今日は、皇女和宮について、ちょっと違った切り口から迫りたいと思います。
その切り口とは、『和宮は大奥に何日間いたのか』という疑問。
何が疑問なのかと思ってしまいますが、この問いに答えられる人は少ないのではないでしょうか。
昨年、皇居に行った時、天守台跡地から江戸城本丸があったあたりを見わたしました。
江戸城本丸跡地は現在では広大な公園になっていて、当時の面影は全くありません。
和宮が住んでいた場所はどのあたりだったのか、などと思いをめぐらします。
ふと、疑問が湧きました。本丸はいつ無くなってしまったのだろう。
調べてみると、驚くべきことが分かりました。
和宮は大奥にいたとばかり思っていたのですが、それは間違いでした。和宮は大奥にはいなかった!
正確には(本丸にある)大奥にいた期間は短かった。
文久元年11月15日(1861年12月16日)、江戸に到着した和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入りました。現在、日本武道館の東半分が清水徳川家跡地に建っています。
同年12月11日(1862年1月10日)、和宮は江戸城本丸大奥に入ります。江戸到着から入城まで1ヶ月近くを要したのは、御所風の遵守という点で和宮側と幕府・大奥側の調整が難航したためだそうです。(Wikipedia)
さて、和宮が本丸大奥にいたのはいつまでだったのでしょうか。
「えっ? 江戸城開城までじゃないの?」
それが違うのです。
和宮は本丸の大奥にはいなかった?
和宮が本丸、天守台手前にある大奥にいたのは、文久3年11月15日(1863年12月25日)までです。それ以降はここには住んでいません。
なぜそう断言できるのか?
できるのですよ。旧暦11月15日に本丸の大奥はこの世から無くなってしまったから。
それには次のような事情がありました。
『文久ノ本丸二之丸炎上』と言われる火災により、大奥も含めた本丸一帯は全て焼失してしまい、以降、本丸は再建されることなく現在に至っています。この日以降、和宮は(一般に考えられている本丸の)大奥にはいなかったことになります。
すると、和宮が本丸の大奥にいた日数を算出できます。
その日数は、714日間(1年11ヶ月2週1日)になります。二年足らずだったのです。
江戸城開城で和宮が江戸城を去ったのは、慶応4年4月9日(1868年5月1日)のこと。江戸城滞在日数は、2303日間(6年3月3週)になります。
このように見ると、天守台から見下ろした手前の右手に見える大奥の御台所住居跡地、大奥御殿向(おおおくごてんむき)は、和宮が一時的に過ごした大奥ということになります。
江戸城地図
火事で焼け出された和宮はどこに行ったのか
では、火事で焼け出された和宮は、その後、どこに住んでいたのでしょうか。
天璋院篤姫の場合は、この年の8月に、大奥から二の丸に移りました。それから4ヶ月後の火事の当日(1863年12月25日)、篤姫の住んでいた二の丸御殿も焼失したため、彼女は吹上の滝見茶屋に避難し、その後、清水邸に引っ越します。
また、14代将軍家茂と御台所の和宮も住む場所を失い、一旦は清水邸に入りますが、後にお向かいの田安邸に移っています。
和宮が降嫁した時、江戸城で最初に入ったのが清水邸です。また、江戸城開城で江戸城を出た和宮は、やはり清水邸に入っています。この清水邸とは牛ヶ淵の清水邸となっています。田安門橋の東側が牛ヶ淵なので、現在の日本武道館の位置になります。清水邸は上屋敷や下屋敷など何箇所かあったのではないかと思うのですが、和宮に関して言えば、日本武道館の場所にあった清水邸に逗留したということのようです。
その後はどうなったのでしょうか。西の丸に御殿が造られ、そこに引っ越しています。天璋院篤姫が西の丸に引っ越したのが慶応元年4月29日(1865年5月23日)のこと。火事後清水邸に滞在していた期間は515日間(1年4月4週)となります。和宮もこの日付の前後に西の丸の御殿に引っ越したと思われます。
