平泉金色堂に眠る藤原氏四代のミイラの謎に迫る

ミステリー

最初に書きますが、この記事は執筆途中のものです。書きかけですが、都合によりアップします。

はじめに

 世界遺産平泉の中尊寺金色堂。そこに眠る3体のミイラと1体の首級。

 平安時代末期、約100年にわたり栄華を極めた奥州平泉。その象徴的な建物が、金色に輝く中尊寺金色堂でしょう。

 この金色堂の須弥壇には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体が安置されています。そして、奥州藤原氏四代当主である泰衡の首級も安置されています。

 このミイラには多くの謎があり、未だその謎は解明されていません。

 今日は、この謎に迫りたいと思います。もちろん、謎の解明はムリなので、管理人の独自の分析を書きたいと思います。

1950年の学術調査

 金色堂に眠る三体のミイラと一体の首級。これには以前から多くの謎がありました。

 しかし、その謎は学術調査により解決されました、と書きたいところですが、まったく解決していないのです。学術調査が行われたのが昭和25年(1950年)なので、当時の科学的な調査レベルは現代から見れば決して高くはない。しかし、調査に参加したメンバーは当時の最高レベルの学者たちで、これは、現代から見ても決して引けをとらない。そうそうたるメンバーにより調査がなされました。

 

1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施された。調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎、地元岩手県の郷土史における先駆者として知られた社会経済史学者の森嘉兵衛などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。調査の結果は『中尊寺と藤原四代』という報告書にまとめられている。中尊寺金色堂、Wikipedia

 この学者チームでさえ解き明かせなかった謎があります。金色堂に眠るミイラの謎とは何なのでしょうか。

金色堂学術調査の経緯

 中尊寺金色堂に眠る四体のミイラ。今では誰もが知っていることですが、実際は、昭和25年まで誰も知らなかったのです。

 金色堂に奥州藤原氏のミイラが安置されていることは中尊寺の極秘事項でした。戦後直ぐの昭和25年に学術調査で金色堂の須弥壇の下に安置されているお棺が開かれるまで、ミイラになった藤原氏の遺体があることなど当時の人は誰も知らなかったのです。

 確かに、噂としてはあったようですが、当時の学者たちはそれを誰も信じていなかったのです。江戸時代にミイラを観たという記録(『奥羽観蹟聞老志』6) 1719年完成の仙台藩地誌)、『平泉雑記』(相原友直著)1699年頃があるものの、その信憑性は大いに疑われており、それに関心を示す者など誰もいなかったのです。

 学者先生はなぜ、「そんなものあるはずがない」と考えたのでしょうか。

 それは、高温多湿な日本にミイラ化した遺体など残っているはずかない、という”当たり前”の発想です。即身成仏した僧侶の遺体がミイラ化されている事例はあるものの、それは、通常とは全く異なる亡くなり方をしたからです。断食により、身体から脂肪分を極度にそぎ落とし、骨と皮ばかりになっていた僧侶がミイラ化することはあるでしょうが、通常の生活をしていた人がミイラ化する。それも、三体揃ってミイラ化するなど常識的に考えてあり得ないことだったからです。

 もし、そんなこともあり得るかも知れないという仮説を立てるなら、そのようなミイラの存在を示す必要がある。これまで、数億もの日本人が死亡しているのに、ミイラ化した遺体の発見は、特殊な例を除いて皆無です。

 ところが、昭和24年、中尊寺は金色堂内に藤原三代および秀衡の息子の 忠衡 の首が実在することを公表します。中尊寺の意図は、金色堂とそこに祀られている藤原氏のご遺体の永久保存にありました。金色堂、それを覆う覆堂、そして、四体のミイラの状態が危機的状況にあると危惧を抱いた上での公表だったと考えられます。

 これに目を付けたのが、朝日新聞社でした。朝日新聞社は、まさにこの年(1949年)、周年事業(70周年)として、「朝日新聞文化事業団」を設立しました。この事業団の目玉となる最初のビッグプロジェクトがこの金色堂に眠る奥州藤原氏三代(プラス1代)の遺体の学術調査となります。

 事業団からの打診を受け入れた中尊寺は、共同で、遺体の保存処置のための開棺調査を行うことになります。

金色堂に眠るミイラの謎とは?

 金色堂のミイラの謎は、主に次のようなものです。

  1. なぜ、ミイラになったのか? 人工的にミイラにしたのか自然にミイラ化したのか?
  2. 首は誰のものか? 忠衡か泰衡か?
  3. そもそも、なぜ、ミイラが金色堂に埋葬されているのか?

