謎のオーパーツ!ピリ・レイスの地図
古代の謎・歴史ヒストリー
2015.12.252020.07.16
この記事は、「ネコ肉球4個分の幸せ」で書いたピリ・レイス関係の三本の記事を再構成し、新たな視点で書き直したものです。
プロローグ: 謎のオーパーツ、ピリ・レイスの地図とは?
ピリ・レイスの地図をご存じでしょうか。オスマントルコの海軍提督ピリ・レイス(Piri Reis)によって1513年に描かれたとされる地図のことです。
謎が大好きな人たちの間でこの地図が人気があるのは、「当時、未発見だった南極大陸の海岸線が地図に正確に描かれている」とされるからです。それが真実であるならば、この地図はまさにオーパーツです。
この地図にまつわるいくつかの謎について調べ、その謎解きをしていきたいと思います。
ピリ・レイスの地図
当時の航海の状況
ピリ・レイスの地図が描かれたとされるのは1513年です。まず、この作製年が間違っていると話にならないのですが、これは正しいものと考えられています。その理由は、地図の中に1513年作製と書かれてるからです。
新大陸がコロンブスによって発見されたのが1492年のことですから、当時のヨーロッパでまだまだ南米の状況は知られていませんでした。
もう少し詳しく見ていきましょう。
コロンブスは合計4回大西洋横断の航海に出ています。3度目の航海では南米ベネズエラに達していますが、最後の航海ではパナマ付近で座礁し、本国に帰ったのが1504年でした。 このように、コロンブスの航海では、カリブ海の島々には多く立ち寄っているものの、中米、南米の”本土”にはほとんど足を踏み入れていません。例えば、コスタリカのカリブ海側プエルト・リモンの沖合3Kmにウビタ(Isla Uvita)という島があります。コロンブスが修理のため船を係留した島と言われていますが、コスタリカ本土には上陸していません。
コロンブスの航路
この当時、新大陸を目指して航海をしていたもう一人の冒険家がいます。イタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチ(Amerigo Vespucci、1454年3月9日 – 1512年2月22日)です。アメリカ合衆国の名前は、彼にちなんで付けられました。
アメリゴ・ベスプッチは、1501年から1502年にかけて行われた第3回航海で南米大陸を東岸に沿って南下しました。通説では、南緯50°付近まで南下したとされています。南緯50°といえば、フォークランド諸島の北130Km付近になります。下の航路図のように、第3回航海で現英領サウス・ジョージア(South Georgia)まで南下したとすると、南緯54°まで南下したことになります。しかしながら、アメリゴ・ベスプッチの航海についてはその信憑性に疑問が持たれており、第1回と第4回の航海は史実としては確認されていないようです。
アメリゴ・ベスプッチの航路
アメリゴ・ベスプッチが実際に到達した最南端は、南緯25度(クリチバの近くのCananéia)だったと友人に宛てた彼の手紙から考えられています。
このように、コロンブスあるいはアメリゴが航海した1504年当時、南米大陸の最南端ホーン岬までは誰もたどり着いていません。南米大陸の最南端の地峡マゼラン海峡にマゼランがたどり着いたのは1520年のこと。マゼランは、ここを1ヶ月をかけて通過し、太平洋に出ることに成功しました。この地峡の航行は現在でも難しく、マゼランが航路探査のために派遣した船が戻ってこず、僚船を失っています。マゼランは、南の陸地はまだ続いていると考えていたため、この難しい航路を選ぶことになりました。南米大陸の最南端ホーン岬を初めて通過したのは、オランダ人ウィレム・コルネリウス・スハウテンで、1616年になってからのことです。
このように、ピリ・レイスの地図が描かれたとされる1513年当時、南米大陸の形状は誰も知らなかったのです。ホーン岬が発見されるのはピリ・レイスの地図が描かれてから100年後です。
ピリ・レイスの地図がオーパーツとして挙げられるのは、当時ほとんど知られていなかった南米大陸の海岸線が非常に正確に描かれていること、さらに、氷で閉ざされている南極大陸の一部が描かれていると言われていることです。
次に、この真偽を確認しましょう。他人の受け売りではなく、自分で確認したいと思います。
ピリ・レイスの地図に描かれている海岸線を検証する
ピリ・レイスの地図には、たくさんの文字が書き込まれています。その全文については別の項で見ていきます。
