上で調印されます(安政条約、江戸条約とも)。
しかし、ハリスの言葉は本当のことでした。そして、アメリカとの間で最初に条約を締結したことで、その後の日本は救われます。誰も書いていませんが。
ハリスについてWikipediaでは、「タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 – 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。民主党員、敬虔な聖公会信徒で生涯独身・童貞を貫いた。」と書いてあります。記述に思い入れがみられます。この項を誰が書いたのか知りませんが、英語版Wikiにも書かれていない、検証しようもない「童貞」という記述は、削除するのが妥当なように思います。ハリスのことは、日本でもっと評価されても良いように思います。
イギリスは、この時期、タイ国との間ではるかに不平等な条約を締結します。それと同じ内容の条約を日本とも結ぼうとしますが、日本は既にアメリカとの間で条約を締結しており、その条文が交渉のベースとなることから、イギリスにとって、日米修好通商条約と同じ内容の条約に甘んじることになります。
日米修好通商条約は、アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、一般に不平等条約といわれています。その後の条約改正については、この「不平等の是正」という文脈で語られることが多いのですが、どうもここら辺が怪しい感じがします。
日米修好通商条約の付則第七則で定められた関税率は、「漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった(Wikipedia)」。さらに、条約締結から14年後の1872年(明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の第13条の条項が設けられていました。他国との条約も同様の規程が設けられます。
(片務的最恵国条項というとてもやっかいな条項がすべての条約に入っていたようです。これは、条約に規定していないことを他国に許したときは、協議不要で、条約を締結しているすべての国にも適用されるというとても恐ろしい条項でした。このことはネット上ではほとんど書かれていませんが、最悪の不平等条項であると言えます。)
ところが、ときの明治政府は、条約改正のために必要と考えられる条件整備が整っていなかったため、条約改正時期を3年延期してもらうよう申し出ました。これを岩倉使節団派遣の目的としてあげている歴史家の重鎮もいらっしゃいます。使節団が出発した1871年12月は、翌年7月に迫った条約改正時期を延期してもらうためだったと。
しかし、このような申し出ならば、わざわざ日本政府の高官たちが揃って相手国に出向く必要性がないように思います。
条約改正が悲願だといいながら、条約改正時期の延期を求める。そもそも、ここら辺から、歴史家の書く文章に食い違いが出てきます。「条約改正がそれほど重要ならば、外遊などせずに、条約改正交渉にあたって支障となると考えられる国内法整備にこそ全力であたるべき」、管理人にはそのように思えます。
使節団に条約改正権限が与えられなかったのはなぜか
岩倉使節団についての歴史書の記述は、「条約改正交渉を目的として出かけ、各国との交渉が難航し、成果のないまま帰国し、結局、条約改正ができたのは日清戦争において清国に勝利した後だった」というような文脈のものが多く見られます。
そもそも、当時の世論や日本の歴史家が「不平等条約だ」と主張しているのは、相手国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことにあります。
現代の目線で見ればその通りなのですが、・・・。
お隣の某国のことを思い浮かべれば、独裁者が統治する国で治外法権を確保せず、さらに関税自主権を相手国に認めることの通商上のリスクは計り知れないことも事実です。せっかく投資してもある日突然、契約を反故にされるのではまともな貿易などできません。
例えば、「明日から、関税を1000%にします」「貴国の施設・財産は国有財産として没収します」とか、「あなたの国の船乗りが斬り殺されたようですが、犯人は逃走して不明です。犯人捜しには鋭意努力しますが、基本的にわが国政府の関知しないことです」とか言われたら、どうでしょうか。
諸外国にとって、「貿易という商業活動をする上で不可欠な条件」を備えた”対等な条約”だったのではないでしょうか。このような視点がないと、明治政府の条約改正の経緯が理解できません。「不平等条約」という言葉が一人歩きをしているように思います。日本側が被る損害ばかりを論じているため、条約改正についての文章がつじつまが合わなくなっているように感じます。この条約は「貿易」についてのものであることを忘れてはいけない。
歴史書には、なぜかこのことが書かれていません。「不平等条約」ということからすべてがスタートしているため、なぜ、諸外国がそのような(日本にとって不平等な)条件を出したのかという視点が完全に無視されているように思います。
そして、奇妙なことがもう一つ。通商条約は徳川幕府だけが結んだものではありません。明治政府が調印したものがあります。そして、それにより、徳川幕府が結んだ条約よりもさらに厳しい立場に追い込まれることになります。
「明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。」
明治2年にさらなる不平等条約を結んでおきながら、明治4年に条約改正の使節団を派遣したという奇妙な構図が見えてきます。
この視点の欠落が、岩倉使節団派遣の目的と条約改正交渉の記述をわけの分からないものにしている、と感じました。
岩倉使節団に関する文献も明治3、4年頃から説明が始まりますが、明治2年のことは誰も書かない。自分の書きたいストーリー、つまり、旧幕府が締結した不平等条約を改正するために奮闘する明治政府という筋書きと合わないからこれを完全に無視しています。明治4年の使節団派遣のつじつまが合わない! 明治政府の考える「不平等」とは、裁判、税則(ぜいそく)、宗門(しゅうもん)、雑居(ざっきょ)、縁組、開港などの諸問題だったようです。[文献6、p.24] どれ一つとっても交渉が難しいことが分かります。
岩倉使節団派遣の目的が理解できない
上で引用したWikipediaでは、使節団派遣の目的として、① 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する、② 江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉、③ 西洋文明の調査、の三つを挙げています。
岩倉使節団のメンバーは、特命全権大使の右大臣岩倉具視を筆頭に、副使として、明治政府の重鎮、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の四名がいました。まさに、豪華メンバーです。使節団出発後の政府が「留守政府」と言われるゆえんです。
これだけの重要人物がこぞって外国に出かけるなど、世界の歴史上でも類を見ないものだと思います。しかも、明治が始まってまだ日が浅い明治4年のことです。 もし、使節団一行が乗った船が事故に遭い沈没したとしたら、その後の日本はどうなっていたのでしょうか。考えただけでも恐ろしいことです。当時の航海は決して安全なものではなかったのです。使節団が出発した年の前後数年間に発生した海難事故をピックアップしたのが下表です。