 金色堂のミイラにまつわる謎はだいたいこんな所ではないでしょうか。

 調査団のメンバーだった津田左右吉氏は以下の五点を疑問としてあげています。

「中尊寺のミイラについての諸問題」最終報告、津田左右吉、1955
1. 遺体の同定について
2. 藤原四代の遺体は自然ミイラか人工ミイラか
3. 奥州藤原氏の出自
4. エミシの人種的系統
5. 藤原四代の遺体にみられる「貴族化」現象

 上述した「首は誰のものか? 忠衡か泰衡か?」を理解するには、奥州藤原氏の家系図を見た方が手っ取り早い。

なぜ、ミイラになったのか? 人工的?、自然か?

 1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺と朝日新聞文化事業団によって、中尊寺金色堂の須弥壇の棺が開かれ、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われました。

 まず、この年代に着目頂きたい。戦後、わずか5年しか経っていません。当時の日本は進駐軍の支配下にありました。

1951年(昭和26年)9月8日、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書上では正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、その講和条約の発効日まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。 連合国軍占領下の日本、Wikipedia

 現代から見ると、「何でそんな時期に?」と思いますが、文化財の消失が相次いだ時期でもありました。むしろ、この時の調査があったからこそ、現在、我々が金色堂を見ることができると言えるかも知れません。さらに、中尊寺が動いた理由は、戦後の農地改革が大きく影響しています。中尊寺は農地改革により、所有していた財源のほとんどを失ってしまいます。

 この調査が行われるまで、金色堂にミイラが安置されていることは中尊寺の極秘事項だったようです。

 もし、この調査がなかったなら、金色堂が修復されることはなかったでしょう。膨大な国家予算を使い、金色堂を甦らせるという国家プロジェクトもなかったでしょう。現在では金色堂の復元は不可能なのです。技術者がもういないので。

 金色堂にある三つの須弥壇の中から、三体のミイラと一体の首級が見つかりました。

 三体のミイラは、中尊寺に伝わる伝承では、中央が初代清衡、向かって右奥が二代基衡、向かって左奧が三代秀衡とされてきました。しかし、この学術調査の結果、これが覆ります。向かって右奥が三代秀衡、向かって左奧が二代基衡という結論に到ったのです。

 その根拠は?

 実は、これがよく分からない。万人が納得できる説明になっていない。そこで、少し詳しく見ていくことにしましょう。

「建築学的にみると中央、向かって左、同右の順(につくられた)と思われるという。この点について石田茂作は建築様式から、毛利登は棺内の遺品から、長谷部言人氏は遺体の状況から考察を加え、須弥壇に向かって左が基衡壇、右が秀衡壇であろうと推測している。」遺体の同定について、5), p.13参照
秀衡の遺体とされるもの


Image: 秀衡とされる遺体。金色に輝く内外金箔貼りの棺が異彩を放つ。

昭和25年の学術調査とその検証

 昭和25年に行われた学術調査の参加者は誰だったのでしょうか。調査結果は報告書にまとめられています。それを見ると、メンバーが分かります。

  • 藤原四代遺体の科学的研究の意義(柴田雄次)[東京都立大学]
  • 遺体に関する諸問題(長谷部言人)[東北大学]
  •  遺体の人類学的観察(鈴木 尚)[東京大学] 
  • 藤原四代の血液型・指紋・歯(古畑種基)[東京大学]
  • レントゲン学的にみた藤原四代(足澤三之介)[岩手医科大学]
  • 藤原四代の遺体と微生物(大槻虎男)[お茶ノ水女子大学]
  • 中尊寺のミイラとともにあった植物のタネ(大賀一郎)[関東学院大学]
  • 鼠害と虫害について(森 八郎)[慶応大学]
  • 理化学的調査(朝比奈貞一)[国立科学博物館]
  • 遺体の保存処置についての一考察(櫻井高景)[東京大学]
  • 金色堂の設計と遺体の安置(石田茂作)[国立博物館]
  • 副葬品について(毛利 登)[国立博物館]
  • 平泉の文化と中尊寺(津田左右吉)
  • 奥州藤原氏と蝦夷の文化(田澤金吾)[国立博物館]
  • 中尊寺遺体の文献的考證(森 嘉兵衛)[岩手大学]
  • 北方の王者(大佛次郎)[作家]

