ちょっと歴史物をネットで調べていて、Wikipediaのあるページを開いたとき目にとまった不思議な記述。
それがこれです。
「一柳末延(ひとつやなぎ すえのぶ)」という播磨小野藩九代藩主 一柳末延の娘の記述に目が釘付になりました。
「娘(高木正坦正室、のち朽木之綱正室、のち斯波喜氏室)」と書かれています。
そうなのです。このお姫様は、三回も結婚しているのです。しかも、最初の夫と二番目の夫とは死別ではなく『離婚』です。
何なんだ、このお姫様は!
最初と二番目の結婚は、「正室」でした。「継室」ではありません。
普通の殿方であれば、このお姫様に俄然興味が湧くのではないでしょうか。
バツ2お姫様を追ってみる
歴史の史料には、女性の名前が載っているのは希です。ほとんど、「娘」とか「女」とかで名前は載せていません。これには理由があり、女性の名前は家族以外には教えないという風習があったようです。名前を教えるということは相手に対して身をゆだねることにも繋がるとても大切なもの。だから、名前が伝わっていないのです。もし、伝わっているとしても、本名ではなく、仮の名ばかりでしょう。
でも、この「バツ2」のお姫様の名前を知りたい!
ネット上の大抵のサイトにはWikiの記述程度しか書かれていないのですが、やっと見つけました。
お姫様の名前は「銛」です。何と呼ばれていたのでしょうか、「銛姫(もりひめ)」と呼ばれていたのかも知れません。以下、彼女のことを「銛姫」と表記します。
「銛姫」は、たぶん、1850年頃に生れ、1883年(明治16年)9月に亡くなっています。生れた年は不明なのですが、彼女の産んだ子供の生年が分っているので、18歳の時に出産したとして、1850年頃に生れたと推測しました。
見つからない情報から推測する
「銛姫」についての情報は、ネット上にはほぼ皆無です。彼女に関心を持つ奇特な人はいないのでしょう。
管理人は、珍しい奇特な人なのかも。
管理人が「銛姫」に関心を持った理由は、最初と二番目の結婚が「正室」であることでした。三度も結婚するなんて、とても珍しいと思います。結婚してすぐに夫と死別し、再婚するというケースはよくあります。しかし、「銛姫」のケースでは全く異なります。すべて離婚なのです。
正妻が離婚されるのは、世継を産めないから、という理由が多いと思います。しかし、「銛姫」は、最初の結婚で男子を出産しています。
このことが二番目の結婚につながっているのでしょう。石女(うまずめ)ではないと評価されたと言えそうです。
では、最初の結婚で、なぜ離縁されたのでしょうか。
不思議ですね。この不思議を紐解くに、ご主人たちのことをまず調べることにします。
「銛姫」の夫とは
「銛姫」の夫たちとはどのような人たちだったのでしょうか。何しろ史料がないので詳しいことは分りませんが、わずかばかりの史料によれば、次のようなことが分ります。
1.最初の夫:高木正坦(たかぎ まさひら、文政12年3月13日(1829年4月16日) – 明治24年(1891年)1月31日)
「銛姫」の最初の夫となるのは、河内丹南藩十二代藩主高木正坦です。彼は美作津山藩主・松平康哉の四男・松平維賢(これかた)の四男でした。
丹南藩と聞いてもピンと来ません。実石高は、大名のランキングでは249位の10,244石。
これに対し、「銛姫」の実家の小野藩はというと、ランキングは241位、10,780石で丹南藩とほぼ同じ。同格の大名家に嫁いだということでしょう。
1968年(慶応4年/明治元年)、二人の間に嫡男、正亨が生れます。しかし、正亨は堀田氏へ養子に出され堀田正亨(1868-1941)として堀田家を継ぐことになります。高木正坦の二番目の子供は正秋(1872年生れ)。たぶん、夭逝したのではないでしょうか。高木家は、世継がいないために養子の正善(1853-1920)が後を継ぐことになります。
と思ったら、「鍋島直虎(1856-1925)の子、直顕が、高木正秋の娘治代と結婚」という情報を見つけました。つまり、高木正坦の長男も次男も家を継がず、よそから養子をもらって家を継がせたようです。いろいろ複雑な事情が絡んでいるのでしょう。
この流れを見ると、「銛姫」の離婚の原因は浮気。誰の子か分らない正亨を養子に出し、他から養子をもらい家を継がせた。このように邪推することができそうです。
2.二番目の夫:朽木之綱(朽木主計助)
「銛姫」の二番目の夫となるのが4770石の旗本、朽木之綱です。朽木之綱は「銛姫」を正妻として迎えます。旗本の実石高では177番目の3363石(「旧大名所領、旗本知行の私的実高ランキング」)。
朽木家は幕末、次の三家があったようです。
