三角錫子と「真白き富士の根」と逗子開成中学ボート転覆事故の謎を追う

古代の謎・歴史ヒストリー

「三角錫子」と聞いてピンと来る人は、鎌倉近くにお住まいの方か、あるいは特定の学校関係者の方なのではないでしょうか。

 今日は、この女性、そして彼女が作詞したとされる「真白き富士の根」、さらに明治の終わりに発生した逗子開成中学ボート転覆事故の謎に迫ります。今から110年前の事故です。

 三角錫子にまつわる謎とは一体何なのか。

 情報が抜け落ちて伝わると、思いもしない印象を与えるという好例を紹介する記事かも知れません。

三角錫子のことを知ったのは

 管理人が三角錫子という女性のことを知ったのは『泉秀樹の歴史を歩く』というJ:COMのテレビ番組でした。

 この番組に「江ノ電沿線史 一駅一話」というシリーズがあり、江ノ電沿線の史跡を案内する内容になっていました。

 その中で(たぶん、「藤沢〜江ノ島編」)、逗子開成中学校ボート遭難のことを初めて知りました。1910年(明治43年)1月23日、中学校のボートが転覆し、12名の生徒が亡くなったという事故です。追悼式において、鎌倉女学校の三角錫子教諭が作詞した「真白き富士の根」が歌われたと説明がありました。

 この番組の中で、泉秀樹氏による気になる説明がありました。この三角錫子教諭は亡くなった生徒の一人と愛人関係にあった、と。

 三角錫子は、後にトキワ松学園中学校・高等学校の設立者となる人物です。こんなことテレビで言っていいの?

 どうでもよいことなのですが、少し気になったので調べてみました。何が気になったのかというと、「愛人」という情報の出典は何かということです。

 すると、思わぬ展開に。史実って何なのだろう?

三角錫子って誰?

 早速、三角錫子とは誰なのか、Wikipediaで確認してみましょう。

三角 錫子(みすみ すずこ、1872年5月26日(明治5年4月20日) – 1921年(大正10年)3月12日)は、石川県金沢市出身の日本の教育者。

金沢藩藩士の三角家長女として生まれた。女子高等師範学校卒業。北海道札幌区女子尋常高等小学校、東京女学館、女子高等師範学校、北海道師範学校、私立横浜女学校、私立東京高等女学校などで教鞭を取った後、一時病気療養で休職し逗子で転地療養していた。1908年4月、鎌倉女学校、東京高等女学校などで教鞭を取った後、常磐松女学校(現トキワ松学園)を創立、初代校長となった。1910年1月23日に起きた逗子開成中学校ボート転覆事故の鎮魂歌『七里ヶ浜の哀歌』の作詞者として知られる。 <span class="su-quote-cite"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E9%8C%AB%E5%AD%90" target="_blank">三角錫子、Wikipedia</a></span>

 ここには、「愛人」の話は書かれていません。いろいろ調べていくと、宮内寒弥という小説家の『七里ヶ浜』に書かれているらしいことが分かりました。

 そして、Wikipediaの「宮内寒弥」の項には、次のように書かれています。

1978年、父と1908年の七里ヶ浜遭難事件のことを描いた『七里ヶ浜』で平林たい子文学賞を受賞したことで一躍話題となった。宮内の父は逗子開成中学教諭だったが、生徒らのボート遭難事件の責任をとって辞職させられた。この事件は教師 三角錫子が作詞した「七里ヶ浜の哀歌」(真白き富士の根)で有名だが、日本中の同情を呼んだこの事件の遭難生徒たちは不良で鳥撃ちのためボートを出しており、中には既に二十歳近い三角の愛人生徒もいた という事実を明らかにしたものである。父は三角の文学趣味を憎み、宮内に対して結婚するまで文学書を読まないよう命じたという。<span class="su-quote-cite"><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%AF%92%E5%BC%A5" target="_blank">宮内寒弥、Wikipedia</a></span>

 なるほど、三角教諭は子供と愛人関係にあったらしい・・・。

 直感的に、この情報はおかしいと感じます。

 この二つのWikipediaの記事から、皆さんは三角錫子に対してどのような印象を受けたでしょうか。

 まず、これらのWikipediaの記述から受ける「三角錫子」という女性のイメージを思い描いて下さい。今日の謎解きは、ここからスタートします。

 この二つの記事の記載内容には間違いはありません。事実が述べられています。しかし、本来書かれるべき情報が抜け落ちていたとしたらどうでしょう。

ネット社会は何でも知ったかぶりになる仮想の社会

 Wikipediaはとても便利です。項目によっては読むに堪えないようなものもありますが、多くの項目は、それなりの知識のある方が執筆されているようです。

 しかし、上で示したWikipediaの記事にはいくつか問題をはらんでいます。それは、読者をミスリードする恐れがあるという問題です。

 あなたが思い描いた「三角錫子」という女性のイメージはどんなものでしょうか。

 ネットで検索してみると、「愛人」、「中学生と教師が」というワードに吊られて「不潔感」を感じる人もいるようです。

 ネットで情報を発信している人、書き込みをしている人は、誰かが書いた孫引きの記事を読んでその情報を知り、それに基づいて評価している。元の出典となる文献を読んだ人は、ほとんどいないのではないでしょうか。何ともかわいそうな人たちです。

 Wikipediaの「宮内寒弥」の項を執筆した人も、彼の書いた『七里ヶ浜』は読んでいないのではないかと思います。もし読んでいたとしたら、

意図的に曲解した文章をWikipediaにアップした!

