先日、世界遺産・平泉の毛越寺と中尊寺に行ってきました。今日はこの世界遺産について書きたいと思います。
平泉についての観光案内を見てもよく分かりません。ましてや、訪問者の旅行記を読んでもよく分からない。
もう少し、一般人が関心を持つような書き方ができないものでしょうか。
平泉を訪れる大多数の観光客の関心は、奥州藤原氏の栄華の跡と義経の足跡、そして松尾芭蕉でしょう。
そこで、今回は、平泉を訪れるときに役立つと考えられる事柄に焦点をあてた記事を書きたいと思います。
世界文化遺産・平泉とは
奥州平泉。平安時代末期、この地を11世紀末から12世紀にかけて約100年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏です。
2011年6月26日、中尊寺・毛越寺・金鶏山・無量光院跡・観自在王院跡の五ヶ所の資産が世界文化遺産に登録されました。 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、その中心地である平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市でした。
前九年、後三年の大乱で倒れた何万もの兵士と農民の浮かばれぬ魂を弔い、平泉に現世の極楽浄土を築くために多くの荘厳な寺院が造られました。
中尊寺は初代清衡公、毛越寺は二代基衡公、無量光院は三代秀衡公が、それぞれ非戦の決意で建立したものです。また、観自在王院は、二代基衡の妻室が建立したと言われています。
平泉の観光客の出足は?
世界遺産登録からすでに8年経過している平泉。現在の観光客の出足はどんなものなのでしょうか。
現地に行って感じたことは、観光客の少なさです。
毛越寺は閑散としているという印象でした。まあ、静けさを楽しむにはその方がありがたいのですが。中尊寺もそれほど人出は多くはない。管理人としてはちょうどよい人出でした。閑散としていると寂しいし、混んでいると煩わしい。
この観光地の来客の特徴は、欧米系の観光客がいないこと。一人も見かけなかった。キリスト教信者の多い欧米系の観光客は、極楽浄土に関心が低いということなのでしょうか。
外国人観光客で多いのは台湾・中国系の人たち。韓国の観光客もいました。
たぶん台湾の観光客だと思うのですが、日本の歴史に詳しいらしく、讃衡蔵という宝物館の展示物を時間をかけて見ていたのが印象的でした。
日本人観光客は関西からの方々が目立ちました。年齢は60歳以上。団体旅行で訪れているようです。
中尊寺は月見坂という参道を15分くらいかけて登っていくのですが、最初の5分くらいの部分は急傾斜で登るのが大変。足の悪い人にはムリですね。車いすも絶対にムリ。こんな急坂を車いすを押しながら登るなど考えただけでも恐ろしい。この最初の5分を過ぎると比較的平坦になるのですが。
この観光地はバリアフリーの発想はないようです。車いすの貸し出しもありますが、その場所は金色堂近くの讃衡蔵(拝観券発行所)窓口。山の上です。そこまでどうやって行くというのでしょうか。最も近い「坂の上駐車場」から70mもの距離を車いすを押して登ることになります。
中尊寺は、足腰の弱ったお年寄りは行くことが難しい場所ということです。ぜひ、足腰が弱る前に行きましょう。中尊寺はお寺なので、観光客に都合のよいことばかりお寺に求めること自体間違っているのかも。エレベータや歩く歩道など景観を損なうものは設置すべきではないし、設置することもできないでしょう。
もし、やるとすれば、電気自動車(小型のバス)で下の駐車場から送迎するということでしょうか。
「義経北紀行伝説」の謎
外国人観光客は知らないことでしょうが、日本人なら平泉と聞いて思い浮かべるのは、源義経終焉の地。そして、本当は生きていて北に逃れたとする「義経北紀行伝説」。
そんな都市伝説は歴史学者がとっくに解決済みで、義経が平泉で自刃したことは疑いようのない史実です。
なんてね。
歴史学者の言う「定説」とは、誰も責任をとりたくない時に持ち出される用語のようで、自分が主張する内容に都合が悪いときには出てきません。定説を覆す遺物が発見されても、それによりそれまで定説を主張していた人たちが非難されることはありません。また、定説を信じて誤った歴史を主張していたことに責任を感じる歴史学者はいないようです。つまり、「定説」と「史実」とは全くの別物だということです。
管理人はこの「義経北紀行伝説」を信じています。