この書き込みの中に、西の海は、コロンブスの地図を用いて描いたと明記されています。ところが、ここにミステリーがあります。コロンブスは、前述したように合計4回の大西洋横断の航海に出ていますが、第1回の航海で新大陸を発見したこと以外、あまり大きな成果を上げていません。南米大陸もベネズエラまでしか行っておらず、コロンブスの地図では南米の海岸線を正確に描くことは不可能なのです。つまり、南米大陸の海岸線が正確に描かれているとされるピリ・レイスの地図と、その地図を作成するにあたって引用した地図との間に矛盾があるということです。
コロンブスが最初の航海で用いた地図は、大西洋の距離をかなり短く想定したもので、いつまでたっても陸地に着かないことから、ハバナ諸島に到着したときには水兵達が反乱を起こす寸前だったようです。コロンブスが使った地図では、距離が違うし、もちろん、南米の海岸線などは描かれていなかったのは明らかです。
また、この地図は、古代から伝わる古地図をかき集め作製したとされており、このことが、この地図をさらにミステリーなものにしているようです。古代になぜ、アメリカ大陸の地図があるのか。
では、どれほど正確に海岸線が描かれているのか実際に見てみましょう。
最初に気づくのは、西アフリカの海岸線とブラジル東北部の海岸線の形状かとてもよく似ていること。
そして、南米の大西洋側の海岸線は、全く一致しないこと。
ブラジル東北部は、1500年、ポルトガルのペドロ・アルバレス・カブラル((Pedro Álvares Cabral, 1467/1468年 – 1520年)がここに漂着しています。これにより、ブラジルはポルトガル領となります。ピリ・レイスの地図が描かれた1513年にはすでにこの地域の地図は作製されていたのは間違いありません。つまり、上で示した二つの海岸線の形状が一致していても何ら不思議ではないと言うことです。これのどこがオーパーツなのだろうと思ってしまいます。
問題となっているのは、実はそれより南の部分です。ピリ・レイスの地図でブラジル東北部より南の部分の角度を変えるとアルゼンチンの地形と似ているようにも見えます。しかし、本当にそうでしょうか。早速比較してみます。
先ず、アルゼンチンの実際の海岸線に合うようにピリ・レイスの地図を回転します。この回転角は右に約90°です。
次に、アルゼンチンの海岸線に該当しそうな部分をピリ・レイスの地図から切り出し、実際の海岸線に重ねてみます。
重なり具合を見ると、・・・合いません。何となく似てはいるのですが、どうやっても合いません。
それに、南極は遙かに南にあることが分かります。もし、ピリ・レイスの地図に描かれているとしても、その範囲はせいぜいアルゼンチンまでです。
南極の海岸線に似ている部分を重ねようとしたのですが、無駄骨に終わりました。全く重なりません。
ピリ・レイスの地図の本当のすごさとは!?
この地図を最初に見たとき、よく分からない地図だと思いました。縮尺がでたらめという感じがして、これでは航海にはとても使えないと感じました。ましてや、南極の地形など、現在の地図とぜんぜん合いません。
ところが、先日、ふとしたことから、”この地図って平面ではなく立体曲面をそのまま描いたものではないか” と思いつきました。
地図を作製するにあたり、もともと球体の地球を平面にいかに表現しようとするかで、様々な図法が考案されてきました。
現在、地図の作図に使われている正角図法であるメルカトル図法(正角円筒図法)は1569年に発表されたものですが、それ以前にも航海図の一般的図法として使われており、1511年の適用例も確認されています。磁石(後に羅針盤)、星の位置を頼りに航海するには、角度が重要で、方位を直線で地図上に示すことができる正角図法が多く用いられました。
ところが、ピリ・レイスの地図は、この作図法とはどうも違うようです。この地図の中の書き込みに「いくつもの地図を使った」と書いてあります。この書き込みはラテン語で書かれており、一部読めない部分がありますが、英語訳され、web上で航海されています。無謀にも地図に書かれているラテン語を翻訳しようかと考えたのですが、よく考えたら、そんなことはこの分野の専門家がとっくにやっていました(汗)。
この悩ましい地図の存在に学者たちは、南極大陸に見えるのは、実は南米大陸で、羊皮紙のサイズの関係で、回り込んで描かれている、などと子どもでも分かるような滑稽な説明をしています。羊皮紙というのは当時、とても貴重なものでした。描いてみたら用紙に入らなかったので歪めたというようなものではありません。勝手にゆがめると航海に使えなくなります。