ことになります。それこそ大問題です。

 宮内寒弥の『七里ヶ浜』p.176 には、確かに次のような一節があります。

 「・・・彼女と遭難生徒の一人とは特別の感情で結ばれていたとも言われる。」

 しかし、p.181には、「美貌で女高師出の才媛であった彼女と、東京帝国大学志望の秀才で眉秀でたる美男子でもあり、均整のとれた体格の持主の水泳選手でもあり、性格も温順であった遭難一号生徒木下三郎(五年生・二十歳)との間に年齢を超越したロマンスが芽生えていたとの噂も残っているが、無論、二人が恋人同士の間柄になっていた筈はない。」とあり、宮内は、愛人説を完全否定しています。

 すると、「愛人説」を唱えている人は何を根拠にそのように主張しているのでしょうか。つまり、このような人たちは、愛人説の唯一の根拠とされる宮内の本を読んでいないのです。

三角錫子は結婚していた

 宮内寒弥は、自身の父親の結婚相手となる可能性のあった三角錫子のことをかなり詳しく調べています。しかし、見落としがありました。それは、彼女に離婚歴があると言うことです。

 宮内は、三角のことをいつの間にか理想の女性のように神聖化してしまっているように感じます。三角は一度も結婚したことがなく、生涯独身だったと宮内は考えていました。そのように考えていた証拠は『七里ヶ浜』の随所にみられます。

 三角錫子が結婚していたという情報については、ネット上で見つけることはかなり難しいと思います。Wikipediaなど三角の略歴を紹介している記事のどこにも結婚のことは書かれていません。情報が抜け落ちているのです。だから、「愛人」トラップに引っかかった人たちは、宮内と同じように三角は生涯独身を通したと勘違いしてしまう。その知識で「愛人」問題を考えるから間違った方向に向かっていく。

 三角は、1892年に札幌に赴任後まもなくして父親が亡くなったため、4人の弟の養育の責任を負うことになります。

 1897年(明治30年)、三角錫子は北海道の資産家と結婚します。しかし、教職を続けることを反対されたため、別居して上京し、弟たちの面倒を見ることになります。三角の結婚生活は4年に及びますが、夫と暮らしたのはその半分の期間でしょう。三角は弟たちを扶養し、金銭的に支える必要があったのです。

 このことを宮内は知りませんでした。彼は三角が一度も結婚したことがないと思い込んでいました。もし知っていたら、徳冨蘆花の小説『不如帰』のヒロイン浪子と三角錫子とがダブル部分を再発見したと喜んだことでしょう。「不如帰」は明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説です。後にベストセラーになります。宮内の『七里ヶ浜』のストーリーの柱ともなる重要な小説です。

 三角錫子の詳細な経歴書は以下の通りです。

三角錫子経歴
三角 錫子(みすみ すずこ、1872年5月26日(明治5年4月20日) – 1921年(大正10年)3月12日)48歳9ヵ月

1872年5月26日(明治5年4月20日)旧藩士の三角風三、房子の長女として、金沢市に生まれる。
1892年(明治25年)3月24日 東京女子高等師範学校数学科卒業
1892年(明治25年)4月28日 北海道札幌区札幌女子尋常高等小学校訓導。静岡に父風三を一人残して、祖母、母、と4人の弟を連れて札幌に赴任
 1897年(明治30年)2月  資産家の富所広吉氏と結婚。教職を続けることを反対されるようになる。 

1897年(明治30年)4月19日 同校依願退職
1897年(明治30年)8月   夫と別居し、弟の進学のため弟3人をつれて上京。1年で札幌に戻る約束。
1897年(明治30年)9月11日 東京女学館教授
1898年(明治31年)5月5日  女子高等師範学校訓導
1898年(明治31年)8月5日  依願免本官。夫との約束の1年が経過したため北海道に戻る。
1899年(明治32年)10月18日 北海道師範学校訓導
1901年(明治34年)3月30日 休職。弟の面倒を見るため上京。
1901年(明治34年)4月3日 神奈川県私立横浜女学校教員
1901年(明治34年)7月    協議離婚 

