海賊の財宝伝説に迫る(1):ココ島に埋められた海賊の財宝伝説

ココ島の財宝伝説

 海賊が残した財宝の伝説は、多くの人々の関心を呼ぶだけではなく、トレジャーハンターと呼ばれる人々に計り知れない夢とリスクを与え続けています。

 日本人にとって、これまで地球の裏側で活躍した海賊の財宝など、それほど関心がなかったと思いますが、海賊をテーマにした漫画「ワンピース – One Piece」や、映画「カリブの海賊」などが爆発的にヒットしたことで、海賊に関心を持つ方も増えたのではないかと思います。

 今回のテーマの舞台は、カリブ海ではなく、太平洋側です。

 今回の記事は、本記事も含め、以下の6本の記事から構成されています。

 本稿では、ココ島に隠された海賊の財宝についての最初の記事として、この財宝にまつわる諸説をざっと概観することにしましょう。

『宝島』のモデルとなったココ島とは

 中米コスタリカの南西550Kmの太平洋上にココ島(Isla del Coco)という孤島があります。面積は46.6平方キロメートルですから、概ね7Km四方の島ということになります。火山島で、島の最高地点は海抜634m。断崖絶壁が取り囲み、年間降水量は7,000mmにも及び、熱帯雨林に覆われ、豊かな動植物が数多く残っています。

 ココ島は、スティーブンソンの小説『宝島』の舞台として知られ、実際に海賊たちが飲み水や食料を求めて上陸したと言われています。熱帯雨林に覆われた島には固有の動植物が数多く生息し、周辺海域には回遊魚の大群が集まり、ダイビングスポットとしても有名です。1997年には世界自然遺産に登録され、2002年には登録範囲が拡張されています。


   source: Google Map

 ココ島はまた、映画『ジュラシック・パーク』のロケ地に選ばれるほど、自然豊かな島です。2015年8月に、新作『ジュラシック・ワールド』が公開されます。再び、ココ島が世界の注目を集めそうです。

 ちなみに、映画のロケの大部分はハワイで行われました。映画『ジュラシック・パーク』は、同名の小説『Jurassic Park』を原作としています。この小説は、1990年、マイケル・クライトン(Michael Crichton)によって書かれたもので、コスタリカ沖の孤島『ヌブラール島(Isla Nublar) 注1)』が舞台となっています。現実にはそのような島はなく、その位置に存在する唯一の島としてココ島(Isla del Coco)が小説の舞台になった島とされています。

 有名な海洋学者ジャック・クストーは 、ココ島を数回訪問し、1994年には「世界で最も美しい島」と呼んでいます。

 ココ島は、単に「宝島」のモデルになった島というだけではなく、実際に、海賊の財宝が埋蔵されているという信憑性の高い有力な伝承があります。

 無人の熱帯雨林のジャングルに覆われた山々、深い峡谷、孤独な霧の谷、島内にある多くの激流と滝、そして、船乗りにかけられた壊血病の呪いから救う新鮮な水、ココナッツ、新鮮なフルーツ。陸地から遠く離れた立地。現在価値で10億ドルとも見積もられる海賊の隠した財宝。ココ島は、スペイン植民地時代から冒険家を魅了し続けてきました。

 これまでに300以上のトレジャーハンターチームが隠された財宝を求め発掘にこの島を訪れています。日本ではほとんど知られていませんが、ココ島の海賊の財宝はとても有名であることが分かると思います。これまでに少額のコインが見つかっていますが、財宝を掘り当てたトレジャーハンターは、未だ一人もいません。

 調べてみると、ネット上(日本語)には、ココ島に埋められたとされる海賊の財宝についての情報が皆無なことが分かりました。書かれていたとしても一般的なことばかりで、中米から遠く離れた日本に住む私たちは理解できない書き方です。

 さて、本サイトのカテゴリー『古代の謎・歴史ヒストリー』では、ネット上のどこにも書かれていない情報を提供することにしています。この記事をどのようにまとめるかはまだ方針が決まっていないのですが、とにかく、”できるだけ正確かつ詳細に”をモットーに書いていきたいと思います。

