はじめに
今日は、山川三千子著『女官 明治宮中出仕の記 [講談社学術文庫]』のお話です。
管理人は、通常、このタイプの本は読まないのですが、なぜか図書館に予約まで入れて借り、読んでしまった。
その感想はと言うと、とても面白い! ・・・です。
何しろ、遅読で、複数の書物を並行して読みたがる管理人が一気に読んでしまったのです。こんな事は久しぶり。
最近本を読む速度がとても遅くなりました。それは、歴史関連の本を読む機会が増えたためで、いちいち他の日付と照合しながら読んでいるのでとても時間がかかる。
『女官』は気楽に読め、内容もおもしろかったのであっという間に読んでしまいました。
この本を読んでいて、こんな事まで書いていいの? と思う反面、山川三千子さんが書かなかったこととは何だろう、という考えが浮かびました。
管理人を引きつける見えない糸
管理人がこの本に関心を持った理由は、・・覚えていません。図書館に本の予約を入れたのが一ヶ月以上も前のことなので、忘れてしまいました。
しかし、著者の名字「山川」を見たとき、脳裏に「捨松」のことが浮かびました。山と川を組み合わせた山川という名字などどこにでもありそうですが、管理人の知り合いには一人もいません。
調べてみると、山川三千子の旧姓は、久世。子爵・久世通章の長女として京都に生まれました。18歳で宮中に出仕、明治天皇、美子皇后(昭憲皇太后)に仕え、昭憲皇太后崩御の後、宮内省を退官、翌年、24歳の時に山川黙(しずか)と結婚します。
明治41年(1908年)、黙は養子として山川家に入りますが、養子先での母親の名前が「山川操」。
「えっ、これって捨末のねぇーちゃんじゃん!」。 山川操が宮中に出仕したと言うことは知っていましたが、まさかここでつながるとは夢にも思わなかったので驚きました。
なぜ管理人が山川操のことを知っているのか。それは以前、明治維新の5人の女子留学生のことを調べたときに、山川捨松の兄弟について調べる過程で操のことも知りました。捨松の兄弟についても詳しく調べたので、操のことも記憶に残っています。
その時の管理人の関心は、同じ時期、同じ町に、兄妹が住んでいた、という不思議な謎を解き明かすことでした。その町は日本ではなくアメリカ。時代は明治5年頃です。この兄妹とは元会津藩家老の子息、山川健次郎と捨松です。山川7兄弟姉妹はとても優秀で、彼らの足跡を追うとハマってしまいます。
本サイトの記事としては、以下のものをアップしています。関心のある方はお読みください。
『岩倉使節団女子留学生の相関図を作ったら凄いことになっている!』
ついでに書くと、山川操の妹 捨松と一緒にアメリカに留学した5人の女子留学生のひとりが津田梅子。新五千円紙幣となる津田梅子と徳川宗家を継いだ徳川家達がいとこ同士だったと知っていました? 彼らの母親は姉妹です。
『女官』という本を図書館に予約までして読もうとした管理人。その理由は覚えていないのですが、何か見えない糸に引かれたように感じます。
『女官』を読んで管理人が興味を持ったこと
『女官』を手に取り、一気に読み終えてしまった管理人。とても興味深く読み終えました。
管理人が興味を抱いたのは、明治天皇と皇后の生の声を聞くことができたと言うこと。このようなことが書いてある書物をこれまで一度も読んだことがありません。
この本を読んでいて感じたのは、山川三千子さんという女性はとても頭の良い方だということでした。
宮中に関する他の人の書いた文章は、読者に分かりやすく書くという姿勢は見られず、難しい単語や敬語・尊敬語を並べまくることで自分のつたない文章を隠そうとしているように感じていたのですが、山川三千子さんの文章は洗練され、余計な部分はそぎ落とされ、それ故読みやすく、筆者の意図が伝わります。
山川三千子さんの文章の優れている点は、この”そぎ落とされている”ということにあるように思います。同じ内容の文を他の人は同じような文字数で書くことができない。その何倍もの字数を使って書いても読者が理解しにくい文章ができるだけでしょう。
彼女の文章が人を引きつける理由は、変に気取ったりせず素直に状況を描写していること。このため、類似したテーマの他の人の文章よりも信頼が置けます。
山川三千子さんは自分の知っていることだけを書き、知らないことは知らないと書きます。この本の中で山川三千子さんが怒りをあらわにしているのは、知らないことを知っているかのように本や雑誌で発表する人たち。このことが山川さんの『女官』執筆の動機のひとつになったようです。
下級の女官が知るはずもない内容が、女官からの情報としてあたかも真実であるかのように伝わり、書籍や雑誌に掲載されている。そのような伝聞による憶測記事ではなく、上級女官だった自分が真の宮中の状況を伝えなければ、という使命感のようなものが背景にあるように感じました。
また、この本の初版は1960年に出版されたものですが、本の執筆は1959年2月に脱稿。時は皇太子殿下と美智子さまとのご成婚で皇室に対する国民の関心が高まっていた年でした。
三千子さんが文中でこれらのエセ情報をやんわりと、かつ上品に、しかし、けちょんけちょんに罵倒しているところがとても面白い!