1903年(明治36年)4月1日 私立東京高等女学校教員
1906年(明治39年)5月   病気休職(肺結核
1908年(明治41年)4月   逗子開成中学校近くの田越村逗子に転地療養。鎌倉女学校教師
1910年(明治43年)1月23日 ボート転覆事故発生 事故当時年齢 37歳8ヵ月
1911年(明治44年)     3月には鎌倉女学校を退職
1916年(大正5年)     常盤松女学校を創立。校長
1921年(大正10年)3月12日 死亡

 三角が結婚していたかどうかなど些細なことです。しかし、「愛人」問題が絡んでくると、些細なこととは言えなくなります。

 三角の経歴を調べると、彼女は常に実家の家族のことを最優先に考えています。三角家の長女として弟たちの支援に奔走している。三角が資産家と結婚したのも、経済的な問題も影響しているでしょう。

 宮内の父親、石塚巳三郎は、ボート転覆事故当時、逗子開成中学校の舎監でした。事故が発生した当日、石塚巳三郎教諭は転勤する同僚を見送りに逗子駅まで行き、そのまま、鎌倉まで足を伸ばします。その時に三村生徒監から結婚話を持ちかけられます。相手は三角錫子。

 舎監であった石塚は事故の責任をとって中学校を退職します。このため、三角との縁談話は立ち消えとなります。

 このような経緯を宮内はとても詳しく書いています。まさに、彼が書きたかった部分です。宮内にとって、この事故さえ起きなければ三角は自分の母親になっていたかもしれない女性です。そして、まるで縁談がまとまりかけていた、あるいは三角が父石塚巳三郎の許嫁でもあるかのような錯覚に陥っているように感じます。

 しかし、岡目八目。管理人の目からは宮内の文章は事実とは思えない。

 まず、年齢です。三角の年齢は事故当時、37歳8ヵ月でした。ほぼ38歳。一方、石塚巳三郎は、明治14年(1881年)2月1日生まれなので、28歳11ヵ月22日。ほぼ29歳です。二人の年齢差は9歳です。石塚巳三郎は初婚です。

 三角先生は、結婚するということには乗り気だったのかもしれません。ただし、条件を出しています。

 「新居はベルツ博士が指定した湘南地方に限り、通勤に便利な逗子か鎌倉か、遠くても片瀬か鵠沼の海岸に近いオゾン適量地帯に持つこと。結婚後も自分は現在の教職を去らないこと。その報酬の一部を4人の弟に対する扶養の義務が終了するまで生家に仕送ること。健康上に害が及ぶ程には過度でない範囲で規則正しい夫婦生活を営むこと、など」6)p.14

 石塚も三村も、三角がまさか4年間も結婚しており、その後離婚した女性だとは夢にも思わなかったでしょう。職業婦人が少なく、教師が離婚するなど考えられない時代だったので、そのような彼女の過去は頭の片隅にさえ浮かばなかったと思います。たぶん、三角はそれをほのめかしているはずですが、聞く側が想定していない出来事なのでそれを理解できない。

 問題は三角の病気です。彼女が患った肺結核は当時としては不治の病。現代でも完治が難しい病です。「不如帰」の浪子は結婚早々肺結核を発病し、そして亡くなります。

 「不如帰」の悲劇のヒロイン浪子は実在の人物をモデルにしています。モデルにされたのは「大山信子」です。信子の父親は大山巌、母親(義母)は大山捨松。

 ここでも捨松が出てきます。明治維新の5人の女子留学生のひとりです。本サイトでも何度か紹介しています。

 信子は結婚して直ぐに結核を発病。実家に連れ戻され、夫とは離縁。実家に戻った信子は、隔離のために新築された離れで亡くなります。結婚生活は二ヵ月足らずでした。わずか20歳の短い生涯でした。

 実家に戻った信子を大山家の離れに隔離したのは義母の捨松でした。その仕打ちを世間は非難しますが、アメリカで最新医療を学んだ捨末は、信子の弟たちへの感染を恐れていたのです。このような背景も知らずに書かれた捨松についての書物を読むと悲しくなります。

 肺結核を患っている三角は、転地療法のため季候のよい逗子に住むことになります。しかし、逗子に移住して直ぐに女学校の教師に就職しています。現代なら大問題になるでしょう。結核患者の隔離解除は、排菌がなくなってからを目安とするようですが、慎重な判断が求められるようです。当時は、排菌消滅の確認などできなかった時代。一歩間違えれば校内感染に発展するリスクもあったわけです。

 ネット上の記事を観ると、「病状が回復したので」と思い込みの記事を見かけますが、それがデタラメなのは、上で示した経歴書を見れば明らかです。三角は排菌状態にあった可能性もあります。

 管理人の母親も結核に罹り、その影響で管理人も小児結核に罹ったようです。小学生の時、ツベルクリン反応がとても激しく出るので困った記憶があります。あと数ミリ腫れが大きければ精密検査。いつもそんな綱渡りのような状況でした。結核はやはり怖い病気です。

