キュラソーと杉原千畝と命のビザ

古代の謎・歴史ヒストリー

はじめに

今日は、杉原千畝について書きたいと思います。日本が世界に誇れる数少ない外交官。それが杉原千畝です。

杉原の命のビザについては、彼の子孫が代表を務める「NPO 杉原千畝 命のビザ」のホームページに次のように紹介されています。

「杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。」(「杉原千畝 命のビザ」)

来年、杉原千畝の誕生から120年の節目を迎えます。杉原の生誕地は岐阜県加茂郡八百津町。ここにイスラエルを中心とするユダヤ人観光客たちが押し寄せているそうです。

Wikipediaには、”誕生地”は岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)と記載されていますが、これは戸籍上のことで、実際の”生誕地”としては母親の実家のある『八百津町』が正解のようです。

管理人が杉原千畝のことを知ったのは10年以上前のことになります。猫サイトに『世界遺産 オランダ領キュラソー島と杉原千畝』(2008年05月27日)という記事をアップしています。

久しぶりにWikipediaの「杉原千畝」の項を読んでみたら、とても充実した内容になっており驚きました。Wikipediaの他言語版を調べてみても日本語版ほど充実した記載はありません。ヘブライ語版Wikipediaの記述は、要点を的確に押さえた中身の濃い記事になっていますが、記事のボリュームはそれほど多くはありません。近年、杉原についての研究が進んだことが日本語版の充実につながっているのでしょう。

日本語版Wikipediaはとても良くまとまっており、この項の執筆者の深い思い入れが感じられます。

2018年7月30日、BS-TBS、「にっぽん!歴史鑑定『杉原千畝・ユダヤ人を救った命のビザ』」という番組が放映されました。今回、この録画を改めて見直し、この記事を書くことにしました。

イスラエルの観光客とは

2018年12月3日配信、毎日新聞の『「杉原千畝」効果? イスラエル人観光客誘致に本腰』を読み、興味を引かれました。

「なぜかイスラエルからの宿泊客が多い」。

イスラエルの人口は、8,797,900人(2017年推計)と、日本と比べてかなり人口が少ない。ところが、彼らは世界中を旅していて、世界の到るところでイスラエルの観光客と遭遇する、という印象を管理人は持っています。

以前、海外旅行をしていたとき、外国人旅行者に「お国は?」と聞くと、「イスラエル」という返事が返ってきたことが何度かありました。この旅行者たちは皆、若者です。イスラエル人観光客を世界中でよく見かけると感じてしまいます。それも、普通の観光客が行かないような場所を好んで訪れる。その一つが日本では『八百津町』なのでしょう。

そう言えば、ウユニ塩湖で発生したジープ同士の正面衝突事故で、日本人観光客のジープと衝突したのがイスラエル人観光客の乗ったジープでした(過去記事参照)。

イスラエルの若者たちが世界を旅するのには理由があるようです。管理人が出会った若者たちは、兵役が終わり、除隊した記念に世界中を旅していると話していました。平和ぼけしている日本人には、命がけのイスラエルの兵役など想像することすら難しいでしょう。

杉原千畝と命のビザとは

杉原千畝と命のビザとはどのようなものだったのか。これについて、「にっぽん!歴史鑑定」の放送内容に従い見ていくことにしましょう。

番組では、杉原の生い立ちから晩年まで丁寧に説明がなされ、とても興味深く観ることができました。

番組で焦点を当てていたのは、① 杉原はいかにしてビザを発給し続けることができたのか、② なぜ、そこまでしてユダヤ人を救おうとしたのか、杉原の信念とは、③ ウラジオストックのもう一人の杉原。

それでは、順に観ていきましょう。以下、「にっぽん!歴史鑑定」の引用です。

杉原千畝の生い立ち

明治33年1月1日、杉原千畝は、岐阜県八百津町(やおつちょう)に生まれます。幼い頃から成績優秀で、父親からは将来医者になるよう言われていました。ところが、杉原が興味を持ったのは外国語。英語教師になりたいと思うようになります。18歳になった杉原は上京して早稲田大学高等師範部英語科に入学。本格的に英語の勉強を始めます。父の意向に背いての状況だったため、仕送りがなく、たちまち生活費に困ってしまいます。そんな時偶然目にした新聞で、外務省の官費留学生募集の公告を見つけます。