 管理人は、20年以上前、コスタリカに3年ほど住んでいたことがあるので、中米、カリブ海にはちょっとばかり土地勘があります。当時はココ島への上陸は一切許可されていなかったのですが、今はどうなっているのでしょうか。

 日本から見て地球の裏側の埋蔵金伝説ですが、史実に基づき、できるだけリアルに書いていきたいと思います。

 下の写真は、1840年頃にカリブ海の港で偶然撮影されたとされる停泊中の海賊船。

停泊中の海賊船
  Foto: ⒸNekoshi, Cancún
 
 もちろん、ウソです。管理人がカンクーンで撮影した写真を加工したものです。正しくは、「上の写真は、2010年、カリブ海の港(カンクーン)でブログに載せることを意識して管理人が撮影した停泊中の観光海賊船」です。でも、文字だけよりも写真があったほうが楽しめます。冒頭に掲載した「たなびく海賊旗」も今回作りました。この髑髏と大腿骨をモチーフとした旗は、欧米では「ジョリー・ロジャー(Jolly Roger)」という名前で知られています。1720年代に最も使われたようです。

ココ島に伝わる海賊の財宝伝説

 海賊が埋めたとされる財宝は、中南米のスペインの植民地から本国に輸送する途中で海賊が奪ったもので、その積荷の内容はリストとして残されています。

 伝説の海賊の財宝は主に3つあり、ウイリアム・デイビス(William Davis)、「リマの財宝」のウイリアム・トンプソン( William Thompson)および「血まみれの剣」のベニート・ボニート(Benito ” Bloody Sword” Bonito)が隠した財宝が有名です。1684年から1821年の間に隠されたと伝説は伝えています。 

 トレジャーハンターたちが群がる海賊が残した財宝とは、具体的にどのようなものかを最初に見ていきましょう。

 ココ島にはたくさんの財宝伝説がありますが、最大のものは、ウイリアム・トンプソン船長によって隠されたとされる財宝で、「リマの財宝」と呼ばれています。その財宝の中で最も価値があるとされるのが「リマ戦利品」と名付けられたもので、ペルーのリマにある教会のドームと丸屋根から剥がされた大きな金箔シートであると言われています。「リマの財宝」の目録は次のようになっています。

リマの財宝の目録
・黄金の宗教的彫像 113体
・等身大の聖母マリア像 1体
・宝石・宝飾品の入った衣装箱 200箱
・柄に宝石が埋め込まれた宝刀 273本
・ダイヤモンド 1,000個
・純金の王冠
・聖杯 150個
・金と銀の延べ棒 数百本
・その他

海賊の財宝
 Foto: Ⓒ Nekoshi, Imagen de tesoro

 もし、この財宝が発見されたのなら、単に貴金属の価値以上に歴史的価値が加わり、途方もない金額になるのではないかと思います。埋蔵された宝物の現在価値は、一般には、1.6億ドル、約200億円相当と見積もられます。別の見積もりではその6倍の10億ドルとの説もあります。

 ココ島には、この他にもたくさんの財宝伝説があります。もし、その伝説の全てが真実で、全ての財宝が発見されたとしたら、世界経済はパニックに陥るかも知れません。

海賊に奪われた「リマの財宝」

 最も有名な失われた宝物のうちの1つは、「リマの財宝」でしょう。

 中央アメリカにおける大多数のトレジャーハンターたちにとって、スペインの植民地で獲得し、そして失われたこの『リマの財宝』からストーリーが始まります。

 1811年8月にパラグアイがスペインからの独立を宣言したのを皮切りに、南米にあるスペイン植民地では独立の機運が高まっていきます。スペインのラテンアメリカ支配体制は年代により大きく異なるのですが、この時期、南米のスペイン領全域を支配したのがペルー副王で、首都はリマに置かれていました。しかし、南アメリカの植民地独立の動きは激しさを増し、副王のいるリマも不穏な空気に包まれていました。

 1818年、約5000の兵を率いた現アルゼンチンのホセ・デ・サン・マルティン(José de San Martín)がアンデスを越えてチリに進入し、スペイン軍を破りチリを解放します。サン・マルティンはチリで艦隊を整えて、1820年にはペルーの海岸に上陸し、翌21年にはリマに入城しペルーの独立を宣言しました。