この時の火災の後、幕府の機能は全て西の丸に移したので、大奥にいた女性達も西の丸に引っ越したようです。火災前に大奥で働いていた女性達の多くは暇を出されたそうです。西の丸に広大な本丸を再現する予算もなかったと言うことでしょう。
この文久3年(1863)という年は、江戸城にとって災難の年で、二度の火災が発生しています。6月の火災では、西の丸が全焼しています。そして、11月(西暦では12月)の火災で、本丸と二の丸が焼失しています。江戸城で残っているのは三の丸と吹上、北の丸のみという惨たんたる状況でした。
ついでに書くと、安政6年10月17日(1859年11月11日)の火災で江戸城本丸が焼け落ちますが、その時、篤姫は吹上へ避難し、後に西の丸に移っています。この時、和宮は14歳で、もちろん京都にいました。
江戸城の火災に焦点を当てて調べてみると、これまで知らなかったことがたくさん分かりました。
幕末に、江戸城本丸はなかった。このことを初めて知りました。そして、大奥もなかったことを知りました。
その後、本丸にあった施設は、大奥も含め西の丸に再建されます。幕末の江戸城明け渡しという言葉から、本丸を明け渡したと思っていたのですが違いました。本丸は再建されなかったのです。本丸を再建できない徳川幕府。幕府の崩壊は、誰の目にも明らかだったのでしょう。
そういえば、最後の将軍、徳川慶喜は江戸城には住まなかったそうです。江戸城にやってきたのは、鳥羽伏見の戦で敗走し、江戸に逃げ帰って、篤姫と和宮に取りなしを頼むために登城したのが初めてだとか。新しい西ノ丸御殿はその時に初めて見たのでしょう。そして、慶喜は、歴代将軍の中でただ一人、本丸に住まなかった将軍ということになります。
幕末に本丸がなかったと言うことをほとんどの人が知らないのだと思います。だから、江戸城開城にあたり「天璋院篤姫や皇女和宮以下大奥3000人余りの女中衆と一緒で遂に江戸城を去ることになった。」などと思い込みで書いている人がいます。西の丸には、大奥女中が3000人も住めるスペースはありません。高層長屋を建てたのなら話は別ですが。
火事の様子をイラストで書き残した和宮
和宮の婚礼の翌年に発生した江戸城の大火。文久3年11月15日(1863年12月25日)の火災で、本丸、二の丸は消失。当然、大奥も消失します。
和宮が親戚に宛てて書いた手紙が残されています。その中に、この時の火事に慌てふためく大奥の状況をイラストでおもしろおかしく書いています。和宮直筆のイラストです。
画面右側の駕篭の中にいるのが和宮です。
その下の刀を差した侍は、家茂が様子伺いで派遣した小姓の戸田忠友(1847年10月1日-1924年2月2日)です。和宮より1歳年下の16歳でした。後に宇都宮藩の第7代藩主となる人物です。その右側の女性は、江戸城大奥より派遣され、和宮降嫁に随行した上臈御年寄、花園です。彼女はこの火災のすぐ後、暇を出され京の実家に戻りました。
画面左端で風呂敷を背負った下女は、「重たい重たい」と言っています。その下の女性は、「何をしても男子が手伝ってくれないからじれったいわね」と言っています。
和宮のおおらかさが伝わるイラストになっているようです。
参考
文久3年の江戸城大火の発生日について、島崎藤村の「夜明け前」及び他のネット上のサイトを参照して、文久3年11月15日としています。
しかし、明治25年(1892年)刊行の「千代田城大奥」では、この火災の日付けを「文久3年10月14日五ツ時」、火元を「添番詰所と医者部屋二階の界なり」としています。
「千代田城大奥」(下)、永島 今四郎、pp.102-103、1892
最後に、江戸城炎上の歴史をまとめておきます。
「江戸城炎上の歴史年表」
和暦 | 西暦 | 出来事、火災等 |
康正2年 | 1456年 | 太田道灌による築城開始、慶長12年(1607)に完成 |
天正18年8月1日 | 1590年8月30日 | 徳川家康、江戸城入城 |
慶長8年2月12日 | 1603年3月24日 | 徳川家康、征夷大将軍になり、江戸幕府を開く |