それは3年間の学費と留学先への渡航費が支給されるというもの。学費は最高で年2500円。当時大学卒の初任給がおよそ40円ですから、まさに破格の条件でした。しかし問題がありました。杉原が学んでいた英語専攻の募集がなかったのです。募集があったのは中国語、モンゴル語、ロシア語、スペイン語、タイ語、オランダ語、トルコ語。

それでも学費が必要な杉原はあきらめきれず、当時人気のスペイン語を選択。猛勉強の末、見事合格します。ところが、せっかく勉強したスペイン語ではなく、ロシア語を選ばされることになってしまいます。

いったいなぜなのか。その理由について、杉原に詳しい白石仁章さんは、「この年はたまたまスペイン語を希望する人が多く、反面、ロシアは革命の最中で大混乱の状態でしたので、ロシア語を希望する人が極端に少なかった。そのため、外務省の担当官はスペイン語の定員からあぶれたものをロシア語を選択するよう進めたのです。」と述べています。

「仕方ない。お金がもらえるのならロシア語でもいい。」

こうして、官費留学生として中国ハルビンの日露協会学校に入学。気持ちを切り替え、ロシア語の専門家になることを決意します。一から必死にロシア語を学んでいきました。そこで杉原は人生の指針となる教えをうけます。それはこの学校の創設者で外務大臣などを務めた後藤新平の言葉で、学校のモットーにもなったものでした。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう。」

外交官になる

日露協会学校を卒業した杉原は、外務省に正式に採用されます。ハルビン日本総領事館のロシア係りとして赴任。そこで、ソビエト政権に反対し亡命してきていた白系ロシア人と交流し、独自の情報網を作り上げていきました。そんな中、満州事変が起こり、昭和7年、満州国が建国されると、杉原は、ロシア語の能力を買われ、満州国外交部に引き抜かれます。

その満州国には懸案事項がありました。当時満州国がソ連と共同経営していた北満州鉄道を巡る問題です。この鉄道は両国の紛争の種になっていたこともあり、満州国がソ連の持つ経営権買い取る方向で交渉が始まりました。ソ連が提示した譲渡価格は当時の日本円で6億2500万円。これに対し満州国が提示した金額は5000万円。交渉は平行線を辿りました。その状況を打破したのが満州国川の一員として交渉に参加していた杉原です。杉原は交流を深めていた白系ロシア人からある重大な情報を手に入れます。「ソ連側が交渉のさなかであるにもかかわらず、北満鉄道が所蔵している車両を密かにソ連国内に運び出していた。そういう事実を彼は白系ロシア人の人脈から探り出した。」 ソ連の行為は不当だとして、杉原はそれを盾に交渉。譲渡金を1億4000万円まで値下げさせたことで、譲渡協定は結ばれました。

この功績により、杉原の外交官としての名声は国内外に一気に広まることになります。

同じ頃、ヨーロッパでは戦争の気運が高まりつつありました。ドイツではヒトラーが総統となり、全権を掌握して、再軍備へと動きます。ロシア革命後のソ連では、鋼鉄の人と呼ばれたスターリンが独裁体制を固め、ドイツの動きを警戒していました。そんな中、杉原の新たな赴任先が決まります。ヨーロッパのバルト三国の一つ、リトアニアです。

なぜ杉原はリトアニアに派遣されたのでしょうか。

当時の日本は、モンゴルと満州国との国境付近でノモンハン事件と呼ばれるソ連との武力衝突のさなかでした。

杉原がソ連に近いリトアニアに派遣されたのは、ノモンハン事件を外交的に解決するための情報を集める目的だったと言われています。こうして、昭和14年8月28日、杉原は家族と共にリトアニアのカウナスに着任。39歳でした。妻・幸子(ゆきこ)。長男弘樹、と次男千暁。次男はリトアニア赴任の前年に生まれたばかり。まだ小さい子供たちをお世話したのが、夫人の妹節子。なにせ、杉原一家がカウナスに到着したとき、カウナスには日本人がほとんど住んでいませんでした。

5人での暮らしがようやく落ち着いたのもつかの間、近隣諸国の情勢は混迷を深めていきます。カウナス到着からわずか四日後、ドイツ軍が隣の国ポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。さらに、ソ連も東からポーランドに攻め込む。リトアニア着任から9ヵ月が経った昭和15年6月。ソ連がリトアニアへの強引な進駐を開始。カウナスにあった各国の大使館や領事館に対し、8月25日を目処に閉鎖することを求めてきました。