 報告書執筆者のことを少し詳しく調べましょう。出身大学と調査時点での年齢が分かると、調査団の力関係を推測することができます。

 報告書執筆者の生没年・調査時年齢・調査時肩書き・専門・出身大学

  1. 柴田雄次(1882年1月28日 – 1980年1月28日)【調査時点】68歳、東京都立大学初代総長(東京帝国大学理学部教授、東京大学名誉教授、東京帝国大学卒)
  2. 長谷部言人(1882年6月10日 – 1969年12月3日)【調査時点】67歳、東北大名誉教授、人類学者、解剖学者(東大理学部教授、東京帝国大学卒)
  3. 鈴木 尚(1912年3月24日 – 2004年10月1日)【調査時点】36歳、東京大学理学部助教授(長谷部言人グループ)
  4. 古畑種基(1891年6月15日 – 1975年5月6日)【調査時点】58歳、東京大学医学部教授(東京帝国大学(医科))
  5. 足澤三之介(1907年- ?)【調査時点】43歳、岩手医科大学放射線科教授(レントゲン撮影・解析)(東京帝国大学医学部卒)
  6. 大槻虎男、(1902年11月1日 – 1995年1月18日)【調査時点】47歳、お茶の水女子大学教授、微生物学者,植物生化学者(東京帝大理学部植物学科卒)
  7. 大賀一郎(1883年4月28日 – 1965年6月15日)【調査時点】66歳、関東学院大学、植物学(東京帝国大学理学部卒)
  8. 森 八郎(1911年5月7日 – 1988.7.1)【調査時点】38歳、慶應義塾工学部助教授、害虫学(東京帝国大学農学部卒)
  9.  朝比奈貞一(1901 – 1978)【調査時点】48歳、団長、国立科学博物館職員 、生物学(東京帝国大学化学科卒)
  10. 櫻井高景(1916 ? – ?)【調査時点】33歳、東京大学農学部林学科助教授、合成樹脂(東京帝国大学工学部応用化学科卒)
  11. 石田茂作(1894年11月10日 – 1977年8月10日)【調査時点】55歳、東京国立博物館陳列課長、仏教考古学(東京高等師範学校卒)
  12. 毛利 登(1902年12月14日 – 1987年1月20日)【調査時点】47歳、東京国立文化財研究所修理技術研究室長、美術史(東京美術学校卒)
  13. 津田左右吉(1873年10月3日 – 1961年12月4日)【調査時点】76歳、???、東洋史学(東京専門学校卒)
  14. 田澤金吾(1892年1月12日 – 1952年9月26日)【調査時点】58歳、国立博物館調査課:文化財専門審議会専門委員(早稲田大学理工学科)
  15. 森 嘉兵衛(1903年6月15日 – 1981年4月8日)【調査時点】46歳、岩手大学教授、歴史学(法政大学経済学部)
  16. 大佛次郎(1897年10月9日 – 1973年4月30日)【調査時点】52歳、歴史小説・ノンフィクション作家(東京帝国大学法学部政治学科)

注)生年?は卒業年より推定したもの。

 ここで着目すべきは、遺体の鑑定を行ったのは誰? ということです。なんと、鈴木尚先生じゃありませんか。まさか、ここで再びお名前を拝見するとは思ってもいなかったので感激です!

 藤原氏四代の遺体を人類学的に調査したのは、東京大学理学部人類学教室助教授(当時)の鈴木尚氏でした。

 鈴木尚って誰よ?  えっ、知らないの? 和宮様のお墓を掘り返して、遺体の鑑定を行った東大の先生ですよ。本サイトでもご紹介しています。

 この金色堂学術調査は、東大学閥で固められたメンバー構成のようです。上のリストを見ると、確かにほとんどの先生方が東大出身者です。それ自体は悪いことではないのですが、問題となるのは、結論が一人の有力者(権威者)によって左右されてしまう恐れがあること。鈴木尚氏は長谷部言人氏のグループに所属する研究者だったようです。

 須弥壇の左右に埋葬されている遺体が誰のものかという重要な判定を、明確な根拠を示すことなく、伝承とは逆の判定にしてしまった。これは、この分野の専門家が指摘していることで、素人の歴史家の指摘ではありません。

 そこで、これについて掘り下げて調べてみました。

 そもそも中尊寺に伝わる伝承とは何なのでしょうか。その出典は?