義経は藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した、とするのが定説になっています。しかし、これっておかしくないですか。なぜ、藤原泰衡は自分の領地内にいる義経を殺害するのに、わざわざ兵を集めて攻める必要があるのでしょうか。ただ暗殺すればよいだけのことではないでしょうか。暗殺手段はいくらでもあります。かごの鳥の義経を殺すのに刃物はいらない。
泰衡のこのような行動は、どう見ても鎌倉に対するパフォーマンスでしょう。 ということは、義経は事前に平泉から逃れたのではないか。わざわざパフォーマンスをするくらいなので、実際には定説とされることとは別のことが起きている。こう考える方が合理的なように思えます。
鎌倉軍の侵攻の前に、泰衡はほとんど戦わずに北に撤退します。極楽浄土の実現を願う奥州藤原氏が、再び戦をして滅びるとは考えにくい。定説(『義経記』など)では、頼朝軍が平泉に入るまでに藤原氏の一族の多くが戦死し、兵士、下人の屍は累々と山を築いたとしていますが、それはあり得ません。
その記述が間違っていることは、頼朝軍の侵攻速度から証明できます。
屍の山を築くほど戦っていては、平泉までこんな速度で進軍できるはずもありません。
秀吉の「中国大返し」は2万の軍の200kmに及ぶ大転進ですが、果たして10日足らずで200kmの行軍ができたのかが疑問視されています。
それなのに、頼朝の20万の軍勢が11日間で、平泉までの500Kmの距離を、藤原勢の屍の山を累々と築きながら進軍したということに疑問を唱える人はいない?
「義経北紀行伝説」については後日書きたいと思いますが、その前段として、今日は平泉についての紹介です。
なぜ金色堂は今の場所に建っているのか。松尾芭蕉が訪れたとき、金色堂はどのような状態だったのか、など、歴史好きでなくとも関心のありそうな切り口でご紹介しましょう。
毛越寺
毛越寺について、毛越寺のホームページに次のように記載されています。
毛越寺に行ったら、まず入るべきはここです。
何かの展示場のようにも見えますが、これはトイレです。駐車場・バス停の脇にあります。
駐車場から徒歩2分ほどの所に毛越寺の入口があります。いよいよ極楽浄土の世界に足を踏み入れます。
入口右手の受付で拝観料500円を支払います。お寺に入るのに拝観料を支払うというのも変な気がしますが、ここでは庭園拝観料ということなのでしょう。
当日はあいにくの雨模様。まあ、こんな天気が庭園回遊には適しているかも。
毛越寺庭園の全景です。とても大きなサイズの画像をアップします。六枚の画像を合成しました。クリックすると拡大表示できます。
毛越寺の航空写真。
どんよりした曇り空で昼の1時頃にもかかわらずあたりは薄暗い。どうも極楽浄土の雰囲気ではありません。そこで、写真を加工して、極楽浄土の世界を創り出しました。
毛越寺は、広い池があるだけで、当時の建物は消失して残っていません。建屋跡の看板ばかりが目立ちます。
毎年5月の第4日曜日に平安時代の優雅な歌遊びを再現した『曲水の宴』が開かれます。遣水(やりみず)に盃を浮かべ、その流れに合わせて和歌を詠む優雅な遊びです。
庭園の奥にこの遣水の水路があります。看板に次のように書かれていました。
Image: 世界遺産 平泉ゆかりマップ より作成
遣水。着飾った平安美女がいないとやはり寂しい。
毛越寺の庭園を見て感じるのは、広い庭園だということ。これで全てです。
「堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています」とホームページにありますが、この続きを書くとしたら、「これらの堂塔は全て消失し、現在は一つも残っていません。堂塔の礎石はとてもよい保存状態ですが、それを見ることはできません。庭園内にある古い建物は「常行堂(じょうぎょうどう)」だけですが、これは江戸時代中期(享保17年、1732年)に再建されたもので、取りたてて古い物ではありません。毛越寺の本堂は平成元年に平安様式で再建されたもので、まだまだ新築です。」
こんな感じです。
やはり、堂塔40を復元するとかしないと、往時を偲ぶことは難しい。「跡地」という大きな看板ばかりが目に付く庭園です。建物があっての庭園の光景こそ重要だと思います。池に架かる橋もありません。
以前、宇治の平等院に行ったときに撮影した写真がこちら。毛越寺と何が違う?
