スコットランド女王の処刑と暗号強度

 (本記事は2014年10月3日に二つの記事を統合してアップしたものですが、今回大幅に内容を更新したので再度アップします。)

はじめに

 メアリー・スチュアートと聞いてピンとくる人は世界史に詳しい方でしょう。

 スコットランド女王メアリー・スチュアートは、イングランド女王エリザベス1世の命により断頭台の露と消えます。その罪状は国家転覆を謀ったというものでした。

 通常であれば、他国の国王を斬首するなど考えられないことでしたが、イングランド法廷においてメアリー・スチュアートが国家転覆に荷担していたことが明らかにされ、動かぬ証拠となります。それがメアリーが使った『暗号』の解読でした。

 メアリー・スチュアートの暗号についての記事はほとんどないようです。そこで本記事を書くことにしました。

古くて新しいイングランドとスコットランドとの対立

 先頃、イギリスでのスコットランド独立騒ぎが世界の注目を集め、スコットランドの独立を決める投票日近くからマスコミが連日報道していました。その報道内容は、どのマスメディアも驚くほどワンパターン。まるで、言論統制をされていて、これ以外報道してはいけないという暗黙のルールがあるようでした。

 賛成派と反対派で出てくるのは、イングランド、グロスタシャー州出身のハリー・ポッターの著者J・K・ローリング(反対派)とイギリスのスパイ007で有名なスコットランド、エディンバラ出身の映画俳優ショーン・コネリー(賛成派)だけ。

 イングランドとスコットランドは古くから争っていました。16世紀後半、それぞれの国に女王がいました。イングランドにはエリザベスⅠ世、そして、スコットランドには、エリザベスのいとこで悲劇の女王と呼ばれるメアリー・スチュアート。なぜ、悲劇の女王と呼ばれるのか。それは、エリザベスⅠ世によってメアリーは捕らえられ、18年もの間幽閉された末、斬首されてしまったからです。何とも恐ろしい国です。

 今回のスコットランド騒動でイギリス王室がほとんど出てきません。現在のエリザベスⅡ世は、もちろん、エリザベスⅠ世の娘ではありません。エリザベスⅠ世が生きた16世紀から500年近くの隔たりがあります。

 もし、エリザベスⅡ世が何かコメントをすれば、どんなコメントであれ、スコットランド独立派からの格好の攻撃材料にされてしまいます。これをうっかり外部に話したキャメロン首相の言動が問題として取りあげられていましたが、日本の報道を見ても、何のことか分かりません。記事を書いている日本人記者もなぜ外国メディアがそのことに注目しているのか、その意味が理解できないのだと思います。だから、日本人視聴者や読者が分かるはずもありません。

 イギリスに限らずヨーロッパ諸国は、その時代の有力者が「王」として君臨し、その地位を守るために周辺の国々と血縁関係で結ばれています。日本の戦国時代と同じです。有力者に自分の娘を嫁がせ、子供が生まれることで「血のつながり」で家の安泰を図る。しかし、ヨーロッパの場合、余りにも血が混ざり合い、血では識別できなくなっています。そうすると、家督を相続する根拠が改めて問われるようになります。

 ヨーロッパの王族の弱いところは、当時なぜ王だったのか、そして、なぜ現在も王なのかを説明できないことです。「国際儀礼(プロトコール)」では、各国の代表(国王、元首、大統領、首相)が一堂に会するとき、最上席に案内されるのが“世界最上級身分”と議定されている天皇です。世界の王族が羨む天皇家ということでしょうか。

悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアートとは

 スコットランド女王メアリー・スチュアートとはどのような人物だったのか、いつものようにWikipediaの記述を見てみましょう、と思ったのですが、あまりまとまっていないので、「コトバンク」を引用します。(年月日はユリウス歴です。)

 この時期のヨーロッパは混沌としており、国家、国王、政治など複雑怪奇です。この辺の基本情報を知らないと、「メアリー、首チョンパ。かわいそう」という程度で終わってしまいます。それでは歴史の謎が楽しめません。

 メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 – 1587年2月8日(グレゴリオ暦:1542年12月18日 – 1587年2月18日))は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 – 1567年7月24日)。スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女として生まれます。

