海賊の財宝伝説に迫る(3):『リマの財宝』の伝承に迫る

ココ島の財宝伝説

 海賊が隠した財宝を追い続けるトレジャーハンターたちの間で知らぬ者はいないというほど有名な伝説が『リマの財宝』にまつわる話でしょう。

 今日は、この『リマの財宝』について詳しく書きたいと思います。

プロローグ

 『リマの財宝』とは、ペルーのリマから持ち出されたもので、それは当時の価値で12~16百万ドルと見積もられています。Wikipediaでは、現在の価値で「 £160 million」、日本円に換算すると約312億円( 194.872754 円/ポンド)と見積もっています。

 この財宝が有名な理由は、この財宝の存在が史実に基づくものであると確認されていることと、その財宝の価値が他を寄せ付けないほど抜きんでて巨額であることによります。

 この財宝がなぜ奪われたのか、そして、なぜ一つの船に、後に『リマの財宝』と呼ばれるほど膨大で貴重な宝物が積み込まれたのか、疑問が残ります。その解明には、当時の状況を理解する必要があります。順を追って見ていきましょう。

 中南米、カリブの島々は、コロンブスによる新大陸到達以来ずっとスペインが統治してきたような錯覚に陥りますが、実際には、ヨーロッパ諸国もこれらの植民地を常に狙っていました。

 この記事のテーマである『海賊』たちは、結局の所、ヨーロッパ諸国の覇権争いの中で生まれた者たちでした。海賊の出身国を見ると、イギリス人の海賊が有名ですが、数の上ではフランスの海賊の方がはるかに多かったようです。

 スペインとイギリス、スペインとオランダ、オランダとイギリス、イギリスとフランス・スペインという二国間あるいは三国間の敵対関係から、敵国の商船を襲う海賊行為が公然と認められる時代でした。

 1590年代にスペインは護送船団方式により、イギリスの私掠船攻撃を回避します。

 「海賊の黄金時代」は、Wikipediaを引用すると、1650年から1730年までをいい、次の3つの時代に分けられるそうです。
 1.バッカニーア時代(1650年 – 1680年頃) – イギリス人やフランス人の船乗りがジャマイカ島やトルトゥーガ島を拠点に、カリブ海や東太平洋を周航しスペイン植民地を攻撃した時代。

 2.海賊周航時代(Pirate Round, 1690年代) – バミューダ諸島や南北アメリカ大陸から長距離航路に乗り出し、インド洋と紅海のムスリム商船や東インド会社の船を襲った時代。

 3.スペイン継承戦争以降の時代(1716年 – 1726年) – スペイン継承戦争が終結して職を失ったイギリス人、アメリカ人の水夫や私掠船員が海賊に転じ、カリブ海、アメリカ大陸東岸部、アフリカ西岸を襲撃した時代。
 (Source: Wikipedia 「海賊の黄金時代」

 この区分では、第三期の黄金時代の終わりを1726年としています。これは、同年に処刑された海賊ウィリアム・フライの死をもって海賊の黄金時代の終焉となった、とする歴史家マーカス・レディカーの記述を根拠としているようです。

 さて、この後はどうなったのでしょうか。

 イギリスは、海軍力を強化し、もはや私掠船は無用の長物となり、海賊船の取り締まりを強化します。
 一方、1805年のトラファルガー沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊はイギリスに惨敗し、スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い、スペインは新大陸との交易にも支障をきたすようになります。翌1806年、ダックワース提督の率いる英艦隊がサンドミンゴの西仏艦隊を撃滅します。

 さらに、1808年、スペイン国王フェルナンド7世がナポレオンに幽閉されます。ナポレオンは、アメリカ大陸スペイン領内の自治化を促します。1814年にナポレオン戦争が終わりフェルナンド7世が復位すると、アメリカ大陸での独立運動が激化します。

 凋落の一途を辿るスペインに対し、勢力範囲を拡大し、ラテンアメリカを経済で支配しようとするイギリス。そして、ラテンアメリカの独立運動の嵐。『リマの財宝』が奪われた1820年は、このような時代でした。

南米におけるスペイン植民地の崩壊

 この物語は、1820年のスペイン領ペルーから始まります。今から約190年前の話です。

 3世紀の間、ペルーの歴史は、実質的に南米スペインの歴史でした。リマに置かれた副王は、ペルーの副王領だけでなく、南米大陸のほとんどすべてのスペイン総督を管理する権限を持っていました。