 1820年、ペルー副王ホアキン·デ·ラ·ペスエラ(Joaquín de la Pezuela)は、このような状況の中、リマの富の安全を確保するために、その財宝を当時のスペイン植民地の本拠地があったメキシコに移すことを決めました。つまり、この時の財宝の輸送は平時の輸送ではなく、独立軍が押し寄せ、陥落が迫ったリマからペルー副王領がため込んだ富のほとんどを他所に移動するというとても重要な意味がありました。このような理由から、積荷は絢爛豪華で貴重な宝物にあふれていました。

 ペルー副王はメキシコは安全と考えた、その上での財宝の移送計画だったのですが、歴史的に見ると、その判断は誤っていたことが分かります。いや、判断が遅すぎたということでしょう。メキシコでもスペインからの独立の機運が南米以上に高まっており、1821年2月にメキシコはスペインからの独立を宣言します。つまり、リマの財宝が無事にメキシコに到着したとしても、それがスペイン本国に渡ることはなかったのです。

 話を1820年のリマに戻しましょう。

 ペルー副王はこの運搬任務をメアリー・ディア号(Mary Dear)のウィリアム·トンプソン船長(William Thompson)に依頼します。

 (別の伝説では、『1820年のこと、ペルーからメキシコへ財宝を運搬しているスペイン船が、イギリス人海賊ウイリアム・トンプソンに襲われ、積荷が奪われてしまいます』という話も伝わっています。)

 独立解放軍はリマの直ぐ近くまで迫っています。スペイン人たちは宝石、金、銀、重厚に装飾された燭台、そして、幼子イエスを抱いた等身大の黄金の聖母マリア像2体など当時のリマにあった膨大な量の財宝を船に積み込みました。副王の最も忠実な警備兵が輸送品の警護の任務に就きます。

 メアリー・ディア号は何ら問題なく港を離れ、航海は全て順調かと思われました。しかし、誘惑がトンプソン船長と彼の乗組員を襲います。

 ある晩、彼らは副王直属の警備兵と同行した司祭を殺害し、遺体を船から海に投げ捨てました。そして、船の針路を変え、コスタリカの太平洋沖に位置するココ島を目指します。

 ここから話はとても複雑になります。小説でも書けないような奇怪で複層的で重厚なストーリー展開なので、多くのトレジャーハンターはこの伝説を信じています。

 この状況を把握するため、ここで当時の歴史を整理しておきましょう。リマの財宝が奪われた1920年代は、まさに、スペインによるラテンアメリカ植民地経営が終焉を迎える時期でした。

【ラテンアメリカ独立の年譜】
 1811年8月 パラグアイがスペインから独立を宣言
 1816年7月 ラプラタ連合(アルゼンチンおよびその近傍)がスペインから独立を宣言
 1818年2月 チリがスペインから独立
 1819年12月 ボリバル、コロンビア共和国 (大コロンビア)を宣言
 1820年9月 サン・マルティンがペルーの海岸に上陸
 1821年2月 メキシコがスペインから独立宣言
       6月 ベネズエラがスペインから独立
       6月 ペルーがスペインからほぼ独立
       9月 中米グアテマラのスペイン総督府が独立を宣言
 1822年5月 エクアドルがスペインから独立
       9月 ブラジルがポルトガルから独立を宣言
 1825年8月 ボリビアがスペインから独立
 1828年8月 ウルグアイの独立が承認される。

セサール海賊

ベニート・ボニートの財宝

 実はこの時、別の海賊がココ島周辺海域をうろついていました。

 悪名高い海賊、”血まみれの剣” のベニート・ボニート(Benito “Bloody Sword” Bonito)です。彼はカリブ海を根拠地に活動していた海賊でしたが、英国とスペインの軍艦による執拗な追跡から逃れるために、他の海賊と共にカリブ海を離れ、太平洋側に進出しようとしているところでした。ベニートは、西インド諸島に海賊が埋めた膨大な財宝を眠っていることを知っていました。そして、逮捕されるのを避けるため、彼はラランパゴ号(Ralampago)でホーン岬を周り、中米沖の海域に向かっていました。