この本で最も心を動かされたのが明治天皇が薨去される状況の詳細な描写、同様に昭憲皇太后の薨去の描写でしょう。これは、その場にいた三千子さんしか書けないもの。それ故説得力があり、心を打ちます。
また、宮中の内部でも孝明天皇毒殺の噂があったことも初めて知りました。この手の話はどの本を読んでも出所が明記されておらず、与太話かと思っていたのですが、噂があったのは本当のことだと確認できました。(p.40)
登場人物
管理人は宮中に興味はないのでほとんど何も知らないのですが、本を読んでいると知っている名前がちらほら出てきます。
その一人が高倉寿子(かずこ)。職名は女官長典侍。宮中で最も偉い女官です。
本サイトで高倉寿子さんが登場するのは二回です。一つは和宮の写真の真偽を確認するとき、元女官長の高倉さんが和宮様の写真と確認する場面。もう一つは、和宮の葬儀で、皇后の御代拝として参列する場面。(関心のある方はカテゴリー「皇女和宮の謎」からご覧ください。)
三千子さんの宮中での上役は大正天皇の生母・柳原愛子(なるこ)典侍だったため、本の中で高倉さんが登場する場面は多くはないのですが、何となく親しみを感じます。女官長が病気になったらどうなるのかということもこの本で初めて知りました。
明治天皇について、管理人の知識はほぼゼロ。孝明天皇までしかフォローしていないので、明治天皇がどのような方だったのかは全くの白紙状態で本を読みました。もちろん、明治天皇にまつわる手垢の付いた様々なエピソードは知っていますが、とても断片的なもので、そのような情報は元から信じないのが管理人のスタイル。
この本を読んで、明治天皇の人間味あふれる行動というか、普段の何気ない生活の一端を垣間見ることができ、とても親近感が湧きました。
そして、皇后様。三千子さんが多くのページを割いてそのお人柄を紹介しています。
美子皇后
実は、管理人はこの皇后様に少し関心がありました。それは、明治になって和宮が京都に戻っていた時期、頻繁に皇后と手紙のやりとりをしていたからです。そして、東京に戻った和宮邸を天皇皇后両陛下が二度ほど訪れています。明治8年1月31日と明治9年5月5日の二回です。これ以外にも皇后が単独で和宮邸を訪問されたようですが、その日付までは確認できません。明治10年9月、和宮が箱根で亡くなり、増上寺で行われた葬儀には、高倉女官長が皇后のご代拝として参列されました。
この皇后様の容姿について、三千子さんはとても美しいと表現されています。皇后の鼻が高いことから、天皇から親しみを込めて「天狗さん」とあだ名されていたようです。
ところで、現代、我々が見ることのできる昭憲皇太后のお写真はとても数が少なく、残されたわずかな写真を見て、失礼ながら特段にお美しいと言えるほどではない、と思っていました。
通常ならそれでオシマイなのですが、三千子さんがお美しいと書かれたと言うことは、本当に美人だったのではないかと思い直しました。美辞麗句を並べるよいしょ記事は、三千子さんは書かないように思います。彼女が心底そのように感じてたから書いたと、管理人は考えます。
ところで、三千子さんが宮中に出仕したとき、美子皇后は60歳です。その後、明治天皇が崩御され、美子皇后は皇太后となりますが、1914年〈大正3年〉4月9日、皇太后が満64歳で崩御され、三千子さんは同年、退官しています。
この昭憲皇太后についての描写を読むと、現在に伝わる昭憲皇太后のお写真と少しギャップを感じます。この違和感は、写真撮影の技術と写真修正に由来しているのではないかと思いつきました。
つまり、身体が小さく華奢でひ弱な感じの皇后様のイメージを払拭するために写真の修正が行われたのではないかと!