 17世紀まで、1535年に設置されたヌエバ・エスパーニャ副王領、1543年に設置されたペルー副王領の、2人の副王しかいませんでした。ヌエバ・エスパーニャ副王はメキシコシティを首都とし、メキシコ、及び中米、北米、カリブ海とフィリピン諸島のスペイン領を統治しました。一方のペルー副王はリマに首都を構え、南米のスペイン領全域を支配しました。南米のベネズエラがヌエバ・エスパーニャ副王の統治下に入るときもありました。新大陸でのスペイン植民地の拡大に従い、1717年には新たにヌエバ・グラナダ副王領(首都ボゴタ)、1776年にはリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都ブエノスアイレス)に副王が置かれました。(Wikipedia 「副王」)。

 1700年代に入り、スペインの南米領土は縮小の一途を辿ります。そして、スペインは、1824年12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる革命軍にアンデス高原のアヤクーチョの戦いで敗れます。これにより、スペインは南米のすべての植民地を失うことになります。

 この動きをGIFアニメでご覧下さい。赤がスペイン領土です。1700年には南米大陸の広範囲を占めていたスペイン植民地が、独立運動の激化により減少し、短期間に消滅していく様子が分かると思います。 


 Source: Wikipedia “History of South America“を加工

 ペルーとその従属する地域で採掘される貴金属を国王への分け前(税)としてスペインへ送ることは、副王の義務でもありました。現在のボリビアのポトシで見つかった銀鉱山が富の唯一の源でありませんでした。金は、アンデス山脈で、インカ族の時代から採掘されました。エメラルドは、コロンビアからリマに送られ、卓越したインカ職人の技術によって複雑なデザインにカットされました。

 植民地からスペインに向けて定期的に蓄積された財宝が船に積み込まれました。しかし、この巨大な財宝をスペインへ毎年輸送するのは常に危険に満ちていました。1805年のトラファルガー沖海戦で、スペイン艦隊はほとんどの艦船を失い、「護送船団方式」を維持できなくなっていました。

独立運動の嵐

 当時、西半球すべてが革命の機運で覆われていました。

 北アメリカにおける13のイギリス入植地の結束は、旧世界支配からの束縛を捨て去ることになります。そして、他の地域の独立運動家を勇気づける事例となりました。

 1820年に、革命軍指導者ホセ・デ・サン・マルティン(José de San Martín)の指揮の下の反乱軍とトーマス・ロード・コクラン提督(Admiral Thomas Lord Cochrane)指揮下の艦隊は、チリからペルーに侵入を開始しました。1年後に、サン・マルティンはリマに入城し、自分自身をペルーの「保護者」と宣言しました。

 リマの財宝についての伝承のいくつかは、シモン・ボリーバルがペルーに侵攻し、リマを掠奪したと伝えていますが、それは史実に反します。サン・マルティンがボリーバルとの共闘を申し出て、両者がグアヤキル(Santiago de Guayaquil)で初めて会見したのはリマ陥落後の1822年7月のことです。

 反逆軍は、陸ではスペイン軍を破るのに苦戦します。しかし、海上ではコクラン提督(ダンドナルド伯爵)の活躍により優位を保ちました。彼の艦隊は、 1817 年にチリ海軍に編入され、1819年から1823年にかけて、太平洋からスペイン艦隊を駆逐する作戦行動を展開しています。

 戦闘はその後も続きます。戦わずしてリマを去った無傷のスペイン王党派の軍は、一時的にリマの奪還に成功します。しかし、1824年のアヤクーチョの戦い(Ayecucho)で敗れ、スペイン軍は壊滅し、南アメリカでのスペインの支配は永遠に終わりを告げました。

 当時の歴史的な流れはこのようなものです。しかし、リマに住む当時の人たちにとって、このような歴史的展開になるとは全く想像もできないことでした。

 ここで、1820年に話を戻しましょう。

 スペインへの海路は危険にさらされ、時折閉鎖されたことから、リマの副王は、何年にもわたり、国王へ「納税」することができずにいました。この間にリマに蓄積された金塊は膨大な量で、最も信頼できる記録によれば、その一部は、サン・マルティンがペルーを侵略する前の11年間、蓄積されていたものでした。

 しかしながら、サン・マルティンの活躍によって達成された1818年のチリの独立にもかかわらず、ペルー副王は、反逆者のペルーへの侵入を真剣に受け止めませんでした。彼やリマの住民たちは、反逆者が副王の座を奪うことになるとは全く想像していませんでした。ここリマには、西半球におけるスペインの勢力が集中していたからです。チリ、ベネズエラ、そしてコロンビアにおける争いは、遠くの領域での周辺的な紛争であって、いづれそれは消滅すると、彼は自信をもって思っていました。