さて、この地図が曲面をそのまま平面に投影するように描いたものだとするのなら、「地図を地球に被せてみたら良いのではないか」とふと思い立ちました。以前ですと、そのようなことを思いついたとしても、実際に自分で確認してみる手段がありませんでした。ところが現代はそれが簡単にできます。
前置きはこれくらいにして、驚くべき結果をご覧いただきたいと思います。
Google Earthの地球画像に、ピリ・レイスの地図を被せたものです。無理に変形して合わせたのでないことは、方位線の形から分かると思います。
これを作っていて驚いたのは、ピリ・レイスの地図を湾曲変形させ、地球の曲面に沿って被せようとすればするほど、地形の位置がピッタリ一致してくることです。特に、地図の縁の部分がピッタリ一致するのには、本当に驚きました。
どれだけ一致しているのか理解してもらうために、作業過程をフラッシュにしてみました。海岸線が驚くほど一致しているのが分かると思います。
最後から2枚目のスライドで最終的な位置調整をして、最後のスライドで、地図部分を切り取り、Google Earthの画像と比較できるようにしています。
説明が長くなりましたが、動画をYouTubeにアップしました。
地図の詳細を調べる
前項で、Google Earthの地球画像を使って、「ピリ・レイスの地図を地球に被せればピッタリ海岸線が一致する」というところまで書きました。
ここで、『ピリ・レイスの地図』自体をもう少し詳しく分析して、その謎に迫っみたいと思います。
つなぎ合わせた地図の数
ピリ・レイスの世地図は、「約20枚の海図および世界地図」 を参考にしたとこの地図の中に書かれています(下の図画割り画像の6.の部分に書かれています)。
ピリ・レイスの地図に記載されている内容をよく読むと、この地図が「世界地図 」であることは疑いのないことです(6.の部分をお読みください)。つまり、現在残っている部分(ピリ・レイスの地図と呼ばれている)だけではなく、アフリカ、アジアの部分もあったものと思われます。
この地図をよく見ると、少なくとも4つか5つの地図を貼り合わせていると思います。ここでは、以下のような4つの地図を貼り合わせたと仮定します。
1.①と、②の上部分は、そこに描かれている絵が逆向きになっています。この部分が5つ目の地図ではないかと思います。
2.②と③では、実際の海岸線と方位角が合いません。②の部分を基準にすると、③はかなり南西側に傾いています。
3.③と④では、まるで違う地図をつないだかのようです。③を基準にすると④は南北方向が90度傾いているように見えます。これが、従来の作図法で検証しようとして、研究者たちが説明できなかった部分です。
ピリ・レイスの地図に近い作図法は何か
ピリ・レイスの地図に近い作図法は何かについて、考えてみたいと思います。
この地図が描かれた16世紀初頭の航海図に用いられた図法は、現代でいうところのメルカトル図法でした。前述したように、この図法は角度が正確なため航海に適しており、メルカトルが図法として発表する以前から一般的に使われていました。
ところで、ピリ・レイスの地図は、このメルカトル図法で描かれたものではないようです。ピリ・レイス本人は、メルカトル図法で描いたつもりかも知れませんが、彼がこの地図を作成するにあたって使用したギリシャ時代の古代地図が違う図法で描かれていた可能性が高いのではないでしょうか。
現在、様々な地図作成図法が考案されています。球体の地球を平面である地図にいかに投影するかで、それぞれ目的に合わせた作図法が使用されています。
前項の「②と③では、実際の海岸線と方位角が合いません」という疑問点を解消できる作 図法はないものかといろいろ探して試してみました。その結果、北極を中心とした正距方位図法が最も近い図法ではないかと思います。下の正距方位図法とピリ・レイスの地図の②と③の位置関係をご覧ください。かなり近い形状・位置関係にあるのではないかと思います。
次に、南半球部分です。複数の地図を使ったとピリ・レイス自身がこの地図の中に書き込んでいること、また、地図が90度傾いているような南米の海岸線であることを思い出してください。
地球を単に真下から見ると下のGoogle Earth画像になります。意外に大陸の表示部分が小さいことに気づきます。
ピリ・レイスの地図で表現されているような広範囲に大陸を表示するには何らかの投影図法を用いる必要があります。
下の画像は、上で示した北半球と同じ正距方位図法で南半球を描いた図です。
この緯線がどこか分かりますか。トルコのイスタンブールです。南極を中心とし、トルコのイスタンブールを通る子午線に合わせたものです。