 彼らが南アメリカの西海岸を北上していたとき、新世界の財宝を満載したスペインのガレオン船を見つけ、これを拿捕しました。彼らはガレオン船に乗り移り、すべての宝物をラランパゴ号に移し替えました。

 この新たに奪い取った財宝の重みで、船を安全かつ迅速に操ることが難しくなっていました。周囲の海域には私掠船がハイエナのように海賊が略奪した宝物を狙っています。

 私掠船(しりゃくせん、英: privateer)とは、戦争状態にある国の政府から、その敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可、私掠免許を得た個人の船をいう。私掠免許を「海賊免許」と呼称する場合もあるが、厳密には私掠船は海賊ではないとされています。

 ベニートは、近くにあった孤島のココ島に財宝を一旦陸揚げし、それを隠すことにしました。

 ココ島に到着すると、彼らはそこが太平洋海域で新たに仕事をする上で拠点となる最適な場所であることを知りました。ココ島には、彼らの船を隠すことのできる入り江や彼ら自身を守るのに適した場所がありました。また、島には新鮮な水や十分な栄養をとるために必要な野生のブタもいました。

船首像
Photo: ⒸNekoshi 船首像

 彼らは、積荷の財宝を陸揚げし、新たな獲物を探しに再び出港していきました。

 その時、彼らは、たまたま出くわした漁船から、南米の独立戦争の波がメキシコにまで拡大していることを知りました。 

 ベニートらは、奪った財宝を守るため、スペインの動向を探り、独立戦争の状況を詳しく知るために、ヌエバ・エスパーニャ副王領の港町アカプルコ(現メキシコ)にベニートの最も信頼できる部下を送り込む計画を立てます。アカプルコに潜入したベニートの乗組員たちは酒場でスペインの船乗りたちと酒を飲み、メキシコ政府と富裕層の宝物が2隻の船に積み込まれ、スペインに向けて出港する準備をしているという情報を入手します。

 そこで、ベニート·ボニート船長は、アカプルコの港の外で待ち伏せする計画を立てます。案の定、それから6週間後、彼は二艘の船を発見します。彼はすぐさま最初の船の船腹に近づき、警告なしに大砲を発射し、ほぼ半数の乗組員を殺害しました。ベニートは、部下の一部をスペイン船に乗り移らせ船を制圧するように命じます。それから、彼が振り向くと、アカプルコ港に逃げ込もうと進路を変えている第二の船が目にとまります。風は港に戻るには逆風だったため、第2の船は逃げ切ることができず、直ぐに海賊に捕まってしまいました。ベニートは船の乗組員を皆殺しにします。

 奪った財宝を積み替えたラマンパゴ号は、一路、太平洋における新たな基地ココ島に向けて航海します。

 この時ベニートは、銀30万ポンド、4×3×2インチの金の延べ棒733本、黄金の柄の剣273本、その他大量の貴重な装身具を略奪し、ココ島に埋めたと伝えられています。

海賊の財宝1

トンプソン船長の財宝(『リマの財宝』)

 トンプソン船長にまつわる別の伝承です。

 ペルーの現首都リマの西部に位置するカヤオ(スペイン語: El Callao)の港を出たスペイン船は、トンプソンと彼の乗組員により襲撃され、乗っていたクルー6人が殺害されます。船はココ島に向けて航海し、その後、この島に積荷である財宝が隠されます。

 1821年、ウィリアム·トンプソン船長率いるメアリー・ディア号(Mary Dear)がココ島に到着したとき、ベニートは島をかなり整備していました。ベニートとウイリアムの両船長は、二人が力を合わせることで、より多くの船を略奪することができるだろうと考え、行動を共することになります。

 しかし、彼らの協力関係は、フリゲート艦エスピエグレ号(Espiegle) との戦いになった時、早くも終わりを告げます。
 戦いに破れたとき、ベニートは、拳銃で頭を撃ち抜き自殺します。生き残った乗組員たちはジャマイカに運ばれ、トンプソン船長と彼の一等航海士を除く乗組員全員が海賊行為により処刑されます。2人の生き残りは、ココ島に埋めた財宝のことを話し、自分たちの命と引き替えに、財宝がどこに隠されたのか彼らの看守に教える約束をすることで命を長らえることができました。一説には、トンプソン船長は乗組員と共に処刑されたという話も伝わっています。メアリー・ディア号の生き残りは二人とされていますが、その中にトンプソン船長がいたかどうかは諸説あるようです。