命のビザ

その準備に追われていた7月18日の朝のことでした。

窓の外を見た杉原は驚きます。領事館の鉄柵の向こうに大勢の人が詰めかけていたからです。杉原は直ぐにその中の代表者を呼び、話を聞くことにします。すると、「我々はポーランドから逃げてきたユダヤ人です。どうか日本の通過ビザを交付していただきたい」と。

当時、ヨーロッパにいたユダヤ人はナチスドイツから迫害を受けていました。ユダヤ人迫害の歴史は古く、ユダヤ教徒がイエスキリストを救世主として認めなかったことに端を発します。それ以来、ユダヤ人は、キリスト教を冒涜する存在としてヨーロッパのキリスト教徒から疎まれるようになり、ヒトラーはその反ユダヤ主義を利用。明確な敵を作ることによって、ドイツ国民を一つにしようと考え、ユダヤ人を迫害します。迫害はドイツ国内に留まらず、占領したポーランドでも行われていました。そしてユダヤ人にとって、逃げ込んだリトアニアも安全とは言えませんでした。進駐してきたソ連のスターリンも彼らを敵視していたからです。「一刻も早く、遠く逃げたい」。

そんなユダヤ難民たちに最初に手をさしのべたのはカウナスにいたオランダ名誉領事のヤン・ズヴァルテンディクでした。ズヴァルテンディクは、南米にあるオランダ領のキュラソーやスリナムならビザがなくても入国できる。そう考え、独断で入国許可の証明書をユダヤ人たちに与えたのです。

逃げる先が決まったユダヤ難民たちでしたが、問題は、そこまでどうやって行くかでした。ヨーロッパを抜けていくルートは、ナチスドイツの脅威があり使えません。残された方法はシベリア鉄道を使って、東から行くルート。ただし、シベリア鉄道の終点ウラジオストックからは日本の通過ビザがないと海を渡ることができません。

そのため、多くのユダヤ難民がカウナスの日本領事館に押し寄せてきたのです。杉原は急いで日本の外務省に通過ビザ発給の許可を求める電報を打ちました。返ってきた答えは、「渡航先の入国許可や渡航費用を持たない者には通過ビザを発給してはならない。」

ビザ発給の規定を厳守するようにというのです。ユダヤ難民の中には、キュラソーやスリナム以外を希望する者もいて、彼らの多くは入国許可を持っていませんでした。それに、命からがら逃げてきたユダヤ人たちが十分な渡航費用を持っているわけもなく、杉原は悩みます。少量のビザ発給であれば、何とかすることもできるが、これだけ大量になると自分の裁量を超えている。問題が起これば、服務規程違反でクビになるかも知れない。

そんな時でした。連日のように領事館の前にたたずむ人たちを見た幼い長男が、あの人たちは何をしに来たの? パパが助けてあげるの? と聞きます。

杉原は腹をくくりました。そして、妻幸子にこう言うのです。「私は外務省の指示に背いて、領事の権限でビザを出すことにしようと思うが、いいだろうか」職務規程違反で外務省を辞めさせられるかも知れない。それでも私はやるべきなのだろうか。 妻は言います。「あとで私たちがどうなるか分かりませんけど、ぜひ、そうしてあげてください。」

杉原は、自分は外交官としての将来を失うだけだが、目の前のユダヤ人たちは命を失う。ならばそのユダヤ人たちを助けようと、心に決めました。

杉原が覚悟を決めた理由は他にもありました。一つは杉原がロシア語を学んだハルビンの日露協会学校で教わったアノ教えです。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう。」

更にもう一つは、リトアニアでこんな出会いがあったからでした。

リトアニアのカウナスに赴任した昭和14年(1939)の暮れのこと。杉原は一人のユダヤ人の少年ソリー・ガノールと出会います。当時11歳だったソリーはユダヤ教のお祭りで親や親戚からもらった小遣いをポーランドから逃れてきた難民救済のためにすべて寄付しました。ところが、見たかった映画のお金を残さなかったことをソリーはその後後悔していたのです。杉原はたまたま訪れたソリーの叔母の店でその話を聞きました。そして、わずかですが、銀貨をソリーに差し出し、こう言ったと言います。これで映画を見なさい。私のことを君のおじさんだと思ってくれればいいから。それ以来、ソリー一家と家族ぐるみのつきあいが始まったのです。この時、ソリーの家にはポーランドから逃げてきたユダヤ人がかくまわれていました。そして彼らは杉原にこんな身の上話をしたのです。ワルシャワでナチスドイツによる空襲を受け、妻と長女の命を奪われた。私は命からがら何とか次女と逃れてきたんだ。そうした厳しい状況を聴き、胸を痛めた杉原は、自分に何かできないかと考えていました。