美子皇后のお写真を見ると際立っているのが太くて濃いくっきりとした眉毛。そして、ガッチリしたあごの部分。さらに妙に縦に長い顔かたち。面長の顔立ちの人よりもさらに長い印象を受けます。写真を見て違和感を感じたのはこのためでしょう。
皇后の肖像が国民に対しひ弱な印象を与えることを避けるために、写真の修正が行われたのではないかと考えました。手を加えた箇所は眉とあご。眉をくっきり描き、ガッチリしたアゴになるよう写真の修正が行われた。
写真に修正が加えられるのは当たり前の時代。鼻筋を通したり、美男美女になるよう加工するのは写真師の腕の見せ所。皇后の写真を加工する目的は、「ひ弱に見せないこと」。
もしそうだとすると、本当の皇后様のお顔は下のようになるかも。
このアゴの部分の加工は、当時の宮中専属写真師(たぶん内田九一写真館)の好みだったように思います。
下の写真は女官長の高倉さんです。アゴの部分をご覧ください。美子皇后とアゴの形が瓜二つ。まるで姉妹のようです。同じ写真師が加工した証拠でしょうね。
明治のなぞとされることが解明できる
まず、この本が刊行されたのは1960年(昭和35年)です。本のあとがきの最後に「昭和35年2月」と脱稿の年月が記されています。
ステレオタイプの人たちは、この日付から、皇太子・美智子妃殿下ご成婚と関連づけでこの本のことを紹介します。だからステレオタイプなのですが(笑)。
三千子さんが本を世に出す2年前、増上寺の徳川家墓地の発掘調査が始まります。
徳川家墓地の発掘調査は昭和33年7月から35年1月にかけて行われ、和宮墓地の発掘は昭和33年12月20日から翌昭和34年年3月20日までの3ヶ月間行われています。
三千子さんの関心は、もちろん、徳川家の墓地ではなく、皇女和宮のお墓の発掘であったと思います。 和宮は三千子さんが崇拝してやまない明治天皇のおばさまにあたります。
昭和33年(1958年)11月27日、皇室会議で皇太子妃に正田美智子さんが内定します。まさに、世間の関心が皇室に向けられることになります。
そして、多くの皇室関係の記事が書かれ、その中のほとんどが憶測で書かれたものばかりであることに三千子さんは憤慨したのでしょう。
どこがおかしいかを念頭に、この本では、無責任な記事を発表している者たちをやんわりと批判しながら、本当の宮中の実態とはこうだ、という説明をちりばめています。つまり、巷の無責任な憶測から生じた誤解を解こうとしていると思われます。
ところで、この本が刊行されてから60年あまり経ち、この本の存在は忘れ去られ、当時書かれた無責任な憶測記事を根拠に、現在、明治時代についてのさまざまな推理が行われています。
その最大の珍説が「明治天皇替え玉説」でしょう。大室寅之助が替え玉として明治天皇になったというトンデモ説ですが、この説を唱える人たちの戦う相手は歴史学者なので、結局、「とても狭い同じ土俵の中」だけで言い争いをしているように見えます。土俵の外のことなど目に見えないのでしょう。
史料至上主義という土俵の中で、新しい史料の発見に一喜一憂している。
その視野には、宮中は入っていません。それはなぜか。それは宮中がブラックボックスになっているため「史料」がなく、それゆえ土俵に乗せることができないからです。
三千子さんの『女官』は、歴史学者の定義に従えば第一級の史料のはずなのですが、これを無視するのが土俵の中の人たち。自分の主張に都合の悪い史料などは、見なかったことにします。
具体的に見ていきましょう。
大室寅之助が明治天皇にすり替わったという話は、明治天皇の生母中山慶子がとても厳しく天皇を養育していたという三千子さんの記述内容で簡単に否定できます。
替え玉説を唱える人たちが最も重視しているのが、明治天皇が生母中山慶子との面会を拒否し続けたこと。しかし、明治天皇が、父・孝明天皇の正室である英照皇太后を気遣い、実母との面会を拒絶していたこと、そして、英照皇太后亡き後は、実母とは気軽に面会していたことが、『女官』には書かれています。替え玉説はここでも根拠を失っています。
一般に誤って伝わっているのが、宮中と大奥との混同でしょう。どちらもベールに包まれ、断片的な情報しか伝わっていません。
大奥の実態についてよく分からない理由の一つに、それを語った女官たちの責任ではなく、彼女たちからそれを聞き取り、まとめた人たちの力量が極端に低かったのが原因といえそうです。