やはり、建物や橋があるのと無いのとでは風景が全く違う。
無量光院も本来なら下のような建物だったと考えられますが、今は無く、「無量光院跡」になっています。
これでは、観光客のリピータは少ないでしょう。どこに行っても跡地ばかりでは。
中尊寺
平泉中尊寺が有名な理由は、やはり金色堂の存在が大きいと思います。清衡が15年の歳月をかけて造らせた総金箔貼りの金色の阿弥陀堂です。天治元年(1124年)の上棟(柱など骨組みし最上部に棟木を上げる儀式)時の札が見つかったことで、上棟年が確定しました。完成は清衡公の没年にあたる大治3年(1128年)頃と考えられています。
中尊寺は、天台宗東北大本山。天台宗のお寺です。
天台宗と聞いてもイメージが湧きませんね。そこで、ホトカミというサイトが公開している『寺院宗派マップ』で天台宗と他の宗派のお寺の全国分布を見てみましょう。
Source: ホトカミ、寺院宗派マップより作成
天台宗の総本山は、比叡山延暦寺です。延暦4年(785)、伝教大師最澄により開かれたお寺です。
真言宗は空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれたもので、奥州藤原氏の時代は、天台宗か真言宗か、その二択だったということでしょうか。
日蓮は貞応元年(1222年)2月16日の生まれなので、奥州藤原氏の時代にはまだ日蓮宗はありませんね。曹洞宗も鎌倉仏教だし、浄土宗の立教開宗の年は承安5年(1175年)です。浄土真宗も時宗も鎌倉仏教です。
こうしてみると、天台宗が平安時代には今よりもはるかに重要な宗派だったことが分かります。義経ゆかりの鞍馬寺も天台宗でした。ついでに、松江に生まれ鰐淵寺(がくえんじ)で修行したとされる武蔵坊弁慶。この寺も天台宗です。
頼朝に追われた義経が奥州平泉に逃げ延びるまでの逃避行を手助けしたのが天台宗のお寺ネットワークのようです。
中尊寺の山門を抜けると、いよいよ月見坂。
なかなかきつい勾配です。
しばらく登ると見晴台があります。ここから北上川が見えるようですが、よく分からない。
高速道路と新幹線はよく見えます。
月見坂を登ると左手に弁慶堂が見えてきます。
傍らには由緒書きの看板がありました。もっと分かりやすい、内容のある文章を書けないものでしょうか。管理人には理解が難しい文章です。
これらの由緒書きから分かることは、この堂は勝軍地蔵菩薩を祀る愛宕宮で、弁慶堂は通称。現在の建物は文政9年(1826年)に再建された総ケヤキ造りのお堂。最初に建てられたのがいつかは不明。祀られているのが「勝軍地蔵」なので鎌倉時代以降であることは間違いない。
お堂の中には、① 勝軍地蔵菩薩、② 弁慶立ち往生立像、③ 義経公座像、④ 弁慶の自作とされる弁慶自作立像、⑤ 弁慶主従笈(おい:弁慶が背負っているタンスのような入れ物)がある。
ずっと登っていくと、金色堂拝観券の売り場がありました。なんて豪華なチケット売り場なのだろう。鉄筋コンクリート製の頑丈な建物です。
不思議に思っていたら、ここはチケット売り場というよりも宝物館『讃衡蔵(さんこうぞう)』の方が正しい呼び名でした。
この建物は中には、3000点以上の中尊寺の国宝・重要文化財が収蔵されており、見応えがあります。
Image: 中尊寺
中尊寺の境内にはたくさんのお堂がありますが、それらは江戸時代に再建されたものがほとんどで、義経が見た建造物は、金色堂くらいしか残っていません。金色堂を覆っていた覆堂は鎌倉時代に作られたものです。この古い覆堂は、金色堂近くに移設され、見ることができます。
いよいよ金色堂へ。義経も見た金色堂。松尾芭蕉も見た金色堂です。しかし、現在は、義経が見たときと同じ状態に修復されています。芭蕉も見られなかった創建当時の金色堂を現代の我々が見ることができるのです。やはり、世界遺産にふさわしい!