だから杉原は、職を失う覚悟でビザを発給しようと決めたのです。彼らを助けたい。ただその一心で。

ビザ発給を決断!立ちふさがる難題とは

昭和15年7月末、杉原は独断で日本の通過ビザの発給を始めます。しかし、日本領事館閉鎖まで一ヶ月。時間は余りありませんでした。一人でも多く助けたい。そう考えていた杉原は、朝食を食べ終わると直ぐ執務室に入り、ビザの発給を求めるユダヤ人一人一人と面会し、ビザを発給していきました。

多い日には一日250通を超えるビザを、愛用の万年筆が折れるまで書き続けました。やがて、手だけではなく身体中が痛み出したと言います。それでも杉原は休みませんでした。

そんな中、杉原から最初のビザを受け取ったユダヤ人たちが日本へ着きます。

昭和15年8月16日、外務省から一通の電報(電報第22号)が届きます。そこは、カウナス領事館で発給された通過ビザを持参している者の中には行き先国の入国手続きが済んでいない者がいて上陸を許可できないので対応に苦慮している。行き先国の入国手続きを完了し十分な旅費を持っている者でなければ通過ビザを与えないように、との指示が書かれていました。

しかし、外務省からの指示通りに発給規定を遵守すれば、助けられないユダヤ人たちが大勢出てしまいます。そこで杉原は、このままビザの発給を続けるため、ある策を講じます。

通過ビザ発給を続けるための策とは?

それは、発給規定の厳守を命じた電報を一旦無視するというもの。外務省への返事を後回しにし、なんと、ビザを発給し続けたのです。そして、そこに、こんな発給条件を記したスタンプを押していきました。

「本ビザはウラジオストック乗船までに本邦以遠の行き先国入国許可取り付け並びに乗船券予約を完了すべきことを了知する旨申告せしめ交付せり」

つまり、リトアニアを出るときには、行き先国の入国許可手続きは済んでいないが、日本に入るまでには、入国許可を得させ、行き先国までの船の予約を済ませる。そういう条件付きで特別にビザを発給した。これもまた、外務省からの電報に対する杉原の対応策の一つでした。

こうして杉原は、領事館を閉鎖するまでの12日間、条件付きビザを発給し続けたのです。

そして、昭和15年8月28日、カウナスの日本領事館を閉鎖。その後、ようやく外務省へ電報の返事を送ります。ウラジオストックで日本行きの船に乗るまで行き先国の入国許可を取り付けること。また、日本から目的地までの乗船券の予約を済ませること、以上の実行を条件にビザを発給しています。

この条件付きでビザを発給したことを伝える杉原の電報(電報第67号)が外務省に送られたのは、条件付きの通過ビザをはじめにもらったユダヤ人たちが日本に渡ろうとするとき。そのビザが偽造ではなく、杉原が出した正式なものだと証明することにもなりました。

そして、この電報の最大のポイントが「ビザを発給しています」と現在進行形で書いたこと。

領事館を閉鎖した後の電報にもかかわらず、現在進行形を用いた杉原の意図とは何だったのか。

杉原千畝研究家の白石仁章氏は、外務省が杉原の電報に対して送り返した電報を確認すると、その意図が分かるのではないか、と言います。

外務省⇒杉原 昭和15年9月3日付け(電報第24号)「貴電のごとき取り扱いをなしたる避難民の後始末に窮しておる実情につき、以後は往電第22号の通り厳重取り扱いありたし。 」

この電報が届いたのは9月3日、すでに8月28日には領事館を閉鎖しているので、”これ以後は” ということは、杉原がそれまでに発給したビザはすべて有効なものとなったことを意味するのです。

もう一つ重要なポイントは、当時の日本の規則ではビザ発給にあたっては、十分な旅費を持っている、ということが必要とされていましたが、具体的にいくら以上とかいう金額を示す基準が定められていませんでした。このような規則の曖昧さも、杉原にとっては有利に働いたのではないか。

外務省外交史料館に残る史料によれば、ビザのリストに記された数は2140人分。通説では杉原が救ったユダヤ人は6000人とも言われていますが、その差は?

