以前、和宮の終焉の地、塔の澤に行った時の記事を書きました。(過去記事『和宮終焉の地、塔ノ沢に行ってきました』)
今回は、和宮誕生の場所を訪問しました。
和宮は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、仁孝天皇の第八皇女として生まれました。母は側室・橋本経子(観行院)。和宮が生まれたのは、母親の生家である橋本家。
この橋本家ってどこにあるんだろう?
調べてみたら、京都御所の東側にありました。
現地には案内板があり、そこには次のように書かれています。
『橋本家跡
1846(弘化三)年、孝明天皇の妹和宮親子内親王誕生の地といわれています。和宮は、橋本実久(さねひさ)の娘典侍(ないしのすけ)の経子(つねこ)を母として生まれ、14年間この橋本家で養育されました。公武合体政策を進めるため、当初の有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、14代将軍徳川家茂へ嫁ぐこととなりました。明治維新後、和宮は徳川慶喜の助命にも尽力しました。1877(明治十)年、療養先の箱根で没し、増上寺の徳川家茂の墓に並んで葬られました。』
橋本家の屋敷の正確な位置は?
橋本家の屋敷は、具体的にどこにあったのでしょうか。「橋本家跡」の看板があるのでその辺りだったとは思うのですが、本当かどうか確認したい!
まず、橋本家の敷地はどのような形状をしていて、具体的に、どこにあったのでしょうか。
古地図と重ね合わせてみます。古地図は縮尺が不正確かも知れないので、位置が不動と思われる現在の京都御所の門(御所南の建礼門、北の朔平門)を基準として、古地図の縮尺を調整しました。その結果が下の図です。
これによると、橋本邸は、御所の東南の建春門の正面辺りにあったのではないかと推察されます。
橋本家跡の標識よりもかなり南になります。ちょうど、「学習院発祥の地」とされる場所の辺りになります。
・・・と思っていたら、1837年作製の『内裏図』には、現在の表示版の位置に橋本邸があります。先祖代々、同じ地所に住んでいたとばっかり思っていたのですが違いました。まるで、ガラガラポンしたように、年代により公家の邸宅の配置が全く違います。火災などで焼失したため、このような配置換えが起きたのかも知れません。
橋本家の屋敷の面積は、計測してみると、ちょうど4,000平方メートル(約1200坪)。ちなみに、和宮が晩年に住んだ麻布のお屋敷の面積は4000坪で、実家よりもはるかに広い。
1200坪程度だと、更地になっていると広いとは感じません。公家の長屋住まいといった感じでしょうか。
近くには、土御門家の屋敷跡があります。土御門藤子は別の場所に住んでいたようです。