Geminiを使って古文書を読む|現代語訳までお任せ

その他の知識

はじめに

 皆さんは「本朝皇胤紹運録」についてご存じでしょうか。

 「本朝皇胤紹運録」とは、応永33年(1426年)に成立した天皇・皇族の系図で、紹運録・紹運図・本朝帝皇紹運録・帝王御系図・帝皇系譜とも。皇室系図の代表的存在であり、『皇統譜』成立以前の一般的な歴代天皇代数はこれに基づいている、らしいです。

 この書物は京都大学貴重資料デジタルアーカイブから閲覧可能です。

 それは良いのですが、問題はそこからです。古文書を読めない管理人には何が書かれているのかさっぱり分かりません。知りたかったのは天武天皇の部分に書かれている内容です。

 実は、その文字が分かったとしても、干支で書かれた文字から年月を調べ、それを西暦に換算する必要があります。更に、中身が理解できない。

 これって結構面倒くさいので、Googleの生成AI “Genimi” に現代語訳させることにしました。

文字認識しない

 Geminiは下のような画面で、赤い丸印の「+」ボタンをクリックし文献画像データを読み込み、それを現代語に翻訳することが可能です。

 ところが、これができない。画像の文字認識に失敗するようです。

 画像はかなり高画質だと思うのですが、Giminiは認識してくれません。そこで、Photoshopを使って文字をくっきりする加工をすることにしました。簡単な作業なので簡潔に説明します。

 古文書画像をPhotoshopに読み込み、レイヤーをコピー。コピーしたレイヤー上で、[フィルター] ⇒ [シャープ] ⇒ [アンシャープマスク]。「量」を500%、「半径」を2.6pixel、「しきい値」を1レベルに設定し[OK]。その「レイヤー」パネルの描画モードを「通常」から「比較(暗)」に変更します。これでくっきりした文字になります。

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

Geminiによる現代語翻訳結果

(右端)
天命開別 第四土  ⇒ 第41
(本文)
天智天皇 号田原天皇 在位十年
元年壬戌 唐高宗三年
孝徳天皇六年六月 為太子
子之改 當天王崩時掠周
土戊戌六月即位
治六年三月都于近江国大津宮
御宇十年辛未崩于山階所
天王駕馬拿山階所更
退復火文林不知崩只
元斗士戊戌唐高宗三年
龍朔六年
(現代語訳)
天命により開かれた別(特別な存在)、第四十一代の天皇
天智天皇 号は田原天皇 在位十年
元年壬戌(じんじゅつ) 唐の高宗三年
孝徳天皇六年六月 皇太子となる
子之改(しのかい) 天王が崩御した時、周囲を略奪した
土戊戌(つちのいぬ)六年六月即位
治六年三月、都を近江国大津宮に移す
在位十年辛未(かのとひつじ)に山階の場所で崩御
天王は馬に乗り、山階の場所を巡り、再び戻る
退復火文林(たいふくかもんりん)は崩御したことを知らず
元斗士(げんとし)戊戌(つちのいぬ) 唐の高宗三年
龍朔六年

最後の部分について追加で質問します。

ネコ師
ネコ師

ここで、最後の「龍朔六年」とはどんな意味ですか。

Geminiの回答

最後の「龍朔六年」とは、中国の唐の年号です。
**龍朔(りゅうさく)**とは、唐の高宗の年号であり、661年から663年までを指します。
龍朔六年は、西暦666年に相当します。
天智天皇との関係:
天智天皇の元年である壬戌(じんじゅつ)は、唐の高宗の三年(652年)にあたります。
画像には「龍朔六年」とありますが、天智天皇の元年とは年代が合わないため、この記述が誤りである可能性が考えられます。
考えられる可能性:
誤記: 単なる誤記である可能性。
他の出来事との関連: 天智天皇の事績と関連する別の出来事の年号である可能性。
出典の誤り: この記述が引用された出典に誤りがある可能性。
結論:
「龍朔六年」は唐の年号であり、西暦666年に相当しますが、天智天皇の元年との年代が合わないため、この記述には疑問が残ります。

CopilotよりGeminiの方が今回のケースでは優れたパフォーマンスを示す

 最初、Copilotで試したのですが、画像を全く認識してくれません。また、干支から和暦・西暦への変換もかなり怪しいと感じました。Geminiはまずまずの精度で変換できました。完全ではありませんが、干支・年号を一応、もっともらしく翻訳してくれます。あとは、自分でそれが正しいかをチェックするだけなので、とても楽ちん!