 イングランド女王エリザベス1世の生涯のライバルであった。父王ジェームズ5世が死去したため生後1週間で即位。1548年,6歳でフランス皇太子と婚約してフランスに渡り,以後その宮廷で教育をうけ,美貌で魅力に富む女性に成長した。58年皇太子と結婚。翌年夫はフランソア2世として即位したが,1年後に病没したため,61年帰国した。当時のスコットランドでは,貴族の派閥間抗争が新教徒と旧教徒,さらには親イングランド派と親フランス派の確執と結びついて激烈をきわめていた。 コトバンク

女王の斬首

 メアリー・スチュアートは、生涯三度結婚します。彼女の年譜を書くと記事が長くなり、本題の『暗号』にたどり着けないのでここははしょります。

 1567年6月15日、反乱軍に包囲されたメアリーは反乱軍に投降します。そして、7月26日に廃位されます。

 1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れました。メアリーはイングランド各地を転々としましたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許されたそうです。

 囚われの身のスコットランド女王メアリーは逃亡を企てますが失敗します。そして、イングランド転覆を図ったとして斬首の刑になります。他国の女王を処刑する。そのようなことをするためには、裁判で決定的な証拠が必要でした。そして、その証拠が裁判で提出されます。それは、メアリーと彼女の支援者が使っていた複雑な暗号を解読したという動かぬ証拠でした。

 イギリスに限らずヨーロッパの歴史は血塗られています。どんなに繕おうとしても、黒い歴史を消し去ることはできません。歴史書をひもとくと、主人公である王や女王よりも、その周辺に巣くう王侯貴族の低脳ぶりと卑劣さが際立っています。

 1587年2月1日、エリザベスは側近に促され、不本意ながらメアリーの処刑命令書にサインをします。それから一週間後、メアリーは幽閉先のフォザリンゲー城の大広間で首切り人により首を切り落とされます。そして、さらに恐ろしいことが起こったようです。イギリスの黒歴史です。

 ジェーン・グレイの処刑
ジェーン・グレイの処刑をコラしました!

 処刑後、処刑を見守っていた人たちが退出します。そして、大広間のドアは一つ残らず閉じられ、そこには首切り人とメアリーの死体だけが残りました。そして、『「とんでもない、破廉恥なことがここで起こった」とブラントームは語っている』とデュマは書いています。2)

 メアリーの処刑については多くのサイトで取りあげているので、関心のある方はそちらをご覧下さい。しかし、デュマの記述を取りあげたのはこのサイトだけのように思いますが。デュマなので小説なのかも知れませんが、そもそも『史実』がどれなのか諸説あって分からない時代の話です。

 さて、メアリーが使っていた暗号は当時としては極めて解読の難しいものでした。それがどうして解読されてしまったのでしょうか。そこには、暗号強度が影響していました。

 このような切り口の記事はネット上にはありません。上で引用した書籍にも書かれていません。

 イギリス人って、女王の首を切るのが好きすぎる。その取り巻き連中は利己的でうさん臭い人ばかり。「ナイトの称号」って、自分の女王も守れなかったという悲しい称号。

古くて新しいテーマ『暗号』

 なぜ、今、暗号の話を書くのか。それは、暗号が古くて新しいテーマだからです。

 なぜ、人は暗号を使うのか。それは、他人に知られたくない情報があるからです。

 2013年6月、国家安全保障局(NSA)の局員エドワード・スノーデン氏が、NSAによる個人情報収集の手口を告発しました。この告発内容は、NSAが全世界のあらゆる電子メール等通信・情報を無断で収集しているというもので、極めてショッキングな内容でした。まるで映画のようなインターネットを監視するプログラム「PRISM(プリズム)」の存在が明らかになりました。収集される情報には、当然、Google、MSNのメールの内容、登録情報なども含みます。

 日本では、この手の事件は直ぐに矮小化され、問題の本質が見えないように歪められます。事実確認やNSAが収集した情報の破棄などを求めていくのが本筋だと思うのですが、そのような動きは見られません。

 インターネット上で個人情報を守っているのが”暗号”です。インターネット通信を行う各プロバイダーは独自のアルゴリズムに従い暗号化を図っているようですが、NSAはプロバイダーのメインコンピュータに物理的に直接接続し、バイパスを使って情報を収集していたようです。先日、3回に渡ってテレビで放映していました。何とも恐ろしいことです。