 これは、明確に確認できます。

 鎌倉時代後期(14世紀初頭)に書かれたと考えられている「中尊寺経蔵文書」に「金色堂は三間四面、中檀は阿弥陀の三尊、清衡の建立なり、左の檀は基衡の建立なり、右の檀は本尊同じ、秀衡の建立なり」という記述があります。問題は、左の壇、右の壇とは、どこから見てのことなのか。この答えは明確で、「本尊から見て」と考えるというものです。

 左大臣・右大臣の並び方も、下々の者から見ての右左ではなく、天皇から見てという視点です。このため、「中尊寺経蔵文書」の記述は、拝観する人から見てではなく、本尊から見てという解釈が用いられました。これは、平安時代末期から鎌倉時代という時代背景を考えれば妥当な推論と言えるものでした。しかし、調査により、これが覆ります。

 この時のメンバーは既に鬼籍に入られているのですが、調査に参加したF氏のご遺族の話として、「M博士のツルの一声で決まった」と生前、F氏が話していたそうです。3)

 メンバーリストを見ると、F氏とは古畑氏でしょう。すると、M博士とは一体誰なのか。Mのイニシャルになる名字を持つのは、毛利登、森八郎、森嘉兵衛のお三方がいます。「博士」のタイトルを持っているのは、森八郎氏(農学博士1952)と森嘉兵衛氏(経済学1951)ですが、学術調査時点(1950年)では博士号を持っていませんね。職歴や年齢から考えると、M氏とは、文部省から技官として派遣された毛利登氏のことではないかと思います。

 古畑氏は調査結果・報告書の記述に不満だったようですが、管理人から見ると、古畑氏が主張した人工ミイラ説の方がおかしいと感じます。

 まあ、ツルの一声も結果が間違っていなければ、結果オーライなのですが、本当のところはどうなのでしょうか。

 大体が、ここら辺までの情報はネットで調べれば簡単に見つかります。Wikipediaでさえ、「上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もある」と書いてあります。

須弥壇配置の謎は解決している

 今から70年も前の報告書を根拠に話を進めるのはいかがなものかと思います。実は、この問題はとっくに解決しているのです。Wikipediaの執筆者が勉強不足ということでしょう。

  1950年の調査の際、遺体に固着した絹をはがしたものや、棺の内貼り、枕などの絹製品が保存されています。三つの棺の中にあった絹の13C固体高分解能NMRスペクトルを調べた結果、学術調査団の結論は誤りで、伝承の方が正しかったという結論が得られています。  3)

 これは2007年の論文(寄稿文?)に書かれているのですが、とても面白い文章になっています。関心のある方は、脚注の出典をお読み下さい。

 執筆者の中條利一郎氏は、東京工業大学名誉教授・帝京科学大学名誉教授・中国科学院化学研究所名誉教授・東京文化財研究所客員研究員。東京工業大学の教授を長く勤められた方のようです。高分子物理学の専門家です。

 文字で説明されてもよく分からない。そこで金色堂の内陣配置図を作ってみました。中尊寺が公開している配置図に基づいています。

 方位磁石を入れてみました。これを見ると、南西壇、北西壇と書かれても、意味不明なことが分かると思います。

 中尊寺が公表している図では、このような配置になっています。

 三つの須弥壇のうち、中央は中央壇であり初代清衡を安置。
 向かって左奥(仏像から見て右)は西南壇であり二代基衡を安置。
 向かって右奥(仏像から見て左)は西北壇であり三代秀衡と四代泰衡の首を安置。

 中尊寺では、共同で行った学術調査の結果を尊重し、中尊寺の伝承とは異なる報告書記載のままの配置を受け入れています。

 改めてこの図を見ると、仏像から見て、右側に二代、左側に三代、を配置する訳がないことに気づきます。

三体の阿弥陀如来は、どこを見ているのか?

 この配置図を作っていて不思議に思ったこと。それは、三つの須弥壇の上に鎮座する三体の阿弥陀如来は、いったいどこを見ているのか、ということです。方角としては南南西です。阿弥陀如来たちの視線の先にあるのは、何なのでしょうか。

 暇な方は考えてみて下さい。

 ついでに書きますが、この調査は、朝日新聞文化事業団がスポンサーになっています。この事業団は、調査の前年、1949年に朝日新聞社の周年事業(70周年)の一環で設立されたもののようです。

