第37代斉明天皇(在位:655年2月14日 – 661年8月24日)が造ったとされる「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」。発掘調査の結果、この運河は幅10m、深さ1.3mの規模で、天理市石上町、天理東ICの少し西側にある砂岩の採掘場から、明日香村「岡」の「酒船石遺跡」まで至ると考えられているようです。
そこで気になるのが運河のルートです。どこにあったのか調べても分からないし、ネット上にも公開されていません。
そこで、とりあえず、下のようなルートを考えてみます。管理人は奈良県に行ったことがないので机上での考察となります。

奈良盆地の水系は、大和川の支流になっていて、基本的に、西に向かって流れて大阪湾に注ぎます。
下の地図の範囲では、南から北に流れ、西に向かうという感じです。

このダミールートを元に具体的なルートを考えてみようとしたら、基本的なことで躓きました。明日香村には川がない! もちろん一級河川の飛鳥川が流れていますが、その水量の少なさに驚きました。
昔の地形図で盆地内をよく見るとため池だらけ。つまり、この地域はもともと水に恵まれた地域ではない。とうとうと流れる河川のイメージとは異なることに気づきました。すると、運河を造っても流れる水がないことになります。
昔は現在より多くの水が流れていた、という考え方は間違っています。なぜ、明日香村は水不足なのか。それは、集水面積がとても小さいのが原因です。明日香村南部に広がる山地に降った降雨は吉野川(和歌山県に入ると紀ノ川)に流れ込み、明日香村にはあまり流れません。吉野川は中央構造線に沿って流れており、奈良県南部に降った雨は吉野川に流れ込み、明日香村にはほとんど流れません。
明日香村の北部を西に向かって流れる大和川に流入している河川は飛鳥川とわずかな河川のみです。
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現在の明日香村では、ある程度河川水がありますが、それは、近年の灌漑事業により明日香村より南を流れる吉野川をせき止めた下渕頭首工から分水嶺を越えて明日香村へ導水しているためです。古来より飛鳥の地を含む奈良盆地は流れる河川の集水域が狭いため、絶えず水不足に悩んでいたと考えられます。
結論を言えば、斉明天皇が巨大な「狂心渠」という人工運河を建設したとしても、そこを流れる水を確保することは不可能だったということです。
このように考えると、「飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)のすぐ西側、飛鳥東垣内遺跡では7世紀中ごろの南北大溝が見つかっている」とする発掘調査結果に疑問が生じます。この遺構の発掘調査により、幅10m、深さ1.3mの「狂心渠」跡が見つかったとされていますが、これは「狂心渠」の遺構ではないように感じます。流れる水の確保ができないのですから、こんな巨大な運河を造っても年中、水のない「枯れ運河」です。飛鳥の地では川は南から北に流れます。南からの河川流入がない限り、運河を造る意味がないのです。そして、南からの流入は中央構造線により遮断されています。つまり、飛鳥の地には水はほとんど流れてこない。酒船石のある「岡」の地点で運河に必要な水量を確保できるわけもないということです。
もう一つ気になったのが、ダミールートの始点である天理市の採石場からのルートです。ルート図のような路線は現実には不可能です。山を越えるからです。山を越えるルートであるならば、その痕跡が残っているはずですが、見つかっていなません。石材を乗せるための船着き場も見つかっていない。つまり、このダミールートは最初からあり得ないのです。
「狂心渠」とは、飛鳥川の部分改修か一部の路線変更をしたものであり、新規に大規模運河を建設したものではないと、管理人は考えます。

このような河川流量解析は流出解析を行うことで分かります。管理人はやりませんが。
それより気になるのが日本書紀皇極天皇条に書かれている天気の記述の異常とも言える多さです。この謎が解けるのであれば、流出解析をやってみようかと思います。計算自体は簡単なので、以前、Excelで作ったプログラムを公開していたのですが、古代の流出解析で問題となるのは流出係数です。これが皇極天皇条と関係してくるわけです。流出係数を単純に植生で決めて良いのか、降雨パターンがどの程度影響しているのか見極めたい。それには、近似地区のデータも必要となります。
流域面積は昔も今もほぼ同じなので、降雨と流出係数をどの値をとるのが妥当なのかシミュレーションする必要があります。まあ、ここまでやれば論文が1本書けそうですが。管理人が二の足を踏んでいる理由は、日本書紀皇極天皇条の気象に関する記述の解釈です。なぜ、何日に雨が降った、雷が鳴ったなどの単純な記述が日本書紀に記載されているのかの解釈です。そんなことは書かなくても良かったはずです。それなのに日本書紀にあえて記載された。それも皇極天皇条に集中して。この意味が管理人には分からないのです。この時期、降雨パターンに大きな変化があったと言うことなのでしょうか。もしそうであるのなら、どの程度の降雨量があれば、「狂心渠」を建設することができたというシミュレーションができます。管理人はやりませんが。
奈良盆地の流域面積はおおむね720㎢ 程度のようです。しかし、明日香村石舞台古墳のあたりを見れば分かるとおり、明日香村南部、つまり、河川の上流には流域がわずかしかありません。だから下渕頭首工が造られました。
石材運搬の最終目的地、酒船石のある「岡」地点より上流の流域面積が重要となります。そして、「岡」地点での河川流量がどれだけあるのかで、舟航が可能かどうかが決まります。この限られた流域面積という地形条件では、大規模な人工運河「狂心渠」を建設することはできないのです。

概念的な話しではなく、現実にどれだけの流量が期待できるのでしょうか。概算流出量を計算してみます。降雨データは2002年~2021年の20年間とします。酒船石より上流の飛鳥川の流域面積は、約21.5m2。この地形区分を山地90%、平地10%と想定します。すると、流出量は1/2年確率で約5.2m3/sです。10メートル幅の運河だと50cmの水位となり、石を積んだ船は運航できそうにありません。しかも、降水の全量が運河に流入することを想定した計算なので、飛鳥川など流域内の小河川には一切水は流れません。