なぜ、トルコ? ピリ・レイスがこの地図を描いたのは、トルコの海軍の軍事拠点「ゲリボル」(東経26度40分)です。このことも地図の中に明記されています。
ピリ・レイスの地図④と比較してみてください。驚くほど傾斜角が符合していると思いませんか。
ピリ・レイスの地図の中に、この地図の作成にあたりギリシャ時代の古地図も用いたと書いてあります。なぜ、正距方位図法を用いると、これほど一致するのでしょうか。正距方位図法は、飛行機の航路に用いられる図法で、目的地までの最短距離を知ることができます。古代の近距離の地図では、誰でも最短コースを選ぶと考えられることから、この図法の方が、普通だったのではないかと思うのですが。この図法は11世紀に現在のウズベキスタン生まれのAl-Biruniによって考案されたとされています。
下の画像は、「ボンヌ図法」で作成したものです。アルゼンチン部分は、正距方位図法で作成したものと似ていますが、・・・。まあ、こんな図法もあるという程度の参考図法です。当時、または古代ギリシャ時代にこのような図法があったとは思えないので。
以上、ご覧いただいたように、ピリ・レイスの地図の②と③の部分は、北極を中心とした正距方位図法、④の部分は、南極を中心とし、イスタンブール、またはカイロ付近を中心子午線とする正距方位図法で描いたものに、よく似ています。この二つの図をつなぎ合わせたのが、ピリ・レイスの地図のようにも見えます。
一方、正距方位図法は、2地点間の最短距離を示すことができるため、航空航路図などに使われますが、移動するに従い、現在位置と目的地の角度が変化していきます。これに対し、メルカトル図法は、目的地までの角度が途中でも一定になるため、海図として使われてきました。
少なくとも11世紀の初めには正距方位図法を用いて地図が作製されていることから、それらの地図を使ったということも、あながち否定はできないように思います。
ピリ・レイスの地図に書き込まれている内容とは? その全文を紹介
ピリ・レイスの地図には、たくさんの文字が記載されています。上述したように、最初は無謀にもこのラテン語を翻訳しようかと思ったのです が、その道の専門家がしっかり英語に翻訳していました。以下で、地図のそれぞれの部分にどんなことが記載されているのか書きたいと思います。
下の区画割り画像の「数字」に説明の番号が対応しています。下の画像をクリックして拡大表示することができます。地図に書かれている内容の確認にご利用ください。
以下、地図に書かれているラテン語の英語訳の日本語訳です。まあ、管理人の訳なので適当ですが。機械語翻訳にかけたのをざっと見直した程度の訳のため、適宜、修正していきます。
上の画像の番号に対応しています。出典は、上記画像に記載しています。
1. “vakami”を呼ばれる一種の赤いシミがあり、それが離れてあるので、初めは見えませんが。山脈は豊富な鉱石を含んでいます。そこで、羊のうちのいくつかは上等な羊毛を持っています。
2.この国には住民がいて、皆、裸で生活しています。
3.この地域はAntilia地方として知られています。それは太陽が沈む側にあります。ここには、白、赤、緑および黒の4種類のオウムがいると言われていま す。人々は、オウムの肉を食べます。また、彼らの頭飾りは全てオウムの羽毛で作られています。ここに黒い試金石に似た石があります。人々は斧の代わりにそ れを使用しています。それは非常に困難です。。。[不明瞭] その石を見ました。
[注:ピリ・レイスは著書「Babriye」の中で次のように書いている:「我々が地中海で捕獲した敵船の中で、我々は、これらのオウムの羽毛で作られた頭飾りさらに試金石に似た石を見つけた。」]
4. この地図は、『Kemal Reis』の甥として知られている『Piri Ibn Haji Mehmed』(管理人注:ピリ・レイスのこと)によって、919年のムハッラム(muharrem)の月(すなわち、1513年3月9日から4月7日までの間)に、ゲルボル(Gallipoli)で描かれました。【ネコ師注:この記述を見る限り、地図中の書き込みは、ピリ・レイス自身が書き込んだものではないような書き方がされています。しかし、自分で書いてもこのような表現をする場合もあるようです。】
5. このセクションでは、これらの土地や島々がどのように見つかったか伝えます。
これらの海岸は、「Antiliaの海岸」と命名されています。【管理人注:Antiliaは謎の大陸アトランティス島】それらは、アラビア歴896年に発見されました。しかし、それは以下のように報告されています。