 個人情報を守るための暗号とは何なのか、暗号強度とは何なのか、そんなことが頭をよぎります。

用語
 コード :ひとつの単語またはひとかたまりのフレーズを、単語や数や記号で置き換えたもの。
 サイファー :単語全体ではなく個々の文字を置き換えの対象とするため、コードよりも基本的なレベルの暗号といえる。
平文(ひらぶん):暗号化される前のテキスト
暗号文:暗号化された後のテキスト
出典: 1) p.14

メアリーが誕生した当時のヨーロッバ

 メアリー・スチュアートが生まれたのは1542年12月14日のこと。当時のヨーロッパはどのような状況だったのか見ていきましょう。このような最低限の基礎知識がないと情報が上滑りします。

 1542年当時のヨーロッパは現在の版図(はんと)とは大きく異なり、神聖ローマ帝国(スペイン国王も兼務)、フランス王国、オスマントルコ帝国といった強国がしのぎを削っていました。


 Map: 「世界の歴史マップ」を加工。(1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる)

 そして、各王国や帝国を統治する国王・皇帝は、歴史の教科書に載っている著名な人物ばかりです。

国名国王・皇帝在位生没年
スコットランドジェームズ5世1513年 – 1542年1512年4月10日 – 1542年12月14日
イングランドヘンリー8世1509年 – 1547年1491年6月28日 – 1547年1月28日
フランス王国フランソワ1世1515年 -1547年1494年9月12日 – 1547年3月31日
神聖ローマ帝国カール5世1519年 – 1556年1500年2月24日 – 1558年9月21日
スペインカール5世(カルロス1世)1516年 – 1556年1500年2月24日 – 1558年9月21日
オスマントルコスレイマン1世1520年 – 1566年1494年11月6日 – 1566年9月7日

 神聖ローマ帝国、カール5世の時代。1516年からスペイン王を兼ね、スペインではカルロス1世と称します。カール5世は「太陽の沈まない国」と称されたようにヨーロッパから新大陸、アジア(フィリピン)に至る世界帝国を築き上げました。彼は生涯フランス国王フランソワ1世およびアンリ2世父子との戦争を繰り返すことになります。

 カール5世の弟フェルナンド1世は、オーストリア大公(在位:1521年 – 1564年)、ボヘミア王(在位:1526年 – 1564年)、ハンガリー王(在位:同)となり、兄の退位後、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1556年 – 1564年)になります。

 オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世は、帝国を最盛期に導きました。メアリーが生まれる前年の1521年、外征に乗り出し、たびたび西ヨーロッパ諸国の国境を脅かすことになります。

 次にフランス王国のフランソワ1世。フランスはスコットランドにとって重要な国でした。Wikipediaを引用します。

 『フランソワ1世には神聖ローマ皇帝カール5世という強大なライバルが存在したことから、常に両者の間にあって有利な相手と結ぼうとするイングランド国王ヘンリー8世の外交上の功利心を頼みとしなければならなかった。フランソワ1世の対カール5世政策は成否相半ばするものだが、実現の暁にはフランス王国の維持に支障をきたすカール5世の構想をくじくことには成功した。』

 そして最後にイギリス。大ブリテン島です。

 イングランド王ヘンリー8世は生涯で6人の妻を娶ります。最初の妻は亡くなった兄の嫁キャサリン・オブ・アラゴン(1487 – 1536)。カトリック教会ではこの結婚は禁じられていましたが、ヘンリー8世はごり押しします。ヘンリー8世は世継ぎの男子の誕生を期待しますが、生まれたのは女の子。後にイングランド女王になるメアリー1世(1516 – 1558)です。メアリーがたくさんいるので混乱しますが、今回の主役メアリー・スチュアートとは別人です。

 ヘンリー8世は、妻がさらなる子供を産めそうにないことを知ると離婚しようとしますが、カトリックでは離婚は御法度。ローマ教皇に何度も何度も交渉し圧力をかけますが離婚は認められません。そこでヘンリー8世がとった手段はカトリックから離脱し、イングランド国教会を設立することでした。イングランド国教会は、プロテスタントではなく中身はカトリックなのですが離婚できる。ダイアナ妃を思い出します。

