東京スカイツリーが描かれていると話題になった歌川国芳の浮世絵のナゾに迫る

古代の謎・歴史ヒストリー

 東京スカイツリーができあがる前年に話題となった歌川国芳の浮世絵「東都三ツ股の図」に描かれた奇妙な『塔』。まるでスカイツリーのようだと注目を集めました。

 遠くに見える二つのタワーのようなものはいったい何なのでしょうか。

 多くのサイトでこの解明をしようとしているのですが、あまり良い結果が得られていないような気がします。

歌川国芳 東都三ツ股の図
Image: 歌川国芳 東都三ツ股の図

 そこで、本サイトでもこの謎に迫りたいと思います。「何を今さら」という気もしますが、やはり、気になります。

塔の高さは何メートルなのか

 まず、誰もやらないことからスタートしましょう。

 川の対岸に見える二つの塔はかなりの高さがあるようです。では、何メートル?  一つは「火の見櫓(やぐら)」のようです。もう一つの高い方の塔は井戸掘削用の櫓でしょうか。

 この高さはどのくらいあるのでしょうか。早速、計測してみます(笑)。

 当時火の見櫓の高さは何メートルだったのでしょうか。『火の見櫓図鑑』の『火の見櫓の歴史』を読むと、「最も格が高い定火消の火の見櫓で高さがおよそ五丈(約15m)、町火消の火の見櫓で三丈(約9m)以下とされていた」そうです。

 江戸時代、構造物の高さは厳しく制限されていました。逆の見方をすると、「規格化」されていたということ。

 浮世絵の火の見櫓は、二階建ての家の屋根よりもはるかに高いので、定火消の15mサイズの火の見櫓だったと考えられます。  

 これをベースにして、比例計算すると、問題の井戸櫓のような塔の高さを算出できます。

measuring-towers.png

 計測結果は、33.8m。ベースラインの位置の誤差を考慮すると、概ね35m(約15丈)程度だったと考えられます。東京スカイツリーって何メートルでしたっけ。さて、これは、井戸櫓なのでしょうか?

櫓の位置を特定する

 この櫓の位置については、他のサイトさんでも特定を試みているようです。でも、それを参考にせず、自分でやってみます。  歌川国芳がこの絵を描いたのは、絵のタイトルにもなっている『三ツ股』と呼ばれた隅田川の中州。制作は、1831年頃とされています。

 絵の右側に見えるのが永代橋。対岸が深川。深川には三つの橋が架かっており、北から順に上之橋、中之橋、下之橋と言いました。火の見櫓があった場所は、下之橋の北側のたもと。

 1858年の古地図と現在の地図をGoogle Earth上で重ね合わせてみます。猫の足跡マークが歌川国芳が描いた場所であると、管理人は考えます。


Source: Google Earth上に表示

 火の見櫓の位置は、「深川佐賀町惣絵図」、寛永3年(1850年)[1]を使っているのですが、これだと、上で書いたように「下之橋の北側のたも」になります。しかし、「東都三ツ股の図」では、下之橋の南側に火の見櫓が見えます。歌川国芳がこの絵を描いたとされる1831年から20年の間に火の見櫓の位置が変更になったのかも知れません。

高い櫓は一体何か?

 管理人は、井戸掘り櫓だと思います。深川は埋め立て地なので、浅井戸では海水が混じり飲用に適しません。このため、30m程度の深井戸を掘ったようです。深層の伏流水を狙う方法です。ちなみに地質学上のデータでは、この地域は、海の底ではなく陸地であった期間の方が長いそうです。

 井戸を掘ったことのある方は少ないと思いますが、管理人は学生の時、井戸掘りのアルバイトをしたことがあるので、やり方は何となく分かります。

 管理人が掘った井戸は、櫓を組み、足場材に使われる「単管パイプ」を錘(おもり)を落下させることで打ち込んでいく工法でした(「掘り抜き井戸」)。錘を高い位置から落下させ、その反動で「単管パイプ」を地中に差し込んでいきます。この作業はすべて人力で行い、機械は一切使いません。そのための学生アルバイトでした。この作業のためには、ある程度の高さの櫓が必要となります。

