将軍家光・家綱を支えた「知恵伊豆」、松平信綱。先日、天気がよかったので、松平伊豆守信綱のお墓参りに行ってきました。
管理人がよく見るNHKの番組『知恵泉』。この番組タイトルは、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱から来ているようです。
今日は、松平信綱、そして彼が眠る平林寺のことを紹介したいと思います。平林寺はまるで異次元の世界のような場所でした。何しろ、蚊がいないのです。この時期に墓所に行っても蚊がいないなんて、・・・。どうです? 興味が湧きました?
松平信綱とは?
松平信綱と聞いても普通の人はあまりピンとこないと思います。管理人もこの人誰?、という普通の人でした。
管理人がこの人物に興味を持ったのは、江戸幕府を支えた様々な改革の礎を築いたのが松平信綱だと知ったことでした。そして、島原の乱で反乱軍の鎮圧にあたったのも松平信綱。キリシタン、皆殺しです。
彼はどんな改革をしたのでしょうか。
いつものようにWikipediaの記述を見てみましょう、と思ったら、あまりまとまっていないので、「江戸人名辞典」より引用します。
1596〜1662 (慶長元年〜寛文2年)
【老中】 「知恵伊豆』と呼ばれた、才気あふれる切れ者老中。
江戸前期の老中。松平正綱の養子。9歳で家光に仕える。「知恵伊豆」と呼ばれる才気で老中となり、家光の幕政を支えた。島原・天草一揆を鎮圧し、川越藩主になった。家光の死後も老中として、四代将軍家綱を補佐した。鎖国の建策をはじめ、明暦大火後の江戸都市再開発、玉川上水の開削など、幕閣の中心として優れた手腕を発揮した。
松平信綱の業績として着目されているものの一つに「明暦の大火」の処理があります。
『明暦の大火』とは、「明暦三年(1657)1月18日に起こった「明暦の大火」。明暦3年旧暦1月18日から20日(1657年3月2日 – 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだ。 」(Wikipedia、「明暦の大火」)。
この対応にあたったのが松平信綱でした。信綱は、この未曾有の災害に罹災した江戸の復興に対し手腕を発揮します。その詳細は調べて頂くとして、彼がなぜそのようなことが可能だったか、それには訳がありました。
松平信綱は当時川越城主でした。彼は忍藩(おしはん:埼玉県行田市)の藩主でしたが、寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発した島原の乱を鎮圧した功績によって、寛永16年1月、3万石加増され、川越藩6万石に転封されました。
ところが、川越藩では、その前年、寛永15年(1638)1月28日の川越大火により、城郭の大部分と城下町の一部を失ない、藩内は混乱状態にありました。この転封はまさに信綱の力量を見込んだものだったと考えられます。そして、信綱は見事にそれを成し遂げます。
信正は、川越城を再建し、川越街道や城下町の整備、 野火止用水 の開削など、防災を考えた被災地復興計画を実行に移していきました。
- 寛永9年11月18日(1632年12月29日)、老中格となる。
- 寛永10年3月23日(1633年5月1日)、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次が六人衆となる(後年の若年寄に相当する)。
- 寛永10年5月5日(1633年6月11日)、老中に任ぜられる。同日、忍藩3万石に封ぜられる。
- 寛永11年閏7月29日(1634年9月21日)、従四位下に昇叙。
- 寛永14年(1637年) – 寛永15年(1638年)、島原の乱の鎮圧のため、九州に赴く。
- 寛永15年11月7日(1638年12月12日)、老中首座となる。
- 寛永15年(1638年)、川越大火
- 寛永16年1月5日(1639年2月7日)、川越藩6万石に転封。
- 川越藩主時代には、川越街道や城下町の整備、野火止用水の開削などに手腕を発揮している。
- 寛永20年11月4日(1643年12月14日)、侍従を兼任。
- 慶安4年4月20日(1651年6月8日)、徳川家光、没。
- 慶安4年(1651年)7月、慶安の変。