たとえば、勝海舟の言語録をまとめたとされる『氷川清話』。これには勝海舟は一切関わっていません。それなのに、勝海舟著と紹介されています。これを書いたのは、吉本襄。この人誰? 誰も知らない人です。調べても1行で書ける程度の経歴しかヒットしません。当時の勝海舟の門弟でさえ、間違いが多いと指摘されていた本ですが、勝は好きなようにやらせていたようです。素性も知れない人が書いた本など、本来、史料として採用されるはずもないのですが、何もないとストーリーを作れないのでこれを使うのが素人の歴史研究者のようです。
これに対し『女官』では、現代人の関心のある下世話な、天皇の性交渉、女官が生理のときはどうした、トイレは、お風呂は、という疑問にすべて答えるように書かれています。
天皇と夜を共にできるのは典侍、権典侍だけで、それ以外はあり得ないことを丁寧に説明しています。そして、そのお相手を決めるのは女官長の役目。たとえ天皇であっても守らなければならないルール。
結局、宮中についての様々な憶測が生まれた背景には、その内容が外部に漏れないような決まりがあり、完全にブラックボックス化していたからでしょう。
しかし、『女官』により、このブラックボックスの覆いの多くは取り外され、見通しが良くなりました。
管理人は「トンデモ説」は大好きなのですが、騙されるのは大嫌いです。
「トンデモ説」を唱える人たちは、当然、『女官』の存在は知っているはずで、その内容を自説の中で一切語らないと言うことは、仮にも一つの説を提唱しようとする者として恥ずべき行為でしょう。
この本を読んで改めて思うのは、「正室」、つまり皇后という階位の高さです。孝明天皇の正室である英照皇太后でさえ、皇后にはなれなかったのです。英照皇太后は皇后にならずに皇太后になった唯一の方とされています。
三千子さんが典侍のことを「お妾さん」と軽蔑を込めて書いているのは、正室・皇后とは異なり、たとえ、皇太子の生母であっても公式の場には出られない典侍の身分を示しています。まさに身分制度。この制度を知らずに、現代風に理解しようとすると痛い目に遭います。
皇后が崩御された後の記述として「特に御親戚に当たられる一条[実輝(さねてる)」公父子や、柳沢[保恵(やすとし)]伯は、公用の暇々には時間の許す限り、昼夜の別なく詰めておられ、御大葬の当日までほとんど一日も欠かされなかったように記憶しております」(p.278)、と書かれています。
和宮中心で歴史を見ている管理人はこの記述を見逃しません(笑)。
柳沢保恵は、旧大和郡山藩主の柳沢保申の養子となった人です。この柳沢保申の正室が「柳澤明子」。彼女の写真が誤って和宮の写真として現代に伝わっています。NHKも平気で「柳澤明子」の写真を「和宮」の写真として使っているので、困ったものです。写真を間違えるなど、放送事故でしょう(詳しくは過去記事参照)。
大正天皇と節子皇后(貞明皇后)
皇室関係者の中で三千子さんが最も嫌っていたのが大正天皇の正室である節子皇后です。Wikipediaの「貞明皇后」を読むと、良いことしか書かれていない太鼓持ちの執筆者の記述があります。
貞明皇后が66歳で崩御されたのは1951年5月17日のこと。三千子さんが『女官』を書く10年も前のことですが、この程度の時間では三千子さんの怒りは収まらなかったのでしょう。
Wikipediaを読む限り、まるで篤姫を彷彿とさせるような生い立ちで、健康に恵まれ、4人の皇子を産みました。
三千子さんの気持ちも分からなくはないのですが、その背景には、明治天皇・皇后にお仕えした上級女官という「虎の威を借る狐」の考えが見え隠れします。
節子皇后が、さまざまな問題を抱える大正天皇を支え、4人の子供を出産し、天皇が病気の時には公務もこなしたということを評価すべきで、嫉妬深いとかの評価はお門違いという気がします。
節子皇后が三千子さんのことを嫌いと言ったのが真実とすれば、その気持ちも分かります。飼い主が亡くなったのに、いつまでも亡き飼い主にしっぽを振り、新しい飼い主に懐かないようでは、好かれるわけがありません。
Wikipediaの「大正天皇」の項には、「結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。」と書かれていますが、典侍から子供ができなかっただけのこと。何の確認もせずに書いている執筆者の単なる作文のようです。太鼓をたたいていれば良いので、楽な執筆でしょう。
なぜ、昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?
