皇女和宮の降嫁の旅に関する情報は、本当にたくさんあります。中山道沿いの宿場町を売りにしている観光地は、必ずといって良いほど多くの情報を発信しています。
その情報の中で気になったのが、和宮が降嫁の途中で初潮を迎えたという伝承。
最初は、よくこんなことが伝承として伝わっているなぁ、と思った程度だったのですが、和宮の記事を書くためにいろいろ調べていたら、和宮が初潮を迎えたとされる日が複数あることが判明。
さすがは皇女。何度も初潮を迎えたらしい・・・。
冗談はさておき、一度しかないはずの特定の日にちが複数提唱されているというのは、どうも気持ちの良いものではありません。本当はいつなのか。
今日は、この謎に迫りたいと思います。
事実と違うことが史実であるかのように語られているのを見聞きすると、あまりよい気はしないものです。
和宮が初潮を迎えた日
和宮が初潮を迎えた日とされる日付は、管理人が調べた限り以下の四つが見つかりました。
- 万延1年5月2日(1860年6月20日) 「群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)」(昼、皇女和宮、早朝に初潮を迎えたとの国家機密がイギリス領事館に漏洩。)
- 万延元年6月16日(1860年8月2日) 『静観院宮履歴ヲ調査ス』、宮内省
- 万延元年6月19日(1860年8月5日) 「時代は幕末,事件・人物別の年表です、和宮・静寛院宮」
- 文久元年11月10日(1861年12月11日)「Wikipedia、板鼻宿」 (11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。)
日付を見ると、1860年6月から1861年12月まで1年半の開きがあります。
1. はイギリスの公文書に残っているということでしょうか。出典が書かれておらず詳細は不明です。
2. は明治政府の公文書に残っている記述です。これについては以下で見ていきましょう。
3. は和宮についてとても詳しい年表が記載されているサイトです。出典は不明ですが 2.の日付と三日しか違わないのが興味深い。
4. は和宮降嫁の際に宿泊した板鼻宿に伝わる伝承に基づいています。
どれが正しいのでしょうか。
明治政府が作成した和宮の履歴
ネットで和宮関係の公文書を閲覧していて、明治政府が作成した公文書の中に、該当しそうな記述を見つけました。
この公文書は、明治4年6月28日付け、明治政府宮内省が京都府宛に作成した『静観院宮履歴ヲ調査ス』という文書です。
公文書には、万延元年6月16日(1860年8月2日)「御月見」と記載されています。
この和宮の履歴は、誕生から徳川家御縁組みまでの主要な出来事を9項目で簡潔に記載されたものです。
したがって、「御月見」という記述は、単なる「御月見」ではなく、初潮を迎えた日と推測できます。
もしそうであるとすると、和宮は1846年7月3日生まれなので、14年4週2日で初潮を迎えたことになります。
頭書きには、『京都府へ達 辨官 静寬院宮へ別紙ノ通 御沙汰相成候條 此旨為心得相達候事 四年六月廿八日』とあります。
辨官(弁官(べんかん)とは、朝廷の最高機関、太政官の職の一つのようです。
その別紙に静寬院宮(和宮)の来歴がわずか10行にまとめられて書かれています。
内容は、『静寬院宮家来届』とあるので、和宮の家来が作成したもののようです。いわば、朝廷の正式文書です。その内容に間違いがあるとは思えない。
その中で注目すべきは、履歴9行目の『萬延元庚申年六月十六日 御月見』の記述です。
和宮の履歴をわずか10行(日付入りは9行)にまとめられた文章の中で、この『御月見』が和宮の初潮の日付けを示しているのは間違いと管理人は考えます。
この日付けは、和宮の降嫁の前になっています。
つまり、和宮が降嫁の途中、中山道で初潮を迎えたという説は、村人たちの勘違いだったのではないかと思います。
降嫁の途中、中山道で初潮を迎えたという説
中山道の伝承では、板鼻宿到着後、初潮を迎えたとされています。
「板鼻宿本陣跡:板鼻公民館近くにある。この本陣の書院に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が、文久元年(1861年)11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。」(Wikipedia [2])
板鼻宿は、現在の群馬県安中市にあった宿場町です。京から107里7町20間( 421.2㎞ )。江戸日本橋までは112.7㎞の距離にあります。
11月9日(西暦12月10日)には「坂本宿」に宿泊、「安中宿」では休憩。
10日(同12月11日)には「板鼻宿」に宿泊。江戸には15日(同12月16日)に到着。
板鼻宿到着後、初潮を迎えた、数え年16歳だった和宮。
この時の穢れ物を埋めて、土の上に石祠を建てたもの。
予想外の時期に生理が始まり、万一のことを心配したお付きの女官や母親の気遣いにより、念のために医師まで呼ばれた、ということでしょう。
ここまで詳細に伝承が残っていると、誰もが「板鼻宿初潮説」を信じたくなります。
でも、明治4年の公文書が、和宮の初潮の日付けを偽造する理由がありません。
和宮は、明治2年2月3日(1869年3月15日)に京都に到着し、この時期、京都在住でした。
政治的な利用価値のなくなった和宮の経歴を明治政府が偽造する必要はなかったのです。むしろ、太政官発京都府宛の公文書であることから、この履歴に書かれている日付は、和宮の侍女から直接聞いた日付けだったのではないかと思います。「板鼻宿初潮説」よりも信憑性が高いと思います。
和宮の降嫁の旅を見ると、(西暦)11月22日に京都桂宮邸を出発して、20日目の12月11日に板鼻宿に到着しています。そして、25日目の12月16日に江戸城清水邸に入ります。
長旅の終盤で体調を崩した和宮が乗り物酔いなどの理由で吐いた、というのが真相ではないでしょうか。その汚物を埋めたところに祠を建立した。
降嫁には医師も同行しているので、和宮が体調を崩したからといって町医者が呼ばれるようなことはない。つまり、和宮の健康状態が外部に漏れるようなことはなかったのではないでしょうか。和宮がここで初潮を迎えたという伝承は、皇女降嫁という世紀のイベントに興奮した板鼻宿の住民たちのお祝いムードの中で生まれた都市伝説のような気がします。
出典
1. 国立公文書館デジタルアーカイブ 「静寛院宮履歴ヲ調査ス」
2.Wikipedia、「板鼻宿」
この記事は一旦削除したものですが、内容を見直し再度アップします。