鉄筋コンクリートでできた覆堂の中には、現代に甦った金色堂が燦然と光り輝いています。これは凄い!
最初は、金の輝きに目を奪われますが、これは直ぐに慣れてきます。美人は三日で飽きるのと一緒。
しばらく眺めていると、柱の装飾の美しさに気づきます。黄金の輝きより、こちらの方が魅力的です。
金色堂の建造当時は覆堂はなく、野外にむき出しの状態でした。金箔を押した金堂がむき出しだったのです。
藤原氏が平泉を治めていた時代は、当然、毎年のように修復が行われていたのでしょう。しかし、藤原氏滅亡後は手入れが行き届かず、次第に荒れ果てていきます。
建保元年(1213)、北条政子の夢枕に藤原秀衡公があらわれ平泉寺院の修理をうながしたことにより、幕府は郡内の地頭にその修理を命じたと『吾妻鏡』は伝えています。また幕府は正応元年(1288)には金色堂を修理し、覆堂を設けるなど数度にわたる修理を行いますが、しだいに平泉内の寺院は荒廃していきます。
江戸時代に松尾芭蕉が金色堂を訪れたときには、かなり荒れた状態だったようです。
金色堂、昭和の大修復
時代は下り、太平洋戦争後。
1950年7月2日、金閣寺が放火により焼失してしまうという大事件が発生しました。また、その前年の1949年、やはり火災により法隆寺金堂壁画が焼損します。
戦火を逃れた歴史的に貴重な建造物・遺産が相次いで消失するという事態に、歴史的建造物の修復・保全の動きが一気に加速します。1951年、中尊寺金色堂は、文化財保護法による国宝建造物第一号に指定され、その他3,000点以上の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けます。
そして、関係者の努力もあり、昭和37年(1962)、中尊寺金色堂を永久保存するための昭和の大修復が行われることになります。
この修復はそれまでの修復とは桁違いのものでした。まず、金色堂の覆堂を移設。その上で、金色堂を全て解体し、詳細な調査が行われました。金色堂の中に安置されていた清衡公、基衡公、秀衡公の三体のミイラと泰衡公の首は、一時的に讃衡蔵に仮安置され、鉄筋コンクリート製の新しい覆堂が造られます。
そして、新たに造った覆堂の中で、解体されていた金色堂本体が組み立てられました。
金色堂本体の修復は、建造当時の状態に復元するというものでした。仏像については、金箔の貼り直しはほとんど行わなかったようで、最小限の修復に留めたようです。金色堂は金ぴかですが、中の仏像は、金箔がはがれ落ちているヶ所が目に付きます。
修復に使われた金箔は64,000枚。その厚さは通常の3倍のものが使われています。全てが国宝の33体の仏像、堂内を埋め尽くす煌めく螺鈿(らでん:夜光貝の貝殻で作られた装飾)、さらには東南アジアの紫檀(したん)やアフリカ象の象牙などがふんだんに使われています。
この修復工事により、金色堂は1124年の創建当初の輝きを取りもどしました。修復にかかった経費は1億6千万円、工期は約5年でした。
この修復に要した事業費、現代ならいくらなの? という計算はできません。現在ならこのレベルの修復はできないからです。建造当時の手法にこだわった修復が行われたため、修復にあたった職人たちは気の遠くなるような作業を強いられることになります。現在、そのような作業をする職人も技術者もいません。
日本銀行のホームページに「昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?」という記事があります。日銀の回答は、「企業物価指数を見ると、平成30年の物価は昭和40年の約2.1倍で2.1万円、消費者物価指数では約4.2倍なので、約4.2万円」でした。