この場所を発見したのは、ジェノバの無神論者、コロンブスでした。
一例を挙げると、コロンブスはある本を手に入れました。その本には、西の海(大西洋)の終わり、すなわち海洋の西側には、海岸および島々、すべての種類の金属、さらに宝石があると記されていました。
上述したように、彼はこの本を徹底的に研究して、ジェノバ王にこれらのことを一つずつ説明し、そして次のように言いました:
「お願いです。私に2隻の船を与え、その場所を見つけに行かせてください。」
彼らは次のように言いました:「愚かな者よ。西の海の終わりや境界を見つけることができるというのか? そこは暗い蒸気で満たされているよ。」
コロンブスは、ジェノバから支援が得られないことを知り、急いで、スペイン王のところへ行き、彼の物語を詳細に伝えました。彼らスペイン人たちはジェノバ人と同じように応えました。
コロンブスは彼らに長い間懇願を続けた結果、最後に、スペイン王は、彼によく装備された2隻の船を与え、次のように言いました。
「コロンブスよ。おまえの言うことが起こるとするなら、私たちはおまえをその国の[提督]に任命しよう。」
彼が西の海へコロンブスを派遣したと言うことに関して。
前述のイスラム勇士Kemal(ピリ・レイスの叔父)にはスペイン人の奴隷がいました。
この奴隷は、Kemal Reisに言いました。彼は、コロンブスと共に3度、その場所に行ったことがありました。
彼は次のように言いました:「最初に、私たちはシブラルタルに到着しました、そして、そこから2つの間の直線の南および西。。。[不明瞭]。
まっすぐに4千マイル進み、私たちは島を見つけました。しかし、徐々に海の波は泡立たなくなり、海は鎮まりました。また、「北極星」は (コンパス上では水夫たちはまだ「星」と言いますが)、少しずつ隠れてゆき、見えなくなりました。また、その地域の星は、ここと同じような配置にはなっておらず、異なる配置で見られます。
彼らは、最初に見つけておいた島に錨をおろしました。島の住民がやってきて、彼らに矢を放ち、彼らが上陸するのも情報を入手するのも許しませんでした。男も女も矢を射ます。矢じりは魚の骨で作られており、また、住民は全員裸でした。そしてさらに、非常に、[不明瞭]。
彼らは島に上陸できないことが分かったので、島の反対側に廻りました。そこで、彼らは一艘のボートを見つけます。彼らを見かけるとすぐ、ボートは猛スピー ドで陸地に向け逃げだしました。彼らはそのボートに乗り込み、中をのぞくと、人間の肉を見つけました。この島の住民は、島から島へと渡り歩き、人間狩りをして、その肉を食べていたのです。
彼らは、コロンブスがさらに別の島を見たと言ったので、それに近づきました。その島には、大きなヘビがいるのを見ました。彼らは、この島への上陸をあきらめ、そこで17日間停泊しました。この島の人々は、船が住民に危害を加えないということが分かり、魚を捕まえて、小舟で船まで持ってきました[不明瞭]。
スペイン人たちは喜び、住民にガラスのビーズを与えました。コロンブスは、ガラスのビー ズがここでは価値があることを本で読んで知っていました。ビーズを見て、住民たちはもっとたくさんの魚を持ってきました。スペイン人は、いつもガラスのビーズを彼らにあげました。ある日、彼らは、住民の女性が金の腕輪をはめているのを見つけました。そこで、金の腕輪とガラスのビーズを交換しました。スペイン人は住民に、「もっと金を持ってきたら、もったたくさんのビーズをあげる」と言いました。
ある日、さらに、彼らは住民の手の中に真珠を見つけました。彼らは次のことを理解しました、彼らがビーズを与えると、さらに多くの真珠がもたらされました。真珠はこの島の海岸で、深さ1あるいは2ファゾムの場所で見つかりました。
さらに、多くのログウッド材と2人のインディオを船に載せて、スペイン王の下へその年の内に運びました。
コロンブスは、彼らの言語を知らなかったものの、彼らと通商の契約書を取り交わしました。この航海の後、スペイン王は、宣教師を派遣し、大麦を送りました。そして、インディオに種をまき、収穫する方法を教え、また彼らをキリスト教に改宗させました。彼らは、独自の宗教を持っていませんでした。彼らは裸で歩き、動物のようにそこに寝ました。現在、これらの地方はすべてに開かれ、有名になりました。
前述の島および海岸は、コロンブスによって名前が付けられました。これらの場所は、それらによって知られているかもしれません。また、さらに、コロンブスは偉大な天文学者でした。この地図上の海岸および島は、コロンブスの地図によるものです。