明治・大正時代の不思議の一つに、「なぜ、昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?」というものがあります。
明治天皇替え玉説の根拠の一つとしても使われています。
明治天皇の妃は美子皇后。天皇が崩御され皇太子がその後を継ぐと、美子皇后は「皇太后」となります。しかし、両陛下のことを言い表すとき、「天皇皇太后両陛下」とは言いません。皇太后は天皇の母親に付けられる追号なので、「天皇皇太后両陛下」という表現は、天皇とその母親と読めますし、実際、美子皇后以外ではこんな馬鹿げた追号はありません。
本来なら、生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「昭憲皇后」が正しく、当然、「昭憲皇太后」の追号は間違っています。しかし、当時、「昭憲皇太后」とお呼びしていたことから、この間違いに誰も気づかなかった。
追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を宮内省・宮内庁に要請しているが、いずれも拒否されている。 Wikipedia「昭憲皇太后」
この時の総理大臣は大隈重信、直接の責任者である宮内大臣は波多野敬直です。どちらも就任したばかりでした。
第二次大隈内閣は、1914年(大正3年)4月16日から1916年(大正5年)10月9日まで続きますが、昭憲皇太后の崩御(4月9日、公表は11日)から数日後にスタートした内閣です。また、宮内大臣は、昭憲皇太后の崩御の当日、4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代したばかりでした。
交代したばかりで、ミスが生じたということは良くあります。しかし、問題はその後です。大隈は、この間違いの訂正を拒んだのです。
「その理由として
1. 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
2. すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理。
の二点があげられています。」(明治神宮Q&A)
この二つの理由は、訂正を拒む理由になっていません。最初の理屈に納得している人も多いようですが、これは諸刃の剣。間違ったものを天皇に上奏し、誤った裁可を仰いでしまった責任が厳しく問われなければならないからです。それには内閣総辞職しかない。あるいは、大隈と波多野が責任を取って自害という選択肢もある。しかし、実際には誰も責任を取らない。
二つ目の理由は本末転倒で、意味不明です。
このような天皇の権威を自分の都合のいいように解釈し利用する政治家の姿勢は、その後、軍部の台頭とともに大正、昭和の戦争へ突き進む際にも利用されます。相手の意見を押さえ込むための金科玉条として。太平洋戦争は早期終戦を目指していたのに最後は一億総玉砕が唱えられるようになる。
天皇が一旦裁可したものは変えられないなどの屁理屈を認めるのではなく、天皇に誤った裁可を仰いだ者たちを厳しく罰し、裁可のやり直しをするのが正しい選択だったように思います。
明治天皇の母である英照皇太后(実母は中山慶子)は、皇后を経ずして皇太后になられた方なので、皇后の称号の大切さは明治天皇も十分認識されていたことでしょう。そして、明治天皇の皇后に対して、ランクとしては一段低い「皇太后」という追号が贈られたことは、皇室の歴史上、恥ずかしいことでしょう。
この問題に対して三千子さんが何ら問題視していないのが不思議です。というか、あまりにも不自然です。
本記事冒頭で問題提起した「美子皇后を敬愛してやまない三千子さんが『女官』の中で書かなかった事」とは、このことかも知れません。そう考えると、この”間違い”と考えられていることは、もっと根深い “何か” があるのかも知れません。
山川三千子ってどんな女性?