 この調査に参加したメンバーの多様性、専門性を見ると、改めて朝日新聞社の本気度を感じます。

 中尊寺側の思惑は、金色堂と四体のミイラの永久保存にありました。農地解放により財源を失った中尊寺にとって、寺に伝わる伝承とは違う遺体の配置を受け入れたのも、国による金色堂修復事業につなげるために、文部官僚を味方に付けたかったのかも知れません。

 四人のミイラ化した遺体からは、何かの薬物を塗った形跡も内蔵を取り出した跡も見出せません。調査メンバーの意見が分かれます。やはり、自然にミイラになったとする方が矛盾が少ない、という考えが優勢だったようです。

 しかし、4体揃ってミイラ化している謎については誰も触れたがらない。

 自然状態でミイラ化するなど通常ではありえない。それが4体もミイラ化している。調査団はこの謎を解明する仮説すら思いつかなかったということでしょう。

 では、なぜ、ミイラ化しているのか。

金箔と『ふるや紙』

 現在、日本で金箔が作られているのは金沢です。なんとそのシェアは98%というからオドロキです。では、金沢の金箔はいつの時代から作られ始めたのでしょうか。これが分からないらしい。「加賀藩初代藩主・前田利家が、文禄2年(1593)に豊臣秀吉の朝鮮の役の陣中より、明の使節団の出迎え役を申し渡され、武者揃えの槍(やり)などを飾るため、領地の加賀、能登で金箔、銀箔の製造を命じる書を寄せているのが始まりとされています。」と「箔一」という金箔会社のHPに書かれています。 

 中尊寺金色堂に使われている膨大な量の金箔はどこから来たのでしょうか。誰が作ったのでしょうか。

 その原材料である砂金には事欠かない奥州藤原氏。当然、領内で作ったものと考えられます。その作り方は金沢に伝わったものと同じでしょう。金箔の作り方には選択肢が一つしかありません。それは、1000分の1ミリまで延ばした箔をさらに1万分の1ミリまで延ばす箔打ちの作業。金を和紙ではさみ、それを何枚も重ねたものを金槌を使って上からたたいて延ばす。

 金箔を大量に作るには、金箔を挟む特殊な和紙も大量に必要になります。この和紙のことを『ふるや紙』と言います。祇園の舞妓さんが、お化粧直しに具合がとても良いと広まった あぶらとり紙 のことです。 2)

 この金箔製造の副産物である『ふるや紙』は平泉ではどうなったのでしょうか。金を延ばす過程で紙の繊維はボロボロに切断されてしまうため、再生紙としては使えないように思います。

 管理人は、 この『ふるや紙』が遺体を入れる金箔貼りのお棺の中に詰められていたのではないかと考えています。 

 最初は、金箔貼りのお棺による防虫・殺菌作用があるのかと思ったのですが、その機能はむしろ、金箔の下地として塗られた漆にあるようです。

 ミイラが自然にできたと主張する場合の最大の問題は、遺体の背中が綺麗だったことでした。自然にミイラ化したのであれば、内蔵が溶解して蒸発する段階で、背中の部分が破れたり、腐敗が進行すると考えられるからです。しかし、背中は綺麗だった。では、遺体からしみ出る水分と油分(脂肪)はどうなったのか。この状況を説明するには、紙おむつのように、たっぷり吸収、表面さらさらという素材が遺体の下に敷きつめられている必要があります。

 遺体がミイラ化するためには、腐敗を遅らせ乾燥させるために水分と油分を吸収し取り除く必要があります。これに『ふるや紙』はうってつけの素材だったのではないでしょうか。水分を吸着する素材はいくつかありますが、油分があると話は別です。界面活性剤でも使わないと油分をはじいてしまうからです。

 「あぶらとり紙」に使われるほど親油性の高い『ふるや紙』のような素材以外、当時入手可能な素材の中ではちょっと思いつきません。

 この謎が解けると、「泰衡の首」がミイラ化している謎が解けるのです。

 実は、これが最大の謎と管理人は考えています。

 文治5年9月3日(1189年10月21日)、藤原泰衡は比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害されました。泰衡の首級は6日、陣岡に布陣していた頼朝の元へ届けられます。届けられ首級は、首実検の後でさらし首にされます。さらされていた期間は不明ですが、二、三日ということはないでしょう。少なくとも五日以上。

 そもそもなぜ首をさらすのか。その答えは、祟りが怖いから。首を公衆の面前にさらすことで、たくさんの人が首の前を通るため、「首になった人」は誰を恨んだらよいかが分からなくなる。だから、一定期間、たくさんの人の前に首をさらしておく必要があったようです。