6. このセクションでは、この地図がどのような方法によって描かれたのかを示します。今世紀、いかなる者もこのような地図は持っていませんでした。この貧乏人の手によってそれは描かれ、今、それは編纂されます。約20枚の海図および世界地図( 『それらは、人が住む世界の4分の1を示す2つの角を持つ支配者アレグサンダー大王の時代に描かれた海図で、アラビアでは、”Jaferiyeの海図”と 呼ばれる』)、 そのタイプの8つのJaferiyes海図およびの1枚のインド(al-Hind:アラビア語でインド亜大陸)のアラビアの地図、および 4人のポルトガル人 によって描かれたインド亜大陸、パキスタン(Sind:アラビア語)、及び中国の国々を表した地図、さらに、私が抽出したコロンブスによって描かれた西側地域についての地図、によって描かれています。
これらの全ての地図を一つの縮尺の地図に減らすことによって、この地図の最終形式が決まりました。このため、この提出する地図は、船乗りたちが精確であり信頼できると考えている私たちの国にある地図と同じように精確で、かつ信頼性が高く、さらに、七つの海においても信頼に足りるものです。
[管理人注:この部分が一番重要です。一部、アラビア語が入っているので、訳し直しました。]
7.それはポルトガルの不神論者によって関連づけられます、それはこの場所に22時間の中でそれらの最長のことで、2時間の中でそれらの最短のことに絶えずあります。しかし、その日は非常に暖かい。また、夜に、多くの露があります。
8. 後方のこの地域へ行く途中で、ポルトガルの船は逆風に遭遇しました、海岸から。海岸からの風。。。[不明瞭で]それ[船]。南の方角に嵐に よって運転された後に、彼らは、それらの向こうの海岸を見ました、それらはその方へ進みました[不明瞭で]。彼らは、これらの場所がよい停泊地であること を理解しました。それらは錨を投げて、ボートで海岸へ行きました。彼らはそこで全員裸の住民に出会いました。しかし、住民たちは矢じりが魚の骨で作られて いた矢を放ちました。コロンブスたちはそこに8日とどまりました。彼らは通商のサインを取り交わしました。はしけ舟はこれらの国を・・見て、・・それらに 関して書きました、どれ・・・。進行のない前述のはしけ舟、に、後方、ポルトガルへ返った、到着した場所について情報を与えました・・・・。彼らはこれら の土地について詳細に記述しました。・・・・彼らはそれを発見しました。
9.また、この国では、この形の中の白い頭髪のある怪物、さらに六つの角のある雄牛がいるように見えます。ポルトガルの不神論者は地図の中でそれを書きました・・・・。
10. この国は不毛の土地です。すべてが荒れ果てており、また、大きなヘビがいると言われています。このような理由で、ポルトガルの不神論者はこれらの土地に降りませんでした。また、非常に暑いとも言われています。
<管理人注:問題箇所の記述です。これが書かれている場所は、『南極』と一部の人から指摘されている所ですが、ピリ・レイスは『暑い』と書いています。さらに、ポルトガルの不神論者(コロンブス)のことばかり書いています。彼が航海した航路は上で示したとおりで、南米はベネズエラまでしか南下していません。
11. また、これらの4隻の船はポルトガルの船です。彼らの船が書き込まれています。それらの船は、インドに到着するために、西の土地からアビシニア [Habesh] のポイントまで旅をしました。彼らはShulukに向かって言いました。この湾を横切った距離は4200マイルです。
12. ….この海岸上で、タワー
[注:これらのラインの各々の半分が見当たらないという事実は、地図の最も明瞭な証拠が二つに裂されたことであるということである]。
13. また、フランドルから来たジェノバのkuke(船の種類)は嵐に見舞われ、嵐に駆り立てられたときた時、これらの島々を見つけました。このようにして、これらの島は知られるようになりました。
14. 古代に、Sanvolrandan(Santo Brandan)という名の聖職者は七つの海を旅したと言われています。前述の聖職者は、この魚の上に上陸しました。彼らは、そこは乾いた土地だと考え、 火をつけました。火が魚の後部を燃やし始めた時、この魚は海へ飛び込みました。彼らはボートに再び乗り、船に逃れました。この出来事について、ポルトガルの不神論者は言及していません。それは古代の世界地図(Mappae Mundi)から得られたものです。
15.彼らは、これらの小さな島々にUndizi Vergineと名前を付けました。それは11人の処女という意味です。