年月日 | 海難事故 |
1867年10月29日 | ローヌ号(英国、RMS Rhone)、バージン諸島でハリケーンに遭い沈没。死者123名 |
1869年2月13日 | ハーマン号(米国、SS Hermann)、官軍輸送途中、千葉県勝浦沖で沈没。275-300名死亡 |
1870年1月24日 | オニダ号(米国、USS Oneida)、横浜沖で英国船City of Bombay号と衝突・沈没。英国船は逃走。死者125名 |
1870年1月 | シティ・オブ・ボストン号(英国、SS City of Boston)、大西洋航行中に失踪、死者191名 |
1870年9月7日 | キャプタン号(英国、HMS Captain)、大西洋で沈没。死者480名 |
1873年1月22日 | ノースフリート号(英国、Northfleet)、他船と衝突し沈没。死者293名 |
1873年11月22日 | ヴィル・デュ・アーブル号(仏、SS Ville du Havre)、大西洋で他船と衝突し沈没。226名死亡。 |
1874年11月17日 | コスパトリック号(英国、Cospatrick)、喜望峰付近で火災により沈没。死者469名 |
1875年2月24日 | ヨーテボリ号(英国、SS Gothenburg)、オーストラリア、north Queensland沖でサイクロンに遭い沈没。死者98?112名 |
1875年5月7日 | シリー号(ドイツ、SS Schiller)、シリー諸島で沈没。死者335名 |
1875年11月4日 | パシフィック号(米国、)、ワシントン州沖で他船と衝突・沈没。死者273名 |
1876年7月14日 | サンダー号(英国、HMS Thunderer)、ボイラーの僕発により45名死亡。 |
この年、明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が行われ、それまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化するという大改革が行われます。
これに目処が付いたから使節団を派遣したようなことを書いている歴史書もありますが、どうも納得できません。現に、国内で様々な反乱が勃発します。8月末に廃藩置県を断行し、同じ年の12月末に政府要人をメンバーとする使節団派遣などどう考えても不自然です。スパンがあまりにも短い。派遣の決定から準備期間を入れて、最低でも半年は必要なのではないでしょうか。相手国への通知もあるし。
たしかに廃藩置県は藩主の抵抗もなくスムーズに行われました。これには理由があります。当時の各藩は借金だらけで、財政的には破綻状態でした。新政府が借金を肩代わりしてくれる廃藩置県に抵抗する理由がありません。実際には、新政府が藩の抱える債務をすべて引き受けた訳ではなく、古い借金は帳消しにしています。見方を変えると、明治政府は、旧藩の抱えていた膨大な債務を一手に引き受けることになります。さらに、非生産階層である士族の秩禄も負担することになります。
条約改正は、他の案件よりも急務だったのでしょうか。これについても、歴史書にある記述は自己矛盾で論理が破綻しているように思います。使節団出発の項では、条約改正が不可欠だったようなことを書きながら、使節団帰国後の記述は、条約改正には長い年月が必要だったと明治40年以降の条約改正に一気に飛び、意味不明の解説をしている。「急務」だったと説明しておきながら、「急務」はどこに行ってしまったのでしょうか。
管理人の視点では、Wikipediaの記述にある「派遣目的」は、当時の国内情勢を勘案すれば、どれも急務とは言えないように思います。もし、本当に急務であるとしたら、それが達成できなかった場合、明治政府は致命的な打撃を被るはずです。しかし、そのような痕跡はありません。
事業(Project)の評価方法の基本は、「with project」「without project」だと管理人は理解しています。つまり、それをやった場合とやらなかった場合とを比較して評価する手法です。
岩倉使節団を派遣する(with project)と、派遣しない(without project)で”派遣目的”という視点で何が変わったのでしょうか。結果的に見れば、派遣しなくても良かったと言えます。
確かに、諸外国の実情を直接見聞したことで、使節団に参加した団員の視野が広がったことは事実で、それが明治政府の礎になったとも言えます。
でも、実際の所、視野が広がった人って具体的には誰でしょうか。書記官連中は海外経験者で、もともと別な視点を持っている人たちです。伊藤はアメリカから戻ったばかりで再び参加しています。木戸は、帰国後、病気のためあまり活躍の場がありません。岩倉は、帰国からちょうど4ヶ月後の明治7年(1874年)1月14日、暗殺未遂により療養の身となり、以降は以前のような積極性は失われてしまいます。
このように見ると、使節団の重要人物の中で、派遣の成果をあげた(費用対効果があった)のは大久保だけのように思えます。たしかに、岩倉使節団が派遣されない、あるいは、そのメンバーに大久保が入っていない、としたら、日本の歴史は大きく変わっていたように思います。
もちろん、各分野の理事官たちの報告がその後の日本を動かす基盤となったことは間違いありません。しかし、それを成果とするのなら、おかしなことになります。岩倉使節団は不要だったということです。
理事官には外交交渉権限はありません。権限があるのは大使と書記官だけです。理事官の報告が成果だとするのなら、理事官だけの使節団でも良かったわけです。実際、現地では理事官チームはそれぞれ別行動をとっています。
岩倉使節団は”大規模”だったのか
岩倉使節団を説明する時の”枕詞”になっているのが、「大規模な使節団派遣」というフレーズです。これって、本当でしょうか。岩倉使節団は大規模だったのでしょうか。
安政7年1月22日(1860年2月13日)、万延元年遣米使節が派遣されました。その時の人数は77人でした。一方、岩倉使節団は、一体何人だったのでしょうか。
実際の所、よく分かりません。それは、現地で参加して使節団のメンバーになっている人たちがいるからです。これについて完全にまとめている人はいないように思います。少なくとも、管理人は見たことがありません。
横浜出発時については分かっています。使節団 46人、大使・副使の随従者 18人、留学生 43人、計107人とされています。107名の大使節団のような記述が見られますが、留学生は使節団とは全く関係がないので、そもそも数に入れること自体が問題です。
このような記述を見ると情けなくなります。留学生は、使節団と一緒に派遣される必然性はどこにもありません。そして、一緒に派遣されたことによるメリットについて、誰も書いていません。そんなものはないからです。
たまたま一緒に出発した留学生も含めて「大使節団」と考えている歴史家がたくさんいるようです。
留学生たちは、米国だけでなく、ヨーロッパ、ロシアを目指した人たちもいます。彼らが、どのような日程で移動したのかはだれも調べていないので分かりません。調べても意味があるとも思えませんが。
少なくとも、最初の訪問国アメリカで、使節団に同行した留学生たちの記録は途絶えます。使節団と留学生とは全く関係がないようです。
さらに、使節団の本体は、アメリカで分解します。理事官グループは別行動をとっています。そして、使節団本体を置き去りにしてヨーロッパに旅立ちます。