 ヘンリー8世とスコットランド王ジェームズ5世とは叔父・甥の間から。ヘンリー8世はジェームズ5世に対して、スコットランドでもイングランド国教会に所属するよう圧力をかけますが、根っからのカトリックであるスコットランドはこの要求を拒否します。

 ヘンリー8世は要求が断られると即座にスコットランド南西部に侵入しました。それに対し、イングランドに侵入したスコットランド軍は組織も指揮もまずく、多くのスコットランド人が捕虜にされるか溺死するという結果となりました(ソルウェイ・モスの戦い(Battle of Solway Moss:1542年11月24日)。この敗戦の報せがジェームズ5世の死期を早めたとされています。この戦いから二十日後、ジェームズ5世は30歳の若さで亡くなります。彼の死の六日前には待望の子供が生まれています。それがメアリー・スチュアート。ジェームズ5世は女児出産の知らせに落胆したとされています。

 さて、今回は、いよいよ、スコットランド女王メアリーが使った暗号について書きたいと思います。

 多くの人物が登場するので系図を作りました。これを見ながら読み進めるとイメージが膨らむと思います。

スコットランド女王メアリーの暗号

 スコットランド女王メアリーについては、たくさんのサイトで紹介しているので、詳しくは他のサイトをご覧下さい。このサイトでは簡単に年譜でご紹介するに留めます。メアリーに関する資料を読めば読むほど、ヨーロッパの歴史が「黒歴史」なのだと思ってしまいます。「サーの称号」というのは、結局、現在においてまで敬うべき何の意味があるのか、よく分かりません。

1542年8月、イングランド王ヘンリー8世(1491年6月28日-1547年1月28日)は、スコットランドに対する宗主権を主張し、領国境界を越えてスコットランドに侵攻しますが撃退されます。

1542年11月24日 イングランドとスコットランドの国境近くのソルウェー・モスの戦いで、ヘンリー8世のイングランド軍がスコットランド軍を打ち破る。

1542年12月8日 0歳 リンリスゴー城でスコットランド国王ジェームズ5世の第3子としてメアリー誕生。長男、次男は既に死去。メアリーには二人の兄がいましたが、彼女が生まれる前にともに夭逝していました。

1542年12月14日 6日 ジェームズ5世が31歳で急死する。メアリーが王位を継承する。
メアリーが誕生してから六日後の1542年12月14日、父親のジェームズ5世が30歳の若さで急死します。そして、即日、メアリーが王位を継承することになります。

1543年3月、ヘンリー8世は、スコットランドの併合・吸収のため、スコットランド貴族に資金を提供するなど工作を続け、その結果、イングランド王太子エドワード(1537年生まれ)とメアリー・スチュアートの結婚がスコットランド議会で承認されます。しかし、ヘンリー8世の企てに気づいたスコットランド内部で反発が高まるようになります。

1543年7月、摂政である第2代アラン伯爵ジェイムズ・ハミルトン(1516年? – 1575年1月22日)は、ヘンリー8世の要請を受け、ヘンリー8世の息子エドワード6世とメアリーとの結婚と平和のための条件を交渉します。

1543年9月9日、生後9ヶ月のメアリーはスターリング城にてスコットランド女王としての戴冠式が行われます。

1547年9月10日 4歳  ピンキーの戦い(Battle of Pinkie)で、スコットランド軍は総崩れとなり大勢の兵士が虐殺され、スコットランドにとって壊滅的な被害となる。

1548年8月7日 5歳8ヶ月 メアリーの身の安全を図るため、フランス王太子フランソワとの結婚に備え、フランスに向け出国。

1558年4月24日 15歳   フランス王太子フランソワと結婚し、翌年、フランス国王アンリ2世の死去に伴い、フランソワが国王フランソワ2世、メアリーがフランス王妃となる。

1560年6月11日、メアリー・ステュアートの母メアリ・オブ・ギーズ(王太后)死去。彼女は摂政として死ぬまでメアリーを支えた。

1560年12月5日 17歳  フランソワ2世が16歳で病死。

1561年8月20日 18歳  スコットランドに帰国

1565年7月29日 22歳  従兄弟のダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと再婚

1566年6月19日 23歳  長男ジェームズ6世(ジェームズ1世)を産む。

1567年2月10日 24歳  夫ダーンリー卿殺害される。
5月15日 24歳  ボスウェル伯と再婚
結婚に反対する反ボスウェル派の貴族たちが蜂起。
メアリーは6月15日に反乱軍に投降しロッホリーヴン城に軟禁され、7月26日に廃位され、生後14ヶ月の息子ジェームズに王位を譲る。