[管理人注:1493年にコロンブスによって発見されたカリブ海のバージン諸島を指していると思われる。バージン諸島は聖ウルスラと1万1千人の乙女の殉教伝説と結びつけてコロンブスが命名したもの]
16. そして彼らがAntiliaの島と呼ぶこの島。多くの怪物およびオウムが住んでおり、さらに多量のログウッド材があります。それに住民はいません。
[管理人注:Antiliaの島とは、小アンティル諸島を指していると思われる。いずれにしろ、カリブ海の周辺の島について述べている。]
17. このはしけ舟は嵐によってこれらの土地で座礁し、嵐が静まるとそのまま残りました。・・・・名前はNicola di Giuvanといいます。彼の地図には、これらの川に大量の金をあることが書かれています[それら河床に]。(川の)水が無くなった時、彼らはその砂の中から大量の砂金を集めました。それらの地図上で、・・・・・。
18. これは、嵐およびcam(この土地への。詳細はこの地図の端に書かれています。[注:8.を見る])に遭遇したポルトガルからのはしけ舟です。
19. ポルトガルの不神論者はここから西へは行けません。こちら側はすべて完全にスペインが所有しています。それらは、協定にその・・・ [1行]・・・・ 境界線としてジブラルタル海峡の西側に2000マイルを作りました、ポルトガルの領土はその側に交差しません。しかし、後方サイドおよび南サイドはポルトガルが所有しています。
[管理人注:1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれたトルデシリャス条約に基づく教皇子午線を指していると思われる。]
20. また、嵐に遭遇したこの快走帆船はこの島で座礁しました。その名前はNicola Giuvanでした。また、この島においては、1本角の雄牛が多くいます。この理由で、彼らはこの島を雄牛の島という意味の「 Vaccaの島」と呼びます。
21. この快走帆船の提督は、ジェノバ人でポルトガルで育ったMessir Antonという人でした。ある日、前述の快走帆船は嵐に遭遇し 、この島で座礁しました。彼は、ここで多くのショウガを見つけ、これらの島々について書き残しました。
22. この海は”西の海”と呼ばれます。しかし、フランクの水夫たちは、それをMare d’Espagnaと呼びます。それはスペインの海を意味します。現在まで、それはこれらの名前によって知られていました、しかしコロンブス(この人がこの海を開き、これらの島を知らしめた)、そしてポルトガルもまた、”後方”の地域を開いたこの不神論者たちは、この海に新しい名前を与えることに合意しました。彼らは、この海に”Ovo Sano[Oceano](すなわち”sound egg”)という名前を付けました。これ以前は、海には終わりや境界はなく、そこは暗闇であると考えられました。現在、彼らはこの海が海岸によって取り囲まれていることを理解し、それが湖に似ているのでこの海を”Ovo Sano”と呼ぶようになったのです。
23. この場所には、1本角の雄牛、さらにこのような形の怪物がいます。
24. これらの怪物は7スパンの長さがあります。それらの目と目の間隔は、1スパンの距離があります。しかし、これらは無害な生物です。
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以上が、ピリ・レイスの地図に書き込まれている文章の全文です。
この文章を翻訳していて、気づいたこと、感じたことは次のようなことでした。
① コロンブスのことを不信論者という言葉 “infidel”で表現している。イスラム教ではないという意味なのでしょう。
② 同じことの繰り返しが目立つ。洗練された文章とはほど遠く、寄せ集めた知識をその場の勢いで書き込んだという印象がする。稚拙な文章(それは管理人の翻訳のせい?、ではないと思うけど)。
③ 地図の場所とそこに描かれている「絵」の関係をしっかり説明している。
④ 地図が半分に切り取られていることが、文章が続かないことからも証明できる。
⑤ この地図の由来をしっかり記載している。
⑥ この書き込みは、ピリ・レイス自身によるものではなく、それほど学識のない人間の手によるものであること。
⑦ そして最後に最も重要なこと。それは、この書き込みがコロンブスの地図をベースに書かれたものであること。つまり、コロンブスの航路以外のことは書かれていないということ。