 Wikipediaに書かれている情報だけを読んで「三角錫子」という女性を評価するとすれば、「オールドミスの色ぼけ女教師が若い中学生を愛人にして、その後、学校まで設立している。」というような評価になることは想像に難くありません。

 でも、その判断は正しいのでしょうか。母親や弟たちを養い、大学に入れるなど面倒を見ていた三角錫子。離婚したのも、実家の家族のことばかりで婚家のことを顧みない錫子にも原因があったのでしょう。

 「愛人説」の唯一の出典となっている宮内の『七里ヶ浜』。宮内は三角の結婚・離婚歴を知りませんでした。

 もし、宮内が、三角の離婚歴を知っていたとしたら、三角と父親との縁談話に疑問を持ったはずです。9歳も年上でバツイチ。しかも肺病やみで扶養すべき兄弟が4人もいる。三村生徒監は本当にこのような縁談話を初婚の父親にしたのだろうかと。

逗子開成中学校ボート転覆事故とは

 逗子開成中学校ボート転覆事故とは、明治43年(1910年)1月23日、逗子開成中学の生徒11名と小学生1名の計12名がボートで遭難した事故です。

 ここで現代人の落とし穴(その1)。中学、小学は旧制のものなので、現代の学制と勘違いしてはいけません。

 明治43年(1910)1月23日の日曜日、神奈川県・逗子開成中学校の生徒11名と小学生1人の計12名が、逗子開成中学に近い逗子町の田越川河口、鐙摺(あぶずり)海岸から9時半ころ、江ノ島に向けてボートをこぎ出しました。闇鍋にする食材確保のために、学校のボートを無断で持ち出し、江ノ島まで鳥撃ちに出かけたのでした。

 事故は七里ヶ浜の行合川の沖合い、1.5キロ辺りで起きました。地元の漁師たちが「ならい」と呼んで怖れる七里ヶ浜沖に吹く強い突風によりボートが転覆したものと考えられています。乗っていた12名全員が死亡しました。

 一説には、江ノ島の帰りとも、あるいは、行く途中で転覆したとも言われています。

 午後2時半頃、いか釣り船が港に帰る途中、波間に漂う人影を発見します。ボートのオールにつかまって漂流していたのは木下三郎。水泳が得意な生徒でした。木下を船に引き揚げると息があります。彼は生きていました。しかし、まもなく息を引き取ります。亡くなったのは船の上、あるいは、浜に上がってから、と諸説あります。真実を伝えようとするのではなく、脚色してでも感動的な内容にしようとする人たちがたくさんいるようです。

 この木下三郎は当時19歳。たぶん、三角先生と噂のあった生徒です。三角教諭は、まさかそんな噂が立てられているとは、死ぬまで知らなかったことでしょう。

 海上で偶然漁船に発見された木下。彼を助けた漁民たちは、まさか残り11人もの生徒が海に投げ出されたとは知るよしもありません。

 なぜ、それが分かったのか。実は、江ノ島に向かったのは12名ではなく15名の生徒たちだったのです。残りの3名は、ボートが一杯で乗ることができず、別の小舟に乗って出港しました。しかし、船の速度が遅く、ボートに追いつけなかったために港に引き返していたのです。そして、彼らが木下の死を知り、残りの生徒11名がまだ行方不明であることを大人たちに告げます。・・・、これも諸説あり、真実は分かりません。

 一説には、ボートに乗っていたのは13名で、江ノ島に着いたときに船酔いのため、そこで降りて、陸路を帰ったが、彼が木下の遺体であることを確認した、という話もあります。

 宮内はこの時の様子を次のように書いています。

 木下の遺体を小坪寺に安置していたところへたまたま4人の生徒が通りかかり、木下であることを確認。さらに、七里ヶ浜の沖合まで鴨撃ちに行って来ると言っていたとの話から、他にも溺れた生徒がいるかも知れないぞ、と捜索が始まる。

 また、「江ノ島で三年の内田正雄が帰りのボートに乗るのをやめて一人だけ江ノ島電鉄に乗って鎌倉極楽寺の自宅に帰った。」p.25 とも書いています。さらに、宮内の本の最後のページには、「なお、江ノ島で上陸して命拾いしたといわれる内田正雄は、当時一年生(第八回卒業)で最初から乗艇していなかった。三年生の内田金之助と間違えられたことから江の島上陸説が流布されるに到ったらしく、そのことから「箱根号」は江の島到着前に遭難したとの説も謎として残されている。」とあります。

 どれが真実なのでしょうか。

 他にも遭難者がいるとわかり、村では半鐘が打ち鳴らされ、多数の船が行方不明者の捜索にあたりますが、発見には到らず、この日の捜索は打ち切られました。翌24日も捜索が行われましたが誰一人見つけることはできません。