消費者物価指数での4.2倍を使うと、1億6千万円(1965年) ⇒ 160,000,000 x 4.2 = 672,000,000円(6億7千2百万円)。
「台風19号で予備費7億円を支出」というニュースが流れていました。現在の7億円では金色堂の修復はムリですね。やはり、昭和の大修復を決断・実行した関係者に感謝です。
中尊寺経蔵
金色堂の傍らにあるのが「中尊寺経蔵」です。中尊寺に残る藤原氏時代の建物は、金色堂とこの「中尊寺経蔵」だけです。
関山中尊寺境内には、多くの伽藍が造立され、その規模は寺塔40余宇、禅坊300余宇に及びました。しかし、現代まで残っているのは、このうちの二つだけ。他の建物が失われたのは、ほとんどが火災による焼失が原因です。
金色堂とその直ぐ脇にある中尊寺経蔵が現在まで残っているのはまさに奇跡のようなもの。
日本中に御利益をうたう神社仏閣が山ほどありますが、そこが消失するのでは御利益の信憑性は低下します。その点、約900年もの長きにわたり存在し続ける金色堂と中尊寺経蔵は霊験あらたかなものなのかも知れませんね。
金色堂覆堂
金色堂を長年風雨から守ってきた覆堂。昭和の大改修の時に、金色堂の近くに移設されました。
立て看板には次のように書かれています。
この説明書きは何のことなのかさっぱり分からない書き方になっていますね。
金色堂覆堂の天井で見つかった「棟札」には、正応元年(1288年)と書かれていました。金色堂建立が1124年頃なので、覆堂は、その164年後に覆堂がつくられた。でも、その前、1174年頃には簡素な覆堂があったらしい、ということでしょうか。
奥州藤原氏が頼朝により滅亡したのは1189年のこと。滅亡の15年前に簡素な覆堂が作られたということでしょうか。
金色堂は、建立当時は覆堂のない裸の状態でした。これは、参道・奧大道(おくだいどう)を通る旅人などがいつでも拝観できるようにしたためのようです。
裸の金色堂のそばを多くの人が行き交い参拝しています。
この時代、権力者の造った寺院は、一般の人が入ることができないのが普通でした。しかし、中尊寺は、その中を街道が通り、万人がこれを見ることができました。
金色堂を人々が間近に見ることができた。金色堂は町から望める位置に建てられていました。清衡が金色堂を覆わなかったのは、仏の教えを道行く人にも町から見上げる人にも伝えるためでした。
なぜ、金箔が剥がれないのか
なぜ、金箔が剥がれないのか。不思議ですね。これは、岩手県北部の二戸市で生産される「浄法寺漆(じょうぼうじうるし)」を下地に塗っているからのようです。この漆には強力な接着作用があり、金箔が剥がれ落ちるのを防ぐことができます。
文化財の修復技術は、関係者の間で共有されているのかと思ったら、違いました。金閣寺の修復チームは、金色堂の修復ノウハウを知らなかったのです。
金閣寺が再建されてから何度か修復が行われました。特に、金箔の剥落が問題となっていました。剥落の原因は、金箔を透過した紫外線が金箔の下地の漆を劣化させたことでした。そこで、金箔の厚さを厚くして、下地の漆に紫外線があたるのを防ぎ、金箔の剥落を抑えることになりました。
この重い金箔を支えるために必要となる接着剤としての漆には、「浄法寺漆」が使われました。日本中探してやっと見つけた唯一無二の品質を持った漆なのだそうです。
何のことはない、金色堂で使われた漆です。金色堂修復のノウハウが共有されていれば、日本中探す必要などなかったのですが。
もう一つ、金色堂で使われたノウハウがあります。それが「中尊寺地の粉」。「地の粉」とは、生漆(きうるし)とまぜて漆器の下地に用いる粉末を言います。
金色堂に使われている漆を詳細に調査した結果、わずか7工程で塗られていることが分かりました。
修復の記録映画では、次のようなナレーションが入っていました。