「女官」の著者である山川三千子さんってどんな人なのでしょうか。
この本に次の一文があります。
「まあ、お珍しいところで」
と、近よって挨拶しますと、その後につつましやかにたたずんでいる紅顔の青年がございました。これこそ東大を出たばかりの、若き日の夫でございます。
「息子ですよ」
と紹介され、・・・。(p.240)『女官』、山川三千子
この某老婦人とは山川操、そして青年が山川黙(やまかわ しずか)です。
本を読んでいると、山川黙とのラブロマンスが語られるのかと思いきや、様々な男が出てくるので誰が誰やら覚えきれない。私はこんなにモテたのよ、と自慢しているようにも思える書き方なのですが、そこがこの本の面白いところです。今までセーブしていた感情が爆発して攻撃的な文章になる。
ここで、著者の山川三千子について簡単に整理しておきましょう。
三千子は、1892年(明治25年)、子爵・久世通章の長女として京都に生まれます。1909年、18歳で宮中に出仕。明治天皇、昭憲皇太后に仕え1914年、23歳で退官。翌年、山川黙と結婚、1917年に長男・重一、1922年に次男・重次を出産、1965年に73歳で亡くなっています。そしてその翌年、夫・山川黙が亡くなります。晩年、1960年、67歳の時、『女官』(実業之日本社 1960年)を執筆しました。そして2016年、講談社学術文庫から新版『女官-明治宮中出仕の記』が再出版されます。
この本は、宮中に出仕していた5年間の体験を記したもので、彼女が18歳から24歳までの時の記録です。
本を実際に執筆したのは、三千子さんが65から66歳くらいにかけての時でしょう。
三千子さんは山川黙と結婚したことで、山川操が姑になります。
本の中で操が登場する場面がいくつかあります。そのひとつが以下のもの。
三千子さんは、操から聞いた話を「女官がお酌なんて」と受け取ったようですが、操は、お酌する相手が(長州の)伊藤だから憤ったように管理人は思います。
山川操について
ここで、山川操についても簡単におさらいしておきましょう。
山川操は、会津藩家老 山川重英の三女として1852年に生まれました。彼女の兄弟姉妹は全部で7人。皆、優秀な人ばかりです。特に、浩、健次郎、捨松については知っている方も多いはず。NHK大河ドラマ『八重の桜』にも登場するので、この兄弟姉妹のことも知っているという方もいるでしょう。ただし、ドラマは史実とは異なりますし、管理人はこのドラマを観ていないので、ドラマのことはよく分かりません。
二葉(長女、1844~ 1909年)
ミワ(次女、1847~ 1932年)
操(三女、1852~ 1916年)明治17年(1884) 2月より宮内庁に入り昭憲皇太后に仕えた。権掌侍
健次郎(次男、1854 ~ 1931 年)
常盤(四女、1857~ ?年)
咲子(さきこ:捨松)(五女、1860~ 1919年)
この7兄弟は会津戦争を戦った強者たちで、女たちは城に立てこもり、弾薬の運搬、食事の用意、負傷者の看護、そして「焼玉押さえ」という飛んできた大砲の弾丸が爆発する前に濡れた雑巾で押さえて不発にするという危険な任務もしていました。長男の妻はこれで爆死しています。捨松がヴァッサー大学の友人にこの話をしたら皆が驚いたという話は有名なので、聞いたことがある方もいるでしょう。
山川家について知っておくべきことは、明治になってからも元家老の家として、旧会津藩士の面倒を見ていたということです。
さて、会津戦争で敗北した後の操の人生を見てみましょう。
操は、明治4年(1871)、19歳で旧会津藩士小出光照(こいで みつてる)に嫁ぎます。しかし、明治7年(1874)の佐賀の乱で光照が戦死し、操は22歳の若さで未亡人となります。明治13年(1880)5月、28歳でロシアに留学、帰国後の明治17年(1884)2月、32歳で宮内庁に入り美子皇后(昭憲皇太后)に仕えました。その時の官職は「権掌侍(ごんしょうじ):仏語」。宮中で非常勤の翻訳の仕事をしていたようです。
一方、三千子さんが宮中に出仕したのは1909年のこと。この時、操は57歳になっています。この時点で操はまだ宮中で働いていました。『女官』の冒頭にある女官たちのリストの中に山川操の名前があります。
操には子供がおらず、姉ミワの次女ヤエ、そして黙を養子にします。黙を養子に迎えたのは、明治41年(1908年)、操が56歳のときです。
三千子さんが、初めて未来の夫となる黙に会った場面で、操のことを「知人の某老婦人」と書いていますが、その時の操の年齢は57、8歳くらいだったと推測できます。その文章を書いている三千子自身は、それより年老いた66歳になっていますが、ご本人はそんなことは忘れているのでしょう。心は初恋の青春時代に飛んでいます(笑)。
さて、わざわざ操のことを長々と書いたのにはもちろん理由があります。それは、操の位牌です。
操が亡くなったのは、1916年(大正5年)です。64歳の生涯でした。さて、操の位牌は?