上で述べたように、理事官と書記官の違いも理解しておく必要があります。理事官には外交権限がないのです。どんな偉い人が理事官になっても、相手国と交渉する権限はないのです。交渉権限があるのは大使と書記官だけです。
この意味において、理事官メンバーは別派遣でも良かったわけです。実際、同時期に、制度調査のために別の使節も派遣されています。
岩倉使節団が帰国したときは、少人数だったと、笑ってしまうことを書いている人もいます。その人の頭の中は、留学生も含めて使節団だという思い込みがあるのでしょう。だから、出発時の「大規模」に対応する形で帰国時には「小規模」だったと書かざるを得ない。
以上の理由から、管理人は、岩倉使節団には政府要人が多数参加しているものの、規模的には大規模だったとは思いません。
使節団は、46人、随従者18人を加えても64人で、万延元年遣米使節よりも少ないことが分かります。
使節団派遣メンバーの謎
そもそも、これだけの政府高官を派遣する必要があったのでしょうか。むろん、大久保利通をはじめ、多くの団員が知見を新たにし、その後の明治政府を支える礎になった使節団であることは間違いありません。しかし、それは結果論の話。明治の体制が未だ定まらない時期になぜ政府を支える高官を多数派遣したのか、という疑問が残ります。
使節団のメンバーの選定について、政府内の派閥争い、権力闘争の視点で論文を書いている人もいますが、管理人にはなぜそのような論理が成り立つのかが理解できません。もしかして、列強の脅威にさらされていない戦国時代と勘違いして書いているのではないかと疑ってしまいます。
使節団のメンバーに薩長が多いとかいう数字の議論は意味がありません。メンバーリストを精査すると、実務に特化した構成であるということが分かります。旧幕臣が多いのは、渡航経験者が多数参加しているからです。理事官の随行者にも渡航経験者をそろえています。
さて、この項のサブタイトル「使節団派遣メンバーの謎」とは何でしょうか。
それは、前述したように、明治新政府を担う重要な人材である面々を同時に派遣した理由は何か、ということです。
まず、条約改正は行わないという留守政府との取り決めに基づき派遣された使節団なので、条約改正についての重要度は低いと考えられます。在外の公使でもできる内容です。それなのに、明治政府の要人、それもトップクラスの要人ばかりがこぞって出かけたのでしょうか。
先進事例調査であれば、個別に派遣した方が効果的です。政府要人が一緒に参加する必要はありません。
岩倉使節団のそもそも論の所でつまずいて、話がなかなか前に進みません。
幻と消えた「大隈使節団」の謎
「岩倉使節団の派遣」と「大隈使節団の派遣」について、さまざまな説が唱えられているようです。大隈重信が使節団派遣を提案したのに、岩倉に横取りされ、大隈はメンバーにも加わることができなかった、という「謎」です。
確かに、欧米への使節団の派遣は、1871年9月22日、大隈重信が発議したことが端緒となっているように見えます。大隈は自分が団長となる使節団派遣を考えていました。しかし、実際には岩倉具視が団長となる使節団が派遣されることになります。これを明治政府内の派閥争いとして捉え、岩倉を取り込んだ薩長派閥が大隈の案を横取りした、というようなストーリーで説明している論文もあります。
しかし、この説は、自分に都合の良い部分だけをつないで作った作文のようなもので、少し調べれば、論拠がないことが分かります。
まず、大隈は、自分が考えたようなふりをして使節団派遣発議を行っていますが、実際には、発議の2年3ヶ月前、1869年6月11日にフルベッキが大隈に提出した『ブリーフ・スケッチ』を元にして考えられたもののようです。
Wikipediaには、次のように書かれています。
「1868年6月にフルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。」(Wikipedia、「グイド・フルベッキ」)
しかし、このWikipediaの記述は、事実とはかなりかけ離れたものになっている気がします。この部分の執筆者は誰なのでしょうか。
『ブリーフ・スケッチ』は、岩倉使節団派遣のきっかけになったよう記事を目にしますが、どうも違うようです。
『ブリーフ・スケッチ』がなくても使節団は派遣されていたし、『ブリーフ・スケッチ』の内容がそのまま使節団の計画に採り入れられたわけではありません。
鈴木栄樹氏の論文では、この点を官職・階位にも着目して説明しています。
当時進められていた清国との間の日清修好条規(1871年9月13日締結)のメンバーの陣容、官職・階位と比較し、遣米欧使節団でそれ以下の官職・階位の派遣はあり得ないとの立場です。日清修好条規交渉では、日本側大使は大蔵卿伊達宗城(従二位)、副使が外務大丞柳原前光(正四位)、同権大丞津田真道(従五位)でした。
この時の大隈の階位は従四位で、大久保や木戸が従三位でした。このことから、大隈を大使とする使節団派遣はあり得ず、大使になれるのは、従一位の太政大臣三条か、正二位外務卿岩倉しかいませんでした。
このことからも、大隈が全権大使となることはありえませんでした。明治政府内の権力抗争により岩倉が大隈案を横取りしたわけでないことが明らかになりました。
ここで、岩倉具視の役職に着目したいと思います。
明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還後、三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の『大納言』に就任しています。
明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県が断行され、同日、岩倉は『外務卿(外務省の長官)』に就任します。さらに太政大臣が新設されて、右大臣の三条実美がそれに就任したので岩倉が『右大臣を兼務』しました。
明治4年10月8日(1871年11月20日)、岩倉具視を『右大臣』に任命、同日、全権特命大使任命の「勅旨御委任状」が出されます。
明治天皇を頂点とする国家体制の中で、太政大臣三条実美に継ぐ、ナンバーツーのポジション右大臣に就いたのが岩倉具視でした。
「えっ?、左大臣は? 左大臣の方が上でしょ。ひな人形でも左大臣の方が上位なのは誰でも知っているよ」
この時期、左大臣は置かれなかったようです。最初の左大臣島津久光が就任したのは明治7年4月27日のことです。
『ブリーフ・スケッチ』と岩倉使節団
『ブリーフ・スケッチ』について、もっと詳細に見ていきましょう。
1869年6月11日、フルベッキが『ブリーフ・スケッチ』と呼ばれる11ページの手書きの書簡を大隈重信あてに送っています。大隈は、後にこの現物を ”紛失” してしまいます。
幕末の『群像写真』で話題のフルベッキ(Guido Herman Fridolin)。彼が作成した明治日本への提案書『ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch)』というものがあります。明治2年5月2日(1869年6月11日)、同年、明治政府の顧問となったフルベッキは手書きの「ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch)」を大隈重信あてに送ります。その内容は、信教の自由やその他の理解のため政府高官が直接欧米を視察するように建白したもので、岩倉使節団の米欧派遣の素案となったと言われています。それは本当でしょうか?