「普通、漆は一度に厚く塗ると乾きが悪く、なかなかうまくいかない。たとえば日光東照宮の場合、40工程以上塗り重ねる。しかし、中尊寺のものはわずか7工程で厚く漆が塗られていた。これは、調査の結果、中尊寺の山の土を精製し、漆に混ぜると、厚く塗ってもうまくいくことが分かった。関係者たちはこれを「中尊寺地の粉」と名付け、金色堂の漆塗りは全てこの方法が用いられた。中尊寺特有の漆下地だ。」1)
なぜ金色堂は現在の位置に建てられたのか
金色堂が建立されたのは、天治元年(1124年)のこと。金色堂が建てられた場所は、中尊寺のある境内の山頂付近です。でも、山頂ではありません。
下のイラストは、まさに山頂に建つ金色堂を表していますが、実際には違います。
修復時の詳細な調査の結果、屋根には金箔は確認されていません。このため、屋根の部分には金箔は使われていなかったのではないかと考えられています。
下のイラストは奥州藤原氏の政庁であった『柳之御所』からの金色堂の展望を表しています。
実は、この政庁のあった場所から中尊寺の山の上に建つ金色堂を見るためには、金色堂の設置位置は現在の場所しかなかったのです。
中尊寺の参道である月見坂は、山の鞍部を登っていきます。参道の両側には、江戸時代、伊達藩によって植樹された樹齢300年の杉林になっています。中尊寺本堂は、参道の右側に位置しているので、麓からは見えません。
『柳之御所』から金色堂が見える唯一の場所が、現在の金色堂の場所なのです。沢の向こうに金色堂が見えたことでしょう。
改めて世界遺産に登録されている遺跡の位置関係を見てみましょう。比較的狭い範囲に点在していることが分かります。
さて、このGoogle Earthのビューから二つのことが分かります。一つは、柳の御所から金閣寺を見ようとすると、金閣寺の建立場所は現在のこの場所しかないこと。
二つ目は、月見坂はあくまでも参道であり、街道ではないこと。もし、月見坂が街道の一部だとすれば、山の上まで登り、直ぐに下らなければなりません。そんな場所を街道にするはずもありません。月見坂はあくまでも参道だと考えられます。
管理人がなぜこんな事を書くのか不思議に思うでしょうが、通説では、月見坂を街道としているようなので、敢えてこのような記述をしています。NHKの番組も月見坂を街道の一部のように放映していたので気になった点です。
松尾芭蕉と平泉
有名な松尾芭蕉の『奥の細道』。その中で、平泉の項があります。それもそのはず、この旅の目的地は平泉であったといわれています。
では、なぜ平泉に行こうとしたのでしょうか。
Wikipediaの「おくのほそ道」の項には、「芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った旅行記である。」とあります。
西行って誰?
平安時代末の僧侶、歌人。西行は俗名を佐藤義清と言い、武士でしたが23歳のとき出家します。
西行が亡くなる前年に義経が自刃しています。つまり、西行と義経は同時代の人。
西行:元永元年〈1118年〉- 文治6年2月16日〈1190年3月31日〉 享年73
義経:平治元年(1159年)- 文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31
西行の本名、「佐藤義清」という文字を見て、あれっ? と思った人はなかなか良いカンしています。
西行は平泉を二度訪れています。
69歳の西行が二度目の奥州に旅します。旅の目的は東大寺大仏殿再建の勧進のためとされています。西行が平泉に向け出発したのが文治三年三月五日(1187年4月22日)です。頼朝の元に「義経奥州に下る」の報がもたらされたのもこの日です。2) p.37 こんな偶然はあり得ないと考えるのが普通の感覚ではないでしょうか。何かある。でも、何がある?