- 20位に近江の朽木大和守(廓堂)6000石
- 177位 近江の朽木主計助(之綱)3400石
- 203位 河内の朽木家 朽木亀六(亀太郎)3000石
(上の4770石という数値は、明治元年5月、宮中日記による)
朽木家は、現在の滋賀県高島市朽木の土地を600年間もの長きにわたり治め、宮内庁に朽木文書が保管されているなど、由緒ある名家でした。家格は交代寄合。
しかし、「銛姫」はここでも離縁されてしまいます。たぶん、理由は、・・・。何なのでしょうか。
3.三番目の夫:斯波喜氏
「銛姫」の三番目の夫となるのが斯波喜氏。正室ではなく「室」としての結婚でした。斯波喜氏の長男、斯波與七郎は1865年生れなので「銛姫」の子供ではありません。次男の斯波次郎九郎(堀井次郎九郎:1870- )は「銛姫」の子供かも知れません。
これが限界
もっと深追いしたかったのですが、ネット上の情報を閲覧する限りではこれが限界です。
たぶん、滋賀県の歴史研究家の方はもっと詳しい情報をお持ちなのかも。
管理人が知っている限り、三度も結婚し、そのうち二回が正室で、この二回とも死別ではなく離婚だったというお姫様は他に知りません。
そもそも家と家との政略結婚が当り前なので、離婚など起きそうにないのですが、それが二度も起きたことに驚きました。
「銛姫」の生年が正しいとすると、亡くなったのは満33歳くらいです。
この記事では、「銛姫」の浮気が離婚の原因として仮説を立てていますが、実際のところは分りません。狂った性癖の夫に嫁いだ哀れなお姫様という可能性も否定できません。
しかし、(死別ではなく)三度の結婚というのはあまり聞かない話です。地元には様々な言伝えがあると思うのですが、ネット上で見つけることはできません。どなたか知っている方がいたらご教授ください。
以下、管理人の勝手な想像で書きます。
「銛姫」は、1850年(嘉永3年)に生れました。16歳の時、同じ格式の大名家である丹南藩藩主・高木正坦の正妻として嫁ぎます。そして、1868年(慶應4/明治元年)、18歳の時、嫡男の正亨を産みました。
明治維新の荒波の中、大名家の格式を維持できなくなった高木家では嫡男を養子に出し、「銛姫」とは離縁することとなります。
離婚は、明治4年7月14日の廃藩置県のすぐ後だったかも知れません。
この時「銛姫」は21歳。すぐに、元旗本の朽木之綱に嫁ぎます。しかし、朽木家の家計も苦しいものでした。明治3年1月、朽木村在留届を新政府に提出しますが、たくさんの家臣を抱えて家計は火の車。政府から御扶助金を受取り、やっと息をつけるという状況でした。朽木之綱の抱えていた兵力は銃隊100人。他の旗本と比較してもガチの武闘派旗本です((明治元年5月、宮中日記、在京高家・旗本の兵員)。
明治7年2月、古来から伝わる朽木家古文書の一部が宮内省に提出されます。たぶん、売却したのでしょう。そして、明治21年(1888)に内閣記録局が朽木家から1060余通の文書を購入しています。これらの文書は、平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されました。
「銛姫」を不憫に思った父・一柳末延は、「銛姫」と離縁するように朽木家に迫ります。朽木家はこの申出を受け、「銛姫」と離縁。
離縁後すぐに「銛姫」は、斯波喜氏に嫁ぎます。斯波喜氏は、元は「堀井」と称していましたが、喜氏の代から元々の「斯波」に戻していました。斯波家はかなり裕福だったと考えられます。明治には士族として登録されていますが、農業で成功したらしく、大正時代には高額納税者として叙勲されています。
「銛姫」が三度も結婚した理由は、徳川幕府と封建制度の終焉が原因だったのではないかと思います。
幕末、全国に300もあった藩のお殿様。そして旗本たちの生活は、維新後、とても苦しいものとなります。藩主、そして子息たちは、多かれ少なかれ、似たような境遇にあったのかも知れません。家格を重んじたくても経済基盤がなくてはそれは無理というもの。爵位をもらってもそれだけの格式を維持できないとして爵位を返納するということもあったようです。
今回の記事を書くことになった発端は、勝海舟のことを年表にまとめているとき、1891年(明治24)の死亡者が異様に多いと気づいたことでした。勝海舟の情報網がズタズタにされるほど海舟の故知の者たちがこの年に立て続けに亡くなっています。
そこで1891年の物故者を調べているときに、今回のお姫様の謎に出くわしました。
三度も結婚させられた「銛姫」は不幸だったのかどうかは分りません。女の幸せは「お金」次第なのかも。