 この時、葉山御用邸に滞在中の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が捜索の模様を視察に見えられたことから、事故は大きく報じられ、日本中に知れ渡ることとなります。 さらに、逗子開成中学の生徒の半分は海軍関係者の子息であることから、海軍から2隻の軍艦が派遣され、捜索が行われたことも世間の注目を浴びることとなります。

 遺体の発見の状況は以下のようになっています。

三角錫子経歴
1月23日(日) ①木下三郎を発見。救助後に死亡
1月24日(月) 発見できず。
1月25日(火) 浜から3kmの海底で②徳田勝治と③武三を発見
「 勝治は素行上の問題で転校してきた曰く付きの生徒。首謀者は、この徳田勝治と笹尾虎次の二名」p.29
二人の近くから④笹尾虎次の遺体発見
さらに、⑤谷多操の遺体発見 ⇒ 母親が石塚を非難
皇太子が視察に来る。
1月26日(水) 発見できず。
1月27日(木) 江合川沖 午前に5遺体⑥奧田義三郎、⑦内山金之助、⑧徳田逸三、⑨宮手登、⑩小堀宗作、午後に1遺体⑪松尾寛之を発見 ボートも発見
帆走中に突風を受けて沈没と推測 p.38
⑫牧野久雄の遺体発見
2月5日(土) 妙光寺で合同葬 学校関係者の出席を固辞p.41
2月6日(日) 開成中学校校庭で合同慰霊祭(法要大法会:だいほうえ)

 残り11名の遺体は、全て海底から見つかっています。よく全員の遺体を見つけたものだと思います。そして、海底に横たわる遺体をうまく回収できたものだと思います。水深は30メートル。真冬の海では潜って遺体を引き揚げるわけにもいきません。フックで遺体の服を引っかけて引き揚げたようです。

 この事故の犠牲者は以下の通りです。
 

犠牲者名簿
牧野 久雄 逗子開成中学5年生、21歳9ヵ月
笹尾 虎次 逗子開成中学5年生、20歳9ヵ月
木下 三郎 逗子開成中学5年生、18歳11ヵ月。水泳部の代表選手。漁師に助けられるが死亡
小堀 宗作 逗子開成中学5年生、19歳0ヵ月
徳田 勝治 逗子開成中学5年生、19歳3ヵ月、徳田家長男
松尾 寛之 逗子開成中学5年生、17歳4ヵ月
谷多  操 逗子開成中学4年生、19歳5ヵ月
宮手  登 逗子開成中学4年生、16歳8ヵ月
徳田 逸三 逗子開成中学4年生、15歳8ヵ月、徳田家次男
内山金之助 逗子開成中学3年生、14歳10ヵ月
奥田義三郎 逗子開成中学2年生、14歳0ヵ月、徳田家三男。奥田家の養子
徳田 武三 逗子小学校高等科2年生、10歳、徳田家四男

 上記の年齢は各犠牲者の誕生日より算出した死亡時の年齢。月まで書くことで、年齢のイメージがより鮮明になると思います。

 犠牲者の中で参列者の涙を誘ったのは、徳田家の4人の息子が全員死んだこと。三男の奥田義三郎は養子に出されたため名字が奥田になっていますが、徳田勝治、徳田逸三、徳田武三とは実の兄弟でした。

 逗子開成中学校は帝国海軍の要請で、海軍関係者の子弟のために創設された学校でした。

 彼らの死の原因について、ここで書いても何の意味もありません。書きたいことはいろいろあるのですが、死者に対しての鎮魂の意を表すべく、その辺は一切記載しないこととします。また、書くべき事ではないと考えます。

ボートの謎

 宮内は、このボートがどのようなものか調べようとしますが、結局分からずじまいに終わります。

 軍艦「松島」は、1908年(明治41年)4月30日、海軍兵学校第35期卒業生の少尉候補生による遠洋航海で寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没しました。

 逗子開成中学校で事故を起こしたボートは、軍艦「松島」の沈没現場から回収されたもので、逗子開成中学校に寄贈され「箱根号」と命名されました。7人乗りという説もありますが、詳しい資料がないようです。

 爆沈した軍艦「松島」に乗っていて殉職した少尉候補生の中に「大山高」がいました。捨松の実子です。大山家の長男でした。

 また、殉職者の中に「瓜生武雄」がいました。瓜生繁子の長男です。瓜生繁子は、旧姓「永井繁子」。捨松と共にアメリカに渡った5人の女子留学生のひとりです。

 殉難者は艦長、副長以下221名に及び、乗り込んでいた少尉候補生も57名中33名が亡くなりました。その中に女子留学生である山川捨松と永井繁子の長男がいたのです。偶然と言うにはあまりにも偶然すぎる。偶然として片づけてしまうにはあまりにも奇跡的。宮内氏はこのことは知らなかったようですが。