 特にサンマルティンと彼の軍が首都にあと50マイルに迫るまで、副王は、よき時代の幻想を回顧し、何ら心配していませんでした。

財宝をいかに輸送するか

 反乱軍が目前に迫る中、副王が最初に考えたのが、彼が保管している膨大な量の金銀財宝など貯蔵品の保全でした。

 同様の考えは、富かな教会の財産を管理しているリマの聖職者当局の心に浮かびました。当時、リマ市内には50あまりの教会がありました。そこには数え切れない程の金銀で装飾された宗教的調度品、彫像、金貨などがありました。もし、敵の軍隊がリマに侵入したとしたら、サン・マルティンとその軍隊は、スペイン王の財宝を保全しようなどと考えるはずもなく、ましてや、教会の財産などは論外でした。

 反乱軍が迫る中、恐怖と狂気が渦巻きます。急遽、真夜中に開かれた副王と聖職者との一連の会議を通して、対応策が話し合われました。何をすべきか? 財宝をリマの市中に隠すという考えは向こう見ずなものでした。誰かが、ほぼ間違いなくその所在を侵入者に密告します。副王と秘密評議会の聖職者たちに残された唯一の選択肢は、彼らの財宝を船に乗せ国外に持ち出すことでした。

 この計画では、最初に、リマから7マイルほど離れた積み出し港カリャオ(Callao)まですべての財宝を運ぶというものでした。副王が金銀財宝を保管していたリマ市内の倉庫は空になりました。また、教会は、純金と銀の装飾品が取り除かれて空になりました。リマの大聖堂の丸天井に設置された厚い金箔でさえ取り除かれました。

 財宝の移動は成功裏に終わりました。財宝は衣装箱と生皮のケースに詰められ、牛車に積み込まれ、厳重な警備の下にカリォオまで運ばれました。

トンプソン船長の登場

 幸運なことに(不運なことに)、港には、英国ブリストルの商船「メアリー・ディア号(Mary Dear)」が碇泊していました。この船の船長は、スコットランド出身のウイリアム・トンプソン(William Thompson)でした。

 スペイン人たちは、この船を使えば、突進してくる反乱軍から財宝を救うことができるかも知れないと考えました。イギリス国旗を掲げた英国商船「メアリー・ディア号」なら、反乱軍の海軍の目を欺くことができると考えたのでした。

 そこで、副王の側近がトンプソン船長に接触します。この気の利いた英国人紳士は副王の提案を受け入れました。

 この計画は、すべての財宝を「メアリー・ディア号」に積み込み、そして、トンプソン船長は直ぐに沖に出て、数ヶ月間、危険地帯を出るまで航海する、あるいは、危険が経過したという連絡を受けるまで航海するというものでした。連絡を受けたら直ちに、船はカヤオに戻り、宝物を降ろすか、あるいは、パナマのスペイン当局にそれを送り届けることができます。トンプソン船長は、ペルー人によく知られた男で、信頼がありました。彼は、過去三年間、この沿岸で商売をしていました。彼は非常に有利な条件で彼の船をチャーターすること、さらに、積荷の財宝を見張るために、二人の司祭と6名の副王が信頼できる男たちが同乗することに同意しました。

「リマの財宝」の旅立ち

 すべてが順調に進み、1820年8月のある夜、メアリー・ディア号はカヤオを出港しました。この船に積まれた財宝は、当時の価値で、12百万から60百万ドルと見積もられました。

 このように価値の幅が広い理由の一つには、元の目録を最初に見た歴史家に原因があります。すなわち、彼らのうちの1人は英ポンドで合計を報告しました。

 その後のライターは、ポンドをドルに変更し、より高い値段になりました。財宝の中で最も価値のある品物は、すぐに交換可能な金と銀の地金を除いて、金無垢で宝石が全身にちりばめられた等身大の聖母マリア像です。その重量は1トンを超えていました。

 このような話は、1821年8月19日付けのコクラン提督の日記によって確かめられるという事実がなければ、とてもフィクションのように聞こえるかもしれません。彼の日記には、『スペイン人たちは、今日、カリャオ(Callao)の要塞を救援、補強して、何百万ポンドもの金と銀貨を、何ら問題なく送り出した。それは、実際のところ、安全のために砦の中に保管されていたリマにあるすべての富である。』と書かれています。

海賊になったトンプソン船長

 メアリー・ディア号は自国の国旗を掲揚しました。このあたりの沿岸をパトロールしているコクラン提督(Cochrance)率いる反逆軍のスループ帆船の検閲を逃れるために、大きく迂回する航路を採る長期間の航海のためには、どこかで水や食料品など必需品を調達する必要がありました。