1568年5月   25歳  ロッホリーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、エリザベス1世を頼ってイングランドに逃れた。しかし、エリザベス1世は、ダンリー卿殺害に関与した疑いでメアリーを捕らえ、幽閉する。その後、18年間の幽閉生活が続くことになります。この幽閉は牢獄に閉じ込められるわけではなく、かなり自由なものだったようです。

イギリス国王年譜
 出典:Wikipedia, 「テューダー朝」 イギリス国王年譜

 18年後。

 1586年、メアリー、43歳の時、カトリック司祭となるべく勉強していたギルバート・ギフォードがメアリーの支持者たちからの手紙を彼女に届けることに成功します。ビール樽の栓の中に手紙を隠す方法が採られました。以降、ギルバートはメアリーと支持者たちとの手紙を運ぶスパイとなります。しかし、ギルバートは二重スパイで、メアリーを処刑してしまいたいイングランド側にはこの手紙のやりとりは筒抜けでした。手紙は途中で開封され、写しがとられた後、再び封かんし、届けられました。しかし、手紙は暗号で書かれており、イングランド側はその解読を進めます。

 イングランド貴族たちがメアリーを処刑したかった理由は、宗教と王位継承権にあります。イングランドはプロテスタントで、スコットランドはカトリックでした。そして、メアリーはイングランドの王位継承権を所持しており、イングランドのカトリック教徒にとっては、異教徒(プロテスタント)で庶子のエリザベス1世よりもメアリーの方が正統な王位継承者だと考えていました。さらに、エリザベス1世はメアリーよりも9歳年上でした。エリザベスが先に亡くなり、敬虔なカトリック教徒であるメアリーがその後を継いだ場合、エリザベスを取り巻くプロテスタントの貴族たちは全員処刑されてしまいます。

 このような事情から、プロテスタントの貴族たちは、メアリーを早く処刑したくてたまらないのですが、エリザベスは認めません。それは、当時、他国の国王を処刑することは、国際法で認められていなかったことや、フランスやスペインなどのカトリック国がそのような行為を許さない環境だったからです。メアリーを処刑に持ち込むためには、確固たる反逆罪の証拠が必要でした。

 当時のイングランドは、1585年以降、スペインと実質的な戦争状態になっていました。スペインの無敵艦隊は、1588年、アルマダの海戦でイングランドに大敗を喫し、その後の暴風雨により、損害が拡大しました。しかし、直ぐに艦隊は復活し、イングランドに対するスペインの優位性は、まだ、しばらくの間、保たれました。

 日本人にはよく理解できないのがヨーロッパの王朝でしょう。

 ヨーロッパの歴史を観ていると、王朝がたびたび交代しています。しかし、それらの王朝は、何らかの形で血縁関係にあるところが、日本人が理解しにくい部分かと思います。「そんなの日本でも、戦国時代は一般的だったじゃないか。自分の姉妹や娘を敵に嫁がせ、血縁関係を結ぶことで、家の安泰を図るというのは古今を問わず当たり前のこと」という声が聞こえてきそうです。

 しかし、日本と外国とでは、このような日本人の感覚とはまったく異なっている点を知る必要があります。

 外交上の儀式の作法を『国際儀礼(プロトコル)』といいます。大統領就任式、冠婚葬祭などの席順はこのプロトコルに従います。最上位は日本の天皇です。これは歴史の重みなのでしょう。

 うちの家系は10代続いている名家だとか、20代続いていると、家系の継続性を自慢する話を聞きます。しかし、11代前は? 21代前は?、という質問には答えがありません。

 ヨーロッパの王族の弱いところは、まさにこの点にあります。歴史上のある時期に有力だった権力者が王として君臨し、周辺の国と血縁関係を結び、王国の存続を図る。しかし、その王としての自出を問われるとかなり苦しくなる。日本の場合は、天皇のお墨付きがあればよかった。しかし、欧米や中国などの場合は、そのようなものがない。先王は自分が殺した。先王を殺してこの国の王になった。しかし、自分が王であることの妥当性を示せれば、民衆は納得する。