ビザは通常パスポートに貼りますが、当時は家族全員で一通のパスポート、父親のパスポートに配偶者や子供の名前も書かれる。これは、一通のビザが複数の命を救った例があることを示しています。

また、リストを見ると、領事館を閉鎖する日が近づくにつれ一日あたりのビザ発給数が極端に少なくなっています。

これは、ビザを求める人が増えたため、ビザの発給に専念し、数の記録を取ることができなかったからだと考えられます。

こうしたことから、リストに載っている人数よりも杉原が実際に助けたユダヤ人の数が多いと言われているのです。

実はこの時、杉原がユダヤ人を助けていることはナチス・ドイツに伝わっていました。近年の研究で、領事館で雇っていた事務員のドイツ系リトアニア人のヴォルフガング・グッチェがナチスのスパイだったことが分かっており、そこから伝わったのではと考えられています。

まさに、命を狙われてもおかしくない状況でユダヤ難民を救った杉原千畝。彼は後にこう語っています。

「全世界に隠然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまでビザを拒否しても構わないのか それが果たして国益に叶うことだというのか」

ユダヤ人を救うことは必ず将来の日本のためになる。命のビザはそうした強い信念のもと発給されたのです。

分かっているだけでも2140という膨大な数のビザを一ヶ月にわたり休むことなく発給し続けた杉原千畝。

昭和15年8月28日、リトアニア・カウナスの領事館を閉鎖した後は、ベルリンに向かいことになっていました。その汽車を待つ間、市内にあるホテル・メトロポリスに宿泊していたのですが、ユダヤ人たちがビザを求めてここにもやってきたのです。しかし、ビザの発給に必要な公印はすでにベルリンに送ってしまっていました。

そこで杉原は、ビザに準じる日本への渡航許可証を書くことに。公印はなくとも自分のサインだけで、発行できたからです。

杉原はホテルを立つその日まで、手書きで渡航許可書を発給し続けました。

しかし、とうとうリトアニアを発つ日がやってきました。すると、杉原を追うようにして駅にまでユダヤ人たちがやってきました。ドイツのベルリンに向かう汽車に乗った杉原は、その窓から身を乗り出すようにして、手渡されたパスポートに次々と渡航の許可を署名し続けたといいます。

発車の汽笛が鳴ると杉原は彼らにこう言いました。

「許してください。これ以上書くことはできません。皆さんのご無事を祈っています。」

この言葉を聞いたユダヤ人の一人は、「スギハラ! 私たちはあなたを忘れません! 後日かならず再会しましょう!」

そこにいるユダヤ人の誰もが杉原に深く感謝していました。

杉原が発給したビザにより、ユダヤ難民たちはウラジオストックから無事に船で日本の敦賀に上陸できました。ところが想定外の問題が発生します。

命のたすきをつなげ!

オランダ領のキュラソーやスリナム以外の一度はユダヤ人の入国の許可を出していた中南米の国々が入国を拒否するようになったのです。これを受け、外務省はウラジオストック総領事館に対して、渡航先が中南米諸国のユダヤ人たちは、日本に向かう船に乗せる許可を出さないように指示を出しました。

乗船許可を得られなければ、ユダヤ人たちはソ連によって拘束されてしまいます。そうなれば命の保証はありません。

ユダヤ人たちが命の危険にさらされると分かっていて追い返すことなどできない。そう言って、外務省の方針に異を唱えた人物がいました。ウラジオストック総領事代理根井三郎です。実は根井も杉原と同じ日露協会学校でロシア語を学んだ外交官。根井にとって杉原は外務省では先輩であり、日露協会学校では同窓生でした。当然根井もあの教えを大事にしていました。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう。」

根井は杉原からのバトンを受け取り、命のビザをつなぐため、外務省に電報でこう抗議しました。

日本の領事が出したビザを行き先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本が発行したビザの威信を損なうことになり面白くない。

根井は外務省の指示に従わずビザを持つすべてのユダヤ人を受け入れ敦賀港に向かわせたのです。

「戦時下で、人の命の重さ、尊さを忘れない男が二人。多くの命が救われたそのうらにはこうした命のビザのリレーがあったのですね」

敦賀港には、杉原千畝が発行した命のビザを手に、多くのユダヤ人たちがやってきました。

杉原のビザ発給はまだ終わっていなかった

リトアニアのカウナスからドイツのベルリンに着いた杉原は、ドイツ大使だった来栖三郎からチェコスロバキアのプラハにある日本総領事館の領事代理を務めるよう命じられました。