西行と奥州藤原氏とは親戚関係にありました。下の家系図をご覧下さい。
9代前の祖先が一緒なんてとても遠い昔の話、と思いますが、藤原秀郷が亡くなってから西行が生まれるまでの期間は160年に過ぎません。
秀衡が生まれたのが1122年なので、1118年生まれの西行の方が四つ年上ということになります。
義経の家来として有名な佐藤継信・忠信兄弟も藤原氏と血縁関係にあります。
秀衡が亡くなるのは、文治三年十月二十九日(1187年12月7日)です。66歳でした。この時、西行は平泉にいたのでしょうか。そして、西行は義経と面会したのでしょうか。
Source: Wikiwand、西行
さて、松尾芭蕉は西行を崇拝していました。そんな芭蕉が旅の目的地に選んだ平泉。芭蕉は、平泉の何を西行と結びつけて考えたのでしょうか。
それは、「おくのほそ道」に書かれています。
元禄2年5月13日(1689年6月29日)、芭蕉が平泉に入り真っ先に向かったのが「高館」です。中尊寺でも毛越寺でもありません。
芭蕉は「高舘」で、有名な句を詠みます。
「夏草や兵どもが夢の跡」
この「兵ども」が義経とその郎党のことを念頭に置いていることは間違いないでしょう。真っ先に訪れた「高舘」で詠んだ句なのですから、藤原氏のことではありません。
旅の目的地平泉に到着した芭蕉は、金色堂に参拝し、すぐに尾花沢に向けて旅立ちます。尾花沢到着が旧暦5月17日(7月3日)です。
ということは、平泉には一日しかいなかった?
尾花沢には10日も滞在しているのに、平泉には一日しかいなかった? 旅の目的地なのに?
まるで何かを恐れているような感じです。平泉で何かを確認して、急いでその場を離れた。そのように見える行動です。
芭蕉は何を見たかったのか。そして、何を見たのか。
当時の平泉は、一関藩(田村家)の領地。伊達騒動が起きたのは寛文11年(1671年)なので、芭蕉が平泉に入ったのは、事件から18年後のこと。伊達騒動の主役格の一関藩(伊達家)は改易され既にありません。
Wikipediaを見ると、「江戸時代前期の元禄2年5月13日(西暦1689年6月29日)、平泉を訪れた松尾芭蕉は、奥州藤原氏の当時繁栄を極めた居館のあった場所が田野となっている有様を見て、
夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡
と俳句を詠み、また朽ちかけていたもののかろうじて光を残す中尊寺金色堂においては、
五月雨の 降(ふり)残してや 光堂
の句を残している(いずれも『奥の細道』所載)。」とあります。
ここら辺の感覚が管理人とは違うようです。
芭蕉が驚いたのは、「平泉古図」とは大きく異なる北上川の位置だったのではないでしょうか。
平安時代末期、藤原氏全盛の頃の北上川は現在より東側を流れていました。ところが、芭蕉が見た時には、川は西に流れを変えており、藤原氏の頃の建物があった場所は川の下か氾濫原になっている。北上川周辺の低地部は常に洪水の被害を受けており、そのような場所が水田になっていたのかは分かりません。ひと雨降れば水に浸かるような場所は水田にはなりません。種籾がもったいない。
管理人がこのようなことにこだわる理由は、松尾芭蕉が土木技師だったからです。このくらい知ってますよね。Wikipediaを書いた人は土木には素人のようで、芭蕉の視点は理解できないのでしょう。
土木の知識のある芭蕉が、高舘から眺めた景色をどう感じたのか。俳句の世界だけしか知らない人は、実は、芭蕉のことを分かっていないのではないかと思います。少なくとも、同じ目線で見ることができていない。
高舘の丘の頂上に建つ義経堂(ぎけいどう)は、天和3年(1683年)に、第4代仙台藩主の伊達綱村が義経を偲んで建立したもので、1689年6月29日にここを訪れた芭蕉は、これを見たことになります。
西行と言えば「花」。西行には桜の歌が230首あるそうです。西行が平泉で詠んだ「ききもせず束稲山のさくら花 よし野のほかにかかるべしとは」という歌は、現在の西行桜の森で詠まれたもの。この場所は、高舘の真東に位置しており、高舘からもよく見えます。しかし、芭蕉が平泉に入ったのは西暦の6月29日なので、当然、桜の花は終わっています。
歴史の闇
世の中には歴史好きの方がたくさんいます。歴史の本もたくさん出版されています。しかし、管理人の知りたいことは、誰も関心がないのか、情報が見つからない。
奥州藤原氏が北方貿易を行い、蝦夷や宋と直接貿易をしていたことは、出土品から考えて間違いないようです。
では、貿易の相手国の港はどこ?