(ベニート・ボニートについても別の伝説があります。彼は、アメリカ大陸の西海岸を襲撃した伝説の海賊です。彼の経歴は、1818年あたりに海賊を始めたようです。一つの伝承では、彼は1821年に「ドラムヘッドの裁判(臨時裁判)」で絞首刑に処せられています。)

 ココ島に戻ると、2人の囚人は脱走し、ジャングルに逃げ込みました。スペイン人は島を封鎖し、数ヶ月の間、二人の海賊を捜しましたが、再び彼らを見つけることはできませんでした。

 さらに数ヶ月後、近くを通りかかった英国の捕鯨船が新鮮な水を求めてこの島に到着しました。トンプソンと一等航海士はこの船に助けられ、コスタリカ港町プンタレナス港に上陸します。この船によって救助された二人は財宝は持っていなかったと言われています。その後、この二人の男は病気になり、間も亡くなります。亡くなる間際になって、トンプソンは彼を助けたジョン・キーティングにココ島の宝物の隠し場所を示す地図を手渡しました。

ジョン·キーティングによる財宝探し

 そこでジョン·キーティングは、何人かの投資家を見つけて、ボーグ船長(Boag)を雇い、彼の船「エッジコーム号」で、ココ島に隠された海賊の財宝を探すことになりました。

 ここら辺から物語は少し雲行きが怪しくなってきます。伝説ではジョンとボーグ船長だけがココ島に上陸して、膨大な財宝を見つけたことだけを伝えています。

 別の伝説では、最初、ジョンとボーグ船長は、何も見つからなかったと言って投資家やエッジコーム号の乗組員を欺そうとしましたが、乗組員は彼らが金を持っているのを見つけ、彼らに財宝を見せるように要求しました。

 その後、ジョンとボーグ船長を先頭に、乗組員らによる発掘隊は島の中に入りさまよいますが、財宝がどこにあるかを知っていると言った二人は、あてもなくさまよう発掘隊を置き去りにして、ジャングルの中に姿を消えてしまいます。

 その後エッジコーム号は、ジョンとボーグ船長を残して島を離れます。置き去りにされた彼らは、別の船がちょうど沖合に停泊するまでの数ヶ月の間、島で暮らしました。

 ジョン・キーティングは、この時点で生存している唯一の人間でした。その後のボーグ船長についての情報はありません。キーティングは、碇泊していた船の船長に自分を連れて島を離れるよう頼みました。

 ジョン・キーティングは、セントジョンズ・ニューファンドランドに戻ると、十分な資金で事業を始めました。彼は死ぬまで贅沢に暮らすのに十分なお金を持っていました。この事実は、失われた財宝の伝説を裏付けるものであるとして、トレジャーハンターのココ島探索に拍車をかけることになります。

船着場
  Foto: Ⓒ Nekoshi, Cancún

アウグスト・ギスラーによる財宝探し

 この財宝について最も幅広く研究し、最も有名で、かつ長期的に活動したトレジャーハンターは、ドイツ人アウグスト・ギスラー(August Gissler)でした。

 ギスラーは、ジョン·キーティングが残した逸話と地図を頼りに、10年の間 (1897 年~1908年)、非常に多くの海賊の財宝伝説があるココ島に滞在し、埋もれた財宝を追い続けました。

 しかし、ギスラーは6枚の金貨を見つけたものの、現在価値で1.6億ドルとも見積もられる金、銀、宝石を発見することはありませんでした。

 ココ島で彼らの運を試した有名な人物の一覧には、アメリカ大統領フランクリン·D·ルーズベルト、レーシングカー・ドライバーのマルコム ・ キャンベル卿(Sir Malcolm Campbell)、アクションスターのエロール·フリン(Errol Flynn)などがいます。ルーズベルトも捜していた財宝だということです。この伝説の信憑性が高いことを伺い知ることができます。

 最近の発掘調査としては、2012年8月には、最新の技術を使ってココ島の探索が行われました。その結果、財宝が見つかったとの報道はないので、未だに海賊の財宝はココ島に眠っているようです。