大隈は一旦これをしまい込みますが、それから2年3ヶ月後の明治4年8月8日(1871年9月22日)、明治政府に対し、この「ブリーフ・スケッチ」を基に欧米への使節団派遣の必要性を訴え、条約改正交渉のための使節派遣と自らかがその使節になることを発議します。
ところが、実際に派遣されることになったのは、岩倉具視を特命全権大使とする使節団で、大隈はメンバーに加わることすらできませんでした。
これを当時の権力争いの結果として捉え、大隈重信が最初に企画したものを、後から岩倉が横取りし、自らが大使となって洋行した、などと短絡的発想で論文にまとめた人がいるから、あとで様々な問題が発生します。
このような「とんでも論」について、管理人は基本的に大好きなのですが、それは内容によります。 論文に発表した(査読をクリアして発表できた)時点で、学会のお墨付きが得られた新説・・・と世間の人は考えてしまいます。
多くの人が、大隈重信が最初に企画、後から岩倉がそのアイディアを横取りしたという横取り説を信じているようです。
少し調べれば、そんなはずがないことは直ぐに分かります。
欧米への使節団派遣の必要性を最初に訴えたのが岩倉具視でした。それも幕末のことです。岩倉は、その後も使節団派遣の必要性を訴え続けています。
確かに、岩倉はフルベッキを呼び、大隈に手交したという『ブリーフ・スケッチ(Brief Sketch)』について聴き取りを行い、さらに、その復元をフルベッキに要請しています。大隈が原本を紛失したからです・・・・、と思っていたのですが、どうもそうではないらしい。情報が錯綜しています。
しかし岩倉は、『ブリーフ・スケッチ』など大して重要視していなかったのではないかと思います。フルベッキから聞き取った内容は、自分がかねてから主張してきたものと大差がないように思えたのではないでしょうか。なぜ、そう言えるのか。それは、日付けから明らかなのです。
大隈は、フルベッキが書いた『ブリーフ・スケッチ』については何も言わず、自分で考えたようなことを言います。さらに、『ブリーフ・スケッチ』を紛失してしまいます。それが本当かどうかは今になっては分かりません。
大隈が使節派遣を発議したのが1871年9月22日。それから3ヶ月後に使節団が横浜を出航しています。フルベッキが岩倉の要請に応じて復元した『ブリーフ・スケッチ』を岩倉に手渡したのは10月29日のこと。使節団出発の56日前です。
フルベッキは、岩倉との会談の内容を詳細に記録しています。それを読むと以下のような内容だったことが分かります。手垢の付いた歴史家の文章より、英文で書かれたフルベッキの文書の方が信頼が置けます。以下、英文を管理人が訳したものを書きます。
1871年10月26日、フルベッキは、岩倉から『ブリーフ・スケッチ』のことを尋ねられます。しかし、彼は2年以上前に大隈に送った『ブリーフ・スケッチ』の存在すら忘れていました。また、内容を詳細には覚えていませんでした。そして、その時と今とでは時代が大きく変わり、その提案が得策ではないかも知れないと岩倉に答えています。
これに対し岩倉は、自分はその現物を読んでいないこと、そして、その存在を知ったのが3日前だったと答えています。つまり、1871年10月23日に『ブリーフ・スケッチ』の存在を初めて知ったことになります。それは、大隈重信が条約改正交渉のための使節派遣と自らかがその使節になることを発議した翌日のことになります。
岩倉は、今こそそれが必要であると述べ、さらに、翻訳が明日出てくることになっているが、今覚えている範囲でその内容を教えて欲しい、とフルベッキに頼んでいます。(出典4)
このことから、岩倉使節団はフルベッキの『ブリーフ・スケッチ』に基づき企画され、実施されたという定説には無理があることが分かります。時間的にみて、フルベッキのレポートは出発前の参考程度にしか使えません。これを元に使節団が企画、派遣された・・・はずがありません。
フルベッキとの面談の翌日には翻訳があがってくると岩倉が言っていることから、この時点で岩倉は『ブリーフ・スケッチ』のオリジナルを入手し、翻訳に回していたことが分かります。
この会談が行われてから3日後の1871年10月29日、フルベッキは復元した『ブリーフ・スケッチ』を岩倉に手交しています。しかし、これはオリジナルを復元したものではなく、その時代に合ったものに書き直した新たな『ブリーフ・スケッチ』だったことが、フルベッキが残した記録を読むと分かります。
最初、大隈が『ブリーフ・スケッチ』を秘匿し、紛失したと偽ったのかと思ったのですが、岩倉はそれを入手していたことが分かりました。しかし、秘匿していたのは間違いないようです。
岩倉使節団は、フルベッキの『ブリーフ・スケッチ』があろうとなかろうと派遣されていたのです。
大隈が紛失したとされる『ブリーフ・スケッチ』のオリジナルは、近年、米国のフルベッキ記念館で発見されました。フルベッキが『ブリーフ・スケッチ』の複製を米国に送っていたのです。その内容を確認したかったのですが、ネット上で見つけることができません。書籍を読むと、宗教に重点を置いた内容になっているようです。
西 暦 | 和 暦 | 出来事 |
1869年 6月11日 | 明治2年5月2日 | フリベッキ「ブリーフ・スケッチ」を大隈重信あてに送る。 |
1871年9月22日 | 明治4年8月8日 | 大隈重信が条約改正交渉のための使節派遣と自らかがその使節になることを発議 |
1871年10月26日 | 明治4年9月13日 | 岩倉、フリベッキより「ブリーフ・スケッチ」について聴き取り。その復元を依頼 |
1871年10月27日 | 明治4年9月14日 | (岩倉)使節派遣の目的と使命を諮問(27日と思われる) |
1871年10月28日 | 明治4年9月15日 | 派遣目的の諮問に対する答申 |
1871年10月29日 | 明治4年9月 16日 | フリベッキ、復元した「ブリーフ・スケッチ」を岩倉具視に手交 |
1871年10月30 日 | 明治4年9月17日 | 使節方別局(のち大使事務局)がつくられ、岩倉・木戸・伊藤らとの打合せも活発になる。 |
1871年11月16日 | 明治4年10月4日 | 仏国大使へ御内謁(ごないえつ)の節の勅語。米国公使デロングあて岩倉外務卿書簡 |
1871年11月20日 | 明治4年10月8日 | 岩倉具視を右大臣に任命(「幕末史」では1871/11/15、明治4年10月3日としている)。同日、全権特命大使任命の「勅旨御委任状」。大使副使以下、各官を任命。 |
1871年11月21日 | 明治4年10 月9日 | 日本在留各国公使に大使派遣の通達。(米仏9日、ロシア13日。その他14日達す) |
1871年12月15日 | 明治4年11月4日 | 大使副使に全権委任の国書を託す。大使の任命に関する勅旨、理事官に対する勅旨 |
1871年12月20日 | 明治4年11月9日 | 使節と留守政府との約定調印 |
1871年12月21日 | 明治4 年11月10日 | 横浜着 |
1871年12月23日 | 明治4年11月12 日 | 岩倉使節団、横浜出発 |
フルベッキは、日本に宣教師として派遣されました。日本人は、『宣教師』というだけで、すべてキリスト教という一つの枠にはめ込む習性があり、それ以上のことは追求しません。では、彼は、どこから派遣された宣教師だったのでしょうか。
フルベッキは、米国オランダ改革派教会から派遣された宣教師でした。
女子留学生の一人上田悌子は、新潟に来ていたミス・キダーに英語を学んでいます。ミス・キダーって誰?