さらに、藤原氏の貿易港はどこ? 十三湊? 蝦夷地との貿易なら十三湊を使うのは理解できるけど、宋との貿易で十三湊を使うはずがない。なぜ、平泉から遠いそんな港を使うの?
このような管理人の素朴な疑問に答える歴史書にまだ巡り会えていません。
世界遺産指定史跡の一つ無量光院跡の発掘調査で、その遺構から焼け跡の痕跡は全く確認されませんでした。
『吾妻鏡』に書かれているからといって、そのまま信用するのがいかに危険かを示しているように思います。
『吾妻鏡』は、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの87年間にわたる幕府の事績を編年体で記したものです。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃とされています。
Wikipediaの『吾妻鏡』には、「編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。」と書かれていました。
おいおい、その論理じゃあ、勝海舟の基本史料は「氷川清話」です、と言っているようなものじゃないの。
金色堂に使われた金はどこから?
奥州平泉の黄金文化を支えたのが「金(きん)」の存在です。
それはどこから手に入れたのでしょうか。そして、それは現在では採れないものなのでしょうか。
現在、金相場が高い位置をキープしていることから、奥州藤原氏が多量の金をどこから入手したのかに関心が高いと思います。
平安時代の末頃、日本で金が採れたのは東北の一部の地域でした。精錬技術が発達していなかった当時、採掘できたのは砂金であったと考えられています。
当時の金山の分布を調べたのですがよく分かりません。見つからないということではなく、たくさんありすぎるからです。東北は、金の宝庫です。
奥州藤原氏が金を採掘したと考えられる金山はいくつかあります。岩手県陸前高田市にある玉山(たまやま)金山がその代表でしょう。川で砂金が採れるということは、その上流には金山がある。
砂金は直ぐに掘り尽くし、金山が掘られるようになるにはそれほど時間がかからなかったことでしょう。問題は、金鉱石からどうやって金を抽出するか。
岩を砕き、それを石臼ですりつぶし、さらに、重い金が底に沈むことを利用して水で選別するという方法が採られたようです。
2012年1月8日に放映された『NHKスペシャル 世界遺産 平泉 金色堂の謎を追う』に金山の位置が「平安時代後期の産金地」として示されていました。
出典:NHK、『NHKスペシャル 世界遺産 平泉 金色堂の謎を追う』
これを見ると、現在の岩手県南部に集中しています。
調べてみると、奥州藤原氏の主な金山は以下のようなものだったのではないでしょうか。これ以外にも小さな金山(跡)がほんとうにたくさん存在します。
- 岩手県陸前高田市 玉山(たまやま)金山
- 宮城県気仙沼市鹿折 鹿折(ししおり)金山
- 宮城県気仙沼市本吉町高瀬ヶ森 大谷金山
- 岩手県一関市東山町田河津 矢ノ森金山、横沢金山
- 岩手県一関市千厩町磐清水迎田 三島金山沢金山
- 岩手県和賀郡西和賀町鷲之巣 鷲之巣(わしのす)金山
- 新潟県村上市高根 鳴海金山
- 秋田県鹿角市 尾去沢鉱山
- 宮城県遠田郡涌谷町黄金宮前 黄金山産金遺跡
これらの金山跡地をGoogle Mapに表示すると、下のようになります。
金山跡の中には、ゴールドパーク鳴海(鳴海金山)や住田町のように、砂金採取体験ができる場所もあります。
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なかなか執筆が終わらないので、このバージョンでアップします。この記述が消えたときが最終バージョンです。
参考・引用:
1. 「よみがえる金色堂 日映科学映画製作所 1970年製作」、 NPO法人科学映像館
2. 『義経北紀行伝説』、山崎純醒、批評社、2016