お宝の重量について

 財宝で気になるのがその重さです。見つけたのはいいけれど、どうやって運び出せば良いんだろうか、心配になります。これを捕らぬ狸の皮算用とも言います。

 さて、隠された財宝のうち、重量物はなんと言っても「金」です。純金の比重は19.3もあります。小さなペットボトルを想像してみて下さい。同じ大きさで、約20倍も重いのです。500ml入りのペットボトルの中身が純金で満たされていると、その重さは10Kgになります。そして、気になるそのお値段は、ずばり、『5千万円』です。

 隠された財宝の金の延べ棒のサイズは、『4×3×2インチ』と伝えられています。センチに直すと、『10.16cm x 7.62cm x 5.08cm』、この1枚のインゴットの重さは7.5Kgです。そして、そのお値段は、1枚『4千万円』です。

 映画の海賊達が運んでいる金の延べ棒はレンガブロックくらいの大きさがあります。

 市販されている赤いレンガブロックは、21cm x 10cm x 6cm くらいの大きさです。重さは2.5kg。
 もし、この大きさの純金のインゴットであるならば、重さは24Kg程度です。

 今、金地金の価格が上昇しているので、計算すると大変な額になっています。

 もし、金の延べ棒を掘り当てたとしたら、欲張らずに、1枚だけ持ち帰りましょう。それでさえ、金を抱えたまま海に落ちれば浮かび上がるのは難しい。

【注釈】
注1)「Isla Nublar」を「イスラ・ヌーブラー」や「イスラ・ヌーブラル」と書いている方がいますが、管理人は違和感を覚えます。”Isla”はスペイン語なので、それに続く”Nublar”は、「ヌブラール」と書くべきです。「イスラ・ヌーブラー」と発音するには、「Núblar」とアクセント記号が必要になります。管理人は、外国語の日本語表記は発音が優先されると理解しているので、もし、日本語の長音記号を挿入するとすればアクセントの位置になる。さらに、もし、英語の発音を採用するのなら、外国語は「Nublar Island」と英語表記になります。どうでもよいような、ちょっとしたこだわりですが。

補足:執筆上のきまり

 今回の『海賊の財宝伝説に迫る』シリーズの記事では、たくさんの人名や地名がでてきます。参考としている文献・資料が英文とスペイン語文なので、表記の仕方をある程度統一する必要が生じました。

 特に困ったのが地名です。18世紀から19世紀にかけてのラテンアメリカはスペイン統治の時代が瓦解し、多くの国が独立していきます。そして、地名も変わってしまいます。さらに、イギリスの海賊・私掠船が活躍した時代で、公開されている資料では英語表記になっているものが多数あります。

 そこで、本記事では、地名は、当時と現在で変更になっている場合には併記、変更がない場合にはスペイン語表記としました。いちいち調べて確認するという作業をしています。

 人名は固有名詞なのですが、英文とスペイン語文で同じ表記になっているとは限らない。これについては、人名が固有名詞であることから、オリジナルに従った表記としました。ただし、人名が地名に使われている場合は、両言語を併記するようにした部分もあります。ただし、厳密にするととても読みにくくなるので、必要最小限の併記です。

 今回のシリーズで、括弧書きの横文字表記が多いことにお気づきの方もいると思います。

 そのようにしている理由は、今回のような内容の記事では、日本語表記だけでは、読者がとても困るからです。

 本サイトの記事を読み、カリブ・西インドの海賊が残した財宝に関心を持たれた読者の方も多いと思います。さらなる情報が欲しい。その時、日本語表記しかしていないと、外国語サイトの情報へのアクセスが著しく制限されてしまいます。

 そのため、今回の一連の記事では、キーワードとなる単語は外国語表記を併記するようにしています。
 実際に現地を見てみたい、あるいは、旅行でたまたま訪れたけど、そんな歴史があるんだぁ、と思っても、日本語表記だけでは、現地でとても苦労します。また、スペイン語圏内では英語表記は役に立ちません。

 管理人の過去の苦い経験に基づき、外国語表記が必須と思われるものに外国語を併記しています。これにより、文章が読みにくくなった部分もありますが、決して闇雲に記載しているわけではなく、上記のような意図で記載していることをご理解下さい。

