2023年11月17日放送のNHKの「チコちゃんに叱られる! 」を観ていたら、不思議な言葉が耳に入ってきました。
それが、「一番最初」という、およそNHKには似つかわしくない表現です。
NHKのアナウンサーが、「一番最初」と言ったので驚きました。
これを塚原愛アナウンサーが言ったのなら別に驚くことはなかったのですが。また、愛ちゃん、先輩アナに叱られる! と感じた程度でしょう。
ところが、今回、「一番最初」と言ったのは、NHKのエグゼクティブアナウンサー、森田美由紀さんだったから驚きました。「チコちゃんに叱られる! 」で語りを担当しているのが森田アナです。
NHKアナの重鎮、森田アナが間違える筈がない。ということは、「一番最初」という表現は、NHKアナウンサーが使っても良い言葉なのではないか。そう考えました(結論を書くと使ってもいいようです)。
「一番最初」という日本語は、「重言」表現とされます。「一番」も「最初」も同じことを表しており、通常、このような表現は誤りとされてきました。
しかし、言葉は常に揺れ動いています。何が正しいのか、誰にも分からない。○○に書かれているから、その表現は間違っている、という子供じみたことを大人は言ってはいけない。言語は時代とともに変化しているのだから。
字幕に見る「ら付き言葉」って、日本人は誰も使っていない
テレビを観ていると、街角の人たちが言ったことが字幕で表されるケースがあります。街頭インタビューなどでよく見かけます。ここで気になるのが、「ら抜き言葉」です。インタビューに答える一般人は、誰も「ら付き言葉」を話していません。それなのに、字幕は常に「ら付き言葉」が流されます。これって、インタビューに答えた方に失礼な行為です。あなたの日本語は間違っていますよ、と指摘しているように感じます。
言語学者は、言葉は時代とともに変化するものであると認識しているので、「間違っている」とは決して言いません。間違っていると騒ぎ立てるのが、子供のような発想、つまり、誰かが決めたルールを正しいと信じ込んでいる一部の大人です。そのルールを決めた学者がルールを変更しようと思っているなどとは考えもしないのでしょう。
以下の文章をご覧ください。NHKのHPからの引用です。
「下記は,視聴者からの投書を1964(昭和 39)年の放送用語委員会で議題にしたものである。」として、次のコラムが書かれています。
「午後の散歩道」で「見られます」を「見れます」といった。
出典:「日本語は乱れている:9 割」時代の実相 ~日本語のゆれに関する調査(2013 年 3 月)から②~、メディア研究部 塩田雄大 / 滝島雅子、放送と調査、2013.10
… 現在では投書の指摘のように「見れる」という言い方を耳にすることもあるが,放送のことばとしては適当とはいえない。
※ 傍線は原文のとおり
(番組研究部用語研究班(1964 )「放送用語メモ(18)」『文研月報』14-11 に掲載)
「見れる」が適当ではないとの認識のようです。
ところで、次の文章はどう理解しますか。
① 猫の裸を見られました。
② 猫の裸を見れました。
この二つの文章は同じことを言っていると思いますか?
さらに、
③ 猫に裸を見られました。
④ 猫に裸を見れました。
③の意味は分かりますが、④の表現は意味不明です。④の表現をする人は皆無でしょう。このことが、単純な「ら抜き」が「ら付き」の省略形という説の反証になっているように思います。
①と②に戻って、もう一度、よく見てください。②の方が、「見ることができた」というニュアンスが含まれているように思います。①と②は決して同じではありません。つまり、「ら付き」、「ら抜き」でどちかが正しい、というレベルではなく、「ら付き」で言う場合と「ら抜き」で言う場合とでは表現したいニュアンスが異なる、と感じます。
「ら抜き」が省略形という考え方から脱却できない人は置いといて、「ら抜き」を正規の表現方法として捉え、「ら付き」とのニュアンスの違いを研究するのが、正しい研究姿勢のように思います。
街頭インタビューと字幕の差。街頭インタビューで話した人たちは誰も「ら付き言葉」を話していません。「ら付き」字幕が空しく流れます。
頼朝は「馬から落馬」したのか|吾妻鏡の記述
源頼朝が落馬して亡くなったのは事実と考えられています。Wikipediaには以下のように記載されています。
建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬とも病気とも言われるが定かではない。建久10年(1199年)正月11日に出家。正月13日に死去した。享年53(満51歳没)。
Wikipedia
さて、『吾妻鏡』にはどのように書かれているのでしょうか。「鎌倉殿が馬から落馬」と書かれているとおもしろいのですが。気になったので調べてみます。
実は、『吾妻鏡』には、頼朝の死(1199年)の前、三年間(1196年から98年(建久七年〜九年)の記述がまるで欠巻のように存在しません。
頼朝落馬の話が出てくるのが、『吾妻鏡第二十巻』建暦二年(1212)二月大廿八日乙巳(2月28日)の条。頼朝の死の13年後です。
そこには以下のように書かれています。
建暦二年(1212)二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋數ケ間朽損。可被加修理之由。義村申之。如相州。廣元朝臣。善信有群議。去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結縁之。故 將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。
『吾妻鏡第二十巻』建暦二年(1212)二月大廿八日乙巳
残念ながら、「御落馬」でした。
日本語には「正書法」がない
日本には、そもそも「正書法」というものが存在しません。「正書法」とは文字通り「正しい書き方」のことです。日本語はとても特殊な言語で、「正書法」がなくても誰も困らないし、それを意識することすらありません。「正しい書き方」があれば、その反対の「誤った書き方」があります。英語では、「haze」(霞)という語は、これ以外の書き方は許されない。これ以外の書き方は誤りということになります。
この項に関心のある方は、過去記事をご覧ください。
最後に、「歌を歌う」を考えてみましょう。これは明らかに「重言」表現です。では、間違っているのでしょうか。「歌う」だけでよいのでしょうか。
耳で聞いただけでは、「歌う」なのか「唄う」なのか「謳う」なのか「謡う」なのか「詠う」なのか分かりません。「うたをうたう」と聞いて、初めて「歌を歌う」と理解できます。「唄を唄う」と考えた人がいるかも知れませんが。
先日、「ダ・ヴィンチ・コード」がテレビで再放送されていたので録画して観ました。今回は、字幕を読まずに登場人物の話す英語のみ聞いていました。そこで感じたのが、英語のボキャブラリーの少なさです。何でもかんでも「I’m sorry.」の一言で終わり。
日本人にも「重言」が分からないのですから、日本語を勉強している外国人はもっと分からないと思います。「正書法」がない日本語の言葉が正しいと感じるか、間違っていると感じるかは、時代とともに変化します。
そして、在日ロシア人が作成している詐欺サイトを一目でおかしいと判断できる日本人。なぜ、おかしい文章だとバレたのか、詐欺サイトを運営する在日ロシア人には一生理解できないと思います。お気の毒様。