彼女の名前は、メアリー・エディー・キダー(Mary Eddy Kidder)。彼女もフルベッキと同じく米国オランダ改革派教会から派遣された宣教師でした。また、フェリス女学院の創立者として知られる人物です。
各教派の宣教師との関係については、別の記事で書きたいと思います。
岩倉使節団派遣目的の謎
派遣目的の再確認
上で述べたように、岩倉使節団の派遣目的はとても奇妙です。
繰り返しになりますが、岩倉使節団には三つの目的がありました。ここで、具体的に見ていきましょう。
① 欧米列国の条約締盟国を歴訪して、「元首に国書を奉呈し、聘問の礼を収めること(「聘問ノ礼(へいもんのれい)」
② 廃藩置県後の内政整備のため、先進諸国の制度や文物を親しく見聞して、その長所を採り、わが国の近代化に資すること
③ 翌1872年7月1日が条約の協議改訂期限にあたるので、それまでに日本の希望するところを各国と商議する(予備交渉を行う)
何が変かというと、目的と行動が一致していないことが挙げられます。
①と②の目的は、あまりにも一般的な理由で、政府要人がこぞって外国に出かける理由にはなりません。要人は一人いればこと足ります。
残るは③の理由。
『翌1872年7月1日が条約の協議改訂期限にあたるので、”それまでに”日本の希望するところを各国と商議する(予備交渉を行う)』
この「それまでに」という部分は達成されたのでしょうか。問題の期日の1872年7月1日に使節団はどこにいたのでしょうか。
その日、使節団が横浜を発って192日目、使節団はまだワシントンにいました。14ヵ国の訪問(スペイン、ポルトガル訪問は中止となり12ヵ国となる)のうち、最初の一ヵ国目でうろついていました。このことから、「それまでに」という部分は、使節団にとって、大した問題ではないと認識していたことが窺えます。
ところが、「これまでに」という「タガ」がはずれると、奇妙なことになります。それは、国内に早急に解決すべき課題をたくさん抱えていたのに、『なぜ、この時期に使節団が派遣されたのか』、という振り出しの問題に直面します。使節団の早期派遣の理由付けがここで崩れているのです。
岩倉使節団の当初の予定は10ヶ月半とされています。つまり、概ね315日の予定で出発したことになります。では、予定の315日目には、使節団はどこにいたのでしょうか。なんと、イギリスにいました。二ヵ国目の訪問国です。
これらのことから、「目的」と「行動」が伴っていないと判断でき、③の理由は、使節団派遣の『本当の目的』ではないことが明らかです。
このような使節団の行動を踏まえれば、『使節団派遣の真の目的』は他にあったと考えるのが妥当なような気がします
。
それでは、『使節団派遣の真の目的』とは何だったのでしょうか。
それは、使節団の行動の中に現れている筈です。
そこで、訪問した国々での滞在日数を調べてみました。
使節団のロスタイムを計算する
使節団の滞在日数を国別に見てみると、アメリカでの滞在日数がもっとも長く、205日間に及びます。訪問国別の滞在日数の37%を占めます。これは、全権委任状をとりに日本に戻ったというトラブルも理由の一つです。さらに、大雪のため、ワシントンへの到着が大幅に遅れたということもありました。では、このトラブルによる日程のロスは何日間だったのでしょうか。
大久保、伊藤らが全権委任状を取りにワシントンを発ったのが1872年3月20日。そして、委任状をたづさえワシントンに戻ったのが1872年7月22日早朝です。同日、条約改正交渉は打ち切られます。この間124日になります。
横浜からサンフランシスコに到着した使節団は、二度にわたり大雪の影響を受けることになります。最初は、大雪のためサンフランシスコの出発が遅れます。そして2回目は、やはり大雪のため、ソルトレイクシティで足止めを食っています。
使節団は、当初、サンフランシスコには数日間の滞在予定でしたが、実際には16日間も滞在することを余儀なくされます。また、サンフランシスコを出発してワシントンに到着するまで29日間を要しています。後発の吉田清成使節は10日あまりで大陸を横断しています。
このことから、雪によるタイムロスは合計で概ね30日間に及んだことが分かります。
信任状と雪によるタイムロスの合計は、124日 + 30日 = 154日。これは、アメリカ滞在205日間の75%に相当する日数です。
もちろん、ロスタイムの間、使節団は遊んでいたわけではないので、単純に日数を引き去ることは乱暴ですが、全権委任状や大雪というトラブルがなければ、本来、アメリカに205日間も滞在する必要がなかったということが数字上から明らかになります。
次に、2番目のイギリス。ここには122日間の滞在です。3番目のフランスでの滞在が70日なので、やはり長いといえます。これは、ビクトリア女王との謁見が遅れたから?