- 承応2年閏6月5日(1653年7月29日)、老中首座から老中次座(首座に次ぐ席次)となる。幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可。信綱が総奉行として開削を指揮。
- 承応3年(1654年)、 玉川上水開通(43Km) 。
- 承応4年(1655年)、信綱は玉川上水の功績が認められ、領内の野火止に玉川上水の分水を許され、 野火止用水(24Km)を開削。わずか40日で開通。
- 明暦3年(1657)1月18日-21日、明暦の大火。災害復旧の陣頭指揮を執る。
- 寛文2年3月16日(1662年5月4日)、病没。
玉川上水は、おもに江戸の飲料水確保が目的で開削されました。野火止用水も同様に飲用水・生活用水に使われたようです。野火止用水を関東ローム層の乾燥した台地への用水、という文脈で説明されるとまるで農業用水として使われていたと誤解しますが、違います。
「玉川上水から水を分流させた野火止用水によって一気に武蔵野開発が進んだ。用水によって武蔵野新田八十二か村が誕生し三万石以上の増収を得られた」とテレビで流れていましたが、これって違うように思います。野火止用水の水の用途は「飲料水」と定められています。勝手に農業用に使うことはできません。
これがもし農業用水として使われると話が違ってきます。懸念されるのは水争いです。用水の分水割合は、玉川上水7分、野火止用水3分だったようです。野火止用水を農業用水として使うには、水量が全然足りません。
玉川上水については知りませんが、野火止用水は素掘りの水路をわずか40日で開削したものです。いくらなんでも速すぎる。床締めしていない用水路からの漏水はかなりの量だったと想像できます。なぜ、そんなに急ぐ必要があったのでしょうか。不思議です。
新座市にある『平林寺』とは
1662年5月4日に亡くなった松平信綱ですが、彼のお墓は新座市の『平林寺』にあります。
このお寺はとても有名らしく、うちの奥様は何度か行ったことがあるそうです。でも、管理人は初めて行きました。
場所は、東京と川越の中間に位置する新座市の川越街道沿いにあります。
金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)は、臨済宗の禅寺です。
創建は南北朝時代に遡り、禅修行の専門道場として臨済宗の法灯を今に伝えています。本山は京都花園の妙心寺です。
この「法灯」とは、仏の教えや仏前の灯りなどの意味で、「法灯を継ぐ」と言う場合は、僧侶がお寺を守る、住職から弟子へと教えを伝えていくことを表しているようです。
平林寺はもともと、さいたま市岩槻区にあったのですが、川越藩主松平伊豆守信綱の遺命によりこの地、 野火止 に移転されました、寛文3年(1663年)のことです。信綱はその前年、寛文2年3月16日(1662年5月4日)に亡くなっていますから、まさに「遺命」によりここに移転されたお寺でした。移したのは信綱のあとを継いだ輝綱です。
お寺に入るのに拝観料(入山料)500円を支払う必要があります。でも、支払った金額以上の満足感が得られることは請け合います。このお金は、境内林の維持管理に使われています。
平林寺総門から中に入ります。
入って直ぐの入山受付で、拝観料(入山料)500円を支払います。
近くに大きな案内板がありました。管理人の目的は、「松平信綱のお墓参り」だったので、図の最上部に目指すお墓があります。
境内に入って直ぐに感じたのが『平林寺』の美しさ。圧倒されてしまいました。外の世界とは切り離され隔絶した世界。空気感もまったく違う。
なんなんだ、このお寺は!?
どれほど美しいかは、2009年11月26日午前、(前)天皇、皇后両陛下が紅葉の名所として知られる平林寺を訪問、境内を散策されたことからも分かります。
ここはまさに異次元の世界。平林寺の歴史は他のサイトでご覧下さい。この記事では、実際に訪問したから分かる平林寺の魅力を書きたいと思います。
平林寺の魅力
平林寺が有名な理由は、古き良き時代の武蔵野の自然がそのまま残されていると言うことのようです。
でも、それは嘘です。
平林寺の広大な境内を散策していて感じることは、かなり人の手が入っていると言うことです。何しろ、下草が生えていない!