慶長11年 | 1606年 | 本丸完成> |
慶長12年 | 1607年 | 天守台、5重天守が完成 |
寛永11年閏7月23日 | 1634年9月15日 | 西の丸御殿、焼失 |
寛永16年8月11日 | 1639年9月8日 | 城下の火災から延焼し、本丸御殿、焼失。翌年再建された。 出典:東京市史稿(皇城篇 第3 p.665) |
明暦3年1月19日 | 1657年3月3日 | 振袖火事(明暦の大火)で天守・本丸・二の丸、三の丸御殿が焼失。 以後、天守は再建されず |
延享4年4月16日 | 1747年5月24日 | 二の丸焼失 |
天保9年3月10日 | 1838年4月4日 | 西ノ丸 |
天保15年5月10日 | 1844年6月25日 | 朝6時頃出火 本丸御殿、大奥など焼失 (天保15年は12月1日まで。12月2日に弘化元年に改元) |
嘉永5年5月22 日 | 1852年7月9日 | 西の丸御殿、焼失 |
安政6年10月17 日 | 1859年11月11日 | 本丸御殿、焼失。再建から188年もたっていた。 |
文久3年6月3日 | 1863年7月18日 | 西の丸御殿を焼失。 |
文久3年11月15日 | 1863年12月25日 | 本丸、二ノ丸焼失。 以後、本丸御殿は再建されず |
慶応3年12月23日 | 1868年1月17日 | 大政奉還。二の丸御殿が焼失。以後、二の丸御殿は再建されず |
明治元年4月11日 | 1868年5月3日 | 江戸城、無血開城、大総督府が接収。 |
明治6年5月5日 | 1873年5月5日 | 旧西の丸御殿(皇居)焼失 |
明治21年 | 1888年 | 明治宮殿が旧西の丸に建造される |
大正12年9月1日 | 1923年9月1日 | 関東大震災で大手門、半蔵門など焼失 |
昭和20年 5月25日 | 1945年5月25日 | 空襲で宮城が焼失 |
出典:東京都編、「東京市史稿(皇城篇 第3 p.665~682:本丸殿舎焼失)」、東大史料編纂所DB ほか
(注)日付けは複数の文献でクロスチェックしているので正しいと思いますが、もし間違いがあればご指摘下さい。
本当に火事が多い。本丸が5回、西の丸も5回焼け落ちています。
東京都公文書館の困ったちゃん資料
東京都公文書館の下の資料(「東京市史稿 皇城篇第1 目次」)をご覧下さい。
この資料を作った東京都の職員は、物事をまじめに考えない人のようです。
表の一番下の年月日の欄で『1635(寛永12)年7月12日』の記述があります。
この7月12日って、西暦でしょうか、和暦でしょうか。
常識的に考えれば、西暦としか考えられません。括弧内は無くても意味が通じる。どこの資料でもそのような書き方をします。すると『1635(寛永12)年7月12日』は『1635年7月12日』であり、それ意外の読み方はできないことになります。
ところが、赤枠のところをご覧下さい。『閏7月』の文字が見えます。このことから、日付けは和暦で書かれていることが分かります。つまり、『1635(寛永12)年7月12日』とは、『寛永12年7月12日』を表しています。『寛永12年7月12日』は、『西暦1635年8月24日』です。
ネットで探すとたくさんのサイトで間違った記述をしています。東京都の資料編纂のミスが多くの人をミスリードしているようです。
日付けを探すのはとても骨の折れる作業です。やっと見つけた日付けが間違った表記方法で表示されているのでは困ります。
なお、ネット上で、西暦と和暦の換算に無頓着な人が多いことが気になりました。特に、年末の出来事は西暦が1年違うケースが散見されます。
火事で焼け出された和宮の挙動を示すために篤姫の資料を使っています。篤姫の記録はたくさんあるのに、和宮の記録は降嫁の時に集中しており、それ以外では本当に少ない。歴史から忘れ去られた皇女だった? 和宮については意図的に歴史から消し去られたように感じます。もし、和宮墓の発掘調査がなければ、本当に忘れられた登場人物になっていたでしょう。