それが定説のようです。でも、定説は疑ってかかりましょう。
日本のお家芸は、情報の収集。日本人は情報を収集するのが大好きな民族のようです。忍者、草、密偵、隠密など、江戸時代も諜報部員の情報を有効に活用していました。江戸幕府の制度をそのまま移行した明治政府が、このような体質を変えるはずがありません。各国に、情報を集めるための使者を送り込みます。今で言えば外交官です。
この情報網は優れていたと思われ、使節団が米国政府と条約改正交渉を始めそうだと聞きつけたイギリス留学中の尾崎三良や川北俊弼が交渉の危険性を伝えるため留学先のイギリスからワシントンを訪れ、使節団の交渉に参加したほどです。
岩倉使節団は、休暇中のビクトリア女王の休暇明けまで待つことになった、ようなことを書いている書籍を読むと悲しくなります。現代人が知っているような情報は、当然、使節団も持っていました。そもそも、当時のビクトリア女王は、外国使節と面会という公務を一切していません。愛する夫が亡くなり、その喪に服していたようですが、その期間が10年にも達すれば、誰でも知っている情報です。
岩倉使節団とビクトリア女王との謁見は、女王の夫が亡くなって以来最初の外国使節団との謁見だったそうです。
「外国からの使節に対していささか失礼に思える対応ですが、これには次のような悲しい事情がありました。ビクトリア女王は、60 年以上にわたる英国の国王としては今日まで最長の在位期間を誇るとともに、夫君アルバート公(1819年8月26日 – 1861年12月14日)との夫婦愛の深さは有名です。1861年に最愛のアルバート公を失い、そのショックはあまりにも大きく、10 年以上にわたりほとんど公務を果たせない状況が続きました。それ以降、生涯喪服に身を包み、しばし夫との思いでの満ちているバルモラル城に籠っていたのです。
3 カ月待たされて、ようやく岩倉使節団は、ロンドン近郊のウィンザー城で女王と謁見することがかないましたが、実は公務で外交使節団と会ったのはアルバート公が亡くなってから、この時が最初だったのです。・・・・なお、3 カ月近くも待たされた岩倉使節団は、この時間を無駄にせずピトロッホリーなどのハイランドを含むスコットランド各地を視察して、大いに見聞を広めたということです。」(出典5)
使節の目的を論理的に説明できる論文はないのか
使節団派遣の理由という最も基本的なことについて、素人の管理人が理解できないくらいなので、専門家の方も苦労しているのだろうと思います。
そんな中、面白い論文を見つけました。鈴木栄樹氏が書かれた「岩倉使節団編成過程への新たな視点 -研究史への批判と試論-」という論文です。
鈴木氏も管理人と同じ疑問を提示し、これまでの研究を批判的に分析しています。歴史学者の中にもバランス感覚のよい人がいるようです。以下、鈴木氏の論文を引用します。
『使節団の任務は、外交上は相対的に軽いものであったといえよう。そうであれば、ここにひとつの疑問が生じる。つまり、この程度の軽い任務のためであれば、より簡単、小規模な使節団でも差し支えなかったように思われるにもかかわらず、なぜ副首相格の岩倉以下、薩長の実力者たる大久保、木戸を加えた豪華な大使節団が敢て組織されたのであろうか(毛利論文pp.128-129)』(鈴木pp.318-319)
(文中の毛利論文とは:『岩倉使節団の編成事情』、毛利俊彦、『季刊国際政治66 変動期における東アジアと日本』有斐閣、1980)
『次のような見方は誤りなのだろうか。すなわち、使節団の任務は重要であった(と考えられた)がゆえに、政府実力者を網羅した大型使節団を組織したのは自然であり、また廃藩置県の後始末が山積し、政務が多端を極めた時期であろうとも、というよりも廃藩置県が行われたからこそ「聘門ノ礼」と先進文明調査という重要な目的を持った大使節団が派遣される必要性があったのである、と。』(鈴木p.319)
鈴木氏は、これまでの研究が異なったレベルの問題を同一レベルで処理しようとしていることに着目しています。
「異なったレベルというのは、第一に、誰が全権大使になるのかというレベル、第二は副使の人数と人選であり、以上が狭義の使節団とすれば、これに理事官や書記官その他の随行員を加えた広義の使節団がある。こうしたレベルの違いを無視して、たんに「大(型)使節団」とか「豪華な」という形容を行っても混乱をまねくであろう。」鈴木p.320
岩倉は、幕末期より一貫して遣外使節の派遣を主張してきました。鈴木氏は、岩倉が1858年4月27日、孝明天皇に提出した意見書「神州万歳堅策」にはじまり、それ以降の岩倉の意見書を丁寧に説明しています。そこには、岩倉具視の一貫した遣外使節の派遣の構想が示されています。岩倉使節団が派遣される13年も前から岩倉は遣外使節の派遣を継続して主張していました。
「岩倉の使節派遣の主張は、王政復古後も続く、というよりも、いよいよその必要性を強く訴える。明治二年二月の「会計外交等ノ条々意見」のうち、「外国ノ事」の中で、岩倉は、「外国既ニ交際ノ礼ヺ以テ公使参朝セシ上ハ我邦ヨリモ亦勅使ヺ被遣、以テ答ヘスンハアル可カラス、且条約ヺ改ムル事ヲ弁シ、賊平ノ事ヲ告ク可シ、是固ヨリ外交上ノ礼ナリ、彼ノ請ハサルニ先ンシテ発遣ス可シ」と主張する。そして、その際に、「勅使ノ人選尤も肝要ト存候」と言うのである。この場合にしても「賊平ノ事」を「廃藩置県の事」に置き直せば、そのまま岩倉使節団派遣の理由としてもあてはまるであろう。」(鈴木p.324)
廃藩置県を断行したことを対外的な大きな成果と考えていたと考えられます。伊藤博文も、明治4年(1871年)12月14日、サンフランシスコ市主催の歓迎レセプションの場で、有名な「日の丸演説」を行いました。その演説で「我々は、一滴の血も流すことなく、数百年に渡る封建制度を撤廃しました」と述べています。
この封建制度の撤廃こそ、明治政府が諸外国に対し日本が近代化に歩み始めた証であることを示す格好の材料だと考えたのでしょう。しかも、明治政府がこれを”一滴の血も流さずに実施できたこと”は、血塗られた諸外国の歴史と比較して、胸を張れる出来事でした。
イギリスでの交渉
岩倉使節団は、イギリスでどのような交渉をしたのでしょうか。その時の明治政府派遣の在英国日本公使は誰だったのでしょうか。
調べてみると、寺島宗則(1832年6月21日 – 1893年6月6日)で、明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となっています。
実は、寺島は、(条件付き)委任状を持ってワシントンに戻る大久保、伊藤とともに日本を立ち、使節団に同行していました。その同行の目的は、大弁務使としてイギリスへ派遣される往路であるとともに、委任状行使に係る目付の役割も担っていました。
寺島も薩摩藩出身者。薩摩藩の人材の豊富さに改めて驚きます。幕末の動乱で、他藩とは異なり、優秀な人材を失わなかったことが最大の要因でしょう。
岩倉使節団は、イギリス政府と、1872年11月22日、27日、12月6日の3回にわたり条約問題を話し合っています。英国側は、英国人の内地での自由な旅行と日本沿岸貿易の解放、キリスト教の解禁などを求めました。一方、日本側は、関税自主権を主張し領事裁判権の放棄を求めましたが会談は平行線のまま終わります。