 一方、日本では、時の権力者の力が強ければ強いほど、天皇のお墨付きを欲しがりました。「人の上に立つ」ための普遍的論理を天皇家の継続性に求めた結果なのでしょう。その時代の時の権力者は、その権力の恒久性を求め、「なぜ、自分が国を支配する権利があるのか」というこの命題に悩み、もっともらしい口実を考えたのでしょう。

 フランスでは、フランス革命により、このようなしがらみを断ち切り、君主を抱かない共和制になります。そのためなのでしょうか。近世の歴史を見ても、フランス軍はとても弱い。守るべきものが漠然としているからなのでしょうか。

 フランスのヒロイン的存在である「ジャンヌ・ダルク」は、フランス王シャルル7世の即位に貢献しました。ヨーロッパの周辺国には、王国がいくつかあり、フランス国民は、本音では、(象徴的な)王制の復活を望んでいるのかも。しかし、ブルボン家の精神障害家系の王族支配には懲り懲りしているのかも知れません。

 さて、メアリーは、エリザベスにより捕らえられ、18年もの間、イギリス中部ノーサンプトンシャー州(イングランド領内)のフォザリンゲイ城(Fotheringhay Castle)幽閉されます。最初の頃こそ丁重に扱われていたようですが、次第に特権は奪われてゆき、最後は囚人のような監禁状態だったようです。

 スコットランド王女だけでなくフランス王女でもあったメアリーにはたくさんの支持者がいました。しかし、彼ら支持者からの手紙はメアリーに届くことはありませんでした。この手紙を苦難を排し届けたのがギルバート・ギフォードというメアリーと同じカトリック教徒の神学生でした。ところが、ギルバートは二重スパイで、プロテスタントのエリザベス1世に通じていました。

メアリーが斬首された罪状は「バビントン事件」への関与

 メアリーが斬首された罪状は「バビントン事件」への関与でした。アントニー・バビントンは、当時、弱冠24歳で、裕福な家庭に育ちハンサムで魅力的な遊び人として、ロンドンでは名が知られていました。彼は、カトリックの家族や知人がイングランド政府からすさまじい迫害を受けていることに深い恨みを抱いていました。

 1586年3月、バビントンと6人の親しい友人たちは酒場に集まり、エリザベス女王を暗殺し、フランスやスペインなど外国政府の力を借りて、反乱を起こす計画を立てました。そして、その計画の遂行のためには、メアリーの承認を得なければならないと考えました。

 そこに、著名なカトリックの家の子で聖職者として教育を受けたギルバート・ギフォードが現れます。ギルバートはバビントンの腹心の一人になりますが、実は、エリザベス女王の秘密警察長官ウェルシンガムが送り込んだ二重スパイでした。

 ギルバートが道を誤って投獄の判決を受けようとしているところへウェルシンガムが介入したことで救われ、その恩に報いるためスパイになったようです。そして、バビントンらが事件を起こすように焚き付けました。

 ギルバートはバビントンの手紙をメアリーに渡す役目を演じます。しかし、その手紙は、開封され、写しをとられた上で再び密封され、メアリーに届けられました。

 最終的にメアリーが出したこの陰謀を承認するという手紙が、彼女の首を胴体から切り離すことになります。

 しかし、バビントンは、当時としてはとても強力な暗号を使っていました。メアリーの裁判において、その暗号が解読されるか否かが、彼女の生死を分けることになりました。すなわち、「暗号強度」です。

メアリーの暗号
 メアリーの暗号

 バビントンは、ビール樽の栓の空洞に手紙を隠しメアリーに届けました。そしてメアリーからの返事も同様の方法でバビントンに届けられました。

 バビントンはさらに用心を重ね、手紙を暗号化します。彼が用いた暗号は単純な単アルファベット換字式暗号ではなく、ノーメンクラターでした。それは、単語や句を表す36個の符号から構成されていました。それに加えて、4個の冗字(mulles)と、次の文字が同じ文字の繰り返しであることを示す記号(dewbleth)が使われました。冗字とは、暗号における「囮(おとり)」で、解読者を混乱させるために挿入する意味のない記号です。