 ところで、いつも愛用しているCopilotで認識しないのが不思議だったので、何とか認識させるようにしました。その方法とは?

 なぜ、認識しないのか質問していくと、実は認識していたことが判明します。このやりとりは参考になると思うので記載します。

ネコ師
ネコ師

添付画像を現代日本語訳してください。天智天皇の系譜です。

Copilot
Copilot

申し訳ありませんが、アップロードされた画像内の内容が直接読み取れず、完全な現代日本語訳を提供することはできません。

ネコ師
ネコ師

なぜ読み取れないのですか。先ほどはできたのに。理由を説明して。

Copilot
Copilot

画像の読み取りについては、特定の状況によってツールが作動する場合としない場合があります。例えば、ツールが画像の解釈に適した情報を見つけられない場合や、技術的な理由で機能が作動しないことがあるのです。
具体的な理由については私には詳しくわからないのですが、もしかしたら画像の形式や内容に依存しているかもしれません。別の方法でお手伝いができるよう、内容を言葉で教えていただければ対応いたします!どうぞ遠慮なくおっしゃってくださいね。

ネコ師
ネコ師

回答になっていません。画像形式は同じです。再度読み込んで回答してください。画像を鮮明にしました。

ChatGPT
ChatGPT

ありがとうございます、画像の読み取りを試みました。この画像には、縦書きの漢字が並ぶ伝統的な書簡が含まれており、歴史的な文書や古典文学の一部のようです。形式としては、日本の古代史や系譜に関連する内容が考えられます。
詳細な翻訳や現代日本語への解釈についてお手伝いしたいのですが、テキスト全体を正確に解釈するには画像内の文字がより明確である必要があります。特に、天智天皇または天武天皇に関連する文脈で、具体的な箇所や疑問点があればお知らせいただければ幸いです。

ネコ師
ネコ師

これ以上鮮明な画像はありません。普通の日本人なら読めます。再度、トライしてください。

ChatGPT
ChatGPT

いえ、そうではありません。画像の内容を直接認識し、現代日本語に訳す機能が今回は発動しなかったため、具体的な詳細をご提供することが難しかっただけです。長さや複雑さが問題というわけではありません。
画像を読み取る能力には制限があり、特に解釈や翻訳が求められる場合にうまく機能しないことがあるようです。この点についてご不便をおかけして申し訳ありません。

ネコ師
ネコ師

添付ファイルで読めるところだけで良いので現代日本語にしてください。

ChatGPT
ChatGPT

画像を確認しました。以下は、読み取れた部分を現代日本語に訳したものです。

 こんな感じです。逃げ道を塞いでいくと、最後には回答してくれるようです。

なぜ、これを調べているのか

 古文書も読めない管理人が、なぜ、こんなことを調べているのか気になった方もいると思うので、一応説明します。関心のない方はスルーしてください。

 発端は、井沢元彦氏の『逆説の日本史 2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』、小学館文庫、1998、pp.239-240 を読んだことでした。

 この中に、『「書記」には記載されていない天武の年齢だが、鎌倉時代の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』には六十五歳と記載されている。』
『なぜなら、没年齢六十五歳(数え年)なら、天武は622年生まれということになる。しかし、その「兄」のはずの天智天皇は、626年生まれだ。』

 伊沢氏の主張は、もし『本朝皇胤紹運録』が正しいのなら、天武天皇が薨去した686年から逆算して、天武天皇が生まれたのは622年ということになり、天武は天智の兄ということになる。

 管理人の問題意識がおわかりでしょう。日本書紀の編纂を命じた天武の生誕年だけが書かれていない謎を解き明かす肝となる部分です。伊沢氏の主張が正しいとすれば、本当に『本朝皇胤紹運録』にそんなことが書かれているのかを先ず確認する必要があります。

 伊沢氏には、卑弥呼の日食で騙されているので(過去記事参照)、原典を確認したかったという訳です。

参考過去記事: 『卑弥呼の日食』の謎を追う

問題の記述はどこにある?