アメリカ政府との交渉が11回に及んだのに対し、イギリス政府との交渉は3回で打ち切りとなっています。岩倉らは、日本の近代化(憲法、民法、国会などの法制化)が、不平等条約解消の前提であることを実感したとされています。この一連の会談には、休暇で一時帰国していた駐日英国公使パークスと寺島宗則が常に同席し、通訳はアストンが務めました。(出典1)
当時のイギリス首相は、自由党のウィリアム・グラッドストン。ビクトリア女王に最も嫌われた首相でした。
謎の解明
結局、岩倉使節団の派遣目的は分からずじまいです。
ただ、少し可能性があるとするならば、それは明治政府の財政面。使節団派遣の真の目的は、資金調達と賠償金の繰り延べ交渉だったのではないか、ということ。
明治4年(1871年)8月19日に開拓史長官になった黒田清隆は、10年間で総額1000万円という「開拓史10年計画」を建議。この予算を使って、5名の女子留学生が米国に派遣されています。
これを見ると、明治政府には資金があったように見えますが、実情は火の車でした。1871年8月の廃藩置県により、それまでは各藩が支給していた秩禄をすべて明治政府が負担することになり、財政上の負担が重くのしかかります。
財務省が公開している資料によると、明治4年当時の国家予算は年間5000万円程度でした。
秩禄は、維新前には石高に応じて支給され3462万円相当だったそうです。また、明治政府の承継した対外債務は280万円でした。(出典2)
この困窮する不安定な国家財政を立て直すため、様々な政策が打ち出されますが、そのうちの一つが外債の発行でした。1872年3月26日、吉田清成の外債発行団が岩倉使節団の跡を追うように派遣されます。その使命は、アメリカあるいはイギリスから15百万ドル(3.375百万ポンド)~30百万ドル(6.75百万ポンド)、金利7%で外債を調達することでした。
Wikipediaの「外債」の項には次のように書かれています。
「日本政府が発行した最古の外債は1870年4月23日(明治3年3月23日)にロンドンで出された新橋駅-横浜駅間の鉄道建設費用を捻出する為の9分付英貨国債100万ポンド(当時の相場で488万円相当)(→日本の鉄道開業)と1873年に出された秩禄処分の費用を捻出するための7分付英貨国債240万ポンド(当時の相場で1,171万円相当)である。」(Wikipedia「外債」)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%82%B5
二つをあわせると英国に対し、1,659万円相当の借金をしていたことになります。
ところが、英国に対する借金はこれだけではありません。旧幕府が約束した下関戦争の賠償金もありました。この賠償金は総額300万ドル。一ヵ国あたり75万ドル支払うことになっていました。
以下、外務省資料を引用します。
「旧幕府は、元治元年8月(1864年9月)の下関戦争の賠償金の支払いを、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国に対して同意していました。その後、賠償金総額300万ドルのうち、約半額を支払った段階で幕府は崩壊、残額は明治政府に引き継がれました。当時の政府にはまだ確固とした財政基盤がなかったため、各国と交渉を行い、支払期限を引き伸ばしてきました。これを放棄する交渉を使節団は各国で行いました。この資料は、これらのうちイギリスでの交渉についての記録です。外相グランヴィル、駐日公使パークスとの交渉を行いましたが、残額の放棄はならず、支払期限の暫時延期を認められたのみでした。」(外務省資料)
上のような内容は、外務省の資料で初めて知りました。歴史の書籍では見たことのない内容です。現代でも開発途上国が先進国に対してよくやる交渉が債務の繰り延べと帳消しの交渉。途上国政府にとって国家の存亡に関わる最優先課題です。
当時の明治政府の状況を大蔵省の合併問題とかに矮小化した論文を目にしますが、財政面の視点がとても弱いように感じます。岩倉使節団派遣の目的が条約改正だったと、自分が知っている土俵に議論を持ち込もうとしているように、管理人には映ります。当時の明治政府の最大の課題は、財政問題。そのためには政府の要人を総出で派遣する必要があった。そう考える方が説得力があります。不平等条約では国は潰れませんが、財政破綻すれば国は潰れます。
ちなみに、明治政府は、『「明治五年(1872)十二月三日を以って、明治六年(1873)一月一日とする」という改暦詔書を明治5年11月9日(1872年12月9日)に発しています。岩倉使節団は、このことを知らず、驚いたと記録されています。
留守政府は、なぜこれほど急いで改暦したのでしょうか。それは、官吏の給与を支払えないという財政上の理由があったと言われています。翌明治6年は旧暦で閏月があることから、官吏への給与の支払いが13ヶ月分になります。太陽暦を採用することで、1ヶ月分の給与の支給を削減できる。そのような判断だったと言われています。
その真偽はさておき、明治政府の財政基盤が脆弱で、財政上、破綻することは目に見えていました。それは、廃藩置県断行に伴う副作用とも言えます。
国家財政を改善するには、歳入を増やすか歳出を減らす。あるいは、その両方を同時に行うか。
歳入を増やすための税収の改革は進められますが時間がかかります。緊急を要するのが歳出を減らす、あるいは、歳出のピークを平準化するということ。
岩倉使節団派遣の真の目的はここにあったのではないでしょうか。
『歳出を減らす、あるいは、歳出のピークを平準化すること』
米国での外債発行については、森有礼の強硬な反対や岩倉も反対したこともあり不首尾に終わります。では、吉田は、あきらめて日本に帰ったかというとそうではない。外債発行の吉田使節と岩倉使節団は、その後、入り乱れて行動しているように思います。
岩倉使節団と吉田使節とは、だれも関連づけて考えないようです。しかし、当時の明治政府の財政状況、岩倉使節団の豪華な陣容を見ると、吉田使節は「二の矢」の役割を担っていたのではないか、そのように見えてきます。岩倉使節団が渡米した後、時を置かず出発した吉田使節。岩倉使節団(一の矢)は、本命の「二の矢」のための露払い。相手国政府に舐められないように威厳を高める必要があった。そのためには、明治政府のトップクラスの人員を、それも複数派遣するという構成にした。
当初から、岩倉使節団と吉田使節はセットで計画されたものではないか。
廃藩置県と秩禄処分はセットの課題でした。廃藩置県を断行したら、残るは秩禄処分のための資金をどうやって確保するか。これこそが明治政府の「最も緊急な」課題でした。
このように考えると、岩倉使節団の謎が解けます。これが管理人が導き出した結論です。
伊藤は、信任状を取りに日本に帰国することを主張したため、面目を失っています。しかし、それを強硬に主張したのは森有礼です。森は使節団から信頼を失っていたと考えられます。
森はさらに、外債発行に強く反対し、米国での外債発行が不首尾に終わったというのが定説です。しかし、使節団は森の意見などまともに取りあげるつもりはなかったように思います。吉田が帰国せず、そのままヨーロッパに向かうのがそれを示しています。米国での外債発行の失敗は、わずかばかりの外債発行のために担保として関税収入を差し出すやりかたに米国政府要人が反対したのが一因のようです。