 今回の記事を書くきっかけとなったのは、自宅の本棚である本を見つけたことでした。それは、かなり以前にコスタリカの書店で購入した一冊の本です。そのうちに読もうと思っていたのですが、ずっと本箱の隅に眠っていました。

『”Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
“El Enigma de la Isla Oak”, John Godwin, 1968』

 この本は、ページ数70ページの薄い本ですが、Amazonで調べると100ドル以上の結構よい値段が付いています。自宅の本に貼ってある価格シールを見ると1300コロンになっています。当時のドル換算レートを忘れてしまったので、この価格がどれほどなのか分かりません。この本はコスタリカで発刊されたもので、トレジャーハンターには人気があるようです。

 本を読んでみると、ネット上にはない情報がたくさんありました。このため、本シリーズはこの本をベースに、ネット上の英語・西語サイトの記事を参考にしながら書いています。

 前回の「皇女和宮」シリーズを書いたのと同じような理由なのですが、今回は特に、ネット上に公開されている”日本語”のほんのわずかな情報を捏ねくり回して推論する、というのは性に合わないというのが執筆理由です。

 「メディア・リテラシー」という言葉があります。意味は、「情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。(Wikipedia)」

 何らかの「底本」を誰かが引用すると、その引用だけが一人歩きしている。ネット上にはたくさんの情報があるように思いますが、実は「底本」に書かれていないと引用できないので、結局は「底本」の範囲の情報しかない。外国語の文献まで調べて記事を書く人はあまりいないようです。

 今回の海賊についての一連の記事では、日本語の文献や情報として紹介されていない海賊がたくさん出てきます。ココ島の財宝に関わる海賊たちをできるだけたくさん紹介できればと思います。

 本シリーズは、ラテンアメリカで活動した海賊たちについて私たちが関心を持った場合、さらに詳細に調べるときに必要な門戸の場所を提示できるように執筆しました。

 和宮のなぞの解明でも苦労したのですが、今回の海賊の財宝についても一筋縄ではいきません。
 まだ、執筆途中なのですが、とても勉強になりました。

 今回、改めて感じたのは、「歴史はつながっている」ということ。管理人が持っているバラバラの、そしてポイント的な知識が、歴史という次元でつながっているということを痛感しました。

 今回のシリーズは、いつ終わるのでしょうか? 管理人も見当が付きません。海賊の話は奥が深いです。 

【追記】
 ココ島の財宝は「オーク・アイランドの埋蔵金」よりも信憑性があります。(この財宝については、『呪われた島 オーク・アイランドと財宝の謎』)という記事を書きましたので、よろしかったらご覧下さい。

 トレジャーハンターにとって最大の悩みは資金不足であること。出資者を募って調査を始めますが、財宝が発見されないまま時間だけが過ぎていきます。発掘成果が何もないと出資を打ち切られてしまいます。そのため、証拠の『ねつ造』が行われます。 

 掘削した穴の底から少額の金貨が出土した。これが、さらに掘削を続けるようトレジャーハンターに許可を与える、投資家の動機付けになります。今度は、空洞が見つかった。次に、暗号のような記号が書かれた石盤が見つかる。さらに、深く掘り進みます。そして、気がつくと深さは50メートル。そのくらいになって初めて、欲に目の眩んだ投資家もおかしいことに気づきます。「埋めるのは良いけど、後でどうやって財宝を回収するの?」 財宝の埋蔵に必要な人数は延べ何人? 再発掘に必要な人数と必要日数は? 兵站はどうやった? 作業をした人間は皆殺しに殺して埋めてしまった? あまり深く埋めると掘り返すとき大変そうです。

参考文献

“Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
“El Enigma de la Isla Oak”, John Godwin, 1968
Pirate Tales of Costa Rica
SAIL-WORLD
Treasure of Lima』Wikipedia
『Benito Bonito』Wikipedia
Legends and Lore
Cocos Island』Wikipedia
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 (この記述は旧サイトのものです。)
 2015年6月12日、新しくカウンターを設置してから100万件のアクセスがありました。ついに100万件の大台を超え、とてもうれしいです。
 いつもアクセスして下さる方に感謝です m(_ _)m