 誰を恨んだらよいか分からないほど多くの人々を見た首は、もう用済みです。弔いたいと申し出る人に払い下げ。

 ここで問題なのが、たぶん、一週間あまり、野外にさらされていた首の状態です。季節は10月の末。東北の冬は直ぐそこまで来ています。首が腐るとまではいかなくても、腐敗が始まっていたと考えられます。

 その後、払い下げられた首級は、刀で切られた顔を縫い合わせ、秘密裏に金色堂の秀衡の棺の中に納められました。

 通常であれば、泰衡の首級は棺の中でそのまま腐り、頭蓋骨だけになっているはずです。ところが、首級は屍蝋化していました。このことから、棺にミイラ化を促進する何らかの機能が備わっているのではないかと考えられます。

 最初は棺に貼られていた金箔を疑ったのですが、金は安定元素で、人畜無害。ご承知の通り、人間が金箔を食べてもそのまま排出されます。すると、金箔の下地となる漆にその効果があるのではないかと考えました。

 漆は抗菌効果に優れた素材であり、古くから食品を保存する容器などにも使われてきました。それが漆塗りの重箱です。冷蔵庫も保存料・保存剤もない時代、漆塗りの重箱に食べ物を入れることで腐敗を防ぐことができる、ということを誰もが知っていました。

 漆による抗菌作用により、腐敗の程度を遅らせることは可能です。次に問題となるのは、人体に大量に含まれる水分と油分をどうするのかということです。これらをできるだけ速く除去しなければ、いずれは腐敗することを避けることはできません。そこで登場するのが、金箔製造の副産物である『ふるや紙』の存在です。

 箔打ちの過程で数万回と叩かれた和紙の繊維はズタズタに切断されており、水分でも油でも強力に吸着できる性質を持つようになる。遺体からしみ出る体液を吸収するために、これがお棺の中に詰められていたのではないでしょうか。

 紙なので、800年の間に消えてなくなっても不思議ではありません。石灰を入れたのなら、お棺の中にそれが大量に見つかるはずです。遺体を一定期間乾燥処理してから金色堂に埋葬・安置したのではないかと、仏教伝来以前の殯(もがり)の風習を引き合いに出す人もいますが、それでは、泰衡の首のミイラ化は説明できません。

 土の中に埋葬するのであればそのような心配は不要ですが、金色堂の須弥壇の下に棺が置かれる埋葬方式では、遺体に防腐処理が不可欠です。そうでなければ、強烈な腐敗臭と大量に発生するハエ、ウジ虫に悩まされることになります。そのような状況は、金色堂に遺体を安置するという方式を採用する時点でだれでもが考えること。

 ミイラが自然にできたか人工的だったかを議論すること自体がナンセンスです。防腐処理をするのは当たり前。それをどうやったのかを考えるべき。そして、その答えは、既に述べた通りです。

 ミイラが自然にできるわけがありません。金色堂のミイラが自然状態で四体揃ってミイラ化など、ギネスブックに登録できる快挙です。

 ミイラ化するために遺体の臓器を取り除くなど、エジプトのミイラづくりから発想を得た稚拙な見解に過ぎません。

 どちらの説も堂々巡りの議論に終始しています。まったくもって、問題外の着眼点という気がします。たぶん、誰もまじめに考えていないのです。歴史の謎って、そんなことだらけのような気がします。

文献至上主義者の落とし穴

 調査報告書に記載があるからといって、それが調査結果を正確に反映しているとは限らない。その具体的な事例をご紹介します。

 泰衡の首について、調査報告書には「円形2ミリほどの穴があり、太い鉄釘が眉間から打ち込まれている」と記載があります。しかし、これは誤植で、22ミリが正しいそうです。そう述べているのは、遺体のレントゲン撮影を担当した足澤三之介岩手医科大学教授の息子さんである開業医の足澤輝夫医師。


 Image: 藤原泰衡の首級

 一度発表された報告書は、もし、誤記、誤植が見つかっても、執筆者にはどうしようもありません。その訂正が可能なのは、本が再販される場合でしょうが、報告書の場合、これはあり得ない。正誤表が添付されるのは、あくまでも出版前に見つかった誤記・誤植でしょう。

 後年の歴史研究者は報告書の記述が正しいという前提で話を進めますが、まさか、肝心の数値の部分が誤植だとは夢にも思わないでしょう。しかし、このようなことはよくあることだと、管理人は考えます。報告書の執筆者、あるいは、執筆者が亡くなっている場合には遺族などの意見も収集しておく必要がありそうです。文献至上主義の落とし穴です。