 ギフォードから暗号文の写しを受け取ったウォルシンガムは、暗号解読者で頻度分析に長けたフェリッペにそれを送ります。フェリッペの手にかかればこの程度の暗号解読は時間の問題でした。

 ウォルシンガムはこの解読結果をもとにバビントンらを捕らえることができたのですが、しなかった。彼が狙っていたのはメアリーの首でした。

 7月17日、メアリーはバビントンへ返事の手紙を書きます。これがエリザベス殺害にメアリーが同意した決定的な証拠とされます。

 メアリーが斬首された直接の原因は、弱い暗号を用いたことだと結論づけられています。暗号など用いずに普通の手紙でやりとりしていたなら、もっと慎重な書き方になって責任回避ができたのではないかと言われています。

メアリーの裁判

1586年10月15日午前9時、スコットランド女王メアリーは、ノーサンプトンシャー州フォザリンゲイ城(Fotheringhay Castle)の法廷に引き出されます。

 二人の裁判長と四人の裁判官、大法官、大蔵卿、国務卿ウォルシンガム、伯爵、ナイト爵、男爵たちの居並ぶ中、裁判は始まりました。法廷の後部には一般人のためのスペースが設けられ、役人の従者や村人たちが、スコットランド女王がみじめに命乞いするありさまを見物しようと集まっていました。1) p.74

 メアリーの罪状は、エリザベス一世の王冠を奪うべく、女王暗殺を企てたとして反逆罪で告発されました。

 これに先立ち、エリザベスの主席国務卿サー・フランシス・ウェルシンガム(Sir Francis Walsingham:1532年頃 – 1590年)は、すでに共犯者たちを捕らえて自白を引き出し、彼らを処刑していました。外堀を埋めた状態で、メアリーの尋問が始まったのです。

 ウェルシンガムは主席国務卿として、どうしてもメアリーを処刑したい。しかし、女王エリザベスはそれを承認しない。

 エリザベスがメアリーを処刑しない理由は大きく三つありました。

 一つは、メアリーはスコットランドの女王であり、イングランド法廷に他国の首長を処刑する権限があるのかという疑問。

 二つに、メアリーを処刑すれば、やっかいな前例を作ってしまうこと。国が一人の女王を殺してよいというなら、反逆者がもう一人の女王、つまりエリザベスを殺すことへの敷居が低くなるという怒れ。

 三つ目は、エリザベスとメアリーは親戚同士(従姉妹)であること。メアリーの一人息子で後にイングランド王になるジェームズ6世の名付け親がエリザベスでした(諸説あり)。二人の女王は決して疎遠な関係ではなかったことがうかがえます。

 ウェルシンガムがエリザベスの承認を得るためには、イングランド転覆の謀議にメアリー自身が直接荷担していたことを法廷の場で証明する必要がありました。

 ところで、このウェルシンガムという人物。1530年にケント州で生まれ、ケンブリッジのキングズ・カレッジに学びました。メアリーの裁判当時、エリザベス女王を暗殺から20回以上救ったといわれる秘密警察の任務も兼ねた国王秘書長官でした。

 ウェルシンガムに協力したのがトマス・フェリペスというイングランド初の注目すべき暗号解読者でした。

 ギフォードはメアリーの書簡を途中で奪取し、フェリペスに解読させました。さらに、メアリーの書簡を偽造し、メアリーを救い出す六人の仲間の名前を知りたいと追記しました。メアリーの手紙を受け取ったバビントンは歓喜し、仲間の名前を書いた手紙をメアリーに送ります。これが彼らの命取りとなりました。

 下の画像で上段の手紙がフェリペスがねつ造して付け加えた追伸です。


  出典:Wikiprdia “Babington Plot

 裁判でメアリーには一塁の望みがありました。それは、バビントンらと交わした手紙がすべて暗号で書かれていたことです。暗号が解読されなければメアリーを有罪にすることはできない。

 メアリーにとって不幸だったことは、この事件が告発者のウェルシンガムによって仕組まれたものであったことでした。暗号は完全に解読されていました。

 メアリーは罪状を否定し続けました。たとえ何人が犯罪計画を立てたとしても自分はそれに関与していない。

 しかし、彼女の抗弁は提出された証拠の前に何の力も持ちませんでした。

 裁判は二日間にわたって行われ、それから10日後にウェストミンスターにおいて星室庁(The Court of Star Chamber:星室裁判所)が招集され、メアリーに有罪判決が下ります。星室庁は死刑を勧告し、エリザベスは死刑執行令状に著名します。

 1587年2月8日、ノーサンプトンシャー州フォザリンゲイ城でスコットランド女王メアリーは斬首されます。

クイーン・メアリーがたくさんいる! どのメアリー?