 出港して幾日か経った頃、今まで正直な英国紳士であった船長が豹変します。夜が明ける前に彼らは、スペイン人警備員6名と二人の司祭に襲いかかり、彼らの喉を切り裂き、サメが出没する海へ投げ捨てました。

 その後直ぐに、彼らは、財宝をどうするかという問題に直面しました。進路を南に向け、ホーン岬を回ってイギリスに戻るのはとても危険でした。そのような長旅に必要な食料や水などの必需品を積み込んでいなかったからです。さらに、コクラン提督の反乱軍のスループ帆船が沿岸を監視しています。

 中米かメキシコのどこかに碇泊するということは、スペイン人に捕らえられる恐れがあります。ポリネシア諸島を通り、アフリカを回ってイギリスに寄港する西周りの航海について議論が行われました。しかし、そのルートは馴染みのないものであり、水がなくなる前にどこかの島にたどり着けるかどうかは、かなり疑わしい状況でした。最後に、財宝は、できるだけ早く隠すということで意見は一致します。トンプソン船長は、ある解決策を持っていました。

宝島に財宝を隠す

 「ココ島だ」、トンプソン船長は言いました。そこは大きさがほどよい無人島で、中米の陸地からは数百マイル離れており、誰の干渉も受けずに財宝を隠すことができる。それから、1、2年後、独立運動が落ち着き、ほとぼりが冷めた頃、船長は、事前に決めたとおり他の船員と落ち合い、ココ島に戻り、誰にも邪魔されることなく隠した財宝を掘り出して、それをイギリスに持ち帰ることができます。

 乗組員たちはこの案に賛成します。そして、トンプソン船長は、メアリー・ディア号の舳先をパナマから350マイル離れたココ島に向けました。

 ココ島は、190年前とほとんど変わっていません。起伏に富んだ地形で、島全体がジャングルに覆われています。不規則な海岸線が深く入り込み、島の北側には3つの絵のように美しい湾であります。

 メアリー・ディア号はこれらの湾の一つに船を乗り入れ、投錨し、船の貴重な荷物の陸揚げを始めました。
 船の大型ボート(Long boat)は荷の重さで船縁数センチのあたりまで沈んでいます。船から浜辺まで財宝を陸揚げするのに、大型ボート一杯に積み込んでも11往復する必要がありました。それから、船長と乗組員が熟考の末に選んだ”ある場所”に財宝は隠されました。残ったごく少額のコインだけが乗組員に分配されました。

トンプソン船長、逮捕される

 この後直ぐに、メアリー・ディア号は、海岸沿いの小さな村から掠奪して物資の補給をしながら、ホーン岬を周る航路を帆走していました。そして、その時、スペインの戦艦に遭遇します。

 この時の状況について、いくつかの言い伝えがありますが、その時出現したスペイン艦隊は、コクランの艦隊との戦闘で消滅を免れたスペイン王党派艦隊の可能性が最も高いと考えられています。いずれにしろ、艦隊の司令官は、副王とトンプソンとの間の契約のことを知っていました。

 戦艦の艦長は、当然、カリャオで彼に託された宝物に何が起こったのか知ろうとします。しかし、トンプソン船長から満足のいく答えが全く得られなかったため、メアリー・ディア号の乗組員たちは全員逮捕され、パナマに連行されました。

 パナマに着くと直ぐに、トンプソン船長と彼の乗組員たちは、公海上での海賊行為と殺人の容疑で裁判にかけられました。

 短い裁判の結果は、想像通りのものでした。トンプソン船長以下全員に対して、即座に絞首刑の判決が言い渡されました。
 判決後直ちに、絞首刑の執行が始まりました。そして、刑の執行は、乗組員の身分の低い者から始めて、航海士、そして最後に、船長という順番で執りおこなわれました。

 下級乗組員の最後の一人が絞首台に送られたとき、残った二人の男、トンプソン船長と航海士は、官憲に対しある取引を持ちかけます。

 「もし、自分たちの命を助け、そして、自由を保証することができるのであれば、あなたたちスペイン人を盗まれた宝物を埋めた場所まで案内する。」

 死刑執行人の中にペルー人がいましたが、彼らは宝物を取り戻すことを願っていました。彼らは船長たちの申し出を承諾します。なぜなら、この申し出が、財宝を見つけ、それを回収することができる唯一の方法であると、誰もが知っていたからです。
 ここから先は諸説あります。小説家が、事実よりもむしろ伝説に飛びついて、この後に続く物語をどのようにゆがめたかを知るのは興味深いです。