 管理人が困ったのは、以前和宮の記事を書くために、『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』 鈴木尚・矢島恭介・山辺知行、東京大学出版会、1997.12、を読んだときのことでした。誤植のあまりの多さに読むのが嫌になるほど。東京大学出版会って、誤植のチェックをしていないのではないかと思えてきます。

 1958年から1960年にかけて増上寺の徳川家墓地が発掘調査されました。和宮の墓地もこの時、発掘されています。しかし、この時の調査報告書が刊行されたのは、1967年12月25日になってからでした。調査が終了してから7年もの間、報告書が刊行されることはなかったのです。

 金色堂の場合も同様です。学術調査が行われたのは、1950年(昭和25年)3月22日~31日のこと。この半年後には、『中尊寺と藤原四代 中尊寺学術調査報告』(朝日新聞社編、1950.8.30)が刊行されます。これはいくら何でも速すぎる(早すぎる?)。調査結果を分析している暇などないでしょう。

 しかし、最終報告書である『中尊寺御遺体学術調査 最終報告 中尊寺編』(1994.7)が刊行されたのは、40年後の1994年になってからでした。

 当然、調査に参加された多くの先生方は、鬼籍に入られています。あまりにも遅すぎる最終報告書の刊行と言わざるを得ません。誤記を訂正できる人も誤植を指摘する人もいなくなってしまいました。

昭和の大修理

 中尊寺のミイラ発見は、戦後日本の世論を中尊寺金色堂復興に向かわせるのに十分なインパクトがありました。

 ミイラといえば、エジプトのミイラか即身仏くらいしか思い浮かばなかった当時の日本人。それが藤原氏4代のミイラと首級の存在が確認されたことで、保存の気運が一気に盛り上がります。全国で18体確認されているとされる『即身仏』は古くても1800年代。奥州藤原氏のミイラはそれよりも700年も古いのです。

 昭和の大修理。その背景にあったのが、2件の国宝消失です。

 昭和24(1949)年1月26日、法隆寺金堂の失火により、世界最古の木造建造物の壁面に描かれた十二面壁画の大半が焼損しました。また、翌、昭和25年(1950)7月2日の火災で国宝・金閣寺が消失します。(再建された金閣寺は国宝指定されていません。)

 そして、1950年(昭和25年)3月22日~31日に中尊寺金色堂の調査が行われ、調査報告書が半年後に刊行されます。

 このように、数百年に一度あるかどうかという国宝の喪失と新たな発見(再発見)という出来事が、進駐軍占領下の昭和24年・25年に発生しました。

 こうした時代的背景から、当時の人たちの金色堂再建への関心がいかに高かったか、容易に想像できると思います。

 昭和26年(1951)5月、文化財保護法が制定され、同年6月9日に金色堂が国宝建造物第1号に指定されます(文化財保護委員会告示第二号 昭和27年1月12日 建造物の部36件国宝指定のひとつ)。

 

金色堂は江戸時代以来、何度か修理が行われてきましたがいずれも補強の域を出ず、根本的な修理をしなければ、堂そのものの崩壊すら心配される状態になっていました。そこで昭和37年(1962)から建築・漆工芸を始めとした各部門の最高権威を総動員し、金色堂の解体修理が行われました。旧覆堂の解体移築の後、金色堂は解体され、内部の柱等の漆芸品は東京国立文化財研究所に、諸仏や台座等は京都国宝修理所に運ばれ、分担修理されました。創建当時の材料・技法を分析調査して行われた各部財の修理は困難を極め、ついに全容が解明できず復元を断念した部分もありましたが、各部門の第一人者の手により金色堂は往時の輝きを取り戻していきました。この間、中尊寺には、鉄筋コンクリートの新覆堂が建設されました。 同42年(1967)7月から組立て作業が始まり、翌年5月に落慶式が行われました。工期は5年10ヶ月、工費は1億6千余万円にのぼりました。

昭和の大修理、岩手県立図書館HP

中尊寺華鬘盗難とその犯人とは

 昭和27年(1952)10月27日朝、中尊寺金色堂にあった同寺蔵重要文化財の華鬘4個と清衝観音菩薩の瓔珞、地蔵菩薩の宝玉等計九点が盗まれているのを発見。後に犯人は逮捕され、盗品は回収されたとされています。

 この盗難事件をきっかけに、国宝のセキュリティ対策が加速します。

 ところで、犯人って誰だったのでしょうか?