 「松島」につまれていた転覆事故を起こした『箱根号』とはどのようなボートだったのでしょうか。

 宮内氏は、「松島」に積載されていたボートは、「ホエーラー(Whaler)」という6本オールのボートであると判定しています。

 ボートが転覆したとき、なぜ乗っていた生徒たちはボートにしがみつかなかったのか。それは、ボートも海中に沈んでしまったからでした。ボートは海底から発見されました。ボートの素材自体の浮力により、通常であれば沈んでしまうことはないと思われ、海上を捜索したものの見つけることができません。ボートが見つかったのは海底でした。ボートに備え付けてあった碇により、海底まで引きずり込まれてしまったのです。

鎮魂歌「真白き富士の根」作詞者の謎

 事故発生から二週間後の2月6日(日)に合同慰霊祭が開催されます。その式典で歌われたのが鎮魂歌「真白き富士の根(ましろきふじのね)」です。「七里ヶ浜の哀歌」、「真白き富士の嶺」とも呼ばれています。

 作詞したのは三角錫子教諭・・とされています。

 

真白き富士の根  作詞者: 三角錫子
真白き富士の嶺、緑の江の島

仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに

 この歌詞は、三角錫子が法要大法会の前夜に一気に書き上げたものと、まるで見てきたかのような話が伝わっていますが、この歌詞の作者は別にいるらしい。その作詞者とは福田正夫(1893-1952)。当時、神奈川県立師範学校の生徒だった福田正夫が書いたもののようです。3)

 少し修正が加えられているらしく、たとえば一番の歌詞「捧げまつる、胸と心」は福田氏のオリジナルは「捧げまつる、夢と心」だったそうです。

 これは福田氏の四女福田美鈴さんが「かまくら春秋」というタウン誌に投稿した記事に書かれているもので、「これは,満十七才に満たなかった時の父が書いたものです.雑誌用に清書して寄宿舎の自室の机上に置いた原稿を,一教師が持ち去ると数日後,法要の集いで三角指揮,鎌倉女学校生徒の合唱で発表され,世の中に広がりました.ほんの数ヵ所,ほんの少し言葉を変えています.三連までを父が書き,あとは文学仲間たちと考えました.みんな悔しかったでしょう.父は抗議をしたらしく,父の名で歌詞集に載ったこともありますが,その後あきらめたようです.」3) とのこと。

 明治の末期に著作権なんてあったの? という疑問が沸きますが、著作権は江戸時代からありました。明治時代に書かれた書物にもやたらと著作権を主張している本を見かけます。歌詞についての著作権があったのかは確認できません。

 「真白き富士の根」が有名になったのは、法要大法会の最後に、姉妹校である鎌倉女学校の生徒70名が黒紋付き袴の正装で三角教諭のオルガン演奏の下、この歌を歌ったことから、参列者の涙を誘い有名になったようです。

 三角はこの鎮魂歌が有名になりその歌詞を書いたのが自分だとされたとき、どう思っていたのでしょうか。管理人が思うに、「そんなこと頭の片隅にもない、関心外のこと!」だったという気がします。三角にとって、この歌詞は、大法会で披露した時点で終わっていたと思います。これを有名にしたのは世間の人たちで、三角の意図とは違います。


 Image: 1910年2月6日(日) 開成中学校校庭で開催された合同慰霊祭(法要大法会)

 当時、17歳に満たない学生が作詞したと考えるより、高等教育を受けた才女三角錫子ならやすやすと書けた歌詞、と考える方が信憑性があるという気もします。どちらが本当か。もしかしたら、どちらも本当なのかも知れません。歌詞は6番まであります。三角は入手した福田正夫の草稿に歌詞を6番まで追加して、修正を加えた。三角にとっても、自分が作詞したという意識があったのかも知れません。

 「真白き富士の根」の原曲はアメリカのWhen we arrive at homeで、邦題「夢の外」として紹介されたという曲です。「夢の外」の原曲は、イギリス舞曲で、アメリカの作曲家インガルスが讃美歌として紹介するときにGarden(天の園)という曲名をつけてます。

 実際にはイギリス民謡のようで、作曲者は不明。作曲はアメリカ人のジェレマイア・インガルスとされてきましたが、英語を知らない日本人の誤解から生まれた話のようです。インガルスはこの曲を紹介しただけで、自身が作曲したとは書かれていないようです。