それがあるのは桜井家。養女としたヤエの夫 桜井政衛(まさえい)の家系で祀られていることになります。
余計なお世話なのは百も承知で書きますが、頭が良く、肝っ玉の据わった操と公家育ちで下々の者を見下す傾向のある三千子とでは、嫁・姑の関係がうまくいくはずがありません。
ここで、女官たちのランクを確認しましょう。
- 女官長典侍 ⇒ 典侍 ⇒ 権典侍(すけ) ⇒ 権典侍心得
- 掌侍 ⇒ 権掌侍(内侍:ないし) ⇒ 権掌侍心得 ⇒ 権掌侍御雇
- 命婦 ⇒ 権命婦 ⇒ 権命婦出仕
三千子さんの官職は「権掌侍御雇」から始まり「権掌侍心得」、最後は「権掌侍(源氏名:桜木)」となるので、上級女官に分類されます。操の官職も「権掌侍」だったのですが、宮中に住むわけではなく、必要に応じて自宅から出勤する非常勤の通弁なので、宮中のこともほんの一部しか知らなかったと思います。
げすの勘ぐり
操と三千子さんとの嫁姑の関係がうまくいっていたかどうかは分かりませんが、操が墓場の影で三千子さんに感謝していることは間違いありません。
それは、操が宮中に出仕したときのこと。会津の残党が天皇に取り入り、子を儲けて実権を握ろうと宮中に元会津藩家老の娘を送り込んだ、という噂が流れたのです。
もちろん、根も葉もないことなのですが、宮中がどのような体制になっているのかは誰も知らないブラックボックス。いくら言い訳しても、このブラックボックスに覆われているのですから説得力がありません。
しかし、この本によって、いわゆる「お手が付く」のは典侍だけで、それ以外はあり得ないことが示され、操に対する濡れ衣、ひいては山川家の名誉を守ることにつながっています。また、夜のお相手の典侍を決めるのが女官長高倉の役目です。
このような噂は、結局の所、男の嫉みや嫉妬から生まれたものです。各界で活躍する山川兄弟姉妹に対する嫉妬心の現れです。明治の男たちって、本当に度量が狭い。元武士だった連中に限ってこんな態度を示します。
幕末・明治の歴史を追っていると、武士たちの度量の狭さ、了見の狭さばかりが目に付きます。
福沢諭吉もそのひとり。この話は、そのうち書きます。
山川の本家では、操が黙を養子にしたことを知らなかったようです。なぜなのでしょうか。
なお、操が通弁として、宮内省御用掛に任用されたのは、最強の妹、捨松の支援がありました。捨松が身元を保証し、捨松の夫、大山巌が推挙しました。
しかし、巷には会津に対していわれのない不満を持つ者たちがいました。
徳冨蘆花のような気持ちのねじ曲がった小説家が『不如帰』を書いたことで、捨松はまるで悪女のように世間一般から観られるようになります。徳富は会津がきらいだったのでしょう。彼の兄も新島八重を批判しているようです。
高倉女官長
高倉女官長についての情報が見つからないので調べてみました。
高倉寿子は、天保11年(1840年)、高倉永胤(ながたね:正三位大納言)の長女として生まれます。高倉家は京都の下級の公家、公家の中でも最も家格の低い家柄「半家」です。寿子の父親は彼女が五歳の時に亡くなります。寿子は20歳で後の明治天皇の后となる一条美子の家庭教師として一条家に出仕します。
明治元年、忠香の3女美子(はるこ)(のち昭憲皇太后)が明治天皇の皇后になったとき、高倉は美子の輿入れと共に宮中にはいり、典侍、女官長を務めることになります。
ご本人は、「お清の典侍」(天皇のお手がつかない女官)だったと語っていたようですが、天皇にも好みがあるわけで・・・。
美子皇后と明治天皇との間に子供はできませんでした。高倉は女官長として、明治天皇の夜伽の相手に典侍 柳原愛子を指名し、柳原は大正天皇を産みます。
三千子さんは、この柳原愛子も大正天皇も大嫌い。そして大正天皇の后である貞明皇后も大嫌い。この本の後半は、三千子さんの感情が爆発するのでとても面白い本に仕上がっています。