批判していると勘違いしてもらっては困るのですが、平林寺の境内は、人の手が加えられた人工的な環境であり、決して昔の武蔵野の自然を体感できる場所ではないと言うことです。
そもそも自然って何なのでしょうか。人の手が加えられなければ、林は荒れ果て、草だらけに、次には雑木だらけになります。林を見透すことなどできません。それが手つかずの「自然」です。
林を維持するためには、下草を払い、落ち葉をかき集めるなど、林の手入れが不可欠です。
平林寺の境内に広がる樹林は、下草がきれいに刈り払われており、とても見通しがよくなっています。広大な境内の林地をこれだけ管理するのは大変だと、一目で分かります。修行僧の方たちが毎日、この作業をしているのでしょうか。それとも、入山料を使って、維持管理の外注しているのでしょうか。そうでなければ、この環境は維持できません。
管理人が奇妙に感じたことは、境内のどこにも虫がいないことでした。大量の殺虫剤を散布しているのではないかと思うほど虫がいない。
お墓巡りが好きな管理人は、この時期にお墓に行くと蚊の大群に襲われることを心配していました。ところが、平林寺では一匹の蚊すら見かけない。虫もまったく来ない。何なんだ、この空間は! まさに異次元空間に迷い込んだような気がしました。
境内は、どこにいても心地よい空間が広がっていると感じます。林地を散策していてもその感覚は同じ。とても心地よい。
どうしてそのように感じるのか分からないのですが、本当に気持ちのよい空間です。癒やされる、という言葉が最も当てはまるような思います。
下の画像は放生池。池のそばには必ずいる虫が一匹もいない! これも信綱の力なのでしょうか。キリシタンだけでなく平林寺の虫たちも皆殺し?
こんな林の中でも虫がよってきません。
境内林の奧に「島原の乱供養塔」があります。
立て看板には、「この戦いによってなくなった人たちの霊をなぐさめるためと、先祖の松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるために、三河国吉田藩松平伊豆守家の家臣である大嶋左源太が、文久元年(1861)に大河内松平家の菩提寺である平林寺に建立したものです。」
よくわからない慰霊碑です。慰霊のためならここに建てる必要はなく、やはり、説明の後者の方、「松平伊豆守信綱の足跡を知らしめるため」に建てられたという事でしょう。しかし、建立されたのは、信綱の死後200年目の年です。
これより先が「大河内松平家廟所」となるのですが、この慰霊碑の後ろにも墓地が広がっていたので、散策しました。
すると「前田卓(まえだ つな)」のお墓がありました。
えって、前田卓が誰なのか知らない? 夏目漱石の小説『草枕』に登場する熊本小天温泉の美人「那美」のモデルとされる人です。漱石の小説は全て読んでいる管理人は、前田卓の墓を見つけたとき、「この人誰?」と思いました(笑)。誰がモデルかなど覚えていません。
ここにも虫がいない。
いよいよ松平伊豆守信綱の墓所です。
最初、この場所が見つからなく困まりました。見つからなかった理由がこれ。
信綱の墓所の真ん前に陣取るトラッククレーン。墓所の入口を塞いでいます。
「大河内松平家廟所」をグルッと一回りしたのに信綱の墓所が見つからない。近くに案内板があるのですが、概略図過ぎてよく分からない。
そこでGoogleマップで確認したら、ちょうどトラッククレーンが通せんぼをしているあたりにあることが分かりました。
トラッククレーンのアウトリガーの脇を通り抜けると、ありました。やっと到着です。心を込めてお参りしました。
平林寺の境内林は観光として有名で、特に紅葉の時期は素晴らしいようです。しかしこのお寺は、禅の修行道場であり、修行僧がたくさんいるようです。12月は摂心(修行)期間に入るために入山禁止となります。
新型コロナウイルスの影響により、6月1日から拝観が再開されたばかりでした。
天気のよい日に、また訪れたい場所です。今度は、紅葉の秋がよいでしょう。