米国での外債調達について、「森が反対した」と「岩倉が反対した」とでは反対の内容がまるで違うように思います。岩倉が反対したのは、米国内での外債発行(環境、条件)であり、森は外債発行そのものに反対しているのではないでしょうか。そうでなければ、その後の吉田の行動が理解不能になります。
誰も書かないのが不思議なのですが、明治政府の愚行と言われる『廃仏毀釈』。Wikipediaには、『大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。』とあります。
これって、明治政府の財源確保のための施策だったのではないでしょうか。元武士のための秩禄を確保するにはどうするか。当時、誰がお金を持っていたのか。商人には廃藩置県の断行により旧藩の債務帳消しで負担をかけることになるのでこれ以上の負担は無理。無理すると暴動になる。残るは寺社仏閣。
このような視角で観れば、『廃仏毀釈』とは、単なる宗教弾圧ではなく、全く別の目的があったのではないかと思えてきます。
『廃仏毀釈』を水戸学の影響と捉える書き方が一般的なようです。でも、それは嘘くさい。そもそも旧水戸藩の人たちってどこに行ってしまったのでしょうか。
明治維新期に多くの旧藩士が留学に出ています。ところが、その中に旧水戸藩士の名前は一人もありません。旧佐倉藩の小島乙次郎という人物が米国に留学していますが、明治4年4月に病死しています。管理人が見つけたのはこれだけ。明治維新の段階で、水戸藩は全く体をなしていなかったと思えるのです。そんな状況で「水戸学」だけが一人歩きするはずはありません。人材の育成もできないような藩の学問をありがたがるようなご時世ではなかったように思います。
『廃仏毀釈』は明治政府の財源確保のために行われた! しかし、思ったような財源が工面できなかったから、時間稼ぎ(財政的に支出ピークをずらし、ソフトランディングするために)岩倉使節団 + 吉田使節を派遣することになった。
これが管理人の考えた結論です。
記事は以上です。
いつの間にか、A4で20ページを超える長い記事になってしまいました。
とりあえず、これで岩倉使節団の謎・・の本体部分を終了とします。
参考資料
出典1:NPO法人 米欧亜回覧の会http://www.iwakura-mission.gr.jp/tokubetu-kikou/kikou/gaikokujin.pdf
出典2:「明治維新期の財政と国債」、富田俊基、
http://www.nri.com/jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf
出典3:「岩倉使節団編成過程への新たな視点 -研究史への批判と試論-」鈴木栄樹、『幕末維新と外交』、横山伊徳編、吉川弘文館、2001
出典4:William Elliot Griffis, “Verbeck of Japan; A Citizen of No Country, Fleming H. Revell Company, 1900, pp.259-260.
出典5:外交史料館特別展示 マッサン展 展示解説)
出典6:『明治留守政府』、笠原英彦、慶應義塾大学出版会、2010 年表:『国立公文書館アジア歴史資料センターHP』をベースに作成
【ひとりごと】
画像はすべて髙解像度版で作成しており、拡大表示できます。ビクトリア女王のカラーバージョンは、深みのある色合いで、きれいに仕上がっていると思います。
本記事で、歴史書、歴史家を批判するような記述が多々ありますが、その理由は、同一の事項に対して執筆者により書かれている内容が大きく異なり、どれが正しいのかさっぱり分からないからです。岩倉使節団の目的などがその最たる例です。岩倉使節団というテーマを語るにあたり、その目的を説明することから始まると思うのですが、どの書籍を読んでも、書かれている目的では納得できない。そんなはずがない、というのが管理人の印象でした。『辞書』もいい加減です。まじめに仕事をしているとは思えないような内容です。これでは所属学会のレベルが疑われても仕方ありません。
使節団派遣の『目的』という最も基本的なことが、執筆者によって異なるというのは異常です。さらに、書かれている『目的』自体がどの論文を読んでも管理人には全く理解できない。
これが、この記事を執筆するきっかけとなりました。
本文の記述で、重複している箇所がいくつかあります。これは、本記事が長文のため、あえて重複することを恐れず書いていることによります。読み進める際に、前の記述を確認するために戻らなくてもよいように意図的に重複した表記にしています。
Wikipediaの記述を多用していますが、それは、手っ取り早いからで、他意はありません。岩倉使節団に関しては、書籍もWikipediaもその精度において大差はないように感じました。ただし、Wikipedia日本語版でポーハタン号(USS Powhatan)のスペルを間違えているという初歩的なミスも目にしましたが、あまり期待もしていないので、こんなものかと思いました。でも、これは日本人としてちょっと恥ずかしい。
さらに、Wikipediaでおかしな記述を発見。「伊藤博文」の項で、「また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保と共に帰国したが、取得に5ヶ月もかかったことは木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。」という記述を一目見ておかしいと思わない編集者の力量を疑います。自分で年表をつくらないかなこんな文章を平気で書いてしまう。大久保らが全権委任状を取りにワシントンを出発したのが1872年3月20日。そして、往復して再びワシントンに戻ったのが1872年7月22日早朝のこと。この間4ヶ月と2日です。これを5ヶ月もかかったとして、これにより木戸との関係も悪化したという流れに結びつけるのでは、Wikipediaの読者をミスリードします。
最後に、とっておきの情報を。
1872年3月24日、大久保利通・伊藤が一時帰国。5月17日にアメリカに向け再出発します。この時、新たに使節団のメンバーに加わった人物がいます。「由利公正」です。由利はこの時、東京府知事でしたが、5月2日、岩倉使節団に同行し米欧へ渡るように命じられます。
由利の後任として東京府知事に就いたの大久保一翁です。
この人事はとても唐突だし、そもそもおかしいのです。
大久保一翁が東京府知事に任命されるのは5月25日のこと(1975年12月まで)。
一方、由利公正が東京府知事を罷免されるのは7月19日です。つまり、二ヵ月近く東京府知事が二人いたことになります。
由利公正はなぜ派遣されたのでしょうか。何を期待されての派遣だったのでしょうか。
派遣を決めたのは、大蔵卿の大久保と大蔵大輔の井上馨でしょう。
由利は、元福井藩士で、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建した人物です。「新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。」(Wikipedia)
岩倉使節団に追加派遣するメンバーに期待された職務とは、1872年3月26日に派遣された吉田清成の外債発行団と岩倉使節団との調整役だったのではないでしょうか。