幕末に活躍した幕臣「小栗忠順」。小栗上野介という名前の方が知られていますね。
幕末、新政府軍が最も恐れたとされる人物です。
いつか、小栗上野介の謎解きの記事を書きたいと思うのですが、今日は、その前振り。
小栗忠順は、とても優秀な人物で、徳川幕府に重用されました。しかし、当時の幕閣はバカばっかりだったため、優秀ではあるものの生意気な小栗は煙たい存在でした。小栗はなんども閑職に左遷されます。しかし、それでは幕府の抱える難題を解決できないので、直ぐに要職に返り咲く。その繰り返しだったようです。
ところで、小栗上野介には、家来は3人しかいなかったようです。何しろ、大切な母親や妻などを会津に逃がすとき、警護のために同行したのは彼の家来ではなく「農民たち」でした。と思ったら違いました。家臣2名、村民30名ほどの大集団だったようです(汗)。
小栗の側近である3人の家臣たちは、小栗と共に打ち首になっています。慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉朝のことでした。
ところで、小栗の他の家臣たちはどうしたのでしょうか。このことをだれも不思議に思わないところが、管理人にはとても不思議です。
小栗の家臣がたった3人だけだったわけはありません。もっと大勢いたと思います。かれらはどこに行ったのでしょうか。いや、小栗が捕らえられ、即日、斬首されたとき、残りの家臣たちはいったいどこにいたのでしょうか。
切り落とされた小栗の首は、首実検のため高崎に送られ、遺体だけが東禅寺に埋葬。その首を高崎のお寺から取り返して東禅寺の埋葬したのが権田村の村人たちでした。ここでも家臣が出てきません。
別働隊として動いていた家臣チームがいたのではないでしょうか。だから、急遽、母親や妻を逃がす必要が生じたときに、家臣を歩兵の家臣2名しか随行させることができず、残りの人員は村の名主に頼むことになった。
ネット上にある小栗上野介に関する記事を読むと、書かれているのは、小栗本人と農民の話ばかり。家臣の話が出てこない。
明治政府は、小栗の存在を歴史から抹殺しようとします。小栗の業績に対し、彼の情報が極端に少ないのはこのためです。
ところで、小栗上野介と言えば、やはり、徳川埋蔵金。新政府に対し徹底抗戦を唱えた小栗が、それに必要な戦費について考えていなかったはずがありません。
ところが、1868年5月3日、江戸城無血開城で城内に入った新政府軍は、空っぽの金蔵を目の当たりにして愕然とします。小栗の斬首はそれから24日後のことです。
小栗が埋蔵金を隠すとしたら、それを頼めるのは信頼の置ける直属の家臣団しかいません。
その家臣団は、埋蔵後、姿を隠します。主君の首を取り返すなどやりたくともできない。家臣団が全滅したから?
そもそも、小栗の家臣って何人いたのでしょうか。
小栗の領地は七ヵ所にあり、合計2700石(200石加増)でした。幕末の水戸藩(実高30万石)で藩士は約1000人いたそうです(Yahoo 知恵袋)。すると、小栗の家臣の数は9人程度ということになります。こんなものか。養子の忠道も家臣と共に高崎で斬首されているので、小栗家家臣団全滅か? 多田徳次郎(外記)はその時、どこにいたのか、そして、その訳は? さらに、大隈重信。小栗の遺児国子を引き取った理由とその時期。藤田組贋札事件と関連づけると眠れなくなります(笑)。偽家臣って簡単に見分けられるのですよ。
斬首にあった小栗の家臣は、渡辺太三郎、大井磯十郎、荒川 (江幡) 裕蔵、塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助の6名。奥方らを会津に送り、そのまま会津戦争に参戦して戦死したのが佐藤銀十郎、塚越富五郎の2名、合計8人か。斬首メンバーには、これに養子の小栗又一が加わります。やはり小栗家臣団全滅か! 結局、埋蔵金伝説に出てくる多田徳次郎って何者? なんで、こいつ死ななかったの? その説明なしに、埋蔵金伝説などちゃんちゃらおかしい!
・・・・、などというストーリーを考えています。もっと調べてから書き始めたいと思います。いつになるやら。
小栗忠順のきれいな写真が見つからないので作ってみました。ネット上にある小栗の写真からはとても貧相な人物のような印象を受けます。でも、条約調印のために渡米したアメリカで、現地の人を驚かせた秀才小栗が貧相な人物なわけがありません。写真から受ける印象がとても大切なので、まずは素材づくりから。