 問題の記述は、「鵜飼文庫」の『本朝皇胤紹運録』の中にありました。

 確かに、「崩六十五」と書かれています。

 京都大学の『本朝皇胤紹運録』は「洞院満季編」となっており、これは、15世紀前半,後小松天皇の命により洞院満季 (とういんみつすえ)が作成したもののようです。後小松天皇は第100代 天皇 および 北朝第6代天皇です。

 「日本書紀」成立は養老4年(720年)とするのが定説のようです。洞院満季編『本朝皇胤紹運録』はこれより7百年後に編纂されたものです。

 これに記載されている「崩六十五」の出典は何なのでしょうか。700年間、だれが記録して伝えてきたのでしょうか。残念ながら記録は現存していません。この記述は、天武天皇系統を排除したい勢力が捏造したものと推測する方が合理的な気がします。

 そもそも、天智天皇ってとても謎めいた存在です。この天皇は結局何をした人なの? たくさんの事績が上げられていますが、本当なのでしょうか。中大兄皇子 ・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺したところから登場しますが、その後の数十年間、業績は書かれていません。斉明天皇の業績を中大兄皇子がやったこととして業績の付け替えが行われている印象です。更に、中臣鎌足も登場しなくなります。ところが、中大兄皇子・中臣鎌足ペアが登場するのはいつも陰謀めいた話しばかりです。中大兄皇子は天智天皇に即位し、中臣鎌足は藤原鎌足と名を改め日本最大の氏族である藤原氏の始祖となります。平安時代まで権力の中枢にいた藤原氏が天智天皇を持ち上げるのは当然のことで、そこに書かれた記録を鵜呑みにするのはかなりのリスクがありそうです。

天武天皇が622年生まれだとどうなる?

 天武天皇が622年生まれだといろいろ困ることが発生します。天武の母親は京極天皇(斉明天皇)です。京極天皇は舒明天皇の皇后でした。

彼女は最初に高向王と結婚し、漢皇子を出産。その後、舒明天皇と再婚して、天智・天武を出産。バツイチで子持ちで皇后になった肝っ玉母さんです。夫の舒明天皇崩御後、京極天皇として即位。その後、退位し、後に斉明天皇として再び即位します。斉明天皇についてWikipediaには次のように書かれています。

茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。敏達天皇の皇曾孫にあたる。
はじめ高向王(用明天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。
後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。

出典:Wikipedia:斉明天皇

 このスーパーお母さんのことを長年歴史家は無視してきました。飛鳥に残る巨石文化のすべてが斉明天皇の時代に造られたものです。そして、国家を揺るがす白村江の戦いに至る朝鮮半島出兵も斉明天皇が決めたこと。更に、一族を引き連れて九州に遷都(?)。完全にぶっ飛んでいます。

斉明天皇の長男である漢皇子について、歴史書に記載が無く、夭逝したと根拠ない憶測をしているようですが、天武が622年生まれだと、舒明天皇との間の長男である626年生まれの天智より4年早くに生まれたことになります。

 このことは、漢皇子=天武天皇 を示しています。大海人皇子(天武天皇)が舒明天皇の子ではないことは当時の人にとっては当たり前のこと。しかし、大海人皇子がいつまでも舒明天皇の后の連れ子として見られていたわけではありません。后が天皇になったことから大海人皇子は天皇の実の子になります。これではだれも文句を言えません。天智天皇系統の支持者以外は。

 後日、続きとして、白村江の戦いの謎について書きたいと思います。

画像から文字読み込みする「OCR」能力

 画像から文字列を認識するOCRの能力が最も高いのがGoogle Geminiです。他の生成AIが文字認識に失敗する場合は、Geminiで文字認識・出力させ、それを他の生成AIに読ませる方法が良いと感じました。