 ひとつの伝承として、たとえば、次のようなものがあります。

 トンプソン船長と航海士は、スペイン人たちをガラパゴス島に連れて行き、無駄足を踏ませたあげく、逃げ出して、後に、英国の捕鯨船に拾われ、結局、無事に本国に到着します。

 しかし、実際に起こったのは次のようなことでした。

ココ島へ! そして、囚人の逃走

 トンプソン船長と航海士、そしてペルー副王当局が派遣した財宝発掘隊は、財宝を回収しにココ島へ向かいました。トンプソン船長と航海士は密談し、地理に詳しい当局関係者たちを、違う島に連れて行くなどして欺くという行為は愚かだという結論に達します。このため、彼らが実際に財宝を埋めたココ島に案内しました。

 ガラパゴスの位置とメアリー・ディア号が拿捕された海域から計算される時間と距離から考えて、ガラパゴスに財宝を隠したというストーリーをねつ造しても、容易にウソがばれるのは明らかでした。

 そして、南米あるいは中米の本土への陸揚げというようなことは、実際行われていなかったことはかなり明白でした。なぜなら、何人かの船乗りたちが、絞首刑になる前に、すでにココ島について白状していたからです。
 捜索隊がココ島に到着したとき、チャタム湾(Chatham Bay)に投錨しました。捜索隊は、二人の囚人を連れて、当局者と完全武装した6人の兵士とともにボートで浜辺に上陸します。

 浜辺に上陸すると、トンプソン船長と航海士は、距離と方角を測る身振りをしたかと思うと、突然走り出し、水際まで繁茂していたジャングルの中に逃げ込みました。

 警備兵たちは驚いて、藪に向けてマスケット銃を乱射しましたが、囚人たちに逃げられてしまいました。スペイン人たちは、その後数日間にわたり、逃げた囚人たちを入念に探し回りましたが、結局見つけることはできませんでした。ジャングルに逃げ込んで隠れている二人の男を捜し出すことは、現実的に不可能でした。それほどココ島のジャングルは樹木がうっそうと生い茂る場所でした。

 結局、捜索隊は失意のうちにココ島を離れ、パナマに帰港しました。そして、逃走した二人の囚人の捜索は二度と行われることはありませんでした。

エピローグ

 伝承は次のように伝えます。数ヶ月の間、二人はココ島に留まります。ココナッツや鳥の卵をとったり、魚や獣を捕まえて食料にしました。1922年、彼らは、新鮮な水を求めてやってきたイギリスの捕鯨船に救われ、無事にイギリスに戻りました。

 島での自分の存在を説明するために、トンプソンと航海士は、捕鯨船の船長に対し、島で難破したと言いました。論理的に矛盾がなかったため、船長からは更なる質問はありませんでした。

 トンプソンと航海士がココ島に滞在している間に、財宝が元の場所にそのまま隠されていることを確認しました。しかし、彼らは、賢明にも、財宝の一部だけでも持ち出そうとはしませんでした。もしそうしていれば、彼らを救助した捕鯨船の乗組員たちに島に置き去りにされた本当の理由が知られてしまいます。

 捕鯨船は、コスタリカの港町プンタレーナス港に入港し、そこに数日間碇泊しました。

 最も信頼できる言い伝えによれば、航海士は、そこで黄熱病に罹り死にました。

 ココ島の財宝にまつわるあらゆね伝説と伝承において、航海士はこの時を最後に話の舞台からいなくなります。そして、最後に、トンプソン船長だけが残ります。

 名前がただの一度も出てこないメアリー・ディア号の正体不明の航海士は、忘却の彼方に姿を消します。

 その名が明らかになるのは、・・・・・、前回の記事をご覧下さい。

Referencia

“Cocos Island – Old Pirates’ Haven”, Christopher Weston Knight, 1990, Costa Rica
 原書では、リマの財宝の船出を1821年8月としているが、この時点で既にリマが陥落していることから、他書の記述に従い1820年とした。
“El Enigma de la Isla Oak”, John Godwin, 1968
『海賊の掟』山田吉彦、新潮社、2006
『カリブ海の海賊たち(“PIRATES OF THE WEST INDIES”)』Clinton V. Black著、増田義郎訳。新潮選書、1990
Wikipedia:
  ”Piracy in the Caribbean”
  ”Viceroyalty of Peru”
  ”History of South America”
  ”Treasure of Lima”
  「海賊の黄金時代」
  「副王」