 あなたは疑問に思いませんか? 犯人は誰?

 犯人は、鉱山ブローカー、神田三之助こと「高橋養吉」(明治32年3月5日生)でした。

 高橋養吉は、無罪を訴え、再審請求を行い、最高裁まで上告しますが、最高裁でも上告は棄却され、昭和30年6月13日仙台高等裁判所の判決、懲役三年が確定します。7)

 高橋養吉が再び世間を賑わすのは窃盗事件から21年後のこと。昭和48年10月1日、東京都葛飾区西新小岩4丁目14番15号金盛荘において、高橋養吉はアパート隣室の大久保浩次(当時26歳)を刃物で殺害。

 ここでも高橋養吉は無罪を主張します。高橋養吉が犯人なのは間違いないのですが、判決は「無罪」。その理由が「心神喪失者の行為である」というものでした。この事件については「東京地方裁判所 昭和48年(合わ)429号 判決」に詳しく書いてあります。

 裁判時点の高橋養吉の本籍地は東京都墨田区になっていますが、もしかして、彼は宮城県の出身なのではないでしょうか。代々、「高橋養吉」を名乗る醤油製造会社が宮城にありました。高額納税者として昭和初期の記録が残されています。

 そして、彼の弁護を担当したのが、(現)宮城県岩沼市出身の菊池養之輔弁護士(1889-1983)。日本社会党衆議院議員を6期務められた方です。このことから、「高橋養吉」は宮城県と深い繋がりがあるものと推測できます。

 推理小説のネタになりそうな事件ですね。

 この記事のテーマ、金色堂とは関係ないのですが、気になると調べてしまいます。だから、いつまで経ってもこの記事が終わらない(www)。

金色堂は霊廟として建立されたのか?

 金色堂に奥州藤原氏の遺体が安置されているのはなぜなのでしょうか。

 この謎を推測している先生がいらっしゃるので、結論はそちらをお読みいただきたいと思います。

 ざっとまとめれば、平安時代末期は、宗教観が変化する時期にあたり、金色堂は、清衡が自らの遺体を安置する場所として建立された、という考え方があるようです。

 この詳細について関心のある方は、須藤弘敏先生の「中尊寺金色堂考」8) をお読み下さい。

 管理人は力尽きたのでこの部分は省略します。

おわりに

 すみません! 久しぶりに更新記事を書いたのですが、また、脇道にそれてしまいました。いつものことですが、執筆途中で記事をアップします。

 とりあえず版でアップします。いつものように、この記述が消えたときが最終稿です。完全なる未定稿でのアップです(このサイトの特色になってしまいました)。

 このように書きながら、放置している記事も散見されますが(汗)。

 要は、このまま書き続けるかどうかの管理人のモチベーションを維持するための途中段階でのアップということです。これまでにかなりの時間を費やしており、これ以上、どの程度時間を割けばよいのかという判断材料が、記事に対するアクセス数です。誰も読まない記事に時間をかけても、モチベーションは下がる一方です。

 この記事は、管理人が書きたい「義経北紀行伝説」の前段の部分です。ここにあまり時間をかけたくないので、簡単に書いています。

 本稿を読み返してみると、「首は誰のものか? 忠衡か泰衡か?」の検証が抜けていますね。書いたつもりだったのですが。

【出典】
1) 「【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第四夜~ 泰衡の首と蓮の話」、togetter
2) 「ふるや紙とは」、ユタカ株式会社
3) 「文化財と高分子科学 -中尊寺の遺体で使われている絹を例に-」、中條利一郎、高分子56巻8月号(2007年)pp.603-607
4) 「泰衡の頭には22ミリの穴 レントゲン調査で分かった藤原4代 足澤医師が講演」、盛岡タイムス、平成22年9月20日
5) 「再考・奥州藤原氏四代の遺体」、埴原和郎、日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 13, 11-33,1996-03-31
  埴原氏は、1994年に4代の遺体の保存状態確認に立ち会い、ミイラを実見しています。 


6) 『奥羽観蹟聞老志』:国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能。ただし、どの巻に書かれているかは不明。

7) 『最高裁判所裁判集、刑事110(昭和30年11月)、昭和三〇年(あ)二一九九』、国立国会図書館デジタルコレクション

8) 「中尊寺金色堂考」、須藤弘敏、弘前大学、1989