江ノ電が気になる

 七里ヶ浜、腰越と聞くと、やはり江ノ電を連想します。

 江ノ電の鎌倉駅(当時は小町駅)-藤沢駅間が全線開通したのが、まさにボート転覆事故のあった明治43年10月のこと。

 江ノ電は、鎌倉・藤沢間約10Kmの距離に15の駅があります。ところが、全線開通当時はなんと40もの駅があったのだそうです。250mおきに駅がある計算になります。

 鎌倉、湘南方面へ観光で出かける際は、江ノ電がお薦めでしょうね。

 高畑充希がヒロインを務めた『DESTINY 鎌倉ものがたり』でも江ノ電がメインで登場します。関心のある方は過去記事『『DESTINY 鎌倉ものがたり』の「黄泉の国」のモデルとなった張家界とは?』もご覧下さい。

あとがき

 この記事を書いたきっかけは、冒頭に書いたように歴史家泉秀樹氏の発言でした。生徒と愛人関係にあったなどとテレビで言って良いの? と思うと共に、その発言の根拠となった史料が気になりました。そこで、調べていくうちに、軍艦「松島」にたどり着きます。以前の記事で女子留学生のことを詳しく調べていた管理人は、山川捨松と永井繁子の子供のことは知っていました。しかし、それがボート転覆事故と結びつくとは思いもしないことでした。さらに、捨松の娘(大山巌の先妻の娘)信子と小説不如帰の浪子。そして、宮内の父親が不如帰の浪子と三角錫子とをダブらせてイメージしていたのではないかと思われること。管理人にとって、「何なんだ?この濃厚な世界は!」という感じでした。

 時間は時間軸を均等に流れているのではなく、濃淡があるように感じます。歴史的に見ると、ある特定の時期だけに歴史的事件が集中している。そう感じます。そして、その時期に限って、通常の確率ではあり得ないことが起きる。

 この記事は宮内氏とは違う視点で書いています。宮内氏が気づかなかったことを重点的に記載しました。しかし、管理人が気づいていないこともあるような気がします。軍艦松島が爆沈した1908年。松島に搭載されていたボート箱根号が転覆した1910年。この年の歴史密度は高い、と思います。もっとあるはずです。通常では起こらないはずのことがこの年には起きているという事例が。

 宮内がこの小説を書くことになった経緯を次のように書いています。

 「この小説を私が書いたのは、事件を調査して記録するためではなく、責任者の一人であった亡父と、その息子である私が事件から受けた直接または間接の影響を追跡調査して、人生の終末を迎えるための身辺整理とするためであった。」p.199

 しかし、宮内が七里ヶ浜の裏側に当たる腰越の谷戸奧へ転居したのがそもそもの発端となっています。広い日本。なぜ、宮内が腰越に転居したのか。この地に転居していなければ、この小説が書かれることはなかったのです。

 さらに、宮内の父親石塚巳三郎がなぜ逗子開成中学校に勤めることになったのか。事故の時にたまたま舎監をしていたことから、監督責任を問われ、自ら退職届を提出することとなります。

 石塚が逗子に来なければ事故に巻き込まれることなく、全く別の人生を歩んでいた。

 その息子の宮内が、腰越に転居しなければ、この小説は生まれなかった。事故から70年後に小説という形式を採ったノンフィクションを書くことはなかった。

 見えない糸で引かれ合っている。

 管理人は、中国のコスプレーヤー池田七帆さんが鎌倉・湘南を訪れていなければ、鎌倉にはそれほど興味がなかった。七帆さんが自転車に乗っている写真は『スラムダンク』の聖地!江ノ電・鎌倉高校前踏切で撮影したもの。その前に開けている浜辺が「七里ヶ浜」。

 さらに、先日アップした義経北行伝説について調べていくと、どうしても、腰越のことが気になる。管理人の関心は、腰越・七里ヶ浜・江の島のあたりに注がれています。

 管理人の頭の中では、山川捨松と永井繁子たち明治の女子留学生の『岩倉使節団女子留学生の相関図を作ったら凄いことになっている!』などの一連の記事、そして、『山川三千子『女官ー明治宮中出仕記ー』が面白い』の記事、さらに、『世界遺産・平泉|義経伝説を追う(その1)』の記事。時代の異なるこれらの記事が鎌倉周辺で結びついたことに驚きました。

 軍艦松島とこれらを結びつけて考える人は、たぶんほとんどいないと思います。宮内は、『不如帰』から様々な連想をしていきます。

 テレビでたまたま観たJ:COMの番組。これがこの記事を書くきっかけとなりました。管理人も見えない糸に引かれているように感じます。

 宮内寒弥の『七里ヶ浜』は、小説として発表されていますが、実態は、ルポルタージュのような実話になっています。何しろ、「畑中」という物語の語り手以外、登場人物全員が実名で登場するのですから、これが小説な分けがありません。三角錫子も実名で登場するので驚きます。

 小説『七里ヶ浜』(新潮社版)には、随筆『余話』が収録されており、小説発表後に寄せられた関係者の証言なども綴られています。とても興味深い内容になっているので、関心のある方は購入してご一読を。この本は図書館には置いていないと思います。