ピリ・レイスは、”この地図に描かれているもの”の本質を理解していません。入手できた地図をつなげ合わせ、そして、入手したコロンブスの手記からコメントを書き入れているという印象です。したがって、この書き込みはあまり役に立たないと思いました。ただし、どのようにこの地図を作製したのかということが詳細に書かれているので、その点は参考になりました。
ピリ・レイスの地図の失われた右半分を復元する
さて、ピリ・レイスの地図は、世界地図ととして描かれていることが分かりました。現存しているのはその半分に過ぎません。残りの半分には、アフリカ、インド、そして中国が描かれていました。この項では、ピリ・レイスの古地図の失われた右半分の復元に挑みます。
ピリ・レイスの世界地図で現存する部分は、アフリカの一部と南米大陸の海岸線が描かれた部分ですが、どう見ても、半分に切断されているように見えます。原図はどのようなものであったのか、興味をひかれます。
ピリ・レイスの地図の中の書き込みに、インド、中国、パキスタンについてはポルトガル人の作成した地図を使ったと記載されているので、右半分があったことは、間違いありません。ピリ・レイスの地図は、世界地図だったと言うことです。もし、これが世界地図であるのなら、その失われた部分は、どのようになっていたのでしょうか。
そこで失われた右半分を復元してみました。ただし、根拠があるわけではないので、その辺はお手柔らかに。
YouTubeにアップしました。画質を高画質1080に設定してご覧下さい。
ピリ・レイスの地図が、オーパーツだとする考え方には、個人的には違和感を持ちます。○○の専門家が論文で発表したとかいうのは、たいていでたらめです。 その論文を読んだこともない人間が書いているのがほとんどです。最低でも論文を読んでいることが議論の前提条件だと思いますし、それを引用するのは、原文を読んでからにして欲しいと思います。
ピリ・レイスの地図に関する記事はこれで終わりにしますが、また、新たな見地が見つかったなら、追加記事を書きたいと思います。
現時点で関心があるのは、ピリ・レイスの地図に書き込みをしたのは誰かということです。
最初は、ピリ・レイス自信の書き込みかと思っていました。でも、翻訳している過程で別の人物が書き込んだのではないかと思い始めました。翻訳して分かることは、書き込みをした人物は、あまり頭の良い人間ではなかったと言うことです。文章がきわめて稚拙です。書き込みに脈略が無く、複数の人間が書いた文章のようにも感じます。
でも、本当は、ピリ・レイス自身の書き込みだと思います。誰が書いたか分からなくしながらも、この地図はピリ・レイスが作った、ということをしっかり印象づける書き方をしています。
エピローグ:残された謎
今回の記事をまとめるにあたり、たくさんの情報に接する機会を得ました。そこで感じたのが、オーパーツだと言っている人たちのいい加減さです。少し調べれば分かることなのに、偽の情報を引用して、いかにも本物のオーパーツのように仕立て上げているという印象を受けます。管理人は、オーパーツが大好きなので、それが本当であれば良いという気持ちでこの記事を書き始めたのですが、残念な結果になりました。本当のオーパーツはなかなか見つかりません。
では、ピリ・レイスの地図の謎はすべて解明されたのでしょうか。実は違います。
本記事で最初に提示したように、ピリ・レイスの地図を地球にかぶせると海岸線がとても良く一致するということは、管理人が提示する新たな謎です。
ピリ・レイスは、地図を作製するにあたり20枚以上の地図を使っていると言っていますが、その基本となった地図はコロンブスの地図であったことは、地図の書き込みから明らかです。
しかし、ピリ・レイスが全く重要と思わなかった”ある古地図”があったのではないでしょうか。その地図には、本当に南極が示されていたのかもしれません。
気になったのは、方位線です。
世界で最も古い海図は「ボルトラノ海図」と呼ばれるもので、13世紀頃から地中海一帯の航海で使われていました。ところどころに「コンパスローズ」を描き、ここから放射線状に目的の港の方角に羅針盤を合わせて進みました。
一方、15世紀末からの大航海時代には使われたのは1569年にメルカトルが考案したとされるメルカトル図法による海図でした。この海図では、「コンパスローズ」は必要ありません。しかし、メルカトル図法で描かれたと思われるピリ・レイスの地図には、「コンパスローズ」が描かれています。
この辺が今回の検討で積み残した部分です。実は、「コンパスローズ」についてもいろいろ検討したのですが、良い結果を得ることができませんでした。
今後の課題です。
参考
「海図のはじまり」日本水路協会