外務省外交史料館に杉原がプラハで発給したビザのリストが二通保管されています。そこには、合計120人の名前が記されており、そのほとんどがユダヤ人でした。

杉原がいたプラハはこのときドイツの占領下にあり、ユダヤ人への弾圧が強まっていました。その現状を見た杉原は、ユダヤ人たちを救いたいと、ここでもビザを発給していたのです。

このあと、ユダヤ人を強制的に住まわせるユダヤ人居住区ゲットーが築かれ、終戦までにおよそ14万人ものユダヤ人が収容されたといいます。そして、そこで働けなくなった者はアウシュビッツ強制収容所に送られ、毒ガスなどで命を奪われました。

昭和20年、第二次世界大戦が終結。ルーマニアのブカレストで終戦を迎えた杉原はシベリアに抑留され、その二年後、家族と共にシベリア鉄道で帰国。外務省を退職すると商社に勤め、再び海外生活を送るようになります。

そんな杉原を探している人たちがいました。杉原が発給したビザによって助けられたユダヤの人々です。

ところがどんなに探しても杉原を見つけ出すことができずにいました。

一説には、杉原は外国人が発音しやすいようようにと「チウネ」を「センポ」と呼ばせていたといわれており、ユダヤ人たちはセンポ・スギハラを探していたため見つからなかったというのです。

時は過ぎ、昭和43年、68歳になっていた杉原もまたユダヤ難民たちの消息が気になり調べ始めていました。そんな中、在日イスラエル大使館から杉原の元に連絡が入ります。訪ねていくとそこは杉原によって救われたユダヤ人が。リトアニア・カウナスの日本領事館でビザを求める嘆願をしにきたユダヤ人たちの代表ニシェリでした。かれはイスラエル大使館の参事官となっていたのです。28年ぶりの再会に二人は手を取り合い喜んだといいます。

それから17年がたった昭和60年、イスラエル政府は杉原の功績を讃え、日本人で唯一となる『諸国民の中の正義の人』という称号を杉原に与えました。そして、その翌年、昭和61年7月31日、杉原千畝は静かに息を引き取るのです。86年の人生でした。

杉原は生前こんなことを言っていました。

「私のしたことは外交官として間違ったことだったかも知れない。しかし、私は頼ってきた何千人もの人々を見殺しにすることはできなかった。たいしたことをしたわけではない。当然のことをしただけです。」

そして、杉原は、それが国益になると考えていました。そのとおり、2011年のあの大震災の際、イスラエルの人たちは多大な支援を日本に対して行ってくれました。

当時の駐日イスラエル大使はこう言っています。「これは恩返しなのです。我々は杉原千畝の恩を決して忘れることはありません。」

杉原が自らの命をかけ、つないでくれた国と国。人と人との絆。これも杉原が言っていた国益なのかも知れません。命のビザを発給し続けた杉原千畝。信念を貫き、国も人種も越え、まさに正義のために生きた人でした。

(以上、出典:「にっぽん!歴史鑑定」)

キュラソーってどこだ?

ユダヤ難民たちが避難先として目指したオランダ領キュラソー(Curaçao)とは。

ほとんどの日本人には馴染みのない島ですが、管理人はこの島に観光で行ったことがあります。

キュラソー島は、南米ベネズエラの直ぐ北に浮かぶ島々の一つ。

キュラソー島はオランダ領アンティルとして、長年オランダの統治下にあったのですが、オランダ領アンティルは、2010年10月10日に解体されました。現在キュラソー島は、オランダ国内の構成国で、2010年に付与された内政の完全自治の島となっています。

キュラソー島の中心(主都)ウィレムスタットの街並みは、1997年、ユネスコの世界遺産に登録されました。

管理人はオランダには行ったことはないのですが、ウィレムスタットの街並みを観ると、まさに”オランダ”、という感じです。港に面する建物はカラフルなペンキで塗られ、とても美しい! さすがは世界遺産、という感じです。