 しかし、35mもの高さの櫓が必要か、と問われれば、必要ない、と答えるでしょう。長さ2mものの単管パイプをつないゆくので、落下させる錘の高さは1.5~2メートルもあれば十分。というか、それより高いと打撃で管が壊れてしまいます。深川の地下で岩盤が出るとは考えられないので、必要な櫓の高さは10メートル以内。実際には5メートルといった所でしょう。

 この他に、『金棒掘り』といって、径2寸、長さ4間、重さ24貫(90キロ)の丸棒を継ぎ合わせ、それを上から落下させることで井戸を掘る工法もありましたが、その落下高さは2尺程度のものでした。このため、35mもの高い櫓は不要なのではないでしょうか。

 ところで、深さ30メートルまで掘った水をどうやって取水するのか? 水中ポンプがない時代です。昭和30年代まであった手押し井戸ポンプも当時はありませんし、このポンプで揚水できる深さは10メートルが限界です。では、どうやって取水したか分かりますか?

 この現場で、地下30メートルの地下水層にある水は被圧されており、放っておいても地下水位が上昇しするのではないでしょうか。被圧地下水がある場合、場所によっては、地表面から吹き出ることもありますが、深川では、地下2~3メートル程度の水位だったのではないかと思います。つまり、その深さまで井戸の直径を広げればよいのです。  

 では、なぜ、高い櫓が必要となったのか。

 真相は分かりませんが、硬い層にぶつかったのではないかと想像します。この層を破るために高い櫓を設置しなければならなくなった。または、水をたくさん必要だったため、打ち込む管の太さをかなり太いものにし、長尺ものを使った。この管は竹だったと思いますが、井戸が深いため、竹管を二重構造にしたのかも知れません。やはり、『金棒掘り』が使われたのでしょう。

 深川の地層で、たかだか30メートル程度で岩盤が出るわけがないので、この土地の埋め立ての材料に入っていた転石の可能性があります。それを高い櫓を使って力ずくで掘り抜いたというのが真相のように思います。仮設の櫓なので、幕府の規制はある程度免除されたのではないかと思います。そもそもの江戸町民の飲み水の供給は幕府の仕事だし。本所深川に水を供給していた本所上水が1722年に廃止されたまま復活しないし。

 しかし、あらためてこの浮世絵を見ると、当時としては想像を絶する高さの櫓です。このような工法を採用したのであれば、何らかの記録が残っていてもおかしくはない。そんな気もします。

この井戸はどこにあったのか

 深川は埋め立て地で、上水は通っていませんでした。隅田川を樋管で渡す技術がなかったからです。浅井戸を掘っても出てくるのは塩水だけ。このため住民は、洗濯などの生活用水には浅井戸の水を使い、飲料水は水売りから購入していたようです。

 ところで、この深川、そして井戸櫓が建っている場所である佐賀町には、『船橋屋(船橋屋織江)』という有名なお菓子屋がありました。ここの練羊羹はとてもおいしかったらしく、当時のさまざまな書物にも登場します。  

 和菓子づくりには、良質な水が大量に必要となります。『船橋屋』ではその水をどうやって確保していたのでしょうか。実は、『船橋屋』は自前の深井戸を持っていました。近所でも評判の美味しい水だったそうです。

 この『船橋屋』があった場所は、現在の住所では『東京都江東区佐賀2丁目9 番地』。この条件で、井戸の場所を特定します。

 この住所を古地図上に表示すると、歌川の浮世絵にある対岸の橋は、「上之橋」であったことが分かります。そして、火の見櫓の位置は、上之橋のたもとであると特定できます。上で示した位置よりもかなり北側となります。


Source: Google Earthに1858年古図を重ねて表示

 『船橋屋』屋敷跡の発掘調査の結果、100 平方メートルの範囲で4つの井戸跡が見つかっています。「東都三つ股の図」に見える井戸櫓の大きさから、当時としても大がかりな井戸掘りだったことが伺えます。近くで見つかった井戸跡では、最大直径1メートルの桶の底をくり抜き、それを逆さに積み重ねて井戸の壁にした遺構が確認されています。しかし、それが30m下まで続いている分けではないでしょう。直径1メートルの桶の中で30mもの深さの井戸を掘るのは無理です。そもそも、高い櫓を必要としないし。