この本を読むと、典侍はまさに天皇の性処理と世継ぎ出産のための”借り腹”的存在だったことが分かります。三千子さんの文章からは、大正天皇の生母に対する尊敬の念は微塵も感じられません。
あまり本を書いたことのない女性はこのような書き方をするので、ちょっと怖いです。誰もが知っている世界的に有名な某有名人の妹が書いた本の中で、名指しで批判された人と顔見知りなので、そのことが頭をよぎります。
三千子さんが好きなのは、自分が仕えた昭憲皇太后とそれを支持する人たち。そこには、一条家から付いてきて皇后を支えた高倉女官長も当然含まれます。
高倉寿子は、昭和5(1930)年1月27日、90歳で亡くなりました。
死の2年前、高倉さんは和宮の写真の判定を依頼され、和宮のお写真ですと答えています。その写真とはネットでよく見かける例の写真です。
これについては、過去記事『皇女和宮の写真の真偽を確認する』に詳しく書いているので関心のある方はお読みください。和宮様の写真ではありません。
「小坂善太郎元外相の祖母繁子が1928年1月27日の日記に、当時、和宮を知る人(昭憲皇太后に仕えた女官長高倉寿子(1840-1930))に確認したところ、和宮であると確認された、と書いているそうです。」(なんでも保管庫)
この記事の最後に、山川三千子さんのお写真を掲載します。三千子さん自身、かなりの美人さんだったようです。隣に写っている日野西権掌侍より身長が7、8cm高そうです。美人で背が高いため、大正天皇の目にとまったのでしょう。
おわりに
「女官」があまりにも面白かったので、少しだけ調べてみたのが今回の記事です。こんな事まで書いて本当にいいの? と思ったのと裏腹に、三千子さんが書かなかったこととは何だろう、と思いました。
管理人が勝海舟のことを調べていて思うのは、勝か書き残した、あるいは他人がまとめた言語録ではなく、勝が書かなかったこととは何かということです。それを導き出す手法に関心があります。
年号が平成から令和に変わり、再び皇室への関心が高まっています。
本の解説は原武史さんが「宮中の「闇」をあぶり出す」という小見だしで巻末の解説を書かれていますが、そんな見方しかできないのか、と不思議に思いました。
管理人は「頭が良く、肝っ玉の据わった操と公家育ちで下々の者を見下す傾向のある三千子」と書いていますが、ご本人はもちろんそんなつもりはありません。見下しているわけではなく、下々の者には関心がないのです。その下々の者は見下されていると感じる。これが人間の心理なのでしょう。
この本を読んで勉強になったことは、敬語の使い分け。管理人にはとても書けない文章です。尊敬語、丁寧語、謙譲語。皇室のことを書く文章でこの使い分けができる人っているの? と思ってしまいます。冒頭に書いた「余計な部分はそぎ落とされ、それ故読みやすく、筆者の意図が伝わります。」の真意は、このことを指しています。やはり日本語は難しい!
三千子さんから見たら、明治天皇について書かれた雑誌の内容もさることながら、敬語の使い方がちゃんちゃらおかしい、と思ったのではないでしょうか。
p.89「私の出た時分には、もう皇后宮様もお年を召しておりましたので、・・」の「おり」は正しい使い方なのか? これは間違った日本語のように思うのですが、いかがでしょうか。
”みチコちゃん” に叱られないように!
【出典】
『女官 明治宮中出仕の記』、山川三千子、講談社学術文庫、2016
原本は1960年に実業之日本社より刊行
『会津藩家老山川家の明治期以降の足跡― 次女ミワの婚家・桜井家の記録から ―』、遠藤由紀子、昭和女子大学女性文化研究所紀要 第45号、2018.3