Photo: Wikipedia


Photo: なんでも保管庫


Photo: 現地で入手したパンフレット

観光地としては、キュラソーはあまりお薦めはできません。ビーチは人工の砂浜だし、世界遺産になっている街並み以外、これといった見所がない。浜辺が美しいのは、隣にあるアルバ島らしい。しかし、アルバ島まで足を伸ばすのはなかなか難しいと思います。そういえば、オランダから来た観光客の女性は、浜辺でスッポンポンになっていました。

この島に、イースターの頃に行ってはいけない。町のレストランはすべて閉店するため、ホテルの貧しい食事で我慢することになります。イースターにはすべての経済活動が停止するため、食材も手に入らず、ホテルのレストランの料理も惨憺たるもの。

杉原千畝が最初のビザを発行した当時は、ユダヤ難民はこのキュラソー島を目指すことになっていたようですが、そのうち状況が変わり、実際にキュラソーまで来たユダヤ人の数は、ほんの一部だけのようです。

外務省の失態

番組の中ではあまり触れられていないのですが、杉原がシベリア抑留から帰国したとき、外務省は杉原を解雇します。その理由は、外務省の指示を無視してビザを発給したことでした。しかし、表向きは依願退職の形式を採ったため、外務省は杉原の名誉回復について難色を示します。

ビザの発給を禁止するこの外務省の指示について、管理人は、軍部の圧力により、外務省がそのような公電を発出したのかと思っていたのですが、どうやら違うようです。

終戦後、帰国した杉原は、外務省により実質、解雇されてしまいます。行き場のなかったユダヤ難民。杉原がビザを発給しなければ、その多くが殺されていた可能性が高かったにも関わらず、ビザの発給を禁止する指示を出した外務省。

終戦後、外務省が杉原を解雇したのは、訓令に背いたから。ユダヤ人や国会議員の働きかけにより、やっと杉原の名誉回復にこぎ着けるのですが、これに最後まで抵抗したのが外務省でした。

そして、この反対したということすら誰も知らないふりをします。管理人は、杉原千畝のことを誇らしく思う反面、外務省の失態にはあきれてしまいます。

公務員試験を受けないで大使の権限で外交官になっている人たちもいました。昔の話ではなく、つい30、40年ほど前の話です。

おわりに

以前、『「謎のニセ札事件」のナゾの解明』という記事を書いたとき、リトアニアのリタス紙幣の贋札だったのではないかという推理をしました。その時、杉原千畝のことを書こうと思っていましたが、今日まで延び延びになっていました。

杉原が外務省を解雇されたことについて、大半の見解は、外務省の姿勢を攻撃するというもの。この記事もそのようなまとめ方になっています。

しかし、管理人の本音は、外務省などにしがみついているのではなく、民間で活躍できたのだから、それで良かったのではないか、というものです。

Wikipediaの執筆者などは、もし杉原が外務省に残っていたら、という幻想があるようですが、現実には、残ったとしても訓令違反という前科が災いして、辺地の公館を転々とすることになり、重要な職には就けなかったと思います。優秀な人間ほど足下をすくわれる。

杉原の行為は、多くのユダヤ難民の命を救いました。しかし、日本に対して何ら不利益なことはしていません。日本がユダヤ難民を受け入れたわけではなく、通過点となっただけなのです。

杉原千畝ばかりが有名になっていますが、根井三郎という外交官の存在なくしては杉原の命のビザは無駄なる可能性もありました。根井三郎は、戦後、法務省に勤務したようです。ロシア語のスキルを生かせるのは法務省公安調査庁あたりでしょうか。

杉原千畝の功績のユネスコ世界記憶遺産登録申請は、2017年10月、ユネスコにより却下されました。その理由は明かされていないようですが、たぶん、このような申請を認めていたら、ユネスコ世界記憶遺産はユダヤ関係の記憶遺産で埋め尽くされてしまうという危惧あったのでしょう。申請を通すためには、杉原千畝だけではなく、オランダ外交官など、ユダヤ難民が安全な国に落ち着くまでに「キュラソービザ」に関わった一連の関係者、書類をセットにして再申請するのが早道のように思います。

番組の中で、「白石仁章」という方が杉原千畝に詳しいとして紹介されています。

どこかで聞いた名前だと思ったら、『 プチャーチン 日本人が一番好きなロシア人』という本を書かれた方で、このサイトでも過去記事『幕末のロシア・フリゲート艦ディアナ号の謎に迫る』の中でこの本を紹介しています。

白石さんは現職の外務省職員。現職の方が書く書籍は珍しい。ノンキャリという面で杉原と重なる気がします。