 船橋屋の主人が、天保12年(1841)に出版した近世菓子製法書の最高峰といわれる『菓子話船橋(かしわふなばし)』という書物があります。甘味好きのためにお菓子の製法を被歴・伝授した本ですが、その中で、練羊羹の作り方も詳しく書いています。  

 この本の挿絵には、以下の絵が使われています。火の見櫓の位置が悩ましい。この挿絵では火の見櫓は上之橋の北側にあります。しかし、この位置だと浮世絵のようにはならない。つまり、この火の見櫓は、「東都三つ股の図」が描かれた1831年から『菓子話船橋』が出版された1841年までの10年の間に位置が変更になった、という結論になります。


 Image: 船橋屋織江、『菓子話船橋』、1841

 火の見櫓の位置が変わるのは、大火災があった場合でしょう。この期間に発生した大火災としては、天保5年2月7日(1834年3月16日)の『甲午火事』があります。深川についての被害は確認できませんでした。

 最後に、井戸櫓の高さを補正しておきます。上で示した33.8mという高さは、火の見櫓を基準にして、そこの真横にあった場合の高さになっています。実際には、歌川の位置から見て、井戸櫓は火の見櫓よりも108mあまり遠くにあります。これを勘案して、補正すると、井戸櫓の高さは、「43.18m」になります。現代で言えば、10階建てのビルと大体同じ高さです。40m以上の高さまで荷を吊り上げることのできるラフタークレーンもあるので、我々の目からは驚くほど高いとは感じないと思いますが、当時はとても目を惹く櫓だったと思います。

 以上で謎解き終了です。

 歌川国芳によって「東都三ツ股の図」が描かれたのが1831年のこと。

 最初は、両国回向院(えこういん)の相撲櫓かと思ったのですが、方向が違うし、いくらなんでも遠すぎる。回向院では、1781年(天明元年)以降、境内で勧進相撲が興行されました。このとき設置されていた相撲櫓は、歌川広重の「名所江戸百景」の『両ごく回向院元柳橋』に描かれており、かなり高い櫓だったようです。


Source: Wikipedia,回向院

 ついでに、江戸時代の井戸掘りについて補足します。

 江戸は埋め立て地に発達した都市であるため、水の確保が困難な都市でした。幕府は、多摩川などから上水を引いたりして飲料水の確保に努めますが、江戸の全ての地域に行き渡るほど豊かな水源ではなく、また、地形、高低差の関係で、水が乗らない地域もありました。そこで、庶民は井戸を掘りますが、通常の浅井戸では海水が混じり飲料水としては使えません。そこで、さらにその下にある帯水層めがけて深井戸を掘りました。

 当時は、竹を使って井戸掘りを行っていましたが、効率が悪く、1本の井戸を掘るのに膨大な費用がかかりました。

 ところが、江戸中期、大阪から新しい井戸掘りの技術が江戸に伝わります。「あおり堀り」です。

 これは、これまでの竹の掘削具を鉄製に代えたものです。高い櫓を組み、櫓の上から引き上げては落として、岩盤を砕き井戸を掘りました。

 これまでの井戸掘りでは200両かかったものが、「あおり堀り」を取り入れてからは3両2分で掘れたというのですから、まさに技術革新でした。

 このことは、江戸時代中期、文化11(1814)年刊行の随筆『塵塚談』(小川顕道著:1737-1816)に書かれています。

【出典】
1. 「資料館ノート 第112号、長屋と人々の暮らし④」、江東区深川江戸資料館、平成27年11月16日
2. 「水の歴史館 わが故郷の打抜師たち」、西条市
3. 「下町文化243号」、2008.9.25発行、江東区
4. 「資料館ノート 第113号」、平成28年1月16日発行、江東区深川資料館