大ブリテン島に、同じ時期に、クイーン・メアリーと呼ばれる女性が四人いました。とても紛らわしいのでここでまとめておきます。

4人の女王メアリー
メアリー・テューダー
イングランド王ヘンリー8世の妹でフランス王ルイ12世の王妃(1514年)となる。結婚後3ヶ月で夫ルイ12世と死別。兄ヘンリー8世の寵臣・初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンと再婚するが、1533年に死去するまでその称号は「ダッチェス・オヴ・サフォーク」(サフォーク公爵夫人)ではなく「クイーン・オヴ・フランス」(フランス王妃)のままだった。後にメアリー1世とイングランド王位を争って破れたジェーン・グレイは、このメアリー・テューダーとチャールズ・ブランドンの孫娘にあたる。

メアリー・オブ・ギーズ
スコットランド王ジェームズ5世の王妃(1538年 – 1542年)。ジェームズ5世との死別後も、生後6日でスコットランド女王となった娘のメアリー・ステュアートの摂政として1560年に死去するまで「クイーン・ダウェジャー」(王太后)だった。

メアリー・ステュアート
スコットランド女王(1542年 – 1567年)。この間フランス王フランソワ2世の王妃(1559年 – 1560年)としてもクイーンだった。

メアリー1世
イングランドとアイルランドの女王(在位:1553年7月19日 – 1558年11月17日)。ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世の娘)との娘として、グリニッジ宮殿で生まれた。イングランド国教会に連なるプロテスタントに対する過酷な迫害から、ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた

出典:Wikipedia

おわりに

 この記事を書いていて感じたことは、現代の常識・規範があてはまらない時代が当時のヨーロッパだったということです。

 自国がいつ他国から侵略されるか分からない時代。まるで日本の戦国時代のようです。

 その”国”の主役は諸侯たちで王様ではない。このような時代、ローマ教皇に対しても反旗を翻したヘンリー8世という人物は当時としては傑出した人物だったことが窺えます。それ故、フォロアーがたくさんいた。一方、メアリー・スチュアートの人生は、能力の劣る人材しか集まらなかったが故、あのような非業の死を遂げることになったように感じました。

 メアリー・スチュアートには、人を導くカリスマ性が無かったのでしょう。それゆえ、女王という肩書きに集まるような人材しかいなかった。

 血縁関係で結ばれたヨーロッパの王家は、一皮むけば親戚同士が殺し合う修羅場をくぐり抜けてきた。

 都合の良いところだけ現代の規範を当てはめて論じるのは、そもそも間違っているように感じました。娘は政争の道具。男子が生まれなかったり死亡した場合は、”この道具”が主役に祭り上げられる。

 それにしても、イギリスっておかしな国です。王室とかサーの称号とか、それを持たない一般国民は暗黙裏にこれを支持している。

 これに対してフランスは? 王様をギロチンにかけて殺害しているので、今さら王室うんぬんは言えない。

 そう言えば、フランス軍っていつの時代も弱いというイメージがあります。命をかけてまで守るべきものがないからかも。

 ところで、メアリーの息子のスコットランド王ジェームズ6世は何をしていたのでしょうか。メアリーが斬首されるとき、彼は21歳になっていました。しかし、彼は母親を救おうとはしなかったのです。父親の暗殺にメアリーが荷担したと側近たちから言いくるめられて育ったジェームズは、母親メアリーを憎んでいました。

 悲劇の女王と呼ばれるゆえんです。

出典:
1) 『暗号解読 ロゼッタストーンから量子暗号まで』、サイモン・シン、新潮社、2001
2) 『メアリー・スチュアート』、アレクサンドル・デュマ著、田房直子訳、作品社、2008、p.265
3) 『暗号解読事典』、フレッド・B・リクソン、創元社、2013