 本記事を読んだ後で『七里ヶ浜』を読むと、また違った視点で見ることができると思います。

 最後に、宮内寒弥の本名は、「池上子郎」。父親は、石塚巳三郎。事故の後、婿入りして妻の姓である池上を名乗ります。

謎解きは終わらない

 1910年(明治43年)1月23日のボート転覆事故か54日後の3月18日、1人の仙人が亡くなります。名は「権現仙人」。本名は不明です。この「権現仙人」が予言した言葉の一部が、島根県益田市の比礼振山(ひれふりやま)山頂に設置された「地球安全祈願塔」(1976年建立)に書かれています。

 そこに書かれている碑文で着目されるのが次の一文。

 「今から 百年すぎたころ から逐次地球上に大異変が起こり、大地震津波天候不順が続き害虫が多発し人類が滅亡する時期が必ず来る」

 まさに1910年から見て「百年すぎたころ」、2011年に東日本大震災が発生し、未曾有の被害をもたらします。

 これはたまたま? 偶然の一致? 偶然と片付けるにはあまりにも多くの偶然が1910年、この年の前後で発生している、と感じるのは管理人だけでしょうか。

実は、怖くて書けなかった後日談があります

 この記事を書くために、現地、逗子・七里ヶ浜などに行きました。

 そして、七里ヶ浜で、通常ではあり得ない事故に遭遇します。なんと、七里ヶ浜で転んで顔面から駐車場のアスファルトに転落したのです。

 通常であれば、手が先に出て、顔面打撲になることは防げるのですが、この時は、手が出ず、顔面からアスファルトに落下しました。鼻がとれたと思うほどの衝撃でした。

 なぜ、手が先に出なかったのか。それは管理人が聞きたい! 駐車場のアスファルトは、通常のアスファルト舗装ではなく、雨水が地下に浸透しやすいようにゴツゴツした粗めの舗装です。そこに顔面から落下したのです。

 近くにいたご夫婦方からティッシュを頂き、病院の場所も教えていただきました。その場所は、事故現場から徒歩で10分ほど。あの池田七帆ちゃんの写真の撮影場所、鎌倉高校前駅踏切のすぐ近くにある病院です。ご夫婦に感謝です。

 ところが、病院に着いても、医師がいないということで、別の病院までタクシーで向かうことに。この病院ではガーゼをあててくれただけでした。消毒もしません。向かった病院で1時間近く待って治療を受け、3針縫いました。幸いなことに骨折はしていなかったようです。

 実は、これだけではないのです。前年に兄が亡くなったため、数日後に開催される一周忌の法要に出席するために切符を逗子駅で買っていました。ところが、怪我がひどいため、出席は諦め、当日購入した切符を鎌倉駅でキャンセルすることになりました。

 この記事のどの事象をとっても起きるはずのないこと。それが高密度で同時に発生している。そう感じます。

 管理人にとって、七里ヶ浜や腰越は鬼門なのかも知れません。

 管理人の鼻は、アスファルトで削られたため、1mm程度低くなりました。まあ、男なのでどうでも良いのですが、女性だったら整形手術のレベルです。

 もう一つ奇妙なことが。

 管理人は顔面から落下したにもかかわらず、メガネは無事でした。実際には、鼻パッドの部分がひしゃげて、メガネが使えなくなりましたが、レンズは完全に無傷でした。鼻パッドの金具がぺっちゃんこになるほどの衝撃にもかかわらず、レンズだけは無傷でした。

 鼻がとれたと思うほどの衝撃を受けたにもかかわらず、鼻骨に骨折はなかった。ものすごい衝撃だったから、折れていると確信していました。もしかしたら、頭蓋骨にもひびが入っているかもと思いました。

 管理人にとって、このことがとても不思議です。

 管理人は、七里ヶ浜に足を踏み入れてはいけないのでしょうか? でも、そのうち、行きたいと思います。管理人は、オカルト一家に育ったので、オカルト関連のことは一切信じていません(www)。

 でも、少しだけ、怖い! 七里ヶ浜にはできるだけ関わらないようにしたいと思います。

出典:
1. 「宮内寒弥」、Wikipedia
2. 「歌をめぐる物語 -琵琶湖哀歌、七里ヶ浜哀歌-」、小岩昌宏、水曜会誌第24巻第2号、2009
3. 「続 歌をめぐる物語 -琵琶湖哀歌、七里ヶ浜哀歌-」、小岩昌宏、水曜会誌第24巻第3号、2010
4. 七里が浜遭難事件もう一つの哀話=宮内寒弥
5.「母校のルーツを知る =創立100周年に向けて=」、トキワ松学園中学校高等学校HP
6. 『七里ヶ浜』、宮内寒弥、新潮社、1978
7. 『逗子開成中学校 七里ヶ浜ボート遭難事故百周忌 記念誌』